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カテゴリー: 日本史(戦国)

城と隠物の戦国誌

カテゴリー:日本史(戦国)

著者 藤木 久志、 出版 朝日新聞出版
 和田竜『のぼうの城』(小学館)は大変面白い小説でしたが、その素材となった「忍城戦記」が紹介されています。「忍城戦記」は『埼玉叢書』(国書刊行会)にのっているそうです。それによると、忍城に領域の村人がやって来て籠城した様子が、次のように紹介されています。
 長野口持ち 足軽30人 農人300人
 北谷口持ち 足軽30人 農人200人
 佐久間口持ち 足軽40人 農人・商夫430人
 忍口持ち  足軽100人 町人670人
 行田口持ち 足軽420人 百姓・町人500人
 皿尾口持ち 足軽25人 百姓・町人150人
 持田口持ち 足軽420人 百姓・町人2627人
 15歳以下の童部など1113人、男女都合3740人立て籠るなり。
 忍城に緊急避難した周辺の人々のうち、75%ほどの百姓・町人が戦闘要員として諸口に配置された。
 そして、石田三成側の水責め工事の土木労働に雇われた周辺民衆の動向についても書かれている。このとき、石田三成は、土木工事の労働の報酬として、賃金(米銭)を「昼の労働には一人当たり永楽銭60文と米一升」「夜の労働には、永楽銭100文と米一升」と、かなりの高額を公約したので、「近隣・近国」の村や町は、ほとんど築堤ラッシュの状況を引き起こした。このころは、一日に米4升が相場たった。水責め工事が1週間で完成したのはそのせいである。
 落城したあと、秀吉が石田三成に対して、「避難民を殺したら、隣郷がみな荒廃するだろう。だから助けてやれ」と指示していた。
 戦国時代のお城と民衆とのさまざまな関係を実証的に究明している、面白い本でした。
(2009年12月刊。1300円+税)

小太郎の左腕

カテゴリー:日本史(戦国)

著者 和田 竜、 出版 小学館
 ときは戦国時代。種子島から入ってきた鉄砲が大量に使われ始めています。
 火縄銃による試合があります。火縄銃は連射を旨とすれば、1分間に5発の弾を撃つことが可能だ。小太郎は、これをやった。もはや速いという程度のものではない。ほとんど無造作ともいうべき所作で、瞬く間に玉薬を銃口に流し込み、弾を押しこみ、火皿に口薬を盛り、火ぶたを閉じた。火ぶたを閉じるや、すぐさま鉄砲を構えた。火ぶたを切るや、引き金を引いて激発させた。
 小太郎は、実は雑賀(さいが)衆の一人であった。雑賀衆とは、現在の和歌山市を中心とする一帯に猛威をふるった鉄砲傭兵集団である。鉄砲についてまだ懐疑的な当時の武将たちも、その雑賀衆の鉄砲における精兵ぶりには舌を巻き、彼らを敵に廻すのを極度に恐れた。
 雑賀衆は、五組の代表者が合議のうえで衆としての方針を決め、雑賀五組に住む者たちは、その決定に従うという形態で運営されていた。とはいえ、五組の代表者が雑賀衆を支配しているわけではない。五組の代表者は各村々の決定事項を持ち寄るため、惣国の構成員は決定された事柄に当事者意識を持ち、それもあってその結束は比類ないものとなった。そして、雑賀衆として敵と認めた一国には、一丸となってこれに当たった。
 えいえい、おう。
 この叫び声は、漢字で書くと、曳々、応だそうです。初めて知りました。
 『のぼうの城』も傑作でしたが、この本も実に読ませます。たいした腕前です。感心しながら一気に読みとおしました。
 
(2009年12月刊。1500円+税)

戦国大名と一揆

カテゴリー:日本史(戦国)

