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カテゴリー: 日本史(戦後)

児玉誉士夫、巨魁の昭和史

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  有馬 哲夫 、 出版  文春新書
児玉誉士夫と聞くと、戦前は帝国陸軍のスパイの親玉として中国大陸でさんざん悪いことをして巨財を成し、戦後はその巨財をもとに自民党を背後で操っていた薄汚い右翼の黒幕というイメージがあります。果たして、その実体はどうだったのか、興味深く読みすすめました。
 児玉の最終学歴は商業学校の夜間部に2年通っていたこと。児玉は1929年、赤尾敏の主宰する国粋主義団体「建国会」に入り、青年部の部長になる。昭和天皇の車に駆け寄って直訴状をつき出し、懲役6ヶ月の刑を宣告されて下獄した。その後、1931年5月には大蔵大臣爆破事件に関わり、懲役4回月の実刑も受けた。その後もクーデター未遂などで刑務所に入っていて、1937年4月に出所してきた。そして、中国大陸に工作員として派遣された。
 中国における児玉機関が秘密工作をするときには、三井物産、王子製紙、東洋綿花など、三井財閥系の企業を隠れみのとして使っていた。
 三井と軍部のスパイは深い関係にあったというわけですね。
海軍は児玉に対して資金を提供するのではなく、上海で現地の人々から没収した資産などを取引原資として与えていた。なんと20万中国ドルも与えたという。暴力的手段をとらないことが児玉機関のポリシーだった。というのも、物資の調達にあたって暴力に訴えるというのは、児玉機関にとって引きあわないリスクを冒すことだったからだ。
 児玉は戦後、アメリカ軍からA級戦争犯罪容疑者の指定を受けて巣鴨プリズンに収監された。しかし、児玉本人は、まさか自分が戦犯リストにはいるとは思っていなかった。その点は、笹川良一とは対照的である。
 1946年夏以来、児玉は危険人物というより、連合国軍側の重要な情報提供者として巣鴨プリズンに留め置かれた。GHQは児玉をアヘン売買で罪に問うつもりはなかった。アヘン王といわれた里見ですら戦争犯罪に問われないことを決めていたからだ。GHQが里見のアヘン売春を暴くと、それに深く関わっていた中国・国民党も同じく戦争犯罪に問われなければいけない。しかも、この仕組みを考案したのは、連合軍のメンバーであるイギリスだった。
 終戦直後の児玉機関の資産は、当時のお金で7000万円だった。そして、鳩山が自由党をつくるとき、児玉が鳩山に与えた政治資産は1000万円だった。東久邇宮内閣は児玉を参与とした。これは、児玉がもっと大きな資産をもっていると見込んで、必要なときには出してもらえると思っていたからだった。
 戦後まもなくから、児玉はアメリカのエージェントになっていた。要するに、児玉はアメリカのスパイになったわけです。これで右翼として、日本を愛せといっていたのですから、噴飯物ですよね。
 児玉は鳩山に尽くしてきたが、鳩山は首相になると、ソ連との国交回復とか独自路線をとるようになった。そこで、憤慨した児玉は、鳩山を見捨てて、緒方に乗り換えた。
岸信介は、児玉を必要とせず、また、頼もうともしなかった。岸は児玉に頼らずとも、「強力な資金源」と「闇の力」をもっていた。岸が頼ったのは、アメリカのCIA資金だった。だから、CIAは児玉のライバルになった。
児玉誉士夫がアメリカのスパイとして、日本の政財界を操っていた様子が詳細に紹介されている本です。
(2013年3月刊。940円+税)
 今年もホタルの季節となりました。歩いて近くの小川に足を運びます。地元の人が「ホタルの里」として手入れして整備しているエリアがあります。ゆらゆらと明滅しながら飛んでいるホタルを見ると、いつもながら夢幻の里に迷い込んだ気分になります。
 見知らぬ子が「ホタルをとって」と叫んでいるので私が両手で包むようにホタルをつかまえて、その子に手渡ししてやりました。ホタルはじたばたすることなく、しばらくは手のひらにとまって明滅してくれます。その子の若いお父さんからお礼を言われ、いいことをしてやったとうれしくなりました。

