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カテゴリー: 日本史(戦後)

日清戦争

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:原田 敬一、 発行:吉川弘文館
 いちやくしんを破り。これは、日清戦争が始まった1894年を語呂合わせで覚えるための暗記文句です。今でもすぐに出てきます。ところが、この本を読むと、1894年の何月何日に日清戦争が始まったのか、今に至るまで確定していないそうです。
 しかも、日本軍は敵の清国兵を追う中で罪なき中国の多くの市民を各地で虐殺したというのです。その申し訳なさを恥じ入って、しばし頭を下げざるを得ません。
 7月23日、日本軍は漢城電信局の電話を切断して王宮に攻め込んだ。実行したのは、大陸浪人(国粋主義者)たちである。この日、工兵隊は爆薬を用意し、歩兵隊は斧や鋸(のこ)、長竿などを持参して、朝鮮王宮に入る段取りを完了していた。きわめて計画的な行動であり、偶発的な要素はまったくなかった。
 この日、1894年7月23日に日清戦争は始まり、1896年4月1日に終わる。1年8ヶ月あまりの、近代日本にとって最初の対外戦争であった。このとき明治天皇は42歳という壮年期であり、侍従武官たちが教育した結果、十分な軍事的な知識を持っていた。
 ところが、政府部内では、いつから日清戦争が始まったことにするのか、実は完全な一致はなかった。そして、朝鮮の豊島沖海戦で、日本海軍が清国艦隊と砲撃戦を行った7月25日を「実際戦の成立したる日」として開戦の日と定められた。すると、7月23日の戦闘での戦死者は、法的な「戦死者」ではなくなる。
 日本軍は、旅順市街地で残敵掃討作戦として、非武装の中国人を虐殺した。これが1894年11月28日のイギリス紙『タイムズ』に旅順虐殺事件として報道された。「日本国は文明の皮膚を被り、野蛮の筋骨を有する怪獣」と記された。
 伊藤博文首相も陸奥宗光外相も、旅順攻略戦に成功した第二軍の処罰を提案できず、強力に弁明につとめ、事件の糊塗に走った。このとき、日本軍の山地師団長は、「今よりは土民といえども、我が軍に妨害する者は残らず殺すべし」と命令していた。
 日本の新聞の従軍記者も旅順市街地が死体で満ちていたことを報じている。
 都市攻略戦において、敗残兵が市街地に逃げ込み、市民と区別できなくなる可能性がある。そんなとき、攻略側はどうすればいいのか。この問いを誰も発しないまま時は過ぎ、日本軍は1937年12月の南京戦を迎えた。歴史を学ばなければ、2度目の悲劇が繰り返される、という事例である。
本当にそうですよね。この旅順大虐殺は日本人には案外知られておらず、日露戦争で日本軍がロシア兵捕虜を人道的に処遇したことのみが大きく報道され、日本人の記憶になっています。しかし、それは日本軍を公平に見たことにはなりません。日本人2万人、清国人3万人、朝鮮人3万人以上というのが日清戦争における犠牲者とされています。旅順虐殺事件では、推定で4500人以上が犠牲となっています。
 そして、日本は日清戦争において軍事的勝利は勝ち取ったが、三国干渉と清国分割に見られるようにヨーロッパのアジア侵略をもたらしたという意味で、外交的には失敗した。伊藤博文と陸奥宗光の失敗は明らかである。
 さらに、翌1895年10月、日本が台湾征服のための戦争を続けていたころ、日本公使三浦梧楼が兵士・警官・壮士を使って朝鮮王宮を襲い、王妃の閔妃を惨殺し、宮廷内の親露派を一掃した。この事件によって、日本軍の影響力は逆になくなってしまったのである。
 いやあ、日清戦争って、日本の対外侵略戦争の本質をまざまざと表しているものだということを改めて認識させられました。この「悪しき伝統」を断ち切ることが現代日本に生きる私たちに課せられていると思います。
 あとで気がついたのですが、『旅順虐殺事件』(井上晴樹、筑摩書房)という本が出ていました。1995年12月刊で、1996年2月に私も読んでいます。この本には日本軍が虐殺した証拠となる写真が多数紹介されています。なかには、殺した死体に銃剣を突き刺して得意そうな日本人兵士が写っている、おぞましい写真もあります。
(2008年8月刊。2500円+税)

