法律相談センター検索 弁護士検索
カテゴリー: 日本史(戦後)

清冽の炎・第4巻「波濤の冬」

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:神水理一郎、出版社:花伝社
 ついに第4巻が出ました。あれから40年。素敵なクリスマス・プレゼントです。
 いよいよ東大闘争はクライマックスになりました。本郷では、有名な安田講堂攻防戦が華々しく繰り広げられます。当時、日本国中をテレビにくぎづけにした市街戦さながらのショーを思い起こします。そして駒場では、全共闘が立て籠もっていた第八本館(通称・八本・はちほん)が、民青とクラ連の統一行動隊によって封鎖解除されます。
 この本では、攻める側、攻められる側、大学当局、警察と政府の動きが多元的に語られ明らかにされているところに画期的な意義があります。全共闘を一方的に賛美せず、逆に民青一辺倒ということでもありません。
 安田講堂の攻防戦の前、警察は内部偵察をします。建築会社のジャンバーを着て、修復工事の見積もりのためと称して、内部を全部みてまわりました。警察は安田講堂を攻めるために8000人の警察官を動員し、最新の防炎服を1万着もそろえるなど万全の装備を用意した。マスコミに派手に中継してもらうことが最優先された。
 安田講堂に立て籠もった全共闘の一人に当時の秦野警視総監の甥(この本では姪)がいました。学生に資金を提供し、軍事指導したアナーキストもいました。
 安田講堂内部では、革マル派が全員退去した。東大生もいるにはいたが、むしろ人数としては少なかった。全共闘は指導部を退去させて温存する方針をとった。攻防戦の前夜、女子学生が大講堂にあったピアノを静かに奏でた。
 加藤一郎執行部は安田講堂内の全共闘とのホットラインを2回線確保していて、光芒が始まってからも連絡をとりあっていた。
 民青は前夜のうちに本郷から完全に姿を消した。自民党は、そのことを知り、地団駄をふんで悔しがった。
 安田講堂攻防戦の前、駒場では12月13日と1月11日に代議員大会が開かれた。12月13日の代議員大会は駒場寮の寮食堂で開かれ、全共闘の一部が突入して乱闘になったが、すぐさま再開された。代表団10人が選出された。1月11日の代議員大会は全共闘の乱入を恐れて駒場寮の屋上で開かれた。
 1月10日、秩父宮ラグビー場で七学部集会と称する公開団交が開かれ、東大当局と学生との間で確認書がとりかわされた。
 東大闘争の最終局面の息づまる展開が詳細に明らかにされます。大変な迫力です。
 東大のなかで連日の息詰まるようなゲバルトがあっているなかでも、地域におけるセツルメント活動は続けられます。授業で学ぶだけではない、そこにはまさしく生きた学問の場がありました。
 1巻、2巻、3巻と売れないまま続いてきたこの大河小説も、ついにクライマックスを迎えました。全国の書店で発売されています。書店にないときには、ぜひ花伝社へ注文してください(FAX03−3239−8272)。インターネットでアマゾンへ注文もできます。
 第5巻は、1996年2月と3月。そして、第6巻は登場人物の20年後、30年後の姿を描きます。そこまでたどり着くためには出版社に出版しようという意欲をもたせる必要があります。ぜひ応援してやってください。
 新年(2008年)は、東大闘争が始まって40年という記念すべき年なのです。
(2007年12月刊。1800円+税)

