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カテゴリー: 日本史(戦後)

沖縄シュガーローフの戦い

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:ジェームス・H・ハラス、出版社:光人社
 沖縄戦初日のアメリカ軍の上陸日はL(ラブ)デイと名づけられ、1945年4月1日。日本軍の反撃はまったくなく、予定より早く目的地に到着していった。
 アイスバーグと名づけられた沖縄進攻作戦は、54万8000人の将兵と1500隻の艦船を動員する計算だった。攻撃実施初日の兵力18万2000人というのは、1年前のノルマンディー上陸作戦のDデイを7万5000人も上まわっている。
 日本軍の第32軍司令官は牛島満中将であり、その副官で参謀長の長勇少将は、短気で攻撃的な性格だった。大酒飲みで女好き、盲目的な愛国主義者で先導的な性格だったから、牛島司令官の手に余ることも多かった。
 ところが、1945年5月12日から18日までの一週間、沖縄の首里攻防戦の西端にある小さな丘をめぐる争奪戦で、アメリカの第六海兵師団は2000人をこえる戦死傷者を出した。最終的に丘を占領するまで、海兵隊は少なくとも11回の攻撃をおこなった。中隊は消耗して、すぐに小隊規模になり、さらに消耗して分隊規模になり、最後はシュガーローフ上で染みこむように消えていった。
 沖縄戦は太平洋戦争を通じてもっとも血みどろの戦いだった。82日間の戦闘でアメリカ軍の陸上兵力は7612人が戦死、行方不明、3万1312人が負傷、2万6211人が戦闘疲労症となった。海上兵力のほうも4320人が戦死、7312人が負傷した。
 第六海兵師団だけでも戦死傷者は8227人にのぼり、3人に2人が戦列を離れた計算になる。
 アメリカ海兵隊は高さ15メートルから20メートル、長さ270メートルしかないシュガーローフと名づけた貧相な丘を乗り越えることができなかった。この丘にはトンネルや坑道が複雑に張りめぐらされており、人員や物資を地上に出ることなく補給することができた。この丘にいた日本軍は一個中隊規模でしかない。しかし、すぐに豊富な予備兵力で増員できる体制にあった。しかも、陣地は重装備されていて、迫撃砲45門と擲弾筒29門が配備されていた。地形は防御側にきわめて有利。攻撃側は、さえぎるものが何もなく、丸裸で丘に接近しなければならない。
 太平洋戦線のアメリカ海兵隊には、夜間戦闘の絶対的掟があった。それは、動くものはすべて撃て、夜に動きまわるのは、すべて日本兵だ、というもの。
 シュガーローフの丘の上では、日本軍とアメリカ海兵隊の兵士たちの手榴弾合戦が続いた。メジャー一等兵は、戦車の残骸にいた日本兵の断末魔の悲鳴を聞いて、気分が少し楽になった。やつらも生身の人間だということが初めて実感できたからだ。
 日本兵は、アメリカ兵にとって生身の人間だとはおもわれていなかったわけです。爆弾をかかえて戦車に飛びこんでくる姿を見たら、たしかにそんな気になるのでしょうね。今のイラクと同じで、日本軍は自爆攻撃を常套手段としていたのです。
 食欲のある兵士は、ほんの一握りで、多くの兵士はタバコを吸いながら、Dレーションバーと呼ばれていた栄養食のフルーツ・チョコレートバーをかじっていた。そのため、前線勤務の兵士は例外なく体重が減り、平均7〜10キロはやせた。消化器系の不調にも悩まされ、下痢でげっそりするか、便秘でお腹がパンパンするか、どちらか。中間はなかった。
