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カテゴリー: 日本史(戦後)

占領期の朝日新聞と戦争責任

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:今西光男、出版社:朝日新聞社
 まったく面識はありませんが、経歴をみると私とまったく同世代のようです(正確には、1月に既に定年退職したということですので、1学年だけ上のようです)。
 終戦時、「朝日」社主の村上長挙は51歳。「朝日」の主筆などをつとめていた緒方竹虎は57歳だった。いずれも、今の私の年齢より若いわけですが、すごい権威と権力をもっていました。
 終戦直後に東久邇宮が首相に任命されたわけですが、この首相が児玉誉士夫を内閣参与に任命したというのを初めて知りました。児玉といえば右翼の親玉ですが、旧日本軍の軍需品を流用・私物化して巨萬の富を得た男です。児玉は、そんな汚れた資金をもとに自民党の黒幕として戦後ながく君臨していくわけです。私が右翼を忌み嫌うのは、いかがわしい新興成金体質にみちみちているからでもあります。福田内閣のメインである自由民主党は、児玉が日本陸軍からかすめとった財宝を資金(もとで)として結成されたものです。これが平和・民主主義の日本の七不思議の一つです。汚れたお金で結成された政党による政権が、戦後60年以上たっても、連綿として続いており、若い保守政治家が自民党と名乗るのに何の恥も感じていないというのです。いやあ、気の弱い私なんか、それだけでも自民党の議員になるなんて恥ずかしくて、よう言えませんが・・・。
 そして、朝日新聞は、戦時中に、日本帝国海軍「徴用」という名目によって少なからぬ特典・特権を享受したというのです。これでは戦争批判など、しようと思ってもできるものではありません。
 1945年9月29日、昭和天皇がマッカーサー元帥を訪問したときの写真が公表された。黒いモーニング姿で小柄な天皇が正面を向いて直立しているのに対して、頭一つ長身の元帥は襟元のボタンをはずし、両手を腰にあてリラックスした姿だった。
 会見に同席したのは通訳の外務省情報部長一人。元帥が30分間にわたって、とうとうと話し、天皇はごくわずかしか話さなかった。天皇は、このときマッカーサーを下手に怒らせて戦争責任を追及されるのが怖かったのです。
 東久邇宮首相と緒方竹虎書記官長は、内閣の基盤を強化するため、これまで野党あるいは反体制側だった無産政党や労働運動、農民運動などの政権参加が必要だと考えた。そして東久邇宮は、在日朝鮮人組織の指導者と会見(10月2日)するなど、左翼陣営や諸団体との協力を模索し、場合によっては共産党との連携も検討していた。ひえーっ、本当ですか、これ・・・。
 ところが、閣内の2人の大臣がとんでもない発言をした。山崎内相は、反皇室宣伝をする共産主義者は容赦なく逮捕する。共産党員は拘禁を続けると言い切った(1945年 10月5日)。岩田宙造法相も、政治犯の釈放は考えていないと高言した。これを聞いたマッカーサーは怒り、「自由の指令」を発した(10月4日)。これで東久邇内閣は発足して50日で総辞職した。後任は、73歳の幣原元外相が就いた。そして、近衛文麿は  1945年12月16日、マッカーサーから切り捨てられ、青酸カリを飲んで自殺した。
