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カテゴリー: 日本史(戦後)

山宣譚

カテゴリー:日本史(戦後)

著者 小田切 明徳、 出版 つむぎ出版
 やません・ものがたり、と読みます。戦前、労農党の代議士として活躍中、右翼に暗殺されてしまいました。惜しい人物です
 この本は、山本宣治が代議士になる前の青春編ですが、会話も多くて読みやすく、期待以上の出来栄えです。なるほど、山宣も若い頃は苦労したんだなと実感することもできます。
 山宣の両親は親から反対されて駆け落ちのようにして結婚しました。それこそ、夫婦そろって当時は珍しいキリスト教の信者でした。後年、山宣も両親の反対を押し切って結婚します。親に反対する資格なんてありませんよね…。
 山宣は体が弱くて、せっかく入った中学(今の高校でしょうか)を中退してしまいます。そして、東京で園芸見習いに入ります。ところが、ひどい親方で、まるっきり冷遇されてしまいます。
 いったん親元に戻ると、今度はカナダへ旅立ちます。園芸の勉強です。ところが、そこでも大変な苦難が待ち受けています。住み込みで家事手伝いをしたり、造園業に従事したり、果ては鮭をとりに漁船に乗り込んだり、苦労の連続です。やがて英語をきちんと身につけるべく学校に入ります。なんとか英語を身につけると、ラテン語なども会得し、一転して成績優秀な生徒になるのです。
 山宣は、カナダでもずっとキリスト教の信者として活動していました。しかし、教会でもいろいろ軋轢を起こします。真面目というか、生一本というか、思ったことを即、実行に移す人だったようです。
 山宣は苦労し、何回となく挫折を体験したため、しぶとくなりました。
 ハイスクールでは、英文学92点、ラテン語91点、代数99点、トータル856点でトップの成績となりました。いやあ、すごいものです。
 両親が山宣を日本に呼び戻そうとして、「チチキトク」のニセ電報を打ちます。親思いの山宣は、ついに5年ぶりに日本に帰国します。
 山宣は同志社に入り、三高に入り、東大の動物学科に入学します。生物学教室の改革に努め、新人会とも接触します。
 山宣ひとり、独壘(どくるい)を守る。だが淋しくない。背後には大衆が支持しているから。
 これは、私の好きな言葉でもあります。
 よく調べてあると思った、山宣の伝記でした。
(2009年5月刊。1524円+税)

罪祭

カテゴリー:日本史(戦後)

著者 山下 郁夫、 出版 創思社出版
 戦争中、大牟田にフィリピンでバターン死の行進をさせられたアメリカ兵捕虜を収容していた俘虜収容所があり、そこで捕虜を虐待したことを理由として極東軍事裁判で4人もの死刑判決が出て、巣鴨プリズンで実際に絞首刑が執行されていたことを伝える本です。
 私がある小集会でうろ覚えの話をしたところ、その場で私の話を聞いていた依頼者の一人からこの本を提供していただきました。実は、この俘虜収容所は、私が小学1年生のころまで住んでいた自宅の近くにあったのです。もちろん、今では跡形もありません。そもそも捕虜を駆使していた三池炭鉱自体もないのです。
 昭和18年8月から昭和20年9月まで、大牟田市新港町に福岡俘虜収容所第17分所があった。その初代所長が五島出身の由利敬少尉だった。ここに、バターン死の行進の生き残り捕虜505人を三池炭鉱で働かせるために連れてきた。この収容所は、最盛時には2000人もの捕虜がいて、敷地面積は1万1000坪あった。
 2代目の福原所長も絞首刑となった。その訴因は、捕虜に対する殴打だった。
 由利所長の死刑判決の理由は、逃亡常習癖のある捕虜を裁判にかけることもなく、部下に命じて背中から刺殺させたこと、盗癖のおさまらない捕虜を独房で死亡(餓死)させたことである。
アメリカ軍GHQは、横浜において軍事法廷を昭和20年12月から開始した。その第1号死刑判決が由利所長であった。また、衛兵だった軍属2人(33歳と40歳)も死刑になり、そのほか、福岡の俘虜収容所長(菅沢大佐)も死刑となった。
 由利所長の裁判は、翌21年1月7日に判決言い渡しで終わった。3対2で有罪、絞首刑が宣告された。そして4ヶ月後の4月26日に処刑された。戦犯として絞首刑となった第1号が由利初代所長で、第2号は福原2代目所長であった。
 戦前の日本に起きた捕虜虐待、そして戦犯としての日本人処刑という悲しい話を忘れるわけにはいきません。
(1983年7月刊。1800円+税)

多喜二の時代から見えてくるもの

カテゴリー:日本史(戦後)

