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カテゴリー: 日本史(戦後)

昭和20年夏、僕は兵士だった

カテゴリー:日本史(戦後)

著者 梯 久美子、 出版 角川書店
 この本で紹介されている三国連太郎の話には驚きました。彼は大正12年(1932年)生まれで、召集されます。しかし、その前に日本を逃げ出すのです。
 鉄砲を持たされて人を撃つのもいやだし、自分が殺されるのもいやだ。徴兵検査には合格したけれど、入隊するのは何としても免れたかった。それで、とにかく逃げよう。逃げるんなら、大陸がいいんじゃないかと、中国にわたり、朝鮮・釜山に行き、また日本に舞い戻ってきた。そして入隊通知が実家に来ているのを知り、九州・唐津へ逃げ、そこで特高警察に捕まった。
 刑務所には入られず、すぐに入隊させられて中国戦線の戦地へ送られた。入院したりしているうちに幸いにも終戦を迎えて日本に戻ってきた。
戦争の中では美しい人間も美しい出来事も一度も見なかった。
 戦争で死ななかったことより、戦後、いろいろなことを偽って生きてきたことの方に負い目がある。人を利用し、便乗し、嘘をつき、そんなふうに生きてきた。
 俳優になってロケで地方に行くことがあるが、昔の自分を知っていそうな所に行くのは怖い。正直、今でもそんなところがある。
 こんな自分の体験を率直に語るのですから、やはり正直な人だと私は思います……。
 別の人の話です。レイテ沖海戦で戦艦に乗っていた人です。
 陸の戦いでは寝泊りしている場所と戦場は普通は別である。生活の場を離れて出陣していくわけだ。しかし、海の戦いでは、そこで眠り、飯を食った場所に何時間か後には遺体が散乱し、負傷者が横たわっているという状況になる。生の営みと死とが、同時にそこにある。このレイテ沖海戦で、まさにそんな体験をした。そうなんですね、海上では逃げるところがありません。
 もう一つ。これも船に乗っていて、アメリカ軍に沈没させられた人の話です。
 もう駄目だと思ったとき、ズタズタに切れたクレーンのワイヤーロープが何本もぶらさがっているのに気がついた。思わず、そのうちの一本にとびついた。うまく捕まることができると、脚にだれかがすがりついてきた。その重さでずるずると下に落ちて行きそうになる。そのまま落ちれば、下は燃えさかる船底だ。そこで、しがみついてくる者をけり落とし、ふりほどいた。必死だった。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』と同じである。誰だか分らない兵隊をけり落として、反動をつけて甲板によじ登り、そこから海に飛び込んだ。けり落とされた兵隊は死んだはずだ。人を殺してしまった……。
 船がやられたら、泳いだらいけない。船が沈むときには、いろんなものが浮くから、それにつかまること。つかまって、早く船から離れる。
 いやはや、すさまじい戦争のむごさを改めて実感させられました。戦争は絶対にいやです。
 
(2009年9月刊。1700円+税)

歴史家の仕事

カテゴリー:日本史(戦後)

著者 中塚 明、 出版 高文研
 日本の近代でもっとも大きいウソの一つに、天皇は平和主義者だったというのがある。
 昭和天皇は戦後、こう語った。
近衛文麿に話して、蒋介石と妥協させる考えだった。これは、満州は田舎なので事件が起こってもたいしたことはないが、天津や北京で事件が起こると、必ず英米の干渉がひどくなり、衝突の恐れがあると思ったからだ。
 このように、昭和天皇が恐れたのはイギリスやアメリカの干渉であって、満州が田舎なら、朝鮮は我が家の裏庭くらいにしか考えず、中国や朝鮮を侵略することには何のためらいもなかったことが、その言動から明らかなのである。
 私も、この指摘にまったく同感です。昭和天皇が根っからの平和主義者だとしたら、太平洋戦争が起きたはずはありません。
 日清戦争の直前、日本軍が朝鮮王宮に攻め入って朝鮮王妃(閔妃)を虐殺した。このとき、日本軍は外部への通報を恐れて、まず王宮の電線を切断した。
 ところが、対外発表では雷雨によって電信線が不通になったなどと嘘をついたのです。そして著者は、日新戦争のとき、日本の軍艦が中国側の目をごまかすために、外国の軍艦旗を掲げて行動したことも、軍部のマル秘戦史に書かれていたことも掘り起こしました。日本の軍艦が、アメリカやイギリスの軍艦旗を掲げて中国領海内に入り、港の状況を偵察していたのです。
 日清戦争の講和会議がなぜ下関で開かれたのかについても解明されています。
 下関の春帆楼に行くと、関門海峡が良く見える。日本軍を乗せた輸送船が続々と戦地に向かう状況を、日本は中国側の全権大使であった李鴻章に見せつけたかったのである。
 盧溝橋事件についても、当時、そこら一帯は日本軍が抑えていた。中国軍に残されていた唯一の出入口は、盧溝橋であり、ここを失うと北平(北京)を中国側は失い、北平を失ったら、華北全体が危うくなると中国側は認識していた。
 その中国軍の目の前で、その抗議を無視して連日、日本軍は夜間演習をしていたのであるから、計画的な挑発であることは間違いなかった。
 これも、現地に行って立ってみないと分からないことである。なるほどですね。
 歴史学は、過去の事実を科学的に分析することによって、現在がどういう時代なのかを、私たちに教えてくれる。絶望したり、あるいは理由もなく楽天的になったりする誤りを正してくれる。すなわち、歴史学とは、私たちの歴史的な生き方の理論なのである。
 歴史の好きな私にとって、大変勉強になりました。
 
