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カテゴリー: 日本史(戦国)

知将・毛利元就

カテゴリー:日本史(戦国)

著者 池 享、 出版 新日本出版社
 中世の日本社会は自力救済の社会だった。
 この指摘には改めて眼を開かせられる思いでした。なるほど、現代社会と違って、全国に通用する裁判所とか国家警察はなかったわけです。
 中世の社会には、人々の権利を守り、安全を保障する国家=公権力は存在しなかった。国家の大切な役割の一つに、裁判などを通じた紛争の解決があるが、中世は紛争を私的実力により解決する自力救済の社会だった。
 私人間の紛争の場合、民事訴訟で判決が下されても、裁許状と呼ばれる判決文が出されるだけで、その執行は当事者に任されていた。ただ、これは鎌倉時代の話で、南北朝室町時代になると、使節遵行(じゅんぎょう)といって、守護などが判決の執行にあたった。そこで、私戦と呼ばれる実力行使が盛んに行われていた。
 室町幕府は、私戦を取り締まるために「故戦防戦法」という法律を定めた。「故戦」とは、私戦を仕掛けること。「防戦」とは、それに応じることを意味する。
 「喧嘩両成敗」というのは、紛争の解決において私的実力を行使した者は、理由の如何に関わらず死刑に処すというもの。こうやって私戦を禁止し、紛争解決は大名の裁判に委ねさせようとした。こうやって喧嘩両成敗法は社会に受け入れられて、天下の大法として定着していった。
 秀吉は、「惣無事」を打ちだした。「惣無事」とは全面的平和という意味である。秀吉は、「惣無事」の名のもとに大名間の領土紛争に介入し、秀吉の裁定に従うよう命じた。これに応じない者は「征伐」の対象となった。これによって薩摩の島津氏は降伏を余儀なくされ、小田原の北条氏は滅亡に追い込まれた。
中世の一揆の特徴は、参加者が主従のような上下関係ではなく、対等な関係にあること。カラカサ連判状の意味は、そこにもあったのですね……。
 毛利元就は筆マメで、100通以上の自筆書状が残っている。これらの手紙からは、その被害者意識の強さ、執念深さが浮かび上がってくる。他人を信用しない猜疑心の強さが示されている。
 家督の決定が家老たちの合議で決まるというのは、当時、珍しいことではなかった。家臣の意向は無視できなかった。家老たちが家督後継者を決めるときに最大の判断基準としたのは、器量だった。器量とは、才能のこと。それは、地域の平和と秩序を維持する能力だった。
 守護と国人領主との間は、ゆるやかな双務的契約関係だった。だから、状況によって寝返るのは、それほど悪いこととは考えられていなかった。交渉のとき、「現形」(げんぎょう)という、今で言うと裏切りに近い意味の言葉が平気でつかわれていた。
 家来(けらい)と家臣とは少し違う。家臣は従者一般の意味だが、そのなかに家人と家来という区別があった。家人は、主人の家に従属し、主人と命運を共にする存在である。家来は、将軍の御家人のように独自の「家」をもつ自律的存在をさす言葉である。
 元就は、家中統制を目ざし、自律的家臣であった井上衆を誅罰した。時代の流れが、従来の方式での秩序維持を困難にしていたからである。
 このころ、押し買いの禁止というのがあった。押し買いとは、価格交渉の途中で、買い手の側が勝手に安値で買い取ろうとする行為のこと。新聞の「押し紙」を思い出しました。
 戦闘者としての武士身分にとって、合戦の持つ意味は、手柄を立てて恩賞、とりわけ領地を獲得すること。これがないと戦闘意欲が出てこない。この「ごほうび」があるべきところ、上様が怠ったときには、年寄中が上申した。
 毛利元就は、大名領国を作り出した。大名領国を統合することによって(複合国家)、全国統一政権支配が確立した。
 毛利元就が中国地方でのし上がっていく過程を実証的に知ることのできる面白い本でした。
 
(2009年2月刊。2000円+税)

真田氏三代

カテゴリー:日本史(戦国)