半世紀前からの贈物

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:内田雅敏、出版社:れんが書房新社
 50年以上前の1953年(昭和28年)に発行された小学2年生の文集をもとに、当時の子どもたちの生活を再現した本です。私が小学校に上がったのはそれより2年あとになりますが、およそ同じような状況ですので、親近感を抱きながら読みふけりました。
 著者は1945年生まれで、いまは東京で弁護士として活躍しています。小学校は愛知県蒲郡町立南部小学校(蒲南。がまなん)です。
 かごの中の、じゅうしまつ(十姉妹)はちゅうちゅうないてせまい、かごのなかをとびまわっている、かわいそうだね。
 私の家でも同じように十姉妹を飼っていました。鳥籠を買って、私もその世話をしていました。毎朝、水を取りかえ、アワなどのエサをやり、鳥籠のなかの鳥のフンを始末してきれいにしてやりました。小鳥たちが楽しそうに水浴びしているのを、いい気持ちで眺めました。
 にわとり
 ぼくがおまつりでかったひよこが大きくなってたまごをうんでくれましたが、このごろうまなくなってしまった。
わが家でも鶏小屋をつくって鶏を何羽か飼っていました。私も、そのエサになる雑草をとりに行っていました。丈夫な卵をうんでくれるように、貝殻をこまかく叩いたものもエサとして鶏にやっていました。飼っている鶏を父が絞め殺し、さばく様子を間近で見ていました。卵の生成過程が見事にできているのも見ました。卵の殻が、あとで黄身と白身にかぶさるようになっていく様子もしっかり見て、自然の不思議を実感したことを覚えています。
 当時の少年雑誌は、今のような週刊ではなく、月刊。『冒険王』『少年画報』『少年』など。毎月7日の発売日が待ち遠しかった。
 私の家でも少年雑誌を一つ購入していたように思います。記憶が定かではありませんが、付録に組立できる工作がついていて、その組立が大きな楽しみでした。恐らく『小学○年生』だったと思います。姫路城を再現するような工作がついていました。ワクワクドキドキする豪華版の付録でした。といっても、前号の予告の写真のほうがすごくて、期待に胸をふくらませて開けてみると、なーんだ、こんなものかとガッカリすることもたびたびでした。
 蒲郡市の『広報がまごおり』に1年余にわたって連載したエッセーをもとにした本だということです。護憲派の弁護士として大活躍している著者の原点を知ることのできる好著です。
(2007年10月刊。700円+税)

マツヤマの記憶

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:松山大学 出版社:成文社
 日露戦争100年とロシア兵捕虜というサブ・タイトルがついた本です。203高地争奪戦のあと、旅順を守っていたロシア軍が降伏すると、日本へ大量のロシア兵捕虜が連行されてきました。当時の日本は、捕虜を人道的に扱い、国際社会で名誉ある地位を占めました。この本では、その実情と、隠された捕虜虐殺、そして捕虜処遇費用をロシアに全額弁償させた事実が紹介されています。飫肥に行ったときに小村寿太郎記念館で買い求めた本ですが、勉強になりました。世の中には知らないことって、ホント、たくさんあります。
 1904年の日露戦争開戦は、ひとつくれよと露にゲンコ、というゴロあわせて暗記しました。2004年は、開戦100年にあたります。
 松山収容所には、最大瞬間人員で3000人台後半から4000人台前半いた。埋葬者数は98人で、全国でもっとも多い。
 松山が捕虜収容所として選ばれたのは、道後温泉が近くにあるため。日本側は、捕虜となるのは戦傷病兵で、戦闘意欲を失った兵達だろうと予測していたから。つまり、松山収容所の特色は、将校と傷病兵を主として受け入れたことにある。
 ロシア兵捕虜の総数は7万9000人。捕虜になった場所は、旅順・開城4万4000人、奉天2万人、日本海海戦6100人、サハリン4700人だった。日本に連れてこられたロシア兵捕虜は、1905年11月から1906年2月にかけてロシア側に引き渡された。
 戦争の最中、松山は、帝国の品位をかけて捕虜優遇策をとった。官民あげて観光客なみにもてなした。たとえば、朝はバター付・パンと牛乳入り紅茶。昼はバター付パンとスープ玉子付のライスカレー、紅茶。夕はバター付パンと野菜スープ、タンカツレツ、紅茶。そして、将校のなかには、町中に日本家屋を借り、女中を雇うのものもいた。
 日本政府は、ロシア兵捕虜の給養に莫大な金額をつかった。食費だけで、将校には一日あたり60銭、下士官と兵卒には30銭を充てた。これに対して、日本の兵卒の食費は一日16銭にすぎなかった。破格の厚遇である。
 日本政府は、戦争中、捕虜のため4900万円もの予算を割りあてた。これは開戦前の国家予算の2割にあたる。この経費は、日本政府が国の内外から借金してまかなった。そして、これを戦後になって、ロシア政府に返済させた。
 日本側のかけた費用は、5000万円に達した。ロシア側は、2000人の日本人捕虜に対して、160万ルーブルをつかった。
 捕虜将校には、自由散歩制度がとられていた。月水金は午前6時から正午まで、火木土は正午から午後6時まで。海水浴が許され、自転車で外出することも認められていた。
 捕虜の将校は所持金も多く、戦時下の松山経済に好影響を与えた。当時の道後温泉は史上最高の収益を上げた。ロシアの捕虜は個人で1円50銭の貸し切りで1時間も楽しんだ。1日に300人も400人も入浴した。日本人は一人5厘、捕虜は一人1銭だった。
 ところが、日露戦争の末期、南樺太(南サハリン)で、日本軍はロシア軍の敗残兵を捕虜としたのち、翌日、残らず銃殺した。ロシア兵捕虜を優遇しただけではなかったのです。
 ふむふむ、知らなかったことだらけです。
(2004年3月刊。2000円+税)