父の戦地

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:北原 亞以子、 発行:新潮社
 召集され、遠くビルマへ派遣された父親が、故郷日本へ送った葉書70数枚が再現されています。愛する我が娘(こ)が小学校に入学する姿を見れず、祝福の声をかけられなかったって、どんなに残念なことだったでしょう。その娘によって、葉書に書かれた状況が生き生きと再現されています。亡き父親は残念な思いと同時に、今では、この本を知って天国で満足しているのかもしれません。それにしても、人間の作り出した戦争って、罪な存在だとつくづく思いました。好戦派の石破大臣も、自分や家族が戦地に出されたら身にしみて分かると思うのですが、今はひたすら口で勇ましいことを言うばかりで、厭になってしまいます。戦争は、中山前大臣みたいな「口先男」と利権集団のために起こされるものだとしか思えません。
 直木賞作家の著者の父は、著者が3歳のときに応召してビルマへ派遣された。東京・新橋で家具職人として働いていた。ビルマに送られてからは、絵入り葉書を故郷の娘へ大量に送ってきた。
 カタカナ文字に絵が描かれているのですが、素人絵ながら、本当に味わいがあります。決して上手な絵ではないのですが、それが妙に面白いのです。
 母が父の戦死の公報を受け取ってきた日のことは鮮明に覚えている。よく晴れた日、外で遊んでいた小学3年生の著者は、母に呼ばれて、日当たりの良い座敷に座った。終戦の翌年(1946年)のこと。
 「ちょっと話があるんだよ」
 「なあに」
 「お父ちゃんは死んだよ」
 「お父ちゃんが死んだなんて嘘みたい」
 母は泣いていなかった。母の膝にふつぶせて泣いた。自分の悲しさをどうすればよいのか分からず、ただ泣きじゃくっていた。
 昭和20年4月、ビルマから退却していた途中、輸送船に乗っているところを空襲されて死んだらしいということが分かった。
 父があの世へ旅立ったのは、父が病に侵されたからではない。まして、死にたいという意思があったからではなかった。もっと生きていたかったはずである。この世に未練も執着もあった。
 母に宛てた葉書に、「若く見られて恥ずかしいって、結構だ。うんと若くつくれ、今まであまりにくすぶりすぎていたから、これからはうんと若くつくれ。ズキン、ワイシャツ、どんな格好だろうな。どんなでもいいから、きれいにしていてくれ」と父は書いている。
 最後に、その父親の写真が一枚だけ紹介されています。俳優にしていいような素敵な笑顔です。つい、私は、亡くなった佐田啓二を連想してしまいました。
 幼い娘を泣かせてしまった戦争を私は憎みます。 
(2008年5月刊。740円+税)

