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カテゴリー: 日本史(戦国)

明智光秀の乱

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 小林 正信 、 出版  里文出版
あの有名な本能寺の変は1582年(天正10年)6月2日、明智光秀が織田信長を襲って自殺させた事件です。著者は、この用語は歴史用語として不正確で、明智光秀の乱と呼ぶべきだとしています。
明智光秀は、1万3千の軍勢を動員して織田政権の転覆を企図したのだから、大規模な軍事的反乱なのだから、明智光秀の乱と呼ぶべきだとするのです。
著者は、当時の織田信長の強大な権力は、次の三つの大きな柱によって成り立っているといいます。一つは信長自身の権力。これは尾張・美濃・伊勢などの基盤を中核として京都を中心とする畿内・北信越そして西国は備中にまで及んだ。その二は、徳川家康との同盟によるもの。その三は、明智光秀が統括する足利幕府の統治機構の協力。
つまり、著者は、足利幕府の統治機構はそれなりに存続していて、明智光秀はそれなりの軍事力を体現していたとするのです。
信長は、京都での宿舎として、明智光秀の屋敷を少なくとも二度にわたって使用した。
明智光秀は、はじめ信長の家臣というより足利義昭の側近の「御部屋衆」格の奉公衆だった。明智光秀は、「御部屋衆」格の一人にすぎなかったが、信長は、「政所執事」の職責を担わせ、畿内を統括する責任者に昇格させた。
光秀は明智氏に改姓する前は、進士(しんし)だった。進士氏は、鎌倉以来の足利家の家臣(被官)として、武家故実の「儀礼・式法」を伝承している家として知られていた。
明智光秀は、安土城に次いで有名だった坂本城や亀山城を築城している。この坂本城は、安土城がつくられる前は、織田政権下で最大の城郭だった。
熊本の細川藩は、明智光秀の家臣団の相当数を受け継いでいた。
明智光秀の真の主君は信長ではなく、あくまで亡君の足利義輝だった。
信長は、「上様」と言われることはあったが、「大樹」という将軍を指す言葉で呼ばれたことはない。信長は、武家階級の代表とはみなされていなかった。したがって武家の棟梁としての征夷大将軍にもならなかった。
著者は長年の家臣である佐久間信盛を信長が追放したのは、信長の本意ではなかった。家康が妻と子を敵の武田方と内意したとして処刑した以上、自らの部下についても厳しく対応せざるをえなかった。処刑は免れなかった。佐久間信盛は、信長の苦しい青年時代から一度も裏切ったことがなかったことから、その追放は信長の本意ではなかった。そうしないと家康との同盟がもたないと家康が判断したからだった。なるほど、そういうことだったのですか・・・。改めて考えさせられました。
果たして、明智光秀は本当は進士姓だったのか・・・。
本書は5年前の2014年7月に初版が出て、この5年間の研究の成果も踏まえています。学界の反応も知りたいところです。文献は大変よく調べてあると驚嘆しているのですが・・・。
(2019年11月刊。2700円+税)

