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カテゴリー: 日本史(戦後)

南京事件論争史

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:笠原十九司、出版社:平凡社新書
 日本人として、読んでいるうちに、思わず襟を正される思いのする本です。「南京事件の幻」とか、「南京での30万人大虐殺なんて中国政府のデッチ上げだ」という本が書店で山積みされている日本の状況は、本当に異常だと思います。ナチスによるユダヤ人のホロコースト(大虐殺)なんてなかったと叫んだ人がドイツにもいましたが、ちゃんと有罪になりました(と思います)。ところが、現代日本では依然としてマスコミで堂々と通用しており、教科書にもその悪影響が続いています。ほんとうに、日本には懲りない面々があまりにも多いと思います。
 日本人は南京事件を忘れても、世界は忘れない。日本人がなかったことにしても、世界はなかったとは認めない。世界各国は、忘れてはならないし、なかったことにしてはいけないと考えている。なぜなら、このような非人道的な行為が二度と繰り返されてはいけないからだ。南京大虐殺論争は、日本の今日の民主主義にかかわる深刻な問題なのである。
 これには私も、まったく同感です。南京事件、つまり、南京で大虐殺があったことは日本の当時の支配層も認めていたことです。
 前に紹介しましたが、昭和天皇の弟である三笠宮崇仁の『古代オリエント史と私』(学生社、1984年)にも、「日本軍の残虐行為を知らされました」と書かれています。三笠宮は1943年に南京にいたのです。岡村寧次(やすじ)中将(のちに大将)も、「南京攻略時に4.5万に大殺戮、市民に対する掠奪・強姦、多数ありしことは事実なるごとし」と書いています。
 田中新一・陸軍省軍事課長は「陸軍内部における多年の積弊が支那事変を通じて如実に露呈せられた」としています。当時の日本政府も軍部上層部も事実を知っていたものの、国民に対しては隠してしまったのです。
 南京事件は、南京攻略の過程で起きたことではなく、12月17日の南京入城式のあと、兵士たちの休養期間に多発している。南京事件でもっとも犠牲者数が膨大だったのは、中国軍の投降兵、捕虜、敗残兵の殺害であった。そして、違法行為であるとの自覚のもと、徹底して証拠隠滅が図られた。
 南京事件は、戦後の東京裁判で審理の対象となった。それは、発生したときに外交筋や報道関係者を通じて世界に報道され、国際的な非難を巻き起こし、日中戦争における日本軍の残虐事件の象徴として世界に知られていたから。
 南京占領後の1937年12月17日の時点で、南京城にいた憲兵は、わずか17人にすぎず、司令部には法務部もなかった。松井石根・中支那方面軍司令官は、その軍紀・風紀を取り締まるための軍編成をまったく考えず、軍中央の統制を無視し、補給輸送体制も無理なまま、上海戦で消耗した軍隊に南京攻略を強行させたことが南京事件の直接的な原因になった。
 東京裁判において、日本人弁護団も規模はともかくとして、南京事件があった事実は認めていた。インドのパール判事も、日本軍が南京で残虐行為があった事実は認定している。
 南京事件否定論者たちは、すでに東京裁判の審理において否定された弁護側の主張を相も変わらず、くり返しているにすぎない。
 南京は人口100万人とみられていて、日本軍占領下に20〜25万人が残留していた。つまり、大虐殺を免れた住民が20〜25万人いたということである。それを虐殺前の南京の人口としてはいけない。
 文科省(文部省)の歴史教科書検定で、南京事件の記述をさせまいとする姿勢は現在にいたるまで一貫している。
 南京事件を否定する田中正明は、資料の改ざんを平然におこない、原文にない文章を自ら加筆までしている。いやあ、これって、ひどいことですね。許せません。
 「偕行」に南京事件の特集をしたとき、編集者の意図に反して、虐殺した事実が明らかになった。そこで、次のように謝罪した。
 不法殺害1万3千人はもちろん、少なくとも3千人とは途方もなく大きな数字であり、この大量の不法処理には弁解の言葉はない。旧日本軍の縁につながる者として、中国人民に深く詫びるしかない。まことに相すまぬ、むごいことであった。
 これこそ、日本人のとるべき態度だと私も思います。
 いやあ、日本人って、本当に過去の歴史に学ぼうとしない民族なんですよね。それでも、山田洋次監督の映画『母べえ』を150万人の日本人が見たそうですから、まだあきらめたわけではありません・・・。
(2007年12月刊。840円+税)