中国戦線はどう描かれたか

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:荒井とみよ、出版社:岩波書店
 昭和13年(1938年)、林芙美子は日本軍の漢口攻略作戦に従軍作家として参加した。この作戦は、実は、とても従軍作家たちを招待できるような、余裕のある戦争ではなかった。長い行軍に疲れ果てた兵隊、大陸の熱暑と疫病で苦しむ兵隊、作戦の遂行もままならないありさまだった。相次ぐ戦病死者で部隊の体裁も保てない状態が続いていた。
 だからこそ、日中戦争を続行するために銃後の人々の感情動員が求められた。
 中国との宣伝戦は、もう一つの必死の戦さだった。従軍作家たちには、たぶん、その自覚はなかっただろう。
 戦後、中国人学者が林芙美子を次のように批判しています。
 林芙美子は、ペン部隊の数少ない女性作家として、武漢の前線で大いに頭角を現わし、侵略戦争の積極的な協力者であった。彼女にとってみれば、戦争がもたらしたのは、名声・栄誉と虚栄心の満足だ。敗戦は、逆に、これらかつての自己陶酔の一切を一瞬にして三文の価値もなしにし、あわれや糞土のごとくに変えてしまった。
 なーるほど、と言うしかありません。侵略戦争に協力したペン部隊の作家として、次の人たちがあげられています。ええーっ、こんな人までが・・・、と驚きます。戦争って、本当に文化人まで根こそぎ動員するのですね。
 佐藤春夫、古屋信子、小島政二郎、吉川英治、尾崎士郎、石川達三、深田久彌、藤田嗣治、西條八十、佐多稲子、丹羽文雄、豊田正子、そして菊池寛。
 『一兵士の従軍記録』というものも紹介されています。歩兵上等兵、伍長、軍曹という地位にあった人の日中戦争従軍記です。
 昭和13年7月から8月にかけて、部隊は南京経由で常州に入る。「支那の暑さ、盛夏となって味わうに、南の暑さは殺人的だ」という日々。
 炎天下の行軍。大隊は、炎熱のため、落伍者はいうに及ばず、死者まで出す。一日かけて前進してきた道が間違っていたとの知らせで引き返す。フラフラの行軍。敵弾の飛びかう下での眠り。サイダー一本で蘇る歩兵たち。
 やっと生き返ったのに、翌日になると、命令なく後退したという理由で、戦場へ戻れと言われる。なんと無理な命令だろうか。なんと軍人は辛いものか。
 兵隊は赤紙で生まれるのではない。戦友の死、無理難題の作戦、飢えや寒さ、また炎暑に苦しむなかで、兵隊になっていくのである。
 敵への憎悪は、戦闘のはじめの段階ではなかった。しかし、厭戦気分と裏表になった闘争心が徐々に肥大して彼らは兵隊になっていく。
 出発時に194人だった部隊が、2年後、20数人になっていた。
 実は、私の父も、この昭和13年(1938年)11月に応召し、中国大陸に1等兵として従軍しているのです。久留米の第56連隊(第18師団)に所属していました。武漢攻略作戦です。父は広東周辺にいたようですが、前線で危ない目にあったものの命拾いし、痔、脚気、マラリア、赤痢と次々に病気にかかり、ついに本国送還命令が出ました。1939年7月、台湾の高雄に上陸し、高雄と台北の病院で入院・治療を受け、1940年1月、本土に帰ってくることができました。
 林芙美子の従軍日記で描かれているような日本軍の悲惨な状況は、父の置かれていた状況でもあったわけです。その子として、私も歴史の現実をきちんと受けとめ、私の子どもたちに伝えなければいけないと思いました。
(2007年5月刊。2400円+税)