 1945年2月、近衛は昭和天皇に対して、「ここまで来ては、敗戦そのものより、その後に来たる共産革命が深刻だ」と述べ、さらに10月4日にはマッカーサーに対して「軍閥や国家主義勢力を助長し、その理論的裏付けをなした者は、実はマルキストである」を述べていた。
 ええーっ、近衛の歴史認識って、こんなにひどいものだったんですか・・・。
 日本に進駐したGHQは、情報局総裁を兼務していた緒方書記官長を呼び、「占領政策に反する新聞をつくらない、米ソ関係を紙上でコメントしない、この2点に違反しない限り、日本の新聞の存続は認める」という方針を伝えた。同じ敗戦国のドイツ・イタリアの新聞は廃刊に追いこまれたのに、日本については、すべての新聞が戦前と同じ題号で発行を続けることが認められた。
 朝日、毎日で経営陣が退き、従業員の選出による新しい執行部が誕生するなか、読売新聞では正力松太郎がそのまま社長室に君臨していた。
 「この社はオレの社だ。勝手なことはさせない」
 自分の戦争責任につながる社内の動きは絶対に認めない。それが正力の強い決意だった。正力は、内務警察官僚として共産党弾圧の張本人の一人であり、また、ナチス・ドイツを崇拝する記事を読売にのせていた。
 その正力に対して労働者の怒りが爆発した。そのころ、日本共産党書記長になったばかりの徳田球一が読売新聞の実権を握るようになった。ところが、正力は依然として、半分近い株主を保持していた。これが復帰のバネとなった。
 鳩山の追放に成功したことによって、GSにとって皮肉なことに、鳩山より手ごわい吉田が登場した。吉田はGHQ内の反共派を代表するG2に近く、民主化最優先・容共派のGSにとっては不倶戴天の敵のような存在だった。
 やがてマッカーサーは、「共産党をキックアウトしろ」と言い、民主化を主導してきたコーエンらGS幹部を相次いでアメリカ本国に帰国させた。こうしてGHQ内の容共派は駆逐された。
 1947年の2.1ストにからみ、読売と毎日はゼネストを批判したが、朝日は、民主戦線結成と吉田内閣の打倒をうち出し、組合寄りだった。そこで、GHQは朝日打倒に乗り出した。GHQはゾルゲ事件と朝日を結びつけようとした。ゾルゲー尾崎秀実ー田中慎次郎ー笠信太郎というラインを浮かび上がらせ、朝日の論説を容共的なものとしてクレームアップしようとした。
 1950年7月28日、レッドパージが始まった。NHK119人、朝日104人など、報道8社で336人が解雇された。レッドパージされた労働者は2万人にのぼった。
 1949年に150万人を組織していた産別会議は、50年には、わずか4万7000人の少数派に転落した。
 朝日新聞の運営は経営が資本に対して優位を保つ形で続いているが、戦前戦後にわたって新聞人・緒方竹虎が苦悶した資本(村山家)と経営(執行部)との対立構図そのものは解消されていない。
 かつて日本の良識とも言われた朝日ですが、今や右翼のサンケイ・ヨミウリと大同小異の記事も多いように思われ、残念です。
(2008年3月刊。1400円+税)