戦国日本のキリシタン布教論争

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 高橋 裕史 、 出版  勉誠出版
戦国時代の日本でキリスト教が爆発的に信者を増やしました。現代日本に生きる私にはとても理解しがたい現象です。戦国の世の殺伐とした社会がキリスト教に救いを求めたのでしょうが、キリスト教だって軍隊式のところもあるわけですので、もう一つよく分かりません。ストンと腹に落ちてこないのです。
フランシスコ・ザビエルが来日したのは1549年。ザビエル自体は2年半しか日本にはいなかった。ザビエルの所属するイエズス会は、九州から畿内地方へ拡大していった。
1593年にマニラからフランシスコ会士が日本へやって来て、イエズス会と激しく衝突した。さらに1602年にドミニコ会とアウグスティノ会が日本布教に参入し、キリスト教内の争いはますます激化していき、ついに1613年の禁教令が出るに至った。
1570年代の日本のキリスト教徒は3万人近いと想定されている。そして、1580年ころに10万人、1598年には30万人に達した。
イエズス会の背後にはポルトガルが、フランシスコ会の背後にはスペインがいた。そのことを秀吉も認識していた。
ローマ教皇と、ポルトガル・スペイン両国王のあいだで、地球全体が2分割された。それによると、日本はポルトガルの征服域に組み込まれていた。
ローマ教皇グレゴリウス13世は、1585年、日本布教はイエズス会が独占することを認める小勅書を発布した。それに違反するキリスト教徒は、「破門罪」というもっとも重い懲罰が加えられた。
日本イエズス会は、財政難を救うため、生糸貿易に手を染めた。
フランシスコ会の成立は1209年、イエズス会は、1534年に創設された。カトリック内の抗争なだけに、問題の根は深く複雑な様相を呈している。
1613年のキリスト教禁教令のころ、フランシスコ会は司祭9人、平修道士4~5人、司祭館と駐在所があわせて8棟あった。ドミニコ会は司祭9人、駐在所3棟をかかえていた。
長崎では、内町をドミニコ会とフランシスコ会が、外町はイエズス会の支配する町だった。
禁教令が発布されたあと、日本に潜伏・残留したキリスト教宣教師は圧倒的にポルトガル人イエズス会だった。
日本イエズス会は博愛をうたいながら、実践的には日本人イルマンを差別的に処遇し、学問を教授することを拒絶した。したがって、日本人聖職者の養成計画も途中で頓挫した。
カトリック宣教師内部の布教争いの実情も理解できました。戦国時代は人々が平和に生きる言葉に出会えていたことが分かった本でした。
(2019年4月刊。4600円+税)

耳鼻削ぎの日本史

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 清水 克行 、 出版  文春学芸ライブラリー
耳鼻削ぎは、「みみはなそぎ」と読みます。
耳塚としては、京都の方広寺が有名です。秀吉の朝鮮出兵のとき、討ちとった朝鮮人の耳を日本に運んできて埋めたとされる塚です。
正しくは鼻塚なのだが、江戸時代以降、「耳塚」と誤伝されている。
著者は、「耳鼻を削ぐ」ということの意味を深く追求しています。
日本中世社会において、「耳鼻削ぎ」は女性に対する刑罰だった。これは一見すると、残虐な刑罰だと思えるが、実は死一等を免除するという、宥免措置、ぎりぎりの人命救助措置だった。
ええっ、そうなんですか・・・。つまり、殺されるのに比べたら、耳鼻削ぎのほうがましだ、という切実な感覚が当時の人々にあったというのです。
日本の中世社会においては、女性を男性と同じように処罰するのは避けたいとする心理(観念)があった。浅はかな女性に男性と同じ法的責任を負わせることはできないというのが、女性の刑罰が軽減された理由だった。
このように、耳鼻削ぎは、現代の私たちが思うように残酷なものとは考えず、むしろ温情的な処罰だと考えられていた。
戦場で、大将クラスを討ちとったときには、首を戦功の証とした。しかし、雑兵については、首ではなく耳や鼻でかまわないという認識があった。
秀吉は、朝鮮人の鼻をまつった鼻塚を方広寺をつくったパフォーマンスとして鼻供養しようとしたのだった。敵兵の菩提をも弔う慈悲深いリーダーとしてのイメージを人々にアピールしようとしたのだ。
全国各地の耳塚・鼻塚は、実は、形状や立地から「耳塚」と呼ばれるようになっただけで、本当に耳や鼻を埋設したものではなかったようです。
面白い研究の本として最後まで一気に読み通しました。
(2019年3月刊。1400円+税)