著者 池 亨、 出版 吉川弘文館
 越前朝倉氏の拠点であった一乗谷に行ったことがあります。山の谷間の平地に小京都がありました。発掘が進んでいて、屋敷のいくつかが復元されていますので、往時を十分しのぶことができます。
 京文化の影響が強いとされていますが、文化的な成熟度の高いことを実感しました。
 応仁の乱(1467年)が起きたころ、家臣は主人の家督問題に積極的にかかわるようになっていた。もはや主人に一方的に隷属する「家の子」ではなく、自前の「家」を持つ国人領主だった。主人に求めたのは「家」の存続を保証できる政治的能力(器量)であり、それにもとづく家臣の指示が家督決定の鍵となった。
 山城国一揆や一向一揆などを通じて、江戸時代の百姓一揆とは異なる。一揆の正確で重要なのは、構成員が原則的に対等な立場から参加していること。一揆の構成員が約束を結び、「一揆契状」を作成するとき、上下の序列がない傘(からかさ)連判(れんぱん)形式で署名することが多いのは、そのためである。つまり、一揆の構成員になる条件は、自立をした主体であることだった。
 将軍・足利義政の妻の日野富子は、「まことにかしこから人人」(一条兼良)と評価された。当時の武家の妻は、単なる「お人形」ではなく、家政を取り仕切る立場にあり、夫に問題があれば子を後見するのも当然の役割だった。これは、この時代では珍しくはない。
 応仁の乱による室町幕府の全国支配の崩壊が、天皇や公家の経済的基盤に打撃的被害を与えた。その影響は、朝廷の儀式(朝儀)の衰退として表れた。伝統的儀礼の遂行こそ、朝廷のアイデンティティとなっていたから、これは深刻な問題だった。国家的祈祷が中絶するか簡略化された。
 代替わり儀礼である大嘗祭に至っては、江戸時代まで200年余も断絶した。
 それどころか、天皇の葬式を行うのも大変で、遺体が2カ月以上も放置されたことすらあった。
 重要な朝儀の場である紫宸殿は破損したままで、周囲の築地は崩れ、警備も手薄のため、人の出入りは簡単で、たびたび盗賊に襲われた。
 各地に誕生した戦国大名は、自らを「大途」(だいと)、「公儀」などと称した。公権力の担い手としての立場を表明したわけである。
 戦国大名には、領国を統治する公権力の側面と、主従制によって官臣を編成する家権力の側面があった。この両側面を統一的にとらえることが重要である。
 分国法の核心は喧嘩両成敗法にあった。
 中世社会では、国家権力の力が弱く、地方の紛争はほとんど自力救済によって解決が図られていた。
 室町幕府も、自力救済を規制しようと「故戦防戦法」を制定していた。その内容は、「故戦」(最初に喧嘩を仕掛けた側)と「防戦」(それに応じた側)とで刑罰に軽重があり、また「防戦」側は正当性があれば罰は減じられるというもの。これでは決しがたく、結局、中途半端なまま実行性を持たなかった。
 それに対して、今川氏の喧嘩両成敗法は、紛争解決における実力行使を一切禁止し、今川氏の裁判権に服することを強制したものとして画期的意義を持つ。裁判制度の整備、充実は、まさにこれと表裏一体の関係にあった。
 なるほど、そういうことだったのかと思い知らされることの多い本でした。
 
(2009年8月刊。2600円+税)

描かれた戦国の京都

カテゴリー:日本史(戦国)

著者 小島 道裕、 出版 吉川弘文館
 16世紀、室町時代の終わりころの京都とその周辺の景観、風俗を描いた屏風絵が残っています。『洛中洛外国屏風』と呼ばれるものです。この本は、この屏風絵を部分拡大もしながら、そこに描かれている人物を特定しつつ、その情景を解説しています。カラー図版もあり、楽しく学びながら室町・戦国期の京都風景を味わうことができます。
 学者って、本当にすごいですね。よく勉強しています。ほとほと感心します。
 屏風は2つで一双と呼ぶ。左右で1組になる。右隻(うせき)、左隻(させき)と呼ぶ。京都の東側を描くのは右隻で、西側は左隻。そして、この屏風絵は鳥瞰図(ちょうかんず)となっている。市街地を上空から眺めている。
 著者は、相国寺(しょうこくじ)の東に六角七重の巨大な塔が建っていて、その上から見た景色が描かれているとみています。この塔は、高さが109メートルあり、今の京都タワー100メートルより少し高いというのです。すごい塔がそびえ立っていたのですね。信じられません。
 屏風図には、伝統的な四季絵、月次(つきなみ)祭礼国を踏襲して、春夏秋冬がきれいに配分されていて、それが京都の東西南北の方位に合致している。いやあ、大したものです。
 室町時代の幕府、すなわち将軍の御所は、かなり転々としており、代替わりごとに新たな御所を営んでいた。花の御所を作ったのは、三代将軍足利義満である。それまで幕府はほかの場所にあった。その後も、必ずしも花の御所が使われたわけではない。応仁の乱のあと、将軍は逃亡して京都にいないことが多く、京都にいるときも寺院や武家などの屋敷に間借りすることが多かった。
 幕府の門前では、たとえ関白であろうと乗り物に乗ることは許されないという慣行があった。これは将軍の格の高さを示すものである。
 このようなことを手掛かりとして、絵に描かれている人物を特定していくのです。
 古い京都とそのころの日本人の生活の一端を視覚的に知ることのできる本として、面白く読みました。
 明けましておめでとうございます。今年もよろしくご愛読ください。
 お正月は風もなく晴れ上がって気持ちの良い一日でした。午後から庭に出て球根を植えました。通りかかったお隣さんが、「いいお天気に恵まれましたね。今年はいいことがありそうですね」と声をかけてくれました。本当にそうですね。今年が日本と世界にとっていい年であることを心から願っています。
 大晦日は恒例の除夜の鐘をつきに近くの山寺に出かけました。11時45分から鐘をつき始めます。まだ若いお坊さんから、つく前に注意を受けました。つく前に、まず今年一年の反省をしてください。そして、ついた後に新年の希望を願掛けしてください。なるほど、と思いましたが、どちらもたくさんありますので、とりあえず新年は家内安全、無病息災を願いました。
 不況のせいなのか、例年になく鐘つきに並ぶ人は少なかったのですが、午前0時を過ぎたころ人が次々にやってきました。実は、我が家には韓国から娘の友人である若い女性が泊まりに来ていましたので、一緒に出かけて