母べえ

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:野上照代、出版社:中央公論新社
 ベルリン映画祭で惜しくも受賞できませんでしたが、山田洋次監督の映画『母べえ』は、実に良い映画でした。見終わったあと、胸のなかに温かい湯たんぽを抱えたような気分にずっと浸っていました。観客150万人突破という宣伝文句が出ていますので、興行成績もまずまずのようで、うれしい限りです。まだ見ていなかったら、今すぐどうぞ映画館に足を運んでくださいね。反戦・平和のためには、今すぐ足を動かすことが求められています。
 山ちゃんが兵隊にとられて南方戦線へ輸送船で運ばれていくシーンがあります。薄っぺらな船です。護送艦隊もないのですから、アメリカ軍の潜水艦に狙われ、魚雷をうち込まれたら、ひとたまりもありません。またたくまに、海のもくずと化していきます。今回、初めて、そのシーンをビジュアルなものとして見ることができました。
 ああ、こうやって、前途有望な多くの日本人青年が無念の死に追いやられたのだなと思うと、それだけで胸が一杯になりました。戦死といっても、まるで意味なく殺されただけなのです。それは、アメリカ軍に殺されたというより、軍上層部の無謀な戦争指揮によって死なされただけ。そうとしか思えませんでした。
 吉永小百合は、私より少し年長なのにもかかわらず、相変わらず凛々しい美しさを保持していて、畏敬の念にかられました。まさに信念の女性ですよね。反戦・平和の志を常日頃から表明しているのにも敬意を表します。
 著者の父親(父べえ)は、1926年に日本大学予科教授に就職し、執筆活動していたところ、治安維持法にひっかかっりました。日大を追放され、1940年から拘置所に入れられた。そのときの家族との往復書簡集がノートに書き写されて残っているのです。
 山田洋次監督の序文のかなに紹介されている詩を紹介します。
 戦死やあわれ
 兵隊の死ぬるや あわれ
 遠い他国で ひょんと死ぬるや
 だまって だれもいないところで
 ひょんと死ぬるや
 ふるさとの風や
 こいびとの眼や
 ひょんと消ゆるや
 国のため
 大君のため
 死んでしまうや
 その心や          (竹内浩三、「骨のうたう」)
 戦争反対です。私は、どんな口実であっても、戦争に反対します。
(2007年12月刊。1100円+税)

画文集・シベリア抑留1450日

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:山下静夫、出版社:東京堂出版
 シベリア抑留の実情を初めて目で見ることができました。これまで書物としてはいくつも読んでいましたが、この本によって初めてビジュアルなものになりました。
 著者はシベリアから帰国して25年後の1974年春、抑留されていた4年間を日記風に書きはじめ、10ヶ月間で書きあげた。その過程で挿画を入れ、7年のうちに400枚あまりの画になった。
 B6ケント紙に黒のボールペンで、ペン画のスタイル。経験したものだけを、現場でカメラのシャッターをきった写真のように忠実に描写することを心がけた。
 いやあ、本当によく描けています。シベリアの酷寒の大自然と、抑留されていた日本兵、そして監視していたロシア兵の人間性がよくぞ描けています。感心してしまいます。
 著者は1945年(昭和20年)夏、抑留されたとき27歳でした。昭和18年に召集されて満州に渡り、佳木斯(チャムス)で敗戦を迎えた。輜重兵聯隊の主計軍曹だった。著者は商家の息子で都会っ子、小柄な身体で体力的にも劣っていたが、不屈の気力と日本人の誇りを胸に仲間に助けられながら、収容所で中隊長となり、肺炎・赤痢・マラリアにかかり、膝にケガをしながらも、昭和24年9月に日本に帰国できた。
 日本軍捕虜のシベリア抑留はスターリンによる1945年8月23日の極秘指令、日本軍捕虜50万人をソ連に移送せよという指令にもとづく。
 抑留者は60〜65万人。抑留中の死亡者は6〜9万人。
 戦争により2500万人という膨大な犠牲者を出して国土が荒廃したソ連は、復興のためノドから手の出るほど労働力を必要としていた。
 比較として、ソ連の捕虜になったドイツ軍人は320万人で、そのうち110万人(34%)が死亡した。ドイツの捕虜になったソ連軍人は570万人で、そのうち330万人(58%)が死亡した。この死亡率の高さは独ソ戦の苛酷さを意味している。
 これに比べると、日本軍人の捕虜の死亡率が1割程度ですんだというのは、まだましだったことになります。驚くべき数字です。
 著者が4年のシベリア抑留のあと日本(舞鶴港)に帰ってきたとき、日本政府の高官は、「ながらく御苦労様でした」と挨拶することもなく、ソ連の内情はどうだったか、スパイまがいを強要した。このことに著者は怒っています。なるほど、そうですよね。
 著者がようやく日本に帰れることを知ったとき、ロシア人たちは、「よかった、よかった。達者でお帰り」と喜んでくれたというのです。そして、きみたち日本人のおかげで住みやすい町になった、ありがとうという感謝の言葉をかけられたといいます。
 ひゃあ、そんな感じだったのですか・・・。
 シベリアの極寒の地を日本人捕虜が大変な苦労をして切り拓いていったことが、画と文章によって、ことこまかに紹介されています。
 シベリアでは冬にマイナス25度の日が続くと、今日はぬくい日だなあと喜び、防寒外套を脱ぎ、素手で作業することがあった。日本でマイナス27度と言えば、大変な寒気で異常事態といえるが、常時マイナス30度のシベリアでは服装もそれにあわせてあるため、むしろ暖かさを感じるほど。
 シベリアに日本人捕虜を抑留して多くの犠牲者を出したのは、第1に、日本軍の将校、下士官の横暴をソ連が黙認し、利用したことによる。食糧も公平ではなかった。第2に、作業遂行にノルマを強制し、将校、下士官に追求したため、作業兵を死においやった。第3に、なれない作業への無知のため発生した犠牲者がいる。第4に、生活環境が改善されず、もっぱら野外作業にかり出され、凍死者さえ出た。
 日本軍捕虜は、経費のかからない安い労働力とみられ、限られた期間内に精一杯つかいまくる、ソ連は消耗品視していた。
 木の枝にとまっている三羽のヤマバトをソ連の兵士が一羽ずつ長い歩兵銃で撃ち落としていったというウソのような話も紹介されています。
 シベリア抑留の実情を少しでも知りたい人には欠かせない本だと思いました。
 陽も長くなり、いっそう春めいてきました。それは良いのですが、花粉症に悩まされて困っています。鼻づまりがひどく、夜、口を開けて寝ていたらしく、朝、起きたときに舌がザラザラして嫌な感じでした。涙目になり、目が痛痒いのも困ります。もっとも、こちらは目薬で何とかなります。夜、寝る前に、鼻のあたりに温湿布をあてて温めています。すると、少しは鼻づまりがやわらぎます。黄砂で車体が黄色くなっていて驚きました。いろいろあるのも春なのですね。
(2007年7月刊。2800円+税)