(2007年7月刊。2000円+税)

朝鮮王妃殺害と日本人

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:金 文子、出版社:高文研
 日清戦争のあと、1895年10月8日早朝、日本軍は突如として朝鮮王宮に乱入し、王妃を斬殺して死体を焼滅させた。
 この事件が世界各国から非難を浴びたため日本政府は8人の軍人と48人の非軍人を収監して取り調べたが、3ヶ月後、全員が無罪放免した。いやはや、ひどいものです。
 被害者の王后は明成皇后と呼ばれるが、日本では 閔妃(ミンピ)として知られている。
 1851年生まれの王妃は、まだ45歳であり、「女性として実に珍しい才のある、えらい人であった」(三浦梧楼)。事実上の朝鮮国王でもあった。
 ところが、この王妃がロシアと結んで日本に対抗する姿勢を見せていたため、日本政府は、これを力づくで除去し、親日政権の確立を目ざし、京城守備隊という日本の軍隊をつかって朝鮮王宮内のクーデターに見せかけようとした謀略事件である。
 この無法な殺害事件に星亨がかかわっていたというのに驚きました。星亨は弁護士でもあり、自由党員として自由民権運動にかかわっていたのですが、他国の自由民権運動を圧殺するのに狂奔していたとは、驚きです。
 星亨がこうなったのも、たび重なる選挙で無理をして、巨額の借金をかかえて破産状態になっていたからでした。それを見かねた陸奥宗光(外務大臣)が井上馨(朝鮮公使)外交機密費を流用して星亨を救済しようとしていたというのです。そして、事件後、星亨は駐米公使に任命されています。体よく日本を追放され、口を封じられたわけです。
 結局、この事件は、当時の大本営上席参謀川上操六と朝鮮公使の三浦梧楼が画策したものであることを本書は明らかにしています。
 そして、この事件を知った明治天皇の言葉が三浦梧楼の回顧録に紹介されています。
 「いや、お上(かみ)は、あの事件をお耳に入れたとき、やるときにはやるな、というお言葉であった」
 こうなると、明治天皇の意向を受けて隣国の皇后を日本軍が惨殺したと言っても過言ではないことになります。
 このような重大な恥部を日本政府は隠し通してきました。もちろん、許されることではありません。過去を真正面から見つめることは、決して自虐史観というものではありません。
 よくぞ調べていただきました。著者に感謝します。
(2009年2月刊。2800円+税)

棄民たちの戦場

カテゴリー:日本史(戦後)

著者 橋本 明、 出版 新潮社
 第二次大戦の末期、アメリカがナチス・ドイツを追い詰めていた。ところが、ドイツ軍の巧妙な反撃にあって、アメリカ軍の一部隊がフランスの山地で敵中に孤立してしまった。
 包囲されたテキサス大隊の兵211人を救出するため、日系アメリカ兵800人がフランスの山地、氷雨に煙るボージュで死んでいった。
 第二次大戦が始まると、日系アメリカ人はアメリカ政府によって、敵性国の人間だとして自由を失い、砂漠のなかの収容所に強制的に収容された。カリフォルニア州だけで10万人近く。ハワイやオレゴンなどをふくめると、全米で12万6000人もの日系アメリカ人が強制的に収容された。このとき、同じ枢軸国であっても、ドイツ系やイタリア系には同じような措置はとられていない。黄色い日本人は差別されたのですね。
 その強制収容所から日系アメリカ人の兵隊が誕生した。そして、この日系アメリカ兵の部隊に名声はいらない。果敢に任務を遂行するキツネ顔の日系人は、埋もれた消耗品に過ぎなかった。独立のコマンドとして差別し、動静を隠す。
 442歩兵連隊2800人。平均背高162センチ。在フランス師団の増強部隊として、欧州戦線のど真ん中に参戦した。第442歩兵連隊戦闘団は、「お釣りを絶対に期待できない」戦闘に首を突っ込んでいった。敵性国民という不当なレッテルと差別をはねのけるために立ち上がったタフガイ集団といえる。
山が山を覆い、森が森を連ねるフランスのボージュ戦域は、第二次世界大戦を通じてもっとも劇的なエピソードをつづる場に変わっていく。後に戦史家は、このテキサス大隊救出作戦を、アメリカ陸軍史上もっとも重要な「十大戦闘」の一つに数え、ペンタゴンの壁に永久表彰画を掲げた。
 テキサス大隊を自らの身を犠牲にして救出していった日系アメリカ兵の活躍ぶりがあますところなく活写されていて、まさに良質の戦争映画をスケールの大きな画面で身近に見ている気になり、手に汗を握ります。第二次大戦に従事した日系アメリカ兵は、総勢二万人を超えたということです。
 フランスに現地には、このときの日系アメリカ兵の活躍をたたえる碑が建っているそうです。感動的な、いい本でした。よくぞ、ここまで掘り起こしたものだと思います。
 
