法律相談センター検索 弁護士検索
カテゴリー: 日本史(戦国)

戦国佐竹氏研究の最前線

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 佐々木 倫朗、 千葉 篤志 、 出版 山川出版社
江戸時代には秋田藩を治めた佐竹氏は、今もその末裔が県知事ですよね。ところが、戦国時代には関東にあって、小田原北条氏と対抗していました。
さらに、伊達氏の関東進攻を阻み、豊臣政権の下で54万国の大々名となった佐竹氏。
佐竹氏は常陸北部から起き上がった。そして佐竹義重は北条や伊達と戦った。
感状(かんじょう)とは、主君が部下の戦功を賞して出す書状。官途状(かんとじょう)とは、主君が部下の戦功を賞して、特定の官位を私称することを許す書状のこと。
陣城(じんじろ)とは、合戦(かっせん)のとき臨時に築かれた城のこと。
「洞」(うつろ)という耳慣れない目新しい言葉が出てきます。洞とは、濃厚な一族意識を含む、血縁関係にある一族を中心として、地縁などの関係をもつ者を擬制的な血縁関係に位置づけて包摂する共同体、またはそのような結合原理を示している。佐竹氏による権力編成の方法そして、血縁以外には、官途、受領(ずりょう)、偏諱(へんき)の授与、家臣の田の取立があげられる。
洞とは、血縁関係にある一族を中心として、それに非血縁者を擬制的に結合させた地縁共同体あるいはそのような結合原理。洞は、それぞれの階層に個別に存在し、大名クラス。勢力が構成する「洞」には、周辺の国人(在地領主や地侍)や大豪クラスのつくる「洞」が包摂され、包摂された国人クラスの洞のなかに、さらに下の階層の「洞」が包摂されるという、重層的な構造で成り立っていた。
関ヶ原の戦いのころ、佐竹氏は戦局に影響を支えるだけの軍事力をもち、実際、東西両軍にその存在を強く意識されていた。しかし、佐竹氏は軍事行動を起こして、その旗幟(きし)を対外的に鮮明にすることはなかった。なぜなのか…。
佐竹氏の内部では、積極的に西軍に加担しようという空気は醸成されておらず、上杉氏との協定も東軍による佐竹氏領国への侵攻を心配した佐竹義宣の焦りから、内部の意思統一が図られないまま、性急に結ばれたものだったと解するほかはない。
佐竹氏のもとでも鉄砲が大量に使われていたというのには驚きました。戦国大名の実情を知ることのできる本です。
(2021年3月刊。税込1980円)

図解・武器と甲冑

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 樋口 隆晴 、 渡辺 信吾  、 出版 ワン・パブリッシング
この本を読んで、前から疑問だったことの一つが解き明かされました。馬のことです。
日本古来の馬(在来馬)はポニーくらいの小さな馬なので、戦闘用の乗馬に適さないとされてきた。今の競馬場で走るサラブレッドのように馬高が高くないからだ。しかし、今では、それは否定されている。日本在来馬は、疾走時の速力こそ低いが、持久力に富み、その環境にあわせて山地踏破性に優れていた。
そして、日本には蹄鉄(ていてつ)の技術がないため、長距離を走れない、去勢しないので、密集して行動できないとされてきた。しかし、日本在来馬は、蹄(ひづめ)が固いのが特徴で、アジア・ヨーロッパよりも戦場の空間が狭く、長距離を疾走する必要がない。むしろ、どのタイミングで馬に全力疾走させるのかが武士に求められる技量だった。
武士たちは扱いに困難を覚えても、戦闘のために気性の激しい、去勢していない牡馬(オスウマ)を好んでいた。そして敵も味方も、日本の馬しか知らないので、日本の馬が劣っているとは考えていなかった。
日本在来馬は、大陸から輸入した大型馬との交配によって日本馬の体格は向上していた。当時の日本馬は、西洋馬と比較すると頭が大きく、胴長・短足を特徴とした。現代の目からすると小型に思えるが、アジアの草原地帯の馬としては平均的な体格。
成人男性が大鎧(よろい)と武具一式を身につけると、およそ90キログラムにもなる。馬は、それに耐えなければならない。と同時に軍馬として、気性の激しさが求められていた。そうすると、去勢術を知らなかったのではなくて、気性の激しさを求めて去勢しなかったということなんですね…。
この本は、日本古来の戦いから戦国時代までの戦闘場面が図解され、また戦闘服と武器も図示されているので、大変よくイメージがつかめます。
武田(信玄)家には、部隊指揮官として、「一手役人」と呼ばれる役職が存在した。手にもつ武器は長刀(なぎなた)。隊列のうしろで目を光らせ、敵前逃亡者を処罰するのが役目。逃亡者は長刀で切り捨てる。
独ソ戦のとき、スターリンが最前線の軍隊のうしろに、このような部隊を配置していたことは有名です。兵士は前方の敵と戦いつつ、うしろから撃たれないようにもする必要がありました。
日本で使用された火縄銃は、ヨーロッパでは狩猟用、または船載用だった。このため、地上で使用される軍用銃より軽量で、狩猟用なので、命中率に優れていた。そして、この火縄銃には黒色火薬が使われていて、射撃すると、銃口と火辺の双方から大量の白煙が噴き出した。
大変わかりやすく、イラストたっぷりで、とても勉強になる本でした。
(2020年9月刊。税込2420円)

