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カテゴリー: 日本史(戦後)

朝鮮戦争に「参戦」した日本

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 西村 秀樹 、 出版  三一書房
日本の戦後復興に朝鮮戦争が大きく寄与したことは歴史的な事実です。
その朝鮮戦争に、実は、日本人が兵士として、また後方支援(掃海活動)などに参加していた事実が詳しく紹介されています。
そして、アメリカ軍の朝鮮での軍事行動を妨害すべく、日本国内で若者たちが起ちあがったのでした。それが吹田事件であり、枚方(ひらかた)事件でした。
1905年、セオドア・ルーズベルト大統領と桂太郎首相は秘密協定を結んだ。これは、日本はアメリカがフィリピンを統治することに同意し、アメリカは日本が韓国に対して保護監督権をもつことを承認するというもの。まさしく、帝国主義の時代だった。
韓国併合条約は、形式としては韓国の皇帝が日本の天皇に併合を申し出て、日本の天皇がこれを受け入れたという「任意」を装っている。しかし、その実態は、日本が軍隊や警察をつかって徹底的に弾圧した結果であった。
1895年、日本は明成皇后(閔妃・ミンピ)暗殺事件を起こした。一方的に宮廷に押し入り、皇后を殺害したうえ、その遺体を焼却したのですから、日本人の行為は残虐そのものです。立場を逆にして、もし明治天皇の皇后が隣国人に暗殺されたら日本人はどう思うだろうか・・・。本当に、そのとおりです。加害者の子孫は忘れても、被害者の遺族は忘れることができるはずはありません。
日本政府は、日本人が朝鮮戦争にどのように関わったのか正式に質問されたとき、「正確に事実関係を示すことは困難」だとして、きちんと回答しなかった。
たとえば、朝鮮戦争のときに日本人がかかわった海上輸送は、その指揮官はアメリカ人であって、その実情を明確にされていない。乗組員の日本人には、作戦の全容は教えられなかった。少なくとも8000人もの日本人が朝鮮戦争時に、海上輸送に従事していた。
朝鮮戦争に参加していたイギリスは1万4000人、タイとカナダがそれぞれ6000人。そうすると、日本人が8000人いたのは、比較すると、とても多いことになる。
在日韓国人のなかでは、自願軍644人が結成された。それに対抗するようにして、6月29日、北九州では若者70人が日本兵を望んだ。
日本の特別掃海隊は、2か月間で作戦を終了した。任務である機雷処理は27個を遂行した。
そして、2隻の掃海艇を失い、死者1人、重軽傷者という大惨事があった。
日韓関係がきわめて悪化している今日の状況を考えても、大変時宜にかなった本だと思います。ぜひ、ご一読ください。
(2019年6月刊。2500円+税)

日本占領史、写真でわかる事典

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 平塚 柾緒 、 出版  PHPエディターズ・グループ
1945年8月、敗戦直後の日本の様子が写真でとらえられています。
降伏した日本へアメリカ軍が乗り込んでくるとき、マッカーサーは実は日本軍の反撃をまだ心配していたようです。なので、日本軍のもっていた飛行機はみなプロペラを外すよう命令していました。
首都東京は一面、焼け野が原です。ところが、敗戦と同時に人々は復興に走り出しました。
東京に進駐してきたアメリカ軍は、10日後には丸腰で都内をうろつくようになりました。日本軍の反撃など、何の心配もいらなかったのです。考えてみれば不思議です。「鬼畜米英」を一夜にして解放軍として受け入れるとは・・・。
この写真集には、東京裁判の被告となったA級戦犯全員の被告の顔写真が2回紹介されています。1回目は肩書とともに、2回目は判決の結果です。
別の本の書評で紹介しましたが、アメリカ軍はナチス・ドイツを裁いたニュルンベルグ裁判のときとちがって、日本軍が中国大陸で南京事件をはじめとする残虐行為をしたことを日本人に大々的に広報し周知させようとはしませんでした。その結果、日本軍が中国や東南アジアで行った残虐行為を知らないまま、多くの日本人は戦争被害者という認識だけをもって今日に至ったのです。このことが今日の「なんでも反日」プロパガンダにつながっています。
アメリカ軍は、関東・東北へは相模湾と館山海岸から上陸し、関西へは和歌山湾岸から上陸したことを初めて知りました。上陸用舟艇をつかってまさしく海岸から上陸している写真があります。港に軍艦を横づけしなかったのは、なぜなんでしょうか・・・。
敗戦時、連合国の捕虜が日本全国3万2418人収容されていて、うち1割の3500人が死亡したとのことです。
マッカーサー一家は、アメリカ大使館に生活していて、第一生命ビルを接収してGHQの本部とした。マッカーサーは、朝8時に起床し、午前10時に皇居に面したGHQに出勤。午後2時にGHQを出て大使館の自宅に戻って昼食をとり、昼寝。午後4時にGHQへ行き、午後8時まで仕事をして、大使館に帰る、夕食のあとは、夫人たちと西部劇などの映画をみる。就寝は夜12時ころ。日本の国内旅行は一切しなかった。
昭和天皇は1945年9月27日、アメリカ大使館にマッカーサー元帥を訪ねた。昭和天皇は当時46歳か・・・。
1948年11月3日、皇居前広場で中央カーニバルが催された。日本全国のお祭りを一堂に集めたのだ。100万人もの見物客が押し寄せた。なるほど、写真で大群衆がいることを実感できます。そして、デモ隊が行進する様子も写真にとらえられています。
写真で敗戦直後の日本の様子を確認することのできる貴重な事典です。480頁、5000円もする大作ですので、せめて全国の図書館にもれなく置かれてほしいものだと思いました。
(2019年5月刊。5000円+税)
石舞台古墳をみてきました。永年の念願でした。飛鳥駅前でレンタサイクルを借りました。1400円。フツーの900円より500円高い電動自転車です。奈良駅の観光案内所の女性からは、平坦地で15分なのでフツーでいいと言われましたが、念のため、電動にしたのです。これが大正解でした。
駅前から軽快に走り出します。快晴です。日差しがギラギラ照りつけるので途中のコンビニで麦わら(まがい)帽子を買いました。1000円。実は、その手前、途中でキトラ古墳へ間違って走って、おかしいと思い引き返し、中学生を引率している教師に尋ねて石舞台を目ざしました。「上り坂もあって大変ですよ」と声をかけられたのですが、まさにそのとおりでした。電動自転車でなければとてもとても走れません。平坦地ばかりなんて、とんでもありません。といっても、30代までなら、何の苦もないことでしょうが・・・。途中のコンビニで買った麦わら(まがい)帽子をかぶり、狭い道をのぼって、ようやく石舞台古墳にたどり着きました。
田園のなかというより、森の入口に近いところに平坦な空地があり、まさしく巨石が積み上げられています。もとは土に埋もれていたのか、長年の風雨にさらされていつのまにかむき出しになったようなのです。
周囲をめぐってみると、巨石の下に羨道(せんどう)室があり、なるほど墓室だと実感できます。蘇我馬子の墓というのが定説です。曽我氏族はこの飛鳥あたりを勢力圏にしたらしいのですが、今はただ平野と森の一帯で、ところどころに民家がある程度です。こんな辺ぴなところを拠点としていたというのですか・・・。