枢密院議長の日記

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:佐野眞一、出版社:講談社現代新書
 大変な労作です。日本人が世界に冠たる日記好きの民族とはいえ、主人公のつけた日記は群を抜いています。なにしろ、26年間に297冊の日記をつけていたのです。ひと月にノート1冊分のペースです。1日あたり、400字詰め原稿用紙で50枚をこえることもある。26年分の日記をすべて翻刻したら、分厚い本にして50冊はこえる。すごーい。
 ところが、この日記は死ぬほど退屈なもの。といっても、その恐ろしく冗長な日記のなかに、ときに歴史観を覆すような貴重な証言が不意をついて出現する。
 主人公は、久留米出身の倉富勇三郎。嘉永6年(1853年)、久留米に生まれ、東大法学部の前身の司法省学校速成科を卒業したあと、東京控訴院検事長、朝鮮総督府司法部長官、貴族院議員、帝室会計審査局長官、枢密院議長などの要職を歴任した。
 この本は、その膨大な日記のうち、大正10年と11年に焦点をあてて紹介している。
 宮中某重大事件が登場する。昭和天皇の妃に内定していた良子女王の家系に色盲の遺伝子があるとして、婚約辞退を迫られた事件。婚約辞退を主張した急先鋒は、枢密院議長だった元老の山県有朋だった。山県をバックとする長派閥と、良子の家(久邇宮家)をバックアップする薩閥の対立に発展した。
 貞明皇后と良子女王のあいだには、まだ結婚前なのに、すでに穏やかならざる空気が漂っていた。ちょうど、いまの皇室の危機と同じように・・・。
 主人公の日記には、警視総監が久邇宮家の意を体した壮士ゴロの金銭要求をなんとか飲んでくれないかと言ったという話がのっている。これは内務大臣も了解ずみで、久邇宮家が皇后の座をお金で買ったことを認めているのも同然。
 うむむ、そういうことがあったとは・・・。
 倉富勇三郎には、恒二郎という2歳年上の兄がいた。この恒二郎は福岡から上京して官界を目ざした弟の勇三郎とは反対に、明治維新後、福岡で自由民権運動に加わり、福岡日日新聞社の創刊者の一人となり、最後は、同社の社長となった。福岡県弁護士会史(上巻)によると、明治24年8月に41歳で亡くなっていますが、久留米で代言人をしていました。自由民権運動で活躍し、死ぬまで県会議員でした。
 倉富の風貌は、村夫子(そんぷうし)そのもの。その春風駘蕩然とした表情には、緊張感がまったく感じられない。官僚のエリート街道をこの顔で登りつめたのか不思議なほど。
 倉富は、超人は超人でも、スーパーマンではなく、たゆまぬ努力によって該博な法知識を身につけた超のつく凡人だった。
 柳原白蓮と宮崎龍介の騒動も紹介されています。2人のあいだに生まれた子は、早稲田大学にすすみ、学徒出陣で鹿屋の特攻隊基地で、敗戦の4日前にアメリカ軍機の爆撃を受けて戦死しました。白蓮女史は昭和42年2月に83歳で亡くなり、夫の宮崎龍介は4年後の昭和46年1月に80歳で死亡しています。
 主人公は日記をつけるために、下書きのメモまでつくっていた。そして、ヒマさえあれば読み返していた。まさに寸暇を惜しんで日記を書き続けた。
 いやあ、こんな人がいるんですよね。膨大な日記をこうやって読みやすい新書にまとめていただき、ありがとうございます。お疲れさまでした。
(2007年10月刊。950円+税)