甘粕正彦 乱心の曠野

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:佐野眞一、出版社:新潮社
 いやあ面白くて、ぐいぐいと引きこまれてしまいました。よくもここまで調べ上げたと感嘆するほど、「主義者殺し」の烙印を負った甘粕憲兵大尉の事件との関わり、そして満州での暗躍ぶりと自殺に至るまでが迫真にみちみちて描かれています。
 甘粕は、大杉栄一家3人虐殺の主犯として軍法会議で懲役10年の判決を受け、千葉刑務所に服役した。ところが昭和天皇の結婚による恩赦を受け、大正15年(1926年) 10月、わずか2年10ヶ月で極秘のうちに仮出獄した。そして翌1927年(昭和2年)7月にはフランスに渡った。さらに、1929年秋に満州に移住した。
 甘粕正彦の長男は三菱電機の副社長を経て、現在は顧問。考古学者の甘粕健、社会学者の見田宗介、服飾デザイナーの森南海子は、みな近い親戚である。いやあ、有名人ぞろいですね。私も見田宗介の本は大学生のころ読みました。見田石介の本もです。
 甘粕正彦は名古屋の陸軍幼年学校に入ったが、そこは6年前に大杉栄が入学し、あまりの不良少年ぶりに2年で放校処分を受けたところだった。
 1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の当日、渋谷憲兵分隊長の甘粕正彦は麹町憲兵分隊長との兼務を命じられた。首相官邸などを警護対象とする麹町憲兵分隊は、文字どおり、憲兵あこがれのエリート中のエリートコースだった。
 甘粕は帝都の治安を攪乱する不穏分子を摘発するエースだった。皇族の安寧を願い、帝都の治安維持に尽力してきた甘粕の目ざましい働きに対する論功行賞でもあった。
 甘粕に対する軍法会議が始まると、減刑嘆願運動が在郷軍人会を中心として全国に広がり、65万人もの署名を集めた。しかし、これも、軍法会議が始まると、甘粕に対する同情の声はおさまり、むしろ非難する声が高まった。
 大杉栄の虐殺が露見したのは、軍と警察の反目にあった。そして、その裏には、内務省と陸軍省のドロドロした暗躍劇がからんでいた。
 死因鑑定書が発見された今、甘粕は殺害された宗一(子ども)ばかりか、大杉栄ら3人の死体が菰包みになったのを見て初めて殺害の事実を知ったという可能性も否定できない。いやあ、そういうことなんですか。驚きました。
 軍法会議は、宗一少年を殺したとして自首してきた東京憲兵隊の3人を無罪にしたことに象徴される。この軍法会議は第1回が10月8日、6回の審理を経て、結審したのが11月24日。そして、判決は12月8日。審理に費やした期間は、わずか2ヶ月。しかも、甘粕に対する追及が厳しかった判士の小川法務官は途中で突然に解任された。
 そもそも、甘粕には麹町憲兵分隊に所属する4人を指揮命令する権限はなく、そんな立場にもなかった。
 赤坂憲兵分隊長の服部が麹町憲兵分隊に行ってみると、屋上に大杉栄が両手両脚を厳重にしばられ、コンクリートの上に筵(むしろ)を敷いて座らされていた。そばには、大杉の妻・野枝と子どももいた。こんな目撃談を部下が書いています。
 死因鑑定書には次のように書かれている。「男女二屍の前胸部の受傷はすこぶる強大なる外力(蹴る、踏みつけるなど)によるものとなることは明白。・・・これは絶命前の受傷にして・・・」
 つまり、大杉栄も野枝も明らかに寄ってたかって殴る蹴るの暴行を受けた。虫の息になったところを一気に絞殺された。すなわち、集団暴行によるなぶり殺しが実態である。
 おお、なんとむごいことでしょうか。許せません。そして、実行犯は、みな無罪放免となり、甘粕一人がわずか2年あまりで出所したなんて・・・。まさしく軍隊の犯罪としか言いようがありません。
 甘粕が出所してすぐにフランスに渡ったのは、甘粕をスケープゴートとして自らの責任を逃れた憲兵司令部の後ろめたさと、口封じを感じざるをえない。そして、甘粕正彦は満州に渡り、満映の理事長となり、終戦直後に青酸カリを飲んで服毒自殺した。そのとき、今をときめく有名作家の赤川次郎の父親が甘粕の側で働いていた。
 これは伝記ものの傑作の一つだと思います。なにしろ、歴史的事実を一つ発掘したのですからね。私は、東京行きの飛行機のなかで、一心に読みふけり、飛行の怖さを忘れてしまいました。あっという間に東京に着いてしまったのです。
(2008年5月刊。1500円+税)