満州国の実態

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  小林英夫・張志強 、 出版  小学館
「検閲された手紙が語る」というタイトルの本です。戦前の関東憲兵隊の『通信検閲月報』を掘り起こして満州国の実態を明らかにした貴重な労作です。
 戦後の1953年、旧関東軍憲兵司令部跡地(新京。現・長春)の敷地内で事務所拡張工事の際に偶然に地中から掘り出された。長く地中に埋められていたので、史料の大部分は癒着し、また腐食してボロボロになっていた。終戦時に焼却されず、掘られた穴に埋められた文書だった。
 関東憲兵隊は、この報告書『検閲月報』を関東軍司令官をはじめとして憲兵隊司令部などに送っていました。
ソ連との間のノモンハン事件についても、「実際には負けている」「実になさけない次第」「近代兵器の枠を集めたソ連と戦うには、肉弾や精神ではやはりダメ。草木のない平地を攻撃するなんて無謀」という声のあったことが紹介されている。この閲覧によって、手紙は送った相手方には届かなかった。
 戦時下の満州国の実情はとても王道楽土と言えるものではありませんでした。ともかく食べるものが少ないのです。野菜が食べられないため、女性は病気になってしまいました。
 「満州の配給制度は、内地よりずっと生活困難である。開拓団(移民団)は、実に可哀想なもの。移民などに来るものではない。あまり宣伝に乗せられないように」
 「匪賊と戦闘したが、ほとんど軍隊と変わらない。要するに、匪賊の方が強い」
 満州国の農産物は太平洋戦争をたたかう日本への重要輸出品であったから、満州の中国人の食糧配給を改善する政策は行われなかった。
 1940年代の満州国は、出稼ぎ地としての魅力を失っていた。
 この当時の在満朝鮮人社会には、共産主義思想に根ざした、解放願望が強く存在していた。
「当地の人生観は、弱肉強食と名付けたらいい」と手紙に書かれていた。
 検閲しても実は、あまり大きな成果はなかった。むしろ重要な情報は暗号や無線で流れていたので、通信部隊の活動が重要だった。牡丹江市内に無線傍受の場所を10ヶ所設け、24時間体制で監視していた。そして無線で情報を流すアジトをほとんど毎日、摘発していた。
満州国の実情をナマの声で知らせてくれる貴重な本だと思いました。
(2006年6月刊。3200円+税)

日本統治下の台湾

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  坂野 徳隆 、 出版  平凡社新書
この本を読んで、そうだった、台湾は戦前、日本が植民地として支配していた人だった、と思い出しました。
 ちっぽけな島国・日本が朝鮮半島のみならず、ロシアや中国に向けて侵略戦争を次々に仕掛けていったことは、私の頭のなかでしっかり認識していたつもりでした。ところが、そのとき、台湾のことがスッポリ抜け落ちていたのでした。
 この本には、戦前の台湾にいて新聞風刺漫画を描いていた国島水馬(すいば)の手になる漫画をもとに、現代日本人に侵略戦争について語り明かしてくれます。
 それにしても、小さい島国である日本が台湾を植民地にしてうまくいくなんて、本気に思っていたのでしょうか、大いにギモンです。
 そして、1930年(昭和5年)10月27日に有名な霧社事件が起きました。台湾の中央部に位置する山里の公学校で行われていた運動会のグラウンドに原住民が蕃刀や銃を持って乱入し、駐在所の警官をはじめとする日本人134人(霧社在住者の半分以上)、そして日本人と間違えられた台湾人2人が犠牲となった事件です。
 この霧社事件のあと、台湾の山地や原住民周辺における警察力は大幅に増強され、原住民の叛乱はなくなった。
 この事件のあと、親を日本人に殺された霧社の原住民の若者たちは、血判状を書いてでも日本軍兵士として太平洋戦争に参加を欲するなど、日本の皇民化政策によって洗脳されてしまった。
 戦前の日本軍占領下の台湾の様子がマンガで紹介されている貴重な本だと思います。
 そして、戦後、今度は中国本土から蒋介石の国民党軍が中共軍に敗退して渡ってきて、戒厳令を敷いたのでした。これは、なんと40年近くも続き、世界最長記録でした。
 1987年までに没獄・処刑された反政府活動家は20万人以上という苦難の時代が続きます。この点は、もちろんマンガで紹介されていません。
(2012年12月刊。780円+税)