著者 荻野 富士夫、 出版 新日本出版社
 小林多喜二が『蟹工船』の執筆を始めたのは1928年10月のこと。翌年3月に原稿が完成した。この1928年3月15日に例の「3.15事件」が起きている。戦前の共産党一斉検挙事件である。多喜二は、この事件で逮捕された人々に対する取り調べのすさまじく凄惨な実態を知るにつれ、「煮えくり返る憎悪」をもって弾圧の実態暴露を優先させた。
 これら2つの小説の文学観は、「憎悪」から出発するという点で通底していた。なるほど、生半可な友愛というのではなかったのですね。
 多喜二の『蟹工船』を読んだ検事の報告書が紹介されています(1929年の『司法研究』遊田多聞検事)。
 この『蟹工船』は、もとよりそのすべてが事実だというわけではあるまいが、ただ、その持つ思想がいかに多くの人々の胸を打ちつつあるかと、また、いかに漁雑夫などが資本主義下において恵まれぬ地位に置かれつつあるかということをよく紹介し、資本主義の欠陥を暴露し、労働者の自覚と反省とを促しつつあるか、これを見逃すことができないのである。ふむふむ、見る人は見ていたわけですね。
 小林多喜二が警察官によって虐殺された理由の一つは、3.15の大弾圧の非道性を暴露したからだった。警視庁特高課の中川成夫警部は次のように高言した。
 小林多喜二のやろう、もぐっていやがるくせに、あっちこっちの大雑誌に小説なんか書きやがって、いかにも警視庁をなめてるじゃないか。いいか、われわれは天皇陛下の警察官だ。共産党は天皇制を否定する。つまりは、天皇陛下を否定する。おそれ多くも天皇陛下を否定するやつは、逆賊だ。そんな逆賊は、捕まえ次第ぶち殺してかまわないことになっているんだ。小林多喜二に、捕まったが最後、いのちはないものと覚悟していろと伝えておいてくれ。
 実際、この言葉の2週間後に多喜二は警察が共産党に潜入させていたスパイの手引きでつかまり、予告どおり中川警部らによる陰惨な拷問によって、その日のうちに殺されてしまいました。
 「やあ。おまえが小林多喜二か。おまえは、『3.15』という小説を書いて、おれたちの仲間のことを、あることないこと、さんざん書きたてやがって、よくもあんなに警察を侮辱しやがったな。こうしてつかまえたからには、お前が『3.15』で書きやがったとおりのことをしてやるから、そのつもりでおれ」と脅した。いやはや、なんとも非道い話です。こんな拷問死を実行した警察官も、それを命じた上部の警察幹部も、栄進したあげく戦後までのうのうと生き延びたわけです。ナチスの犯罪が戦後何十年も追及されたドイツとの違いを感じます。
 今の日本で、このようなひどい拷問が再現されないことを願うばかりです。それにしても、最近、人権無視の風潮が高まっている気がしてなりません。その典型が、なんでも死刑にしろといわんばかりのマスコミのキャンペーンです。ヨーロッパのEU諸国は、みな死刑制度を廃止しています。そして、EU加盟の条件に死刑廃止があります。日本がEUに入る必要はないと思いますが、入りたくても入れてもらえないという事実を日本人はどれだけ知っているのでしょうか。
 
(2009年2月刊。2500円+税)