 シュガーローフでの前線勤務を経験すると、死は生きることよりも普通となっていった。死の多くは劇的ではなかった。ある兵士は突然、ベルトのあたりのシャツを手でまさぐり出した。そのまま座りこむと、ゆっくり横にもたれかかるようにして倒れ、そのまま死んだ。かなり遠方から飛んできた銃弾が背中にあたり、腹部から出ていったのだ。
 この本では、敵である日本軍の兵士を高く評価しています。次の狙撃兵の描写は、まるでスターリングラードの戦闘の様子を描いたような内容です。
 日本軍の狙撃兵は冷徹に選択された死の恐怖をアメリカ兵に味あわせた。狙撃兵は、きわめて忍耐強く、神業としか思えない選択眼で将校を見きわめていた。将校か通信兵を狙撃するため、一般の歩兵には目もくれずやり過ごした。そのため、将校は身につけている階級を示すあらゆる勲章や装備を隠した。将校で45口径の拳銃ストラップを肩からかけていたら、瞬時に射殺された。必ず眉間か胸のど真ん中を狙う。一発で即死した。狙撃兵による戦死傷者の中でもっとも多かった階級は中尉。ある将校は着任して15分で死んでしまった。シュガーローフ周辺での戦闘における将校の戦死傷率は平均60〜75%。大隊長3人と18人の中隊長のうち、11人が戦死ないし負傷した。当初から作戦に参加した中尉のうち、最後まで残ったのは、ごくわずかだった。
 多くのアメリカ海兵隊員は日本兵の姿を見ることなく死んでいった。日本兵はひたすらタコツボや洞窟、銃眼のなかで忍耐づよく待っており、アメリカ兵がその射界に入ってきたときだけ射撃した。
 日本兵はガニ股で飛びはねながら猿のように金切り声を上げたり、ブタのように鳴いたりするやつらだと思っていたが、実際に見ると目は落ち着きはらっており、まさにオレたち海兵隊員と同じ顔つきをしていた。これはアメリカ海兵隊の軍曹の言葉です。
 日本兵はきわめて統制のとれた集団だった。よく訓練され、統制のきいた陸軍兵士で、とくに士気の高さと身体能力の高さは特筆すべきだと海兵隊の活動報告書に書かれた。
 日本軍の兵士は、つねに頑強で機知にとんだ戦法で戦い、絶対に投降しなかった。
 この本が単なる戦記と違うところは、戦場でたたかえなかった兵士たちのことがきちんと描かれているところです。私なんか臆病者とののしられてしまうのは必至ですが・・・。
 精神の緊張状態は多くの兵士にとって、耐えられないものだった。
 頑強でたくましい大男の海兵隊員が、いざ最前線に行くと、泣き叫びながら戻ってくる。戦闘疲労症だ。あらゆる部隊が戦闘疲労症の渦に飲みこまれた。肉体的な極限状態のなかで、人間としての尊厳を守ろうとした場合に発症した。戦闘疲労症になる若い兵士は、とくに自責の念を感じているようだった。精神の崩壊は、肉体的な極限状態に、恐怖心と良心の葛藤が引き金となって発症した。相当数の兵士が二度と戦うことができなかった。
 日本軍はシュガーローフにおいて、反射面陣地と呼ばれる構築手法を多用した。これは、アメリカ軍側に相対する斜面には兵士を極力配置せず、反対側の斜面に主陣地を構築し、敵が頂上部に到達するのを待って攻撃する手法。この長所は、圧倒的な火力を有するアメリカ軍から直接的な攻撃を受けず、近距離に接近するまで兵力を温存し、かつ自軍の配備状況をアメリカ軍から察知されにくい効果があった。
 これって硫黄島でとられた戦法に似てますよね。沖縄戦において、圧倒的兵力の差があるアメリカ軍に対して局地的には互角以上の戦いをしていたというと意外な感じがします。硫黄島のような戦闘が沖縄本島でも繰り広げられていたことを初めて認識しました。
 ちなみに、シュガーローフというのは沖縄都市モノレールのおもろまち駅付近の小高い丘で、今は頂上に排水タンクがたっているところです。この本を読み、現地に立って激戦の状況を偲んでみたくなりました。戦争の残酷さを今の私たち日本人は忘れ過ぎているようです。