若い世代に語る日中戦争

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:伊藤桂一、出版社:文春新書
 1937年(昭和12年)に徴兵検査を受け、習志野の騎兵連隊に入営し、3年あまり北支(中国北部)の戦場で過ごし、さらに1943年から歩兵として中支(中国中部)で歩兵となり、伍長だった人の体験談です。中国大陸の戦場で、下っぱの兵隊生活を7年間送ったというわけです。その体験がかなり美化されて語られていると思いました。
 初めのころは、日本軍が20人、八路軍(中国共産党の軍隊)が100人だとすると、人数で大差があっても、日本軍が圧倒的に強い。なぜなら、日本軍は訓練を受けているのに、八路軍は軍隊経験のない若者ばかりだから。挑発しても、まともに日本軍と戦わない。しかし、逃げ方がうまい。ところが、日中戦争が続くなかで、八路軍はだんだん強くなっていく。
 日本軍のつかった38式歩兵銃は、銃身が長いから非常に命中率は高いけれど、その分重たい。アメリカの自動小銃は銃身が短くて、命中率が低いかわりに、数うって当てるというものだった。
 戦場慰安婦というのは、兵隊と同じ。兵隊の仲間なのだ。本当に大事な存在だった。当時は公娼制度があった。本人たちも、一応納得してというのが建前だった。むろん不本意だったろうし、悪質業者に騙されてということもあったろうが・・・。
 ともかく、軍の管理する慰安所だった。兵隊たちにとって、慰安婦は大切な仲間。苦労をともにした戦友だった。それが単に汚らわしい関係だったように言われるのは、戦場体験者としては、ちょっとやりきれない。
 兵隊は黙って働き、その多くは黙って死んでいった。慰安婦たちは悲劇的な不条理のなかで生きていたし、兵隊たちも、もっと不条理の中で生き死んでいかなければならなかった。だから、お互い心が通いあうこともあったし、彼女たちとの思い出を胸に抱いて死んでいった兵隊もいる。
 このあたりは、なんとなく、その心情が分かる気がします。不条理の中に置かれ、明日の希望がもてない極限の状況に置かれていたのでしょうから・・・。
 ところが、この本には、南京事件を否定するという重大な欠陥があります。著者は南京事件に関する本をまったく読んでいないようです。この点は聞き手側の責任でもあると思います。著者は、戦闘のあとは、死者の世話、負傷者の介護、戦掃除の責任もあり、一般住民を何万人も虐殺するゆとりなど、日本軍にあるはずはなかったのです、と語っています。
 ひどいものですね。これで「若き世代に語る日中戦争」というタイトルで堂々と本が出るのですから・・・。先に、『南京事件論争史』(平凡社新書)でも紹介しましたが、南京事件は当時、南京にいたナチス党員のドイツ人からも「あらゆる戦時国際法の慣例と人間的な礼節をかくも嘲り笑う日本軍のやり方」として厳しく批判されていました。昭和天皇の弟である三笠宮も「日本軍の残虐行為」があったことを自叙伝(『古代オリエント史と私』)のなかで反省をこめて指摘しています。
 南京事件は、日本軍の南京入城式のあとの兵士たちの休養期間に多発した大虐殺、大強姦事件なのです。その点をたしかめることもなく「虐殺するゆとりなどあるはずもない」という言葉で簡単に片づけることは、日本人として許されないことだと私は思います。
 この本が右翼を標榜する『諸君』に連載したものだとしても、「若き世代に」に間違ったことを教えてほしくない、そう思って、あえて紹介しました。
(2007年11月刊。710円+税)

