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カテゴリー: 日本史(戦国)

戦国大名の経済学

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 川戸 貴史 、 出版 講談社現代新書
日本史のなかでも戦国時代というのは、織田信長、豊臣秀吉そして徳川家康が出てきますし、その前には武田信玄、上杉謙信、さらには真田幸村などいかにも魅力的な武将たちのオンパレードです。
でも、この手の末尾に、戦国時代と現代との決定的な違いは、当時の人々には戦争がごく身近だったとされています。うひゃあ、そ、そうなんだよね…。だったら、私はバック・トゥ・ザ・フューチャーで戦国時代に顔を出したくはありません。映画『七人の侍』の世界なんて、まっぴらごめんです。
当時の日本の人口は1500万人ほど。戦国一国あたりの人口は20万人から30万人。
戦争すると、戦闘員が数千人、兵站(へいたん)に関わる非戦闘員を加えると2万人。兵糧を支給すると、1人1日6合の兵糧として、戦闘員2000人として、1日あたり12石の米を要する。1ヶ月だと米360石。現代の価値として1500万円。このほか、鉄砲などの武具を用意しなければならない。昔の戦争だってお金がかかるのですね、当然ですが…。
鉄砲は1挺あたり50~60万円の価値があった。鉄砲使用に必須となる火薬の原料として欠かせない「硝石」を日本は中国から輸入することに成功した。
信長の安土城は、現代の価値として100億円はかけただろう。
戦場では「乱取(らんど)り」があっていた。勝者が人を拉致して売りとばすのだ。売られてしまった人たちは、主人に隷属的な下僕として従属する。下人(げにん。奴隷)だった。
乱取りを上杉謙信自身が容認していた。乱取りは、兵士たちへの報酬だった…。
ワイロは当然というのが、この時代の人々の共通認識だった。当時の人々の認識では、まったく恥ずべき行為などではなく、それどころか見返りをもっとも期待できるものだった。
日本の中世社会は、贈答儀礼がきわめて盛んな時代であり、有力者同士の交流に贈答は欠かせなかった。
やはりいつの時代も、お金、つまり経済抜きの行動はありえないというわけです。
(2020年8月刊。1000円+税)

「関ヶ原」の決算書

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 山本 博文 、 出版 新潮新書
この本の結論をまず紹介します。
「関ヶ原」で負けたことで、秀頼は年収1286億円だったのが、一挙にわずかその1割ほどの185億円になってしまった。秀頼の領地としては摂河家74万石のみとなった。そして、全国にあった豊臣家蔵入地と金銀山からの運上収入を全部失った。
これに対して、家康のほうは573万石を支配するようになったが、これは日本全土1850万石の3割に相当する。そして、金銀山からの運上金が年に397億円。なので、あわせると毎年1205億円の収入を生む領地と金銀山を家康は得た。
この家康が奪った秀頼の蔵入地と金銀山こそが「関ヶ原」の15年後の大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼす原資となり、260年も続いた江戸幕府の重要な経済基盤となった。
まことに経済基盤こそ社会のおおもとを動かす原動力なのですね…。
「関ヶ原」で決戦した東西両軍の戦費も計算されています。
徳川家康としたがった大名の兵力は5万5800人。この軍勢が3ヶ月、90日のあいだ行軍し、戦った。1日5合の割合で計算すると、20億円あまり。これに秀忠軍をあわせると30億円近くになる。西軍のほうは9万3700人なので、そして61日間とすると、23億円弱となる。つまり、わずか3ヶ月間で53億円もの兵糧米が消費されたということ。
島津家が「関ヶ原」でなぜ敵中突破に成功したのか、なぜ薩摩藩を守り抜くことができたのか、かなり詳しく紹介され、分析されています。
関ヶ原のとき、島津義弘は65歳、徳川家康は58歳、そして石田光成は40歳だった。
義弘の率いる軍勢は、わずか1000人足らずでしかなかった。それでも島津の軍勢は「関ヶ原」の敗戦のなかで敵陣の中央突破を図って、なんとか切り抜けることに成功した。それには福島正則の軍隊が島津軍を見逃してくれたことも大きかった。朝鮮出兵のとき、福島正則は島津軍とともに戦った関係にあった。
義弘主従は、最終的に50人ほどになっていた。ただし、別に300人ほどの部隊が京都にたどり着いている。また、島津軍には商人も同行していたという。そして、島津氏の内部では、「関ヶ原」の戦後も強硬派と融和派があって、深刻な対立があった。
結局のところ、家康は島津家との軍事衝突より全国の平和を優先させたということのようです。大変勉強になりました。著者は、惜しくも先日亡くなられました。残念です。
(2020年6月刊。800円+税)