近江絹糸人権争議

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 本田 一成 、 出版  新評論
まだ、日本に労働運動が名実ともにあった時代の湯名な争議が豊富な写真とともに紹介されています。
やはり写真の訴求力はすごいものです。いま私は大学生時代に体験した東大闘争について冊子をつくっていますが、とんでもないことを言う人が少なくないのに対するもっとも有効な反論は写真だと痛感したばかりです。「わずか100人ほどのゲバ部隊に守られた代議員大会」と言っても、写真だと何百人どころか千人単位の人がいることが分かるのですから、デマ宣伝を打破するのは容易です。ただ、それを広く伝えるには、出版部数の差を克服する必要があります。これが実は大変なのです・・・。
三島由紀夫が『絹と明察』という本を、この近江絹糸人権争議を取材して書いているというのを初めて知りました。三島由紀夫は、例の防衛庁での割腹自殺などから、私にとってはまったく否定すべき人物なので、ふり向きたくもない小説家なのです・・・。
労働争議の実際の現場は大変だったようですが、写真でみると、みんな若いし、笑顔もあって、元気はつらつとしていて、頼もしい限りです。
未公開写真を200点以上も集めて、本書で一挙公開したというのは画期的なことです。おかげで、具体的にこの争議をイメージすることができました。そして、若い労働組合員のたちあがりを大勢の市民が支えたことを知り、他人事(ひとごと)ながら、心あたたまる思いでした。
今ならどうでしょうか・・・。あたたかい声援や差し入れどころか、せいぜい自己責任だと冷たく無視されてしまうのではないでしょうか・・・、残念ながら・・・。
この会社では、食事代が給料から天引きされていた。それにもかかわらず食事がないという状態は、飢えを通して大問題となった。この食事を奪う会社側の行為は、人権問題だと受けとられて、世論から徹底的な非難が集まった。
争議が始まって3ヶ月たった1954年9月16日、中央労働委員会による「あっせん案」を労使双方が受諾し、争議は労組側の勝利に終わった。すごいですよね、労働組合のあり方についても大変勉強になる本でした。
(2019年2月刊。2400円+税)

酔十夢(第1巻)