(2009年6月刊。1600円+税)

司馬遼太郎の歴史観

カテゴリー:日本史(戦後)

著者 中塚 明、 出版 高文研
 司馬遼太郎の『坂の上の雲』は、1968年4月から1972年8月まで、足かけ5年にわたってサンケイ新聞の夕刊に連載されました。私が大学2年のときに連載はスタートしたのですね。もちろん、私は読んでいませんでした。いえ、もちろん『坂の上の雲』は、その後弁護士になってから読んでいます。明治日本の成功物語と言ってよい本です。そして、ここに登場する秋山好古は、私の母の異母姉の夫が副官として仕えていたということを最近知りました。先祖を調べて行くと、歴史が身近になることを実感したことです。
 それはともかくとして、NHKはこの11月から、この『坂の上の雲』を3年かけて放映するそうです。ところが司馬遼太郎は、これを禁止していたのです。
 「なるべく、映画とかテレビとかそういう視覚的なものに翻訳されたくない作品である。うかつに翻訳すると、ミリタリズム(軍国主義)を鼓舞しているように誤解されたりする恐れがあるから……」
 これは、司馬遼太郎自身が戦地に戦車兵として動員されていた経験もふまえての言葉であろう。司馬遼太郎は、日本は日露戦争のあとにおかしくなったという。しかし、それは決して事実ではない。
 司馬遼太郎は、『坂の上の雲』で、日本が明治維新で自立の道を選択したとき、朝鮮の運命は、その「地理的位置」と「主体的無能力」によって、日本に従属し、その支配下に置かれることは決まっていたという。
 そして、この司馬流の「朝鮮論」に従うと、明治以降、
・日本が朝鮮に何をしたのかを語る必要はない
・朝鮮でどんな動きがあったのか、それにも頭をわずらわせる必要がないことになる。
それでよいのか……?著者は、このように問題提起しています。
 日清戦争は、日本軍がソウルの景福宮の占領から始まった。日本軍は中国の清国軍と砲火を交える前に、朝鮮の王宮を占領し、国王を事実上とりこにした。
 この点について、日本政府は、突発的衝突から始まり、日本軍はやむをえず交戦し、王宮に入って国王を保護した、と公式に説明した。しかし、実は日本軍が意図的に朝鮮王宮に攻め込んだことが、日本側の記録として残っていた。うへーっ、そうなんですね……。
 東学党の乱(東学農民運動の反乱)についても、日本軍は、今後はことごとく殺戮すべしという命令を発した。このジェノサイド作戦によって、抗日民族闘争は鎮圧された。このときの犠牲者は3万人をこえ、総数5万人にも達するとみられている。
 そして、日清戦争が終わった年の秋、日本軍は朝鮮王宮に侵入し、王妃を殺害した。これは、日本軍参謀本部の川上操六次長の指揮によるものが判明している。
 いやはや、なんということでしょう。日本は、朝鮮半島を侵略し、占領していたのです。
 朝鮮王宮占領、それに抗議しておこった朝鮮農民軍の再蜂起と日本軍によるその皆殺し作戦、さらに戦後の朝鮮王妃殺害事件、この3つの出来事は鎖でつながっているかのように相互に関連している。そして、この3つとも、日本政府はことの真相を内外に公表することがなかった。そうなんですね。まさしく日本史の重大な汚点です。
 さらに、日露戦争をはじめる前から、大山巖をトップとする参謀本部は、朝鮮を日本の支配下におくことを自明の方針としていた。ロシアは韓国(朝鮮半島)侵略の意図をまったく持たず、むしろ南満州から全面撤退してでも日本との戦争を回避したかった。なぜなら、当時、ヨーロッパ情勢が緊迫していたからである。
 つまり、日露戦争は、ロシアの南下政策が引き起こしたものではなく、日本の支配層の朝鮮半島を日本の領土にしたいという願望から始まったものなのである。いやはや、歴史の事実から目を背けるわけにはいきません。
 テレビを見て、間違った戦前の歴史観が定着してしまうのを私も恐れます。その意味で、この200頁ほどの本が一人でも多くの歴史好きの人にまず読まれることを願います。大変わかりやすく、読みやすい本です。
 
(2009年10月刊。1700円+税)

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