撰銭とビタ一文の戦国史

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 高木 久史 、 出版 平凡社
日本史に登場する銭(ぜに)の素材は、金・銀・銅・鉛と、さまざまなものがあった。
朝廷は鉛でできた銭を発行し、中世の民間は純銅の銭をつくり、秀吉政権は金または銀で銭をつくり、江戸幕府は鉄または黄銅(銅と亜鉛の合金)でも銭をつくった。
15世紀の日本では文字やデザインのない無文銭がつくられた。これは、錫が少なく、銅の多い銭は文字がはっきり出にくいことによる。無文銭をつくっていた地域の代表が堺。
足利義満は、20~30万貫文の銭を輸入した。義満が明との勘合貿易に積極的だったのは、内裏(だいり)や義満の邸宅である北山殿(今の金閣)を建設するための財源を調達するためだった。
室町時代を全体としてみると、輸入した銭の量は貨幣に対する人々の需要をみたすほどのものではなかった。
銭が不足したことへの人々の対応策の一つが省陌(せいはく)。これは100枚未満しかない銭を100文の価値があるとみなすこと。このために銭をひもで通してまとめたものを緡銭(さしぜに)という。ただし、これは、中国やベトナムにもあって、日本独自の慣行ではない。
撰銭(えりぜに)とは、人々が特定の銭を受けとることを拒んだり、排除してしまうこと。たとえば、明銭のなかの永楽通宝は品質もそこそこ良いのに人々から嫌われた。
人々は旧銭を好み、新銭は「悪」とみなした。つまり、使い古された貨幣のほうが安心して使えるので、好まれた。
九州の人々は明銭のうち、洪武通宝を好んだが、本州の人々はこれを嫌った。
16世紀には銭そのものを売買する市場が成立し、これを悪銭売買と呼んだ。
銀は、15世紀以前の日本では対馬国を除いてはとれず、中国や朝鮮半島からの輸入に頼った。16世紀に入ると、石見(いわみ)銀山など全国各地に銀山が開発された。信長政権の時代には、銭が不足気味だった。
「ビタ一文も負けない」というときの「ビタ」は、銭のカテゴリーの一つ。やがて、人々はビタを基準銭に使うようになった。「ビタ一文」と言うとき、貨幣の額面が小さいうえ、少額なことを人々がややさげすむ意味をふくんでいる。
秀吉は関東の北条一門を屈服させると、永楽通宝1をビタ3、金1両をビタ2000文とする比価を定めた。秀吉政権は高額貨幣の発行を優先させ、銭政策に消極的だった。秀吉は全国の金山を直轄すると宣言し、国内の銀山で採れた銀で銀貨をつくって大陸出兵の軍費にあてたり、そのことで再びもめた。
碓氷(うすい)峠あたりを境として、西側はビタを、東側は永楽通宝を基準銭とする地域に分かれていた。
寛永通宝はビタのなれの果てだった。
日本中の銭のさまざまなつかい方の一端を知ることができる本です。
(2018年12月刊。1800円+税)