平頂山事件とは何だったのか

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:平頂山事件訴訟弁護団、 発行:高文研
 わずか180頁の薄い本ですし、1400円ですので、多くの人に買ってぜひ読んでほしいと思いました。日本人として知っておくべき事実がこの本には書かれています。私もなんとなく知ったつもりになっていましたが、平頂山事件についての正確な事実経過とことの本質を知っていませんでした。
 1932年(昭和7年)9月16日、当時、満州(今の中国東北部)の撫順に駐屯していた日本軍が、平頂山地区の住民3000人を崖下の平地に追い立て、一斉機銃掃射を浴びせかけ、その遺体はガソリンがかけられて燃やされたうえ、ダイナマイトで崖を爆破して土砂によって完全に隠蔽した。
 1932年というと、日本で5.15事件が起きた年です。軍部の横暴・独走がますますひどくなっていたころ、中国で日本軍はとんでもない大虐殺事件を起こしていたのです。被害者は何の罪もない労働者とその家族です。国民党軍でも八路軍でもありません。
 平頂山事件の起きた1930年代の撫順には、日本人が1万8000人も住んでいた。ちなみに、朝鮮人は4000人、中国人は44万5000人。日本人のうち1万人は、日本の国策会社である満鉄の社員とその家族である。
 撫順炭鉱は満鉄が管理していた。石炭埋蔵量は9億5000万トンといわれ、世界有数の規模を誇っていた。撫順炭鉱は、関東軍によって厳重警備されていたが、抗日義勇軍(大刀会)が撫順炭鉱を襲撃した。そこで、日本軍の守備隊は、平頂山の村民が抗日義勇軍に加担したとみて、今後の見せしめのためにも、徹底的に殺しつくし、焼き尽くすという方針に出た。村民をだますために、記念写真を撮るとか、適当な嘘を言い募って住民を集合させ、重軽機関銃で一斉掃射した。
 ところが、当時の日本政府の見解は、不正規軍や共産党員の男たち2000人からなる部隊捜索のために村に入ったところ、日本軍が攻撃されたために戦闘となり、戦闘中にその場所の大半が焼けて壊滅したが、住民虐殺はなかったというもの。
 そして、この日本政府の見解は、今もなお、正式に改められてはいない。そして、日本では今も平頂山事件そのものがまったく知られていない。まったく、そのとおりです。
 この平頂山事件でも生き残りの人々がいました。(幸存者と呼ばれています)。幸存者の人々が日本政府を被告として訴えを起こしたのです。
 ところが、日本政府は「国家無答責」という論理を使って、責任を認めようとしません。これは、国の権力的行為によって生じた損害については、国は賠償責任を負わないという考え方です。なぜ権力的行為なら賠償責任を負わないでいいというのか、私には理解できません。
 「国家無答責」というのは、明治憲法下において、判例の積み重ねによって徐々に形成されていった法理論のようです。しかし、日本国憲法下の裁判所が戦前の法理論に拘束されるというのは、おかしな話です。なのに、現代日本の裁判所はそれを認めた判決を次々に下しています。
 学者は次のように解説します。国家無答責(無責任)の法理が認められるのは、たとえば強制執行処分、徴税処分、印鑑証明の発布、特許の付与といった国の権力的公務が法律によって許されている場合に限られるし、そもそも外国人には適用されない。平頂山事件は1932年の事件であって、いわゆる日中戦争のさなかの事件(行為)ではなく、平和に暮らしていた中国の一般市民を突然に、日本軍が残虐の限りを尽くして虐殺した事件であるので、国家無答責の法理は適用されるべきではない。
 なるほど、そう、そうですよね。ところが、残念なことに、日本の裁判所は一審も二審もそして最高裁も、幸存者の請求を認めませんでした。残念ですし、中国人の被害者・遺族の方々に申し訳ないと思います。
 被害者の要求は3つです。第一に、日本政府が平頂山事件の事実と責任を認め、幸存者と遺族に対して公式に謝罪すること。第二に、謝罪の証として、日本政府の費用で謝罪の碑を建て、被害者の供養のための陵苑を設置し警備すること。第三に、平頂山事件の悲劇を再び繰り返さないため、政府は事実を究明しその教訓を後世に伝えること。
 いやあ、どれもごくごく当然の要求ですよね。一刻も早く日本政府がこれらの要求を受け入れることを私も強く望みます。
 ところで、この3つの要求には金銭賠償が含まれていません。いろいろの議論があったようですが、その点も当然考えられるべきものと私は思います。
 それにしても、この困難な裁判を日本で起こし、遂行していった日本の弁護士の皆さんの労苦にも感謝したいと私は思います。
 ちなみに、私も「すおぺい」ニュースを読んでいます。 
(2008年8月刊。1400円+税)

戦争の法のもとに

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:宮道 佳男、 発行:クリタ舎
 1945年8月6日、広島に原子爆弾が落とされた。その直前の7月28日、呉軍港にアメリカ軍が空襲をかけた。このとき、沖縄から発信したB-29が2機、そして艦載機も2機が撃墜され、アメリカ兵12人が捕虜となった。B-29の機長は、尋問のため東京へ護送され、残る捕虜11人が広島に残った。8月3日にはB-24の5機編隊が広島市街地を爆撃し、1機が高射砲で打ち落とされ、9人が捕虜となった。1人は住民に殺され、将校2人は東京へ護送されて、残る6人が広島に残された。
 そこで、アメリカ兵17人(23人説や11人説もある)が、広島師団内の拘置所に収容されていた。8月15日の終戦時にアメリカ兵が広島に何人生存していたのか、明確ではない。8月19日にアメリカ兵2人が死亡したことは確実だが…。結局、広島にいたアメリカ兵の全員がアメリカの原爆によって死亡した。
軍律裁判は軍法会議とは異なるもの。軍法会議は主として自国兵士の規律違反と罰するもの。敵前逃亡兵は銃殺が決まりである。軍律裁判は、戦闘地域とか占領地域で敵国民や被占領国民に対して占領国的違反を罰するものである。軍律裁判は、戦闘地域であるため、即決非公開、弁護人はなく、上訴もない。懲役もなくて、すべて銃殺ばかりという特殊性があった。それでも、少なくとも戦場における即決リンチ処刑よりはましなものだった。戦後、連合国が行ったA級戦犯そしてBC級の戦犯裁判は、この軍律裁判と同じものだ。
 この本は、原子爆弾で壊滅させられた広島にいたアメリカ兵たちに対して、軍律裁判で死刑に処せられようとするに至るまでを克明に描いています。
無差別爆撃は人道無視の暴虐非道の犯罪だ。だから死刑になるのも当然だ。このような暗黙の前提で裁判はあっという間に終わってしまいます。そして、やがて処刑されてしまいます。
 はたして、死刑に処する必要があったのか、あったとして、では軍の最上層部には責任がなかったのか、という疑問にぶち当たります。
 著者は、私の司法研究所での同期の名古屋の弁護士です。先日、箱根で開かれた35周年記念行事のとき、本人からサイン入りでもらいました。手術を受けて入院中に執筆し始めたということでした。実は、東京に出張したとき日弁連会館の地下の本屋にこの本を見かけたので、次のときに買おうと思ったところ、その次にはありませんでした。やはり本は買おうと思ったらすぐに買わなくてはいけません。
 それにしても、よく調べてあるなと感心しながら読みました。 
(2008年5月刊。1400円+税)