軍神

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:山室建徳、出版社:中公新書
 日本で軍神と呼ばれる英雄が誕生したのは、日露戦役のあと。日清戦役のときには存在しなかった。
 著者は、ここで戦役という耳慣れない言葉をつかっていますが、それは戦争という言葉は、明治期には俗な表現にすぎなかったからです。そのころは、戦役と呼ぶのが一般的だったのです。へーん、そうだったのですか・・・。
 日露戦役のとき、乃木希典の率いる第三軍が遂行した旅順攻略は、それほど困難な作戦ではないと一般に思われていた。旅順はロシア本国からの補給の道を絶たれているし、その10年前の日清戦役のときには、簡単に攻め落とせたから。
 旅順港の攻防戦で戦死した広瀬少佐(死後、中佐に進級)、中国大陸の遥陽会戦で戦死した橘少佐(同じく、死後に中佐に進級)。海軍の軍神に対抗して、陸軍の軍神が誕生した。しかし、広瀬が戦死した明治37年3月から橘の戦死した8月までのあいだに戦死の意味が大きく変わっていた。広瀬のときには戦死者はそれほど多くはなかったが、5ヶ月後には一度の会戦で5000人をこえる戦死者が出るほどになっていた。
 この2人が日本国民に広く知れわたったのは、国定教科書にのったからである。
 このような広瀬中佐の銅像が明治43年、東京の万世橋に立ち、東京名物の一つとなった。ところが、16年たった昭和2年ころには、この銅像はかえりみられずに悲惨な環境に置かれていた。邪魔者扱いにされたのだ。しかし、さらに満州事変が始まると、一転して英雄をしのぶ場に昇格した。
 このような広瀬中佐の銅像の扱いの落差のひどさは、日本人の熱しやすく、また冷めやすい気質をよく反映しています。
 大正1年(1912年)、明治天皇が死んだとき、乃木希典夫婦が自宅で自死した。このことは世間にすぐさま知れ渡った。これを知った同時代の人間にとっては、とても信じがたい意想外のできごとだった。殉死など遠い昔に廃れたできごとであり、よもや高位高官の中から古式にのっとり切腹する者が出るなど、誰にも想像できない事態だった。
 乃木の自決は、最初から賛美一色で塗りつぶされたのではない。自殺という行為に対する反撥は、それなりの広がりを見せていた。常人離れした乃木の行動に反感をもつ人々も、間違いなくいた。新聞記者たちのホンネでも、乃木に対する崇敬の念などなかった。
 しかし、乃木の自決否認論は世間の支持を受けることができなかった。一般の読者の反撥が強かったので、乃木の死を突き放してとらえる論調は紙面を飾らなかった。
 乃木は自ら死を選ぶことで、キリストや西郷隆盛、楠木正成に匹敵する存在とみなされた。日露戦役において、東郷平八郎は輝かしい心ときめく快勝を象徴する存在だったのに対し、乃木は著しく悲しみにみちた死闘を思い起こさせる存在だった。
 しかし、日清日露の戦役は、日本の強さを世界に示し、日本人の誇りとなった。インテリの一部を中心に反撥する向きがあったとしても、期せずして乃木の死に共感する声が日本全体を包み込んだ。日本社会から湧き上がってきたのは乃木夫妻に対する深い同情と尊敬の念だった。それで、乃木夫妻の葬式には、20万人が参集した。
 日本における軍神の誕生のメカニズムと、それに対する世界各国の反応の違いが総合的に語られていて、大変勉強になりました。
(2007年7月刊。940円+税)