ナガサキ昭和20年夏

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:ジョージ・ウェラー、出版社:毎日新聞社
 GHQが封印した幻の潜入ルポというサブ・タイトルがついています。オビには、「マッカーサーに逆らい、被爆直後の長崎に命がけで一番乗りした米国人ピュリツァー賞記者。60年経て日の目を見た、歴史的ルポ」となっています。なるほど、そのとおりです。
 1945年9月7日、長崎の惨状を著者が写真にとっています。荒れ果てた長崎は、まったくのゴーストタウンです。
 原爆放射能が人体にもたらす恐るべき影響について無知だった著者は、長崎に入った第一日目の原稿には、「街には痛ましいという雰囲気はない」と書いていた。しかし、日がたつにつれて、病院で被爆者を見たり医師の話を聞いているうちに意識が変わっていった。はじめ外傷もなく元気だった人が、2〜3週間後あるいは1ヶ月後に急に全身状態が悪くなって、嘔吐、下痢、腸内出血など手の施しようもなく死んでいく。
 ところが、このルポは、原爆の想像を絶する惨禍が世界に知られるのを恐れたマッカーサー司令部によって公表を差し止められた。
 そして、私は、この本で大牟田にあった捕虜収容所について、写真つきのルポを読み、初めてその実情を詳しく知ったのです。
 大牟田にあった第17捕虜収容所は1700人を収容する、日本最大の連合軍兵士捕虜収容所である。その多くは、炭鉱で毎日、8〜10時間も働かされていた。
 彼らの何人かは、長崎に原爆を投下される状況を目撃した。
 「大きなキノコのような白い雲がどんどんふくれ上がり、その中は真っ赤で、中心部分が地上まで届いているように見えた」
 「初め白い煙が噴き出してキノコの形にふくれあがり、そして突然、内部で発火した。恐ろしかった。雲が発火したようだった」
 「ぱっと光ったあと、白い雲が巨大なパラシュートの形に広がり、その中心にオレンジ色の光が輝いている。30分ほど、そのままだった」
 「大きな火の玉が空に浮いていて、どんどん大きくなっていった。30分しても、まだそのままだった。新しいタイプのガスではないかと思った」
 炭鉱で働かされていた捕虜たちは次のように語った。
 「日本軍の処遇というのは、頻繁に行われる殴打と粗末な衣服、粗末な食べ物ということに尽きる。空腹のあまり盗みを働く者もいた。苛酷な冬だった」
 「一番の困難は、坑内の湧水、低い天井の下で腰をかがめていること、重い材木を運ぶこと。いつも日本人の監督に殴られることだった」
 連合軍捕虜収容所の隣に中国人炭鉱労働者収容所があった。2年前に中国を出発するときに1236人いたのに、日本に到着して300人が死亡した。現在、50人が重病。
 この収容所では2年間に日本人衛兵により殺された者が70人を数え、加えて病死者が120人、現在の生存者は546人。生き残っている中国人の多くは骨と皮という状態である。
 大牟田には、三井亜鉛工場で働く250人のイギリス人と、炭鉱で働く700人にのぼるアメリカ人と数人のイギリス人がいた。イギリス人のほとんどは、シンガポールとフィリピンで捕虜となった。
 オーストラリア人が420人いて、うち300人は700人のアメリカ人とともに炭鉱で働いていたという記事もあります。
 アメリカ人700人とその他の連合国人1000人という表現もあります。
 700人のアメリカ人は、フィリピンで捕虜になったようです。バターンとコレヒドールで捕虜になったとあります。捕虜収容所にいた病人の多くはナチ収容所のユダヤ人と似た状態にありました。まさしく骨と皮のみの白人の若者の写真が紹介されています。
 著者は飯塚にあった第7捕虜収容所にもまわっています。ここには、アメリカ人186人、オランダ人360人、イギリス人2人が炭鉱で働かされていました。
 大牟田にあった第17捕虜収容所は日本最大の収容所であり、かつ、もっとも苛酷な収容所の一つだった。施設そのものは、ほかのところより多少よく、少なくとも年間、数ヶ月は水浴びができた。33棟の建物は、もともと三井鉱山が作業員宿舎として建てたもの、炭鉱は収容所から歩いて1.5キロメートルのところにあった。
 33棟もの建物から成る捕虜収容所が大牟田のどこにあったのか、私はぜひ知りたいと思いました。あとで、三池港の近くにあったことが分かりました。中国人収容所や朝鮮人収容所も近くにありました。
 捕虜収容所のフクハラ所長は、「収容所長として最も凶悪かつ非人間的な所長であった」ので、戦争犯罪人として有罪となり、1946年前半に絞首刑に処せられた。
 このフクハラ所長を取り上げた本を以前に読んだような気がします。題名も何もかも忘れてしまいましたので、改めて見つけて読もうと思います。
(2007年7月刊。2800円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.