日本帝国陸軍と精神障害兵士

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:清水 寛、出版社:不二出版
 徴兵制とは、その時代の国家目的にそって、戦時あるいは平時の軍事的必要度にみあうだけの兵力を、国民の中の壮丁(兵役義務の年齢に達した男子)の中から、強制的に集めるための制度であった。
 徴兵制度の歴史とは、広範な免役要件に対して、いかに制限を加えていくかという過程であり、同時に、免役条項を活用しての徴兵忌避、さらには強制徴兵制そのものに反対する運動を強力に抑えこんでいく過程にほかならなかった。
 明治期の軍隊の中には、かなりの低学力の兵士が送りこまれた。日露戦争を経たあたりから、無(低)学力兵士の問題が軍隊内部でも顕在化しはじめていた。
 明治35年(1902年)、陸軍懲治隊条例が制定された。懲治隊に入れられた入営前の非行・犯罪のあった者の中に、実は、思想犯もいた。社会主義を鼓吹する言動が問題となり、改悛の情なき不良兵士とされたのである。
 その中の一人である森川松寿は、幸徳秋水・堺利彦らの平民社に共鳴し、社会主義宣伝の冊子を販売する伝道行商に従事していた。森川は、兵役は国民の義務ではない、兵役は恥とするところ、戦争は罪悪だと公然と述べていた。
 偉い人ですね。なんと、17歳のころから活動していたといいます。
 徴兵忌避をする者が少数ではあったが、存在した。身体を毀傷し、疾病を作為し、また詐称したとして摘発された者が1918年に578人、1931年に474人、1935年に145人いた。
 日本が敗戦したときの動員兵力数は716万人。当時17〜45の日本男子は1740万人だったから、その4割以上が軍に動員されていた。1945年6月、義勇兵役法が制定され、男子15〜16歳、女子17〜40歳の全員が義勇兵役の対象に組みこまれた。
 1923年、陸軍懲治隊は、陸軍教化隊と改称された。陸軍となっているが、海軍兵も対象としていた。教化隊のなかにも思想要注意兵がいた。総員778人のうち8人が該当者であり、一般教化兵と隔離された。
 教化隊に編入された兵士は累計で1000人。このうち原隊に復帰したのは、6.2%(55人)のみ。あとは、満期除隊した。
 この本は千葉県市川市にあった国府台陸軍病院という精神病院の患者の実情を明らかにしています。そこでは、戦争神経症が研究されています。当初、ヒステリー患者とされていました。大戦中、ヒステリー患者は、ほぼ一貫して全精神神経疾患患者の10%前後であり、平均すると11.5%と高率だった。
 たとえば、その発症原因として加害行為についての罪悪感というものがあった。
 山東省で部隊長命令で部落民を殺したことがもっとも脳裏に残っている。とくに幼児をも一緒に殺したが、自分にも同じような子どもがいたので、余計にいやな気がした。
 ヒステリー性反応としては、その場で卒倒するケースが多いが、夢遊病者のように動きまわり、無意識のうちに離隊・逃亡することも少なくなかった。
 医師が戦争神経症に接して驚いたことは、ヒステリーの多いこと。目が見えない、耳が聞こえない、立ち歩きができないといったあらわな症状をもっていた。
 日本陸軍兵士における戦争神経症を研究した貴重な労作です。自他ともに認める軟弱な私などは、徴兵されて戦場に駆り出されたとしたら、真っ先にヒステリー症つまり戦争神経症にかかり、足腰が立たなくなること必至です。誰だって突っこめという号令に従って行動して無意味に戦死するなんてことになりたくはありませんよね。