宮中からみる日本近代史

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  茶谷 誠一 、 出版  ちくま新書
大久保利通の求める天皇像は、あくまで西欧流近代国家の建設が第一義で、天皇親政はそのための「道具」にほかならなかった。これに対して侍補グループは天皇自身に「徳」を修めさせたうえ、大臣や側近らと協力して施政にあたる「天皇新政」を志向しており、天皇を強制君主として「密教」的に扱うことに従うはずもなかった。
 要するに、両者とも、天皇を利用しようとしていたことでは共通していますね。
 戦前の天皇は「玉」(ぎょく。たま)として利用される存在だったわけです。
 内大臣職は、維新以来の功績者である三条を処遇するために設置された感があるものだが、この官職は、その後の日本近現代史において、重要な役割を担った。長年にわたって元老筆頭格として政界や宮中を牽引してきた山県有朋も、大正期に入ってからはその支配力を低下させていった。
 皇太子裕仁の婚約をめぐって、その破棄を主張していた山県有朋は政治的に敗北し、それ以降の政治的影響力と宮中支配力を大きく減退させた。
 山県の影響下にない牧野伸顕の宮相就任は、旧友であり、当時首相として政権運営にあたっていた原敬にとって、自身の思い描く立憲君主論を実現していくうえで、力強い味方を得たことになる。
 大正天皇のもとで、元老や政府首脳は、君主としての資質を欠くかのような大正天皇の言動に振りまわされていた。同時に、政界指導者らは、明治天皇のような政治的調整力を有しない大正天皇の言動を目の当たりにして、自らの意思を「聖意」に即せしめるべく、政争を呼びおこしていった。
 大正天皇に替わった昭和天皇は、政治的な言動を抑制していた感のある摂政時代と異なり、政局に強い関心を示し、積極的に関与していく姿勢をみせた。そして、昭和天皇の積極的な政治関与は、天皇を支える宮中をはじめ、政党や軍部、民間右翼などを政局の荒波に巻き込んでいった。
 昭和天皇は田中義一内閣の政権運営に何かと不満を抱き、施政の一つ一つに注文をつけようとしていた。牧野内大臣は、田中内閣の施政に不満を募らせる天皇をなだめつつ、田中首相に善処を求めていた。
 田中義一は張作霖爆殺事件のあと、二度にわたって天皇から叱責され、天皇の親任を失ったと判断して内閣総辞職した。しかし、この一件は、天皇や側近にとって一時的に望ましい結果をもたらしたかもしれないが、他方、天皇と側近が行政府のトップを罷免させたという行動に対して、批判的なまなざしを向ける動きも起こりはじめた。
 君主が天皇大権を行使して政変にいたったが、明確な政治意思をもつ天皇の存在はその後の政局に波紋を広げた。
 牧野グループを標的にした側近攻撃は、暗に昭和天皇の政治意思や政治姿勢をも対象とするものであり、特定の政治勢力にとって聖意とみずからの政治意思や政策論とが異なるとき、これを批判するような政治風潮が醸成されていった。満州事変のころから、軍部とくに陸軍は政治勢力化し、国務を担う内閣と統師を担当する軍部が対立し、「国務と統師の分裂」という構図を常態化させていった。
 満州事変の拡大は、天皇をひどく動揺させた。
 犬養首相たちは政党内閣の手に負えない統師事項につき、大元師・天皇の憂慮の念を伝達することで、陸軍側に自発的な行動抑制の枠をはめようとした。ところが、このような軍部統制の手法は逆効果をもたらした。
 陸軍は、政党内閣や宮中勢力に批判的であり、天皇の権威を利用して統師権に介入しようとする犬養首相の手法に不快感をあらわした。西園寺は、天皇に政治責任を及ぼしかねない御前会議にも反対だった。御前会議で決定されたことを陸軍が順守するかどうかも疑問視されていた。
 天皇はあくまでも政界のごたごたから超然としていることが必要だと考えられた。
このように、天皇は軍部や政治家たちから単なる利用しやすい持ち駒のような存在として扱われていたわけです。そこには天皇崇拝のかけらもありません。それにもかかわらず、国民には天皇崇拝を押しつけていたのです。いやになってしまいます。
(2012年5月刊。780円+税)