不屈

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:瀬長亀次郎、出版社:琉球新報社
 こんな凄い政治家がいたのか。米軍統治下の沖縄で、常に大衆の先頭に立ち、平和と民主主義を求め続けたカメジローの闘い。これはオビに書かれた言葉です。本の表紙は、刑務所から出てくるカメジローの写真です。にこやかな笑顔で、右手を高く上げています。いかにも芯の強い人柄がにじみ出ています。この本は、カメジローの獄中日記からなります。
 日本にこんなすごい政治家がいたことを知って、誇らしく、また、うれしく思いました。序文に、琉球新報社の編集局長の次のような文章があります。なるほど、そうだよなと思いましたので、紹介します。
 日本の民主主義が未熟なのは、与えられた民主主義だからだ。こんな指摘がある。でも、沖縄については明確に否定できる。戦後27年間のアメリカ軍統治時代、沖縄では自由も人権も制限されていて、日本国憲法なるものは、はるか彼方の存在だった。そんな状況において、沖縄県民は為政者とたたかいながら、一つ一つ権利を手にしてきた。そのたたかいの先頭に立ったのが瀬長亀次郎だ。カメジローは、権力を恐れず、自らを犠牲にして立ち向かった。そうなんですね。沖縄のたたかいに日本人はもっと学ぶべきですよね。
 1952年4月、琉球政府発足式典で、立法院議員の瀬長は起立せず、USCARに対する宣誓を拒否した。
 沖縄人民党は、綱領の中に共産主義も社会主義もうたっていなかった。しかし、アメリカ軍は人民党を共産主義者の集まりとみた。
 1954年の人民党事件で、カメジローは、奄美出身の活動家をかくまったとして逮捕された。そして、その活動家が釈放されたのに、カメジローは収監されたままだった。
 そして、カメジローが刑務所にいるとき、刑務所で囚人による暴動が発生した。カメジローは、暴動を沈静化させた。受刑者大会では実力行使しないことが確認された。玉砕戦術は身をほろぼし、受刑者を不利にし、全県民の利益にもならないと述べてカメジローは受刑者たちを静かに説得した。
 当時、沖縄刑務所に収容されていたのは850人。女性や少年を加えると、950人で、これは定員(230人)の4倍以上。待遇改善を求めて暴動を起こして刑務所を占拠したのだ。このとき、50人が集団脱走した。結局、囚人側の要求の7割が受け入れられた。
 カメジローは、刑務所の独房で本ばかり読んでいた。法廷でカメジローは、次のように述べた。
 被告人瀬長の口を封ずることはできるかもしれないが、しいたげられた幾万大衆の口を封ずることはできない。瀬長の耳を聾することはできるだろう。しかし、抑圧された大衆の耳を封ずることは不可能である。瀬長の目をつぶすことは可能であろうが、不正と不義の社会の重圧をはねかえそうとして待機している大衆の眼をつき破ることはできない。瀬長を牢屋に叩きこむことは可能であろう。しかし、70万県民を牢屋に収容することは不可能である。
 いやあ、見事な弁論ですね。胸のすく思いです。
 刑務所における生活を単調にするか、内容ある生活をつくり上げていくかは、思想の力である。刑務所でのカメジローの仕事は闘病と独習だった。おかれた環境を十分に生かして人間革命の完成につとめた。獄中日記に出てくる本は80冊にのぼる。
 清潔にして、非衛生的環境を除く努力を集中する。房内において、身体と精神、生命力を維持し、きたえ上げ、みがき、将来のための準備工作をすすめる。カメジローは、自宅でも身のまわりをいつも清潔にし、きちんと整頓しておかなければ気がすまなかった。
 家族からの差し入れられる敷き布団の中に妻の手紙が隠されていた。ええーっ、信じられません。あまり検査しなかったのですね。もちろん、手紙はすべて検閲されていました。家族からの手紙もカメジロー本人には渡されず、沖縄県公文書館に保存されていて、発見された物がある。うむむ、なんということでしょうか。
 カメジローは、獄中で、体重が41キロにまで落ちてしまった。危ないところだったようです。1956年4月、カメジローは、刑務所から釈放された。満期出獄だった。1000人あまりの県民が出迎えたが、一緒に歩くとデモ行進禁止のアメリカ布令に反するので、人々は動かず、そのかわりにカメジローがひとり挨拶しながら閲兵するようにして歩いた。すごいですね。写真もあります。泣けてきます。
 出獄歓迎大会には、1万人をこえる沖縄県民が参加したといいます。
 200冊をこえる日記が残っているそうです。戦後日本の政治で忘れてはいけない出来事です。先日のアメリカ兵による少女強姦事件が、マスコミによる被害者バッシングにより告訴取り下げ、不起訴で終わったことに怒りを覚えます。もういいかげん、日本人も眼を覚ますときではないでしょうか。いつまでたってもアメリカの言いなりでは困ります。
 庭の桜の花が満開です。といってもソメイヨシノではありません。サクランボの桜です。花もピンクではなく、真っ白で、地味です。一気に全開となりました。5月の連休明けころに紅いルビーのようなサクランボをたくさんつけてくれることでしょう。チューリップも、もうすぐ咲きそうです。ヒヤシンス、クロッカスそしてアネモネが咲いています。
(2007年11月刊。1667円+税)

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