不屈、瀬長亀次郎日記

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著者 瀬長亀次郎、 出版 琉球新報社
 読んでいるうちに、思わず背筋を伸ばし、襟を正して、真面目に生きていこう、元気に生き抜くんだ、そんな力の湧いてくる不思議な本です。
 カメジローの日記です。私も、若いころに一度くらい本人の演説を聞いたような気はするのですが、たしかではありません。雄弁というより、とつとつとした語りだったという印象をもっていたのですが、この本を読むと訂正しなくてはいけないようです。
 カメジローは、49歳のとき、当時、沖縄にあった地域政党である人民党(のちに共産党と合流しました)公認として那覇市長選に立候補し、保守が分裂していたこともあって、見事に当選しました。しかし、野党が圧倒的多数を占める那覇市議会は、アメリカ軍政府の強力な指示をうけて、「共産主義者」カメジロー追い落としを図ります。しかし、カメジローは粘りに粘り、ついに市議会のほうを解散し、市議会選挙で多数はとれなかったものの、大きく前進しました。
 アメリカ軍政府はやきもきしたあげく、ついに民主的に選挙で選ばれたカメジロー市長を一片の指令で追放してしまいます。このあたりの経緯が、当の本人のカメジローの日記、そして、情報公開制度で明らかになったアメリカ政府の動きをふまえて詳しく解説されています。ですから、当時の行き詰る状況が手に取るようによく分かります。沖縄そして日本を知るために、本当にいい本が出版されたと思いました。
 カメジローの演説。
 異民族の奴隷への道、西へ進むのか、祖国への道、東へ進むのか、の分かれ道に立っている。市民よ。死への道ではなく、日本国民の独立と平和と民主主義の繁栄を保証される道を進もうではないか。
 つい最近、赤嶺代議士(共産党)が国会で、アメリカ兵が飲酒運転して事故を起こしても、公務遂行中だとして日本に裁判権がないのはおかしいと追及していました。このことを河野代議士(自民党)が、そのとおりだとブログで紹介しているそうです。
 カメジローは、1万6591票を得て、対立候補に1964票差で那覇市長に当選したのです。すごいことですよね、これって。ワシントンのアメリカ国防当局は驚き、重大な関心を示し、ただちにカメジロー落としを指令したのでした。
 沖縄の銀行は、市にお金を出さない。アメリカ軍は市に水道を供給しない。まさしく、「火攻め」「水攻め」です。
 カメジローの演説。
 私は神を信じない。人民の力を信じている。神様は天には居ない。人民の中に、人間の心の中にいる神は、いかなる権力でも粉砕することはできない。
 市会議員選挙の演説会は深夜に及んだ。午後8時に始まり、終了したのはなんと午前1時過ぎ。うへーっ、そ、そんな演説会があったなんて、まるで、まったく信じられません。トホホの熱気ですね。沖縄県民の底力は、恐るべきものです。
 アメリカの報告書には、瀬長派の選挙活動は57回の政治集会に4万5000人も動員した。反瀬長派は、24回の集会でわずか1万人にとどまった。いやはや、なんともすごいものです。
 演説会会場は民主主義実践の場であった。瀬長派は人々の共感を集め、幅広い支持を取り付けることに成功した。
アメリカは、小さなハエをやっつけようとしては失敗する大男のようだ。大男が腕を振り回して失敗すればするほど、こっけいに見える。これはアメリカの新聞に載ったレポートです。
 カメジロー市長の在任期間は11ヶ月でしかありませんでした。しかし、大変なインパクトがありました。カメジロー市長の後任の市長を決める市長選挙でも、結局、カメジローの応援した候補が当選したのです。このときの立会演説会には、10万人が集まったのですから、まさに圧巻です。この本に掲載されている写真を見ても、それが嘘でないことはよく分かります。
 私が大学生のころ、沖縄を返せという歌をよく歌っていました。福岡の全司法の人たちが作った歌だということでした。オレたちが作ったんだという書記官が福岡におられました。
(2009年4月刊。2190円+税)

マンガ蟹工船

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著者 小林多喜二・藤生ゴオ、 出版 東銀座出版社
 30分で読める。大学生のための、という副題がついたマンガ本です。前から読んでみたいと思っていました。白樺湖に出かけたとき、やっと手に入れて読みました。
 もちろん、私は原作も読んでいます。でも、マンガって、すごいですね。よく出来ています。映画は前に見たようには思いますが、よく覚えていません。最近、リバイバル・ブームに乗って各地で上映されていますが、まだ残念ながら見ていません。その代わりにマンガを読んだのですが、それなりに視覚的イメージはつかめます。蟹工船のなかの悲惨な奴隷のような労働実態が、それなりに伝わってきます。解説をつけた人は、このマンガを読んでショックを受けた人は、ぜひ一度、一度読んだ人は、もう一度、原作小説をとくと味わってほしい、と注文をつけています。まさしく、そのとおりです。
 それにしても、今の日本で多くの若者が自分の置かれている状況は戦前の蟹工船で働かされていた労働者と似たようなものだと受け止めているという事実は、それこそ衝撃的な出来事です。それなのに、政府は、大企業の違法な派遣切りに対して、戸別の企業については論評を差し控えます、などと格好の良いことを国会で答弁して介入せず、野放しのままなのです。権力のやることって、戦前も戦後も変わらないというわけです。
 マスコミも、年越し派遣村こそ大々的に報道しましたが、企業で今やられていることについての追跡記事をまったく載せていません。本当に悲しくなります。ソマリア沖に派遣された自衛官の「活躍」ぶりを載せる前に、国内の若者の置かれている深刻な実態を紹介すべきではないでしょうか。そして、このことを総選挙の争点として大きく浮かび上がらせてほしいと思います。日本の若者が将来展望を持てなかったら、日本という国に将来はないと思いますよ。皆さん、ぜひ、このマンガを読んでみてください。
 
(2008年7月刊。571円+税)

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