城郭考古学の冒険

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 千田 嘉博 、 出版 幻冬舎新書
かつて日本列島には3万もの城があった。北海道にはアイヌの人々が築いたチャシがあり、沖縄には琉球王国のグスクがあった。江戸時代に、城は集約され300城ほどとなり、巨大化した。京都府だけでも1200もの城があった。
「天守閣」というのは近代以降の呼び方であって、正しくは「天守」あるいは「天主」である。「閣」はつけない。
江戸時代に建てた本物の天守が残るのは全国に12だけ。熊本の天守も残念ながら違いますよね…。
織田信長の安土城跡には2回行きました。山城です。天守跡に立ち、なんだか信長になったかのような気分をほんの少しだけ味わうことができました。なるほど、いかにも信長が君臨するにふさわしい城郭構造になっています。
著者は吉野ケ里遺跡の柵と塀の復元は完全に間違っていると厳しく指摘しています。「すき間のない板塀」はありえないというのです。なるほど、と思いました。
姫路城は天守や櫓(やぐら)を白漆喰(しっくい)で覆っているが、これは当時の最高の防災対策だった。
肥前名護屋城跡にも私は2回行きました。すぐ近くに立派な博物館もあり、秀吉の朝鮮出兵の無謀さを実感することもできます。近くに呼子(よぶこ)の美味しいイカ料理店もあり、ぜひまた行きたいところです。
信長の岐阜城にも行ったことがありますが、ここは典型的な山城です。ふもとにも信長の御殿があり、宣教師のルイズ・フロイスはふもとの御殿で信長と面会したあと、翌日、山城の御殿でも信長と面会したと書いています。
山城の御殿は、信長と家族が日常的に居住した常御殿としての機能を中心とし、人格的な関係を醸成した会所的建物を持っている。
安土城内に天正8年まで信忠や信雄の屋敷がなかったことは、安土城は信長と、信長に仕えた家臣たちの城であって、織田政権全体をまとめる城として、もともと意図していなかったろう…。
安土城は、あくまで信長の城であり、信忠は岐阜城、信雄の田丸城といって、織田政権にとっての要(かなめ)の城だった。
安土城の内覧は、圧倒的な上位者としての権威を見せつける意図があった。
豊臣政権の本拠は、実は大城城ではなく、聚楽第または伏見城だった。大城城は豊臣家の「私」の城だった。
日本の城についての詳しい知見を深めることができました。
(2021年3月刊。税込1034円)