テレビは戦争をどう描いてきたか

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:桜井 均、出版社:岩波書店
 第二次大戦と日本人の関わりをテレビがどう映像で取りあげたのかを後づけた貴重な本です。ハーバート・ノーマンは次のように語った。
 みずからは徴兵制軍隊に召集されて不自由な主体である一般日本人は、みずから意識せずして他国民に奴隷の足枷をうちつけるエージェントになった。
 なーるほど、言い得て妙の指摘だと思います。
 中国戦線に配置された兵士たちの多くは劣勢の太平洋(南方)戦線への転戦を命じられた。そこでの苛酷な転戦と敗北の過程で、被害体験を蓄積して生還した兵士たちは、中国大陸での加害の記憶をすっかり相殺していた。
 うむむ、そういうことだったのですかー・・・。
 井上ひさしが『父と暮らせば』で書いた言葉が紹介されています。すごい言葉です。
 他者の犬死にの上に生きのびた人間が、犬のように生きることは許されない。
 犬死にを強いたもの、これから犬死にを強いるかもしれないものに立ち向かうしかない。
 そうなんです。平和憲法をなくして、日本を戦争できる国にしたら、またぞろ徴兵制が復活します。若者があたら犬死にさせられるなんて、まっぴらごめんです。今のうちに憲法9条2項を守れと叫んでたたかいましょう。
 レイテ島の戦いで、日本兵8万4000人のうち8万1500人、97%が戦死した。軍上層部は、無謀な命令を出しておきながら、部下に抗命権を一切あたえず、兵に武器弾薬食糧を補給せず、投降する自由を認めなかった。
 そして、司令部と第一師団の主力800人は隣のセブ島に転進した。1万人以上の兵がレイテ島に置き去りにされた。私はレイテ島に行ったことがあります。密林なんてどこにもありませんでした。苛烈な戦火にあって、密林が消えてしまったのです。こんなところで多くの日本人の若者たちが餓死、病死そして殺されていったのかと、不思議な気がしました。いま日本企業がレイテ島にも進出しています。私は弁護士会の調査団の団長としてODAでたてられた三菱重工業の地熱発電所を視察しに行ったのです。
 大岡昇平の『レイテ戦記』には、フィリピン人に日本軍が何をしたのかという視点が欠落している、そんな指摘もなされています。なるほど、と思いました。
 昭和天皇は戦争の原因として次のように述べたそうです。
 わが国民性について思うことは、付和雷同性の多いことで、これは大いに改善の要があると考える。かように国民性に落ち着きのないことが、戦争防止の困難であった一つの原因であった。軍備が充実すると、その軍備の力を使用したがる癖がとかく軍人の中にあった。
 つまり、付和雷同する国民と軍部の独走、この二つが結合したところに戦争の原因があったというわけです。そこには、天皇自身の戦争責任の自覚というものはありません。さらに、次のような天皇の言葉には驚かされてしまいます。
 負け惜しみと思うかもしれぬが、敗戦の結果とはいえ、わが憲法の改正もできた今日において考えてみれば、わが国民にとっては勝利の結果、極端なる軍国主義となるよりも、かえって幸福ではないだろうか。
 何千万人という多くのアジアの人々を侵略していった日本軍が殺し、また何百万人もの日本人が死んでいった戦争の悲惨さを自らの問題としてまったく自覚していない、いわば単なる傍観者的評論家としての言葉でしかありません。呆れ驚きます。
 昭和天皇を戦犯としなかった功績から、アメリカ軍のフェラーズ准将に対して1971年、日本政府は勲二等瑞宝章を贈った。この事実を知ると、日本が戦争責任をいかにあいまいにしているか、改めて実感させられます。質量ともに大変ずっしりとボリュームのある本でした。