BC級戦犯裁判

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:林 博史、出版社:岩波新書
 東京裁判の被告が28人、BC級戦犯裁判では7ヶ国によって5700人が裁かれた。死刑になったのは東京裁判で7人に対し、BC級裁判では934人にのぼっている。
 うむむ、この差はなんということでしょう。これは、『私は貝になりたい』というケースがたくさんあったことを意味しているようです。
 アメリカ政府は、1944年夏まで、戦争犯罪の問題に積極的には取り組んでいなかった。その状況が一変したのは、財務長官がナチス・ドイツの指導者たちをつかまえたら即決処刑すること、「人道に対する罪」の責任者は軍事法廷で裁くことを提案したことからだった。ルーズベルトもチャーチルも、この考えに同調していた。しかし、ヘンリー・スチムソン陸軍長官は危機感を抱いた。そのような政策では、かえってドイツを徹底抗戦に追いやってしまうので、やはり裁判によって処罰すべきだと批判した。
 そこで、即決処刑方式は連合国全体に共通するもっとも基本的な正義の原則に反するとして否定され、主要戦犯は裁判にかけることになった。
 ドイツ指導者を裁判にかけることにチャーチル首相のイギリス政府は抵抗したが、ヒトラーが1945年4月末に自殺し、法廷でヒトラーの演説を聞かなくてよくなったので、国際裁判案をイギリスも受け入れた。
 A級とは平和に対する罪、B級とは通例の戦争犯罪、つまり戦争法規または慣例違反、C級とは人道に対する罪のこと。
 スガモプリズンで執行された最初の死刑判決は、1946年1月7日の福岡俘虜収容所第17分所(大牟田)の由利敬所長(中尉)だった。死刑は4月26日に執行された。
 捕虜への犯罪が43%、民間人への犯罪が55%を占めている。
 死刑になったのは、准士官と下士官が圧倒的に多い。将校では下級将校に集中しており、とくに大尉が多い。高級将校のなかでは、中将と大佐が比較的多い。軍人のなかでは、憲兵が高い比率を占めている。憲兵は死刑の30%、全件数の27%、人数の37%である。朝鮮人の俘虜収容所監視員のように、軍属で死刑になった者も少なくない。
 アジア太平洋戦争で日本軍の捕虜となった連合軍将兵は35万人。そのうち29万人が開戦後、半年内につかまっている。そのうち15万人がイギリス人、アメリカ、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダの本国軍将兵だった。
 日本は捕虜の「無為徒食」を許さないという方針をとり、各地で捕虜を強制労働に従事させた。きわめて乏しい食糧や医薬品、劣悪な生活環境、監視員による日常的な暴行、厳しい強制労働のなかで多くの捕虜が倒れた。6ヶ国の捕虜15万人のうち4万人、28%が死亡した。これは、ナチス・ドイツの捕虜となった英米将兵の死亡率が7%、シベリアに抑留された日本兵の死亡率が10%だったのに比べると、きわめて高い死亡率である。
 『私は貝になりたい』という映画で2等兵が戦犯裁判で死刑に処せられているが、2等兵が死刑に処せられた事実はない。曹長ならあった。曹長と2等兵では、軍の中での立場はまったく違う。
 『私は貝になりたい』の原作者は上官の命令であったということだけでは免責されない、侵略戦争に協力した世界のすべての人の一員としてのあなたの責任が問われているという趣旨のことを指摘しています。
 イラク戦争に相変わらず狂奔するアメリカの下働きをする新テロ特措法を成立させた自民・公明の政府と、それを側面から支えている民主党の責任は重大です。
 戦争は、ある日突然に始まるものではない。この言葉を今こそかみしめるときではないでしょうか。
(2005年6月刊。740円+税)

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