著者 笹本 正治、 出版 ミネルヴァ書房
 戦国時代の武将の中で真田氏は人気ランキング1位になったりするほど、特別な人気がある。
 確かに私も、子どものころに読んだマンガ『真田十勇士』などに影響されてか、真田幸村(ゆきむら)には、とても愛着があります。徳川家康と互角で戦った戦国武将というイメージです。
 この本は、戦国合戦を生き抜いた武将というより、戦国時代を統治者として生き延びた真田氏三代を明らかにしています。
 真田氏は、出自が明らかではない。真田家が飛躍するのは、武田信玄に仕えた真田幸隆の代から。武田信玄と上杉謙信とのあいだの川中島決戦に、真田幸隆は武田軍の重要な武将として参加している。
 武田信玄は父を追放して当主となったが、その嫡男・義信を自刃させた。これって、戦国時代の非情さを示す象徴ですよね。
 武田勝頼にとって真田一族は、もっとも信用に足る家臣であった。武田信玄にとって真田幸隆は使い捨ての駒だったが、使ってみると思ってもみなかった戦功をあげてくれたので、そのまま対上杉謙信戦の最前線に置いた。そして、その都度、幸隆が手柄を立てたので、次第に重用していった。武田信玄は、真田幸隆の子、昌幸そして信昌を人質にとった。
 真田幸隆が亡くなると、その跡を継いだのは嫡男の信綱であったが、信綱は織田信長との長篠の戦いで討死してしまった。このとき、信綱の弟・昌輝も戦死したため、三男の昌幸が家督を継いだ。真田氏三代のうちでもっともよく知られるのが、この昌幸である。
 真田昌幸は使えていた武田家が滅亡するや、主家を滅ぼした織田信長に臣従した。ところが、その後、2か月もたたぬうちに信長は明智光秀に襲われて死亡した。これ以降、真田昌幸は、自分の領地を守ろうとして、周囲にいる北条氏直、徳川家康、上杉景勝、豊臣秀吉という大勢力の中を泳ぎ渡らねばならなくなった。
 やがて、真田信幸は豊臣家譜代として位置づけられた。
 秀吉の死後、関ヶ原合戦に際して、真田昌幸と次男の信繫が石田三成の西軍につき、嫡男の信幸が東軍について、一家で道を分けた。その直前、この父子三人は石田三成の密使を前に去就を話し合い、このように決めた。というのも、真田氏は、家が絶えることの悲惨さを身近に感じていたからである。
 真田昌幸は、宇多氏を媒介として石田三成と深くつながっていた。嫡男の信幸は、家康重臣の本多忠勝の娘を妻としており、家康そして秀忠と密接な関係にあった。
 当時の人々は、家の存続を第一義としていた。その背後に、家と家とのつながり、それを実体化していた女性の役割が大きかった。
 この本で不満が残るのは、関ヶ原の戦いについて、当然に家康の東軍が勝つべくして勝ったと見ており、秀忠軍が真田昌幸を攻略できずに遅れたことは影響を与えなかったとしていること、また、大坂夏の陣のとき、真田信繁が家康の本陣へ突撃して一時は家康を窮地に追い込んだ状況が詳しく描かれていないことなどにあります。とりわけ関ヶ原の戦いについては、家康も内心、秀吉子飼いの武将を信用し切れなかったのではないかという最近の有力説は説得力があると思いますが、この本はその点についてまったく触れるところがありません。残念です。
 大坂夏の陣の戦いについて、薩摩藩の武士が、真田こそ日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)と書いたそうです。
真田氏三代の実相をよく知ることのできる本です。
先日受けた仏検(1級)の結果が届きました。ガーン。なんと39点です。ショックです。120点満点で3割しかとれていません。いやはや、どうにもなりません。脳の老化現象のせいでしょうか、単語がポロポロと忘却の彼方へ飛び去っていきます。まあ、でも、なんとか、めげずに、こりずに、これからも毎日毎朝フランス語を聞き続きます。
(2009年5月刊。3000円+税)

利休にたずねよ

カテゴリー:日本史(戦国)

著者 山本 兼一、 出版 PHP研究所
 さすが直木賞を受賞した作品というだけのことはあります。利休の心の動きが、ことこまかに憎らしいほど描写されています。作家の想像力のすごさに圧倒される思いを抱きながら(実のところ、私のイマジネーションの貧弱さを嘆きつつ)読み進めていったのでした。
 次は、利休の言葉です。
 わしが額(ぬか)づくのは、美しいものだけだ。
 いやはや、この文章を根底において、山あり谷あり、起伏のあるストーリーに仕立て上げる腕前はおみごとというほかありません。
 おのれの美学だけで天下人・秀吉と対峙した男・千利休の鮮烈なる恋、そして死。
これは帯にあるコトバです。
 千利休が秀吉の側に長く使えていたこと、そして、秀吉が死を命じられたことは歴史的な事実です。それを秀吉の心理描写とあわせて、緊張感あふれる場面が次々に繰り広げられていきます。
 そして、茶道の奥深さも実感できるのです。たまにはこんな本を読むのも忙しさを忘れていいものだと思います。
 小説にしては珍しく、巻末に参考文献が明記されています。
 春の庭は色とりどりです。見てるだけで心が浮きうきしてきます。いま咲き始めたのはジャーマンアイリスです。手入れをしてはいけない丈夫な花です。ぬれ縁の先に気品ある薄紫色の花を次々に咲かせます。深い青紫色のアヤメの花も咲いています。こちらは胸をときめかす高貴な花です。妖しげな魅力があり目を惹きつけます。
 庭のフェンスにからまっているのは朱色のクレマチスです。そのうち純白の花も咲いてくれるはずです。
 車庫のそばの地面は鮮やかな朱色の芝桜が覆っています。そして最後に、終わりかけていますがチューリップもまだ健在です。今、黒いチューリップが咲き、フリンジがあったり、変わりチューリップがまだいるよと誇り高く叫んでいます。
 みんな私のブログに写真をアップしているので、見てください。
(2009年3月刊。1800円+税)

桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった

カテゴリー:日本史(戦国)