「聖断」虚構と昭和天皇

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:纐纈 厚、出版社:新日本出版社
 戦前のジャーナリズムには、天皇、革命、セックスという三つのタブーがあった。このうち、戦後に残ったものは天皇のみであった。
 たしかに、革命なんて今どきありふれた言葉になっていますね。もっとも、それは社会主義革命というものではなく、単なる変化をオーバーに言ったに過ぎないつかわれ方のようですが・・・。セックスなんて、どこまで隠されているのか、今やまったく分かりません。では、天皇タブーは続いているのか。
 毎週のように週刊誌では今も雅子さんバッシングが続いていますよね。病気になった雅子さんを、もっと温かく見守ってやったらいいと私なんか思うのですが、毎回毎回、容赦なく暴きたて、叩いています。あれって、女性天皇、女帝を認めないためのキャンペーンだという指摘がありますが、まさしく意図的なものですよね。皇室が自分の意のままに動かないときには断乎許さないぞという右翼の一潮流のキャンペーンなのでしょう。これも、やはり天皇タブーの変形の一つなのでしょう。
 このところ、昭和天皇の「聖断」によって軍部の独走を抑えて終戦にもちこむことが出来た。昭和天皇は平和を愛する平和主義者だったのだという論調がマスコミの一部にすっかり定着した感があります。しかし、それって本当でしょうか・・・。
 この本は天皇の「聖断」なるものが、まったくの虚構であることをしっかり暴き出しています。格別目新しい事実ではありませんが、昭和天皇を平和主義者とあがめる昨今の風潮に水を差すものであることは間違いありません。
 昭和天皇がしたことは、「聖断」でも英断でもなく、国体護持つまりは自己保身のために不決断を繰り返したということ。これが本書の結論です。この本を読むと納得します。
 アジア太平洋戦争は、天皇の戦争として開始された。天皇とその周辺によって、その最初から最後まで、統制された戦争であった。天皇の意思と命令によって開戦し、天皇の意思と命令によって「終戦」、つまり敗戦した。ただし、終戦決定過程における天皇の不決断は、大いなる戦争犠牲者をうみ出した。
 昭和天皇は敗戦後の回想において、東條英機の「憲兵政治」について、「軍務局や憲兵が東條の名において勝手なことをしたのではないか。東條はそんな人間とは思わぬ。彼ほど朕(ちん)の意見を直ちに実行に移したものはない」
 東條は数多くの高級軍事官僚のなかでも、天皇への忠誠心が際だって厚く、その東條に昭和天皇は最後まで深い信頼感を抱いていた。
 東條に日米開戦時の戦争指導内閣を担わせ、この忠実な軍事官僚であった東條を通じて政治指導および戦争指導を進めてきた昭和天皇は、最後まで東條に未練を残していた。昭和天皇は、原則的には明確な戦争維持論者であり、これまでと同様に東條内閣の下で進められることを期待していた。
 昭和天皇は、レイテ海戦における海軍特攻機の投入とその過大に伝えられた戦果について、「そのようにまでせねばならなかったのか。しかし、よくやった」と感想を述べた。
 昭和天皇は、特攻機による攻撃など、捨て身の戦法までつかって米軍に一撃を与え、少しでも有利な「終戦」工作条件づくりのなかで戦争終結にもちこもうとしていた。
 米軍が沖縄に上陸したあとの4月3日、昭和天皇は、参謀総長に対して、「現地軍はなぜ攻勢に出ないのか。兵力が足らなければ逆上陸もやってはどうか」と、持久戦法ではなく、積極攻勢に出るよう要求した。
 昭和天皇が終戦工作に関心をもち始めたのは、5月に入って、沖縄で日本軍の敗北が決定的となり、5月7日にドイツが連合軍に無条件降伏してからのことである。
 「聖断」のシナリオは、日本の国土と国民を戦争の被害から即時に救うために企図されたものではない。ただ、戦争における敗北という政治指導の失敗の結果から生ずる政治責任を棚上げにするために着想された一種の政治的演出にすぎない。
 もし国民のためだったのなら、即時の戦争終結が実行されてよかった。日本政府は、国体護持の確証を得ようとして、その一点だけのために2ヶ月以上の時間を費やした。
 昭和天皇の「聖断」が8月13日ではなく、もっと早くされていたら、4月1日の沖縄への米軍上陸と沖縄戦はなく、「鉄の暴風」と呼ばれた壮絶な戦いのなかで15万人もの死者を出すことはなかったはず。昭和天皇は「もう一度戦果を挙げてからでないと」と周囲からの終戦のすすめを一蹴してきたのだった。昭和天皇の戦争責任は重い。
 私は、今の平成天皇は昭和天皇の戦争責任を十分に自覚しているのではないかと受けとめています。しかし、周囲がそのことを率直に認めさせないようです。