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 手塚 英男 、 出版  同時代社
1957年に著者は東大に入学し、まもなく大学から3キロほどの距離にある北町に通ってセツルメント活動を始めました。
私が大学にはいったのが1967年ですから、ちょうど10年先輩ということになります。そして、私は北町ではなく、川崎市幸区古市場でのセツルメント活動でした。
北町は、敗残時までは連隊兵舎だったという巨大な木造アパートが十数棟も建ち並ぶ貧民の街だった。そこには社会の底辺の人々が集まり、肩を寄せあって暮らしていた。
著者は、放課後の子どもたちと一緒に遊び、ときに勉強をみてやり、紙芝居や絵本を読んだ。休日には遠足やプール通い、冬休みにはクリスマス子ども会をした。
いっしょに夕方の銭湯に行き、背中の流しっくらをやった。
子どもの親たちとも交わり、料理講習会、教育懇談会、青年たちとは読書会もした。
私が古市場でセツルメント活動していたときは青年サークルに入って、「グラフわかもの」の読者会をいていました。もちろん子ども会もあり、法相部のほか栄養部や保健部などの専門部がありました。セツルメント診療所がその中心に位置していたのです。
貧民のために何かやってやるなんていうのは、とんでもなく生意気で尊大な発想だった。むしろ、何かしてくれたのは北町の住民だった。セツラーの地域活動を受け入れるように見せかけて、実は生意気な学生たちを育ててくれていた。
この点は、私も今になって、本当にそう思います。なにしろ大学生のころの私は、自分がひとりで育ち勉強して大学に入ったなんて、とんでもない勘違いをしていましたから・・・。その間違いを地域の人たち、そしてセツラー集団にもまれてよくよく理解し認識していくことができました。ところが、観念論にとらわれやすい学生集団ですから、こんな議論もありました。
「地域転換論」です。これは、学生セツラーがいくら活動しても北町は変えられない、変わらない。組織労働者の居住地に地域転換して、労働者に働きかければ、地域は変れる。地域が変われば、居住者である労働者が変わる。労働者が変われば、社会が変わる。地域活動を本気でやるなら、労働者になって労働者の寮に住め。
著者は60年安保闘争をたたかい、卒学後は郷里の長野県で公民館などの社会教育活動に取り組みました。
同じ川崎セツルメントの先輩セツラーであり、弁護士としては同期同クラスの大門嗣二弁護士(長野市)より2009年8月に贈られた本を、今ごろ読んだのでした。ありがとうございました。
(2009年8月刊。2800円+税)

社宅ぐらしのきんこちゃん

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 やまぐち きみこ 、 出版  モイブックス
大牟田市に三池炭鉱があり、人口20万人時代だったころの子どもたちの元気に遊ぶ姿が生き生きと描き出されている本です。
炭鉱社宅は、2階建ての五軒長屋。子どもたちがわんさかいます。テレビもない時代ですから、子どもたちは外で遊ぶしかありません。
社宅内は子どもたちの安全地帯でした。朝から夕方、暗くなるまで、子どもたちが群がって、社宅内のあちこちで遊んでいました。
私は小学1年生まで、小浜の炭鉱社宅のすぐそばで生活していましたので、この光景をしっかり覚えています。メンコ(パチと呼んでいました)を高く積み重ねて、一番上の1枚だけをふわりと飛ばす遊びは、まさしく芸術的でした。カンケリ、陣取り、六文字、書き出すだけでなつかしさが胸のうちにこみあげてきます。
ところが、大牟田は公害の町でもありました。大牟田川は「七色の川」と呼ばれるほど、石炭化学コンビナートの工場から廃液がたれ流されていて、ときに川が燃えるのでした。そして、大気汚染も最悪でした。コークス製造工場からは、昼夜を問わず白い煙、黒い煙が吐き出され、粉じんとともに、周辺住民の肺を侵していきました。著者の弟も、ぜんそくに苦しんだようです。のちに大牟田市は大気汚染指定地域となり、大量の認定患者をかかえました。
社宅の朝はパーフーパーフー、リヤカーをひいた豆腐屋さんのラッパの音で始まる。
「あさりがーい、しじみがいー・・・」
「つけあみー、がねづけ」
モノ売りの声がにぎやかだ。
本当にそうでした。スーパーなんてまだない時代です。商品は各家庭の近くまでまわってくるのです(このころは、地域生協もありませんでした)。
私の通った上官小学校は4組まであり、延命中学校は13組まであって、3学年全部で1000人をこえていたのではないでしょうか・・・。
三池炭鉱が閉山したのは、平成9年(1997年)3月30日のこと。もう21年も昔のことです。その前、1963年(昭和38年)11月9日午後3時12分ころ、三川坑で大規模な炭じん爆発事故が起きました。戦後最大の爆発事故で、死者458人というものすごさです。やはり、安全を手抜きにしたら、大変なシッペ返しをくらうのです。
ぜんそく児をかかえた親としては社宅周辺の大気汚染地帯から郊外へと転地しようと考えるのも当然です。著者たち一家は社宅を脱け出すことになり、泣きました。私も長男がぜんそく発作で苦しむのを見て、すぐさまホタルが住んでいる田園地帯にひっこしました。
郊外には緑豊かな自然がありますが、友だちが乏しいきらいがあります。やっぱり子どもにとっては、たくさん子どものいる世界に浸っていたいのでした。
150頁ほどのコンパクトな、絵本みたいな本です。カットの少女たちも絵も、可愛らしくもあり、純朴そうで、意思堅固な少女が描かれています。
昭和30年代の日本社会の様子、そして子どもたちが走りまわる様子は団塊世代の私たちとまったく変わりません。
なつかしさで胸が一杯になり、涙があふれ出そうになってしまいました。
ぜひ、あなたも手にとって読んでみて下さい。
(2018年9月刊。1300円+税)

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