著者 藤本 正行、 出版 洋泉社新書y
 桶狭間(おけはざま)というと、谷底のような低地というイメージがあります。しかし、実際には、桶狭間山という丘陵地帯に今川義元は陣を置いていた。そして、信長は、堂々たる正面攻撃で今川軍を打ち破った。
 信長は、遺棄された義元の塗輿を見て、「旗本はこれだぞ、これを攻撃せよ」と命じた。ここまでは最初の攻撃で破った今川軍を追撃するのに夢中で、義元を捕捉できるとは考えてもみなかったはずだ。
 決戦は雨上がりに始まった。信長は空が晴れるのを見て、鑓(やり)を取り、大音声(だいおんじょう)をあげ、「かかれ、かかれ」と命じた。信長の軍勢が黒煙を立ててかかってくるのを見た今川軍は、後ろにどっと崩れた。
 今川軍は、初めは3百騎ばかりが真丸になって義元を囲み、退却を始めたが、信長軍の追撃を受けて、二度三度、四度五度と踏みとどまって戦ったものの、次第しだいに人数を減らし、ついには五十騎ばかりになった。そこで、信長軍の若者(服部小平太)が義元に切りかかり、毛利新介が義元の首をとった。
 以上は『信長公記』による。今川義元の出動は、京都に上洛して天下に号令するためという説があるが、本当は、信長との領国拡張競争で境目の城の取り合いをして衝突したということである。当時の史料で「天下」という言葉は、日本全国ではなく、京都を中心とした畿内近国を意味している。
 著者は、「奇襲」説は明治32年に参謀本部が刊行した『日本戦史・桶狭間役』に、信長の奇襲が大成功したとあることによるものだが、それは、資料にもとづかない創作だとしています。この本は、信長の家臣だった太田牛一(おおたぎゅういち)の『信長公記』(しんちょうこうき)を良質の史料として、それに全面的に依拠していますが、なるほどと思わせるものがあります。
 豪雨のなか、信長がわずかな手勢で義元の本陣に突入して義元の首を挙げたという通説のイメージは確固たるものがありますが、どうやら戦前の参謀本部に騙されているだけのようです。
(2008年12月刊。760円+税)

のぼうの城

カテゴリー:日本史(戦国)

著者:和田 竜、出版社:小学館
 非常にユニークな時代小説とオビにかかれています。なるほど、そうでしょうね。戦国時代のお城の攻防戦を描いているのですが、とてもユニークな物語です。そして、それが史実をふまえているというから、余計に面白いわけです。
 ときは戦国時代末期。秀吉の小田原攻めの最中に起きました。信長が本能寺の変で倒れる前、秀吉は毛利軍と戦っている最中でした。そのときとられた作戦は有名な備中高松城の水攻めです。
 秀吉がつくった人工堤は、下底が12間(22メートル)、上底が6間(11メートル)の幅があるという、途方もない分厚さがあるものを、3里半(14キロメートル)という気の遠くなるような長大さをもっていた。
 いやあ、これはすごいですね。北条攻めに動いた秀吉軍は総勢16万騎。そして、石田三成を総大将とする2万の大軍が忍城に向かった。忍城は関東7名城のひとつに数えられていた。忍城にいた成田長親は、周辺の百姓を城に呼びこみ、迎え入れた。
 三成は、籠城は内より崩れることを知っていたので、それを止めなかった。無駄な数の籠城兵は、兵糧を喰い散らす。兵糧が減るにしたがって裏切りの噂が噴出して城内は疑心暗鬼となり、裏切り者とされた者はどんどん粛清されてしまう。やがて籠城方の大将は、この状態では開城やむなし、と城を明け渡す。すなわち、城内に人が多いと、ほころびも増すことになる。
 やがて、忍城には3740人の籠城兵が充満した。ところが、城内には戦闘心旺盛で、士気は衰えなかったのです。
 三成は緒戦で忍城の計略によって負けたので、水攻めに切りかえた。7里(28キロ)の堤をつくることにしたのだ。秀吉の堤の倍である。のべ10万人を5日間、昼夜兼業で働かせる。人夫に対し昼は永楽銭60文、夜は100文。それぞれ米一升をつける。夜だけでも夫婦2人が5日間働くと、家族4人が1年食べられる米が買える。なーるほど。
 三成が人工堤の建設に着手したのは天正18年6月7日。数十万人が人夫として集まった。人工堤は、断面の台形の下底を11間 (20メートル)、上底を4間(7メートル)という厚さとし、高さを5間(9メートル)とした。秀吉のつくった備中高松の人工堤とほぼ同じ大きさ。三成は秀吉をはるかに上まわる長大な人工堤防を短期間のうちに完成させ、あわや忍城は落城寸前。ところが、アリの一穴が始まったのです。
 本を面白さがなくなりますので、これ以上は紹介しませんが、奇策によって忍城は助かってしまうのです。これだけ面白く読ませるのですから、たいしたものです。さすがに大絶賛を浴びた本だけのことはあります。
 三成は意外や意外、敗軍の将となってしまったのでした。
 最後に、「のぼうの城」というのは、「でくのぼう」の「でく」をとった呼び名からきています。「でくのぼう」でありながら、民衆の心をつかんでいた殿様だったというわけです。
(2007年12月刊。1500円+税)

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