硫黄島の兵隊

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:越村敏雄、出版社:朝日新聞社
 硫黄島は、「いおうじま」と呼ぶと思っていましたところ、昔は、「いおうとう」と呼んでいたそうです。アメリカによる占領を経て、アメリカ軍の呼び方が広まった、というわけです。
 1945年2月からの1ヶ月間の戦いで、日本軍は2万1000人のうち助かったのは1000人のみ。戦死者2万人です。今も、その遺骨の大半は島に眠っています。日本政府は技術的困難を理由として本格的な遺骨収集を放棄しています。
 対するアメリカは参加した将兵は11万人、上陸したのは6万1000人。そのうち戦死者6800人、戦傷者2万1800人、死傷者の合計2万8000人でした。
 アメリカ海兵隊の168年間の経験のなかで、もっとも苛烈な戦いだった。
 穴掘り作業は、まさしく噴火口の中で穴を掘るようなものだった。熱気をおびた亜硫酸ガスが、十字鍬で掘り起こした窪みから、猛烈に噴き出した。
 この島は、全島、どこを掘っても、強い熱気と亜硫酸ガスが噴き出た。海中に浸って、足の爪先で砂を掘ってみても、熱い地熱を感じた。
 1000人ほどしか島民が住めなかった理由の一つは水にあった。雨はきわめて少なく、4、5月にくる雨期が終わると、雨はめったに降らない。
 ウグイスとメジロは島にふんだんにいた。人が近寄っても、まるで無視する。気ままについばみ、気のはれるまで歌って生きている。
 断崖の岩盤はおそろしく硬い。下痢患者の打ち込む十字鍬(くわ)は、はね返って歯がたたない。岩の割れ目を見つけて十字鍬を打ち込み、わずかずつ切り崩した。のみもつかって石屋のように岩を剥がした。削岩機も何もないから、すべて人の手で作業する。
 硫黄と塩が身体に蓄積されてくると、猛烈な下痢が蔓延した。やせこけた身体は恐ろしい速さで衰弱した。重労働と不眠が容赦なく拍車をかけ、この島独特の栄養失調症になる。
 夜となく昼となく残忍に苦しめるのは、すさまじい喉の渇きだった。しかし、それを癒すものは、塩辛い硫黄泉しかない。
 異様な臭いの立ちこめる生ぬるい塩水を飲むしかない。それを飲んでも清涼感は味わえない。どろりとして後味が悪く、口腔から鼻にかけて、強い吐き気を誘う硫黄の臭みがむんと籠もって、いつまでも離れようとしない。それが染みついた喉や舌が、飲みこむ瞬間に拒絶反応を起こして震える。そのあとは、通りみちに刺すような辛みが、震えるような吐き気と一緒に残る。これがまた、喉の渇きをかきたてる。
 どの兵隊も、目尻や鼻や唇の両端が食い入るようにへばりついたハエの塊で黒い花が咲いたようになった。盛ったばかりの飯と味噌汁は一瞬のうちに真っ黒になった。全島がハエの島と化した。明るい間じゅう、真っ黒に渦巻くハエのなかでの生活である。日がくれると、島を覆うすさまじいハエの群れは一斉に木の葉や草葉の裏にとまり、姿を消す。
 37度あまりの熱で、日に10回ほどの下痢症状は、この島では健康体である。それより健康なものは、ここでは異常だった。
 硫黄島に補給などのために飛んできた飛行士が見たのは、まさしく人間ではない、火星人だった。どの兵士もまっ黒で、皮膚につやがなく手も足も骨と皮ばかりにやせ細っていた。そのため頭が大きく見え、眼がギョロギョロと輝いていた。
 この本の著者は、まさしく奇跡的に助かっています。日本の飛行機が補給物資を島に届け、本土への帰路に負傷兵をのせていったのです。著者がなぜそのなかに選ばれたのかについては何も書かれていません。
 最後に、著者の次のような言葉が紹介されています。
 戦争を知らないで一生を終えたら、これほど幸せなことはない。これから同じような死に方をくり返すとすれば、彼らの死は徒労でなくて、何でありましょう。
 まったく同感です。強い共鳴を覚えました。

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