殿、それでは戦国武将のお話をいたしましょう

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 山崎 光夫 、 出版 中央公論新社
戦国時代の武将について貝原益軒が福岡藩第三代藩主の黒田光之に語ってきかせたという体裁で、いろんな武将が紹介されています。
貝原益軒って『養生訓』で有名ですよね。85歳まで長生きした体験にもとづく健康法ですから、現代でも重宝されています。この貝原益軒には、98部247巻に及ぶ膨大な著作集があるといいます。恐れいりますね。江戸時代随一の博識家と評価されているとのこと。
貝原益軒は、和漢の古典を読破し、儒学者として黒田藩に地位を確保して、『黒田家譜』を書き上げるのでした。1年で草稿を書きあげ、7年かけて12巻にまとめ、17年目に17巻本として完成させた。そして、全15巻の『朝野雑載』として、戦国時代の逸話をまとめた。
この本は、この『朝野雑載』をもとに短い読みものとしています。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康そのほか戦国時代の名だたる武将が次々登場してきて、読ませます。
そうか、戦国武将を主人公とした小説を書くのなら、この『朝野雑載』は有力な手がかりになるんだな、と思ったことでした。私も知っているような有名なエピソードが大半ではありますが、なかには、えっと驚くものもありました。
福島正則は、関ヶ原の戦いの前に、いち早く家康に味方することを高言して、家康を勝利に導いた。ただし、家康は本当に福島正則が自分のために戦ってくれるのか疑うところがあって、じっと様子をみていた。
関ヶ原の戦いのあと、大坂冬の陣のときには、福島正則は江戸城に留め置かれた。正則の変心を家康が恐れたから。
信長の家臣のうち、とくに優れた四将が俗謡に歌われた。
「木綿・藤吉(とうきち)、米・五郎左、かかれ柴田に、のき佐久間」
木綿は、普段着としてなくてはならないもの。木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)は、信長になくてはならない側近だった。五郎左は丹羽長秀。柴田勝家は、戦闘時に先陣を切ってかかっていく強者(つわもの)。「のき佐久間」は、佐久間信盛。退却戦が上手だった。柴田勝家が秀吉に敗れたのは、本能寺の変を天下取りの好機ととらえる発想がなかったし、軍師もいなかった。
「井伊の赤備(あかぞな)え」というのは有名ですが、それは、武田二十四将の一人である山県昌景の部隊を引き継いだというのを知りました。武田の「赤備え」が「井伊の赤備え」になったのです。
そして、家康の家臣だった石川数正が秀吉の家臣になったのは、実は、家康を裏切ったのではなく、それは表向きのことで、本当は間者(かんじゃ。スパイ)となって大坂方に潜入したという説がある、とのこと。
ええっ、これって本当でしょうか…。私がこれまで読んだ本には、間者説はまったくありませんでした。まあ、世の中には、いろんなことがありますので、その説もあながち間違いだと決められません。
戦国時代の武将をとりまくエピソード満載の本でした。
(2020年5月刊。1700円+税)

長篠の戦い

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  金子 拓 、 出版  戎光祥出版
 関ヶ原の戦いは1600年。その25年前の1575年(天正3年)5月に起きた長篠(ながしの)の戦いの実相に迫った本です。
 武田勝頼は戦(いくさ)を知らないバカ殿さまではありませんでした。しかし、織田信長・徳川家康の連合軍に攻められ、大敗したこと自体は歴史的な事実です。
 鉄砲隊が3千挺の火縄銃を三列に編成し、三交替で射撃(三段撃ち)したから織田・徳川の連合軍が大勝したというのが通説だったわけですが、どうやらそういうことではないようです。ただし、「三段撃ち」が完全に否定されているとは思えません。
 また、武田軍は、騎馬軍団が無謀な突撃を繰り返したというのも史実に反するのではないか…、と指摘されています。ここらあたりの謎解きが、歴史物を読む面白さですよね。
 織田信長は、本願寺攻めを1ヶ月前までしていたし、このあともするつもりだったので、自軍の損害を最小限におさえたいと考えていた。
長篠城は、武田の大軍に包囲されながらも、2週間以上も耐えていた。そして、武田軍が前進したのを見て、織田信長は即座に奇襲作戦を実行した。
長篠の戦いは、日の出から午後2時ころまで続いた。織田・徳川連合軍は、足軽たちを武田軍に向けて前進させ、適当なところで引いて追撃してくるところを鉄砲で撃った。武田軍はぬかるんだ湿地帯だったため、馬による機動性が著しく損なわれていた。つまり、馬で移動しての攻撃に不向きな湿地帯だった。
織田・徳川連合軍による馬防柵も、鉄砲をつかった戦い方も、奇襲作戦も、ことごとく信長の防禦的姿勢によるものだった。そして、この防禦的姿勢に流し、それを前提とした状況判断が織田信長に勝利をもたらした。なーるほど、と思いました。
たくさんの写真や図版があり、視覚的イメージがつかめる100頁あまりの歴史小冊子です。
(2020年1月刊。1500円+税)

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