敗戦と戦後のあいだで

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  五十嵐 恵邦 、 出版  筑摩選書
大変教えられることの多い本でした。たとえば、私は40年前の大学生時代、毎日が暴力に向き合う日々でした。私自身も、ヘルメットをかぶり、角材を持ったこともあります。幸い、殴られたことはなく(飛んできた石が頭にあたってケガしたことはあります)、誰かを殴ったこともありません。でも、もみあいの現場にいたことは何回もあります。そして、その騒乱の1年が過ぎると、すっかり忘れてしまったかのように、誰もそのことを話さなくなりました。まるで、そんなことはなかったかのように話題にすらのぼらなくなりました。
 それを話題にしたら、そのとき、どちら側にいたのか、敵か味方か、そして、それは何を目ざしていたのかをはっきりさせなければならなくなります。でも、それは意外にも難しいことなのです。幸いにして、学内でのリンチ事件というのはほんの少ししかありませんでしたし、学生が殺されることもありませんでした(病死とか、精神的におかしくなってしまった学生はいました)。
 この本は、戦争というもっとも極限状態に置かれた元兵士の人々が、なぜ過去をそのまま語ることはないない理由を明らかにしています。
大多数の日本人は、戦後日本の債権のプロセスに敗戦直後から参加することによって、自らの日本人としてのイメージを修復する機会をもった。しかし、シベリア帰りのように遅れて還ってきた者たちには、そのような機会が与えられなかった。彼らが帰ってきたときには、既に、戦争全般だけではなく、復員、引揚げの体験についての国民的な物語がすでにできあがっていた。その結果、遅れて還ってきた者たちは、怖れ、好奇あるいは哀れみの目で見られ、その異質な戦後体験はメディアによって封じこめられてしまった。
 大日本帝国が崩壊したとき、688万人の日本人が外地に取り残されていた。内地の人口7200万人の9.6%にあたる。そして、そのうち367万人は帝国陸軍の将兵であった。
 引揚者は、劣った日本人として日本社会の周縁的な位置を与えられた。引揚者との対比で、本土を離れることのなかった日本人は、自らより恵まれた境遇を言祝(ことほ)ぎ、より純正な日本人として優越感をもつことができた。
 帰還者たちは、日本人の負の遺産を背負った周縁的な存在として差別されながらも、より純正な日本を照らし出す鏡として必要な存在となった。彼らは日本社会に受け入れられながらも、つねに懐疑の目で見られる両義的(アンビバレント)な存在であった。
 五味川純平は『人間の条件』全6巻を書くことで、過去を生き直した。何百万という同時代の読者も五味川の作品をとおして過去を再体験した。この再体験は、戦後という現在と戦時という過去との距離を確認するためのものとなった。
五味川は東京商科大学に入学したあと1年で退学し、東京外国語学校に入学し直した。唯物論研究会に参加していたため、西神田警察に1ヵ月拘留されたこともある。中国満州にある製鉄所で働いていたが、兵隊にとられ、日ソ会戦のあと、全滅に近い部隊で生き残った5人の一人となった。シベリアに送られる途中で脱走し、日本人による民主化運動に参加して、1947年暮れに日本へ帰国することができた。
 主人公梶のようなスーパーマンでさえ戦時下にあって効果的な異議申立ができないのであれば、誰にも歴史の流れを変えることはできないのであり、ただ生き延びて戦後にたどり着くことが最良の選択であったというのが妥当な結論となるだろう。
梶は、「俺が日本人だってことは俺の罪じゃない。しかも、俺の罪の一番深いのは、俺が日本人だってことなんだ」と嘆く。
 シベリアに抑留された日本人は80万人ほど。広大なシベリアに散在する2000ヶ所以上の収容所で長期に抑留された。そして、そこで10万人以上の日本人が亡くなった。この抑留体験は忌まわしい記憶であり、戦後日本の反ソ感情の核となった。
 1949年、ソ連の「民主化教育」によって熱心な共産主義者となった抑留者が日本各地でさまざまな騒ぎを起こした。多くのものは、日本に帰り着いてしばらくもしないうちに、その教育の成果を見捨ててしまった。メディアは帰還してきた「赤い」抑留者たちの攻撃的な行動を、あくまでも好奇の目で見た。
 抑留者たちの帰郷は、シベリアの収容所で思い描いたような、バラ色のものではなかった。さまざまな理由からその抑留体験は思い沈黙につつまれ、元抑留者たちの個人的な体験記も多くの読者を得ることはほとんどなかった。
日本語でよく使われるノルマが、シベリアでの元抑留者たちが日本に持ち帰ったロシア語だというのを初めて知りました。
 捕虜にとって、収容所で生きのびることの代償はあまりに高かったし、多くの者はシベリアでの非人間的な条件を生き抜くため、自らのそして仲間たちの苦しみに目を閉ざさねばならなかった。
苦境のなか、捕虜たちは二度打ち砕かれた。最初は肉体的に、そしてそのような状況をおとなしく受け入れなければならなかった屈辱のために。多くの抑留者にとって、戦後日本は居心地のよい場所ではなかった。抑留者の帰還が国をあげて祝われることもなかった。
 1972年1月、グアム島で発見された横井庄一の28年にわたるジャングルでの潜伏生活は理解をこえるものだった。
 1974年3月、フィリピンのルバング島からの元陸軍少尉、小野田寛郎が生還した。
 この二人が日本社会にどのように受け入れられたか。また、彼らがその後、日本でどんな生活をしたのか、大変興味深い論述がなされています。そして、なぜ彼らは30年近くジャングルに潜んでいたのか、本当に終戦を知らなかったのかという重たい問いかけがなされています。
 320頁の本ですが、読み終わったとき、戦後日本の負の重みが両肩にどっしりかぶさってきた気がしました。アメリカの大学で教える50代前半の日本人学者の本だと知って、その点でも驚きました。日本は、よそから眺めたほうがかえって、よく見えてくるのでしょうね。
(2012年9月刊。1700円+税)

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