金剛の塔

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 木下 昌輝 、 出版  徳間書店
日本には、創業1400年の金剛組という会社があります。寺社建築の会社です。
各地の五重塔は戦災にあって消失したものの、その多くは再建されています。そして、大地震にも見事に耐え抜いてきました。
なぜ五重塔が倒れないかは、今もって完全に解明されてはいないそうです。知りませんでした。そして、寺社建築を手がける宮大工さんは独特の技術継承があります。そんなことを小説にして分かりやすく解き明かした歴史小説です。
宮大工に必要なことは、手先や才能よりも大切なのは、木を扱うことが好きだということ。それがなければ、どんなに手先が器用でも、つとまらない。
木を選ぶ。北の斜面に育った木は、ほとんど陽が差さない。おかげで、陽当たりが均等で、芯が中心にくる傾向が強い。陽当たりのいいところに育った木は中心が大きくずれている。木は太陽のあたる側が大きく成長するから。柱につかうと、当然に年月がたつにつれてゆがみが生まれる。
五重塔は、梃子(てこ)の原理で重い屋根を支えている。各層がスネークダンスと呼ばれる奇妙な動きで互いちがいに揺れ、それで地震の揺れを殺している。
しかし、どんなに研究がすすんでも分からないのは、心柱(しんばしら)だ。飛鳥時代に建築された法隆寺の五重塔は、震度5以上の地震に6回、震度6以上だと3回、あっているけれど、倒れなかった。なぜ心柱は存在するのか、それはどんな働きをしているのか、まだ仮説段階でしかなく、その仕組みは科学的に究明されていない。
すごいですね。そのことを歴史小説の形にして私たちに理解を迫ってくるのです・・・。
(2019年5月刊。1700円+税)

明智光秀・秀満

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 小和田 哲男 、 出版  ミネルヴァ書房
私はテレビをみませんので、2020年のNHK大河ドラマの主人公に明智光秀が登場すると知っても何ということもありません。明智光秀が世間に復権したということですよね・・・。
でも、なぜ光秀が信長に反逆したのか、なぜ信長の遺体が見つからなかったのか、歴史上の謎は大きいと考えられています。
この本では、光秀が本能寺の変を起こすに至る経過を丹念にたどっていて、そして、学説もいろいろ紹介していますので、問題の所在と最新の到達点がよく理解できました。
ときハ今あめが下しる五月哉
有名な連歌です。この「とき」は、「時」と「土岐」を重ねたもので、「今こそ、土岐の人間である私が天下を治めるときである」として、信長に対する謀反の心のうちを吐露したものというのが通説だ。
そうではなく、横暴な平氏を源氏が討つということ、美濃源氏である土岐氏の分かれという明智光秀の意識のなかに平氏である織田信長を討つということを意味している。
信長は征夷大将軍への任官を希望していて、武士で平氏の人間が将軍になった前例はない、平姓将軍の誕生を阻止するというのも光秀の動機だったのではないか・・・。
私は安土城には2回のぼっていますが、信長が日常的に起居していた天主より下に天皇が行幸したときの宿泊所を予定していた本丸御殿がある。つまり、信長は天皇より上位に自分を位置づけていた。
ルイス・フロイス書簡によると、イエズス会の巡察師であるヴァリヤーノに対して、信長は、「予がいるところでは、なんじらは、他人の寵を得る必要がない。なぜなら予が国王であり、大内裏である」と言い放ったとのこと。
そして、馬揃えのとき、信長は中国の皇帝しか着ることのできない「きんしゃ」を着て登場した。このように信長が天皇より上に立つ、朝廷をいくらかないがしろにする気持ちをもっていることを光秀が察して、信長の態度に危惧を抱きはじめていたのではないか・・・。
信長は公家の近衛前久(さきひさ)が現職の太政大臣であるのに、馬上から徒歩の前久に対して見下ろした言葉づかいをした。これを光秀は見ていて、信長の暴走と思ったのではないか・・・。
本能寺にいて光秀の謀反を知った信長が「是非に及ばず」と言ったという言葉について、「しかたがない」というあきらめの言葉ではなく、言語道断、けしからんと光秀に怒りをぶつけた言葉だという説に著者は賛成しています。
光秀は文化人であり、領民には慕われていて、光秀を神として祀っている神社もある。
ふひゃ、これは驚きました・・・。
光秀は、その前半生は今に至るも謎だらけで、生年も確定していない。本能寺の変のとき、55歳だったというのが通説だけど、そのひとまわり上とか下の年齢だったという説もある。
ただ、美濃守護土岐氏の一族である明智の人間であったことはたしからしい。
そして、朝前の朝倉義景のもとにころがりこみ、そこで、足利義昭・藤孝主従と出会ったことから、信長の有力武将に出世していくことになる。
明智光秀という人物はなかなか複雑・不思議な人物だったようです。
著者は『武功夜話』を偽書としていないなど、疑問に感じるところもありましたが、全体として大変詳しく、さすがに勉強になりました。
(2019年6月刊。2500円+税)

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