戦国のコミュニケーション

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 山田 邦明 、 出版 吉川弘文館
戦国時代の武将たちは、どうやって確かな情報をすばやく伝達していたのかを残された書面から探った本です。
本能寺の変で信長の死を知った秀吉は直ちに「大返し」に取りかかったが、同時に敵方への情報遮断にも成功した。
戦国時代、人の噂の伝わる早さは今考える以上のものがあった。でも、確かな情報を伝える手紙はなかなか届かなかった。そして、手紙には、使者が口頭で詳しく述べると書かれていることも多かった。すると、誰も使者としては派遣するかが重要になる。
ただ、飛脚を使うこともありました。どんな使い分けがされていたのでしょうか…。
自分の出した情報が、いったい相手に通じているのかという不安は、当時はきわめて深刻なものだった。使者が帰るまでに1ヶ月はかかり、飛脚だと、着いたかどうかが確かめられないことも多かった。
戦国時代の文書は、書き手の心情や願望が生き生きと書かれているものが多い。なので、読みとるのは難しいが、内容が理解できたら、なかなか面白い、
戦国時代には、使者や飛脚が敵方に押さえられ、密書が奪いとられることが本当に起きていた。
「申す」というのは、下から上に向かって何かを主張するときが多く、上から下への意思伝達は「仰(おお)す」と表現された。
毛利元就(もとなり)は、三人の息子、隆元(たかもと)、吉川元春、小早川隆景に手紙を書いて送った。ところが、送った手紙(書状)原本は元就に返すことになっていたというのです。これには驚きました。
「読んだら早く返せ」と元就は書状に明記していました。それは、他人には決して見せられないようなことも書かれていたからです。つまり、家臣たちの評価も書いてあったようなのです。
書状には日付がないので、内容から書かれた時期を推測するしかありません。
長男隆元が41歳で急死したあと、吉川元春と小早川隆景は若い当主輝元(隆元の子)を支えて毛利両国の保持と拡大につとめた。元就は75歳で亡くなった。
有能な死者は二つのパターンがあった。その一は、足の速い者。その二は、理解力や交渉能力のある者。この両者が使い分けられていた。いずれにしろ、使者をつとめるのは、本人にとってきわめて危険にみちた仕事だった。
信頼できる情報を得ること、もたらされた情報を信じることは、戦国時代にはきわめて困難だった。それは、よく分かります。ところが、ネットの発達した今日では、フェイクニュースとかなりすまし情報に惑わされないことが求められています。情報の入手とその評価が、とても難しいのがよく伝わってくる本でした。
(2020年1月刊。2300円+税)

戦国の図書館

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 新藤 透 、 出版 東京堂出版
日本人は「戦国時代」が大好き。この本に、こう書かれていますが、まったくそのとおりです。映画「七人の侍」も戦国時代の話ですよね。織田信長とか豊臣秀吉、たくさんの武将たちが次々に登場してきますので、大いにロマンがかきたてられます。
ところで、「戦国時代」という言葉が一般に普及したのは明治に入ってからで、「戦国大名」という用語が誕生したのは戦後だというのに驚いてしまいました。江戸時代には「戦国」という言葉は使われておらず、一般的な言い方ではなかった。むひゃあ、そ、そうだったのですか…、恐れ入りました。
足利義政・義尚は、書籍収集をしていて、足利将軍家は蔵書家でもあった。
この本は足利(あしかが)学校について詳しく紹介しています。
足利学校は、室町時代の中期に、関東管領の上杉憲実によって再興された。鎌倉・円覚寺の禅僧が校長となり、生徒には琉球出身の学生もいた。すごいですね。沖縄から、はるばる本土、それも足利まで、噂を聞いてやってきたのでしょうか…。
足利学校では儒学を中心として『易経』に力を入れていた。当時、易学と兵法を学んだ足利学校の卒業生は戦国大名にひっぱりだこだった。易学は、戦国時代の「実学」だった。
足利学校は、自学・自習が中心で、修学年限も決められていなかった。まさしく大学ですね。なので、単なる図書館ではなかったということです。
このころの連歌師は、プロの間者(かんじゃ)ではなかったとしても、それに近いことをしていた。ふむふむ、なるほどですね…。全国を渡り歩いていて、各地の情報をつかんでいたことからのことです。
もともと寺院は僧侶のための教育機関だったが、武士の子弟も受け入れるようになり、室町時代に入ると、民衆の子どもたちの一部も「入学」が許可された。「大学」の受け入れ枠が広がっていったのでした。
戦国時代は、世の中が乱れた時代だったが、それまで京都で独占していた文化が一挙に地方に波及し、そこで独自に進化した画期的な時代だった。
というわけで、戦国時代の実情の一端を知ることのできる本です。
(2020年9月刊。2500円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.