天皇制の侵略責任と戦後責任

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:千本 秀樹、 発行:青木書店
 明治天皇は日本軍の朝鮮半島出兵には積極的だった(1894年)が、清国が乗り出してくると聞いて急に不安になった。そして、日清戦争の始まりは不本意であり、ストライキもやった。ところが、勝った勝ったとの報告が相次ぐと、最後の決戦を行って清国軍主力をたたくため、自ら中国大陸へ乗り込もうとする。大本営を旅順半島、さらには洋河口へ進めようとまでした。これは、さすがに政府・軍首脳部が反対して思いとどまらせた。
 うひゃあ、こ、これは知りませんでした。なんと、大本営を天皇自身が中国大陸へ持っていこうとしたなんて…。そりゃ、身の程知らず、無謀でしょ。
 日露開戦のとき、明治天皇はロシアを恐れていた。ふむふむ、なるほど、ですね。
2.26事件(1936年)のとき、昭和天皇は侍従武官長、軍事参議官会議、東京警備司令官という統帥の要に当たる組織や人物、さらに川島陸相らが反乱軍側に肩入れするなか、孤立しながらも強い意思を持って統帥大権をもつ者として鎮圧の命令を発し続けた。それこそが将軍たちの思惑を排し、2.26事件を4日間で解決する力となった。
張作霖爆殺事件は、関東軍の謀略事件であるが、この陰謀を昭和天皇は承認した。むしろ真相の徹底究明・軍紀粛清を目指した田中義一首相を罷免したことから、侵略的体質の強い関東軍を大いに力づけることになった。昭和天皇は政治に強い関心をもっており、田中義一首相に対して「辞表を出したらよい」とまで言った可能性がある。
 うひょお、そういうこともあり、なんですか…。
 1941年9月に開かれた御前会議で、日本開戦が正式に決まった。このときの昭和天皇の関心は、あくまでも戦争に勝てるかどうかであって、政治的に、あるいは思想的に平和外交を主張するものではなかった。いわば、「勝てるなら戦争、負けそうなら外交」というものであった。つまり、昭和天皇が日米開戦に消極的であったというわけではない。そうなんです。昭和天皇が開戦に消極的で平和主義者だったというのではないのです。
 終戦のときの「聖断」神話は間違いである。昭和天皇は、支配層の中では陸軍に次いでもっとも遅くまで本土決戦論にしがみついていた一人だった。ただし、それを放棄してからは、積極的に終戦の指導にあたった。そして、その結果、さらに多くの沖縄県民が犠牲になったわけです。
 1945年3月に始まった沖縄の地上戦について、昭和天皇に「もう一度、戦果を」という頭があったため、激戦が長引いてしまった。ポツダム宣言が日本に届いてからも、昭和天皇は、大本営の長野県松代への移転と本土決戦を覚悟していた。
 終戦後、昭和天皇はマッカーサーと会見したとき、次のように語った。
 日本人の教養はまだ低く、かつ宗教心の足らない現在、アメリカに行われるストライキを見て、それを行えば民主主義国家になれるかと思うようなものも少なくない…。
 昭和天皇から宗教心が足りないと言われたくはありませんよね。だって戦前の日本では、それこそ日本人は靖国神社にこぞってお参りしていた(させられていた)のではありませんか。
 この本は著者のゼミで学んだ学生(永江さん)が私の事務所で働いていますので、勧められて読みました。私の知らなかったことも多く、大変勉強になりました。ありがとうございます。
(2004年9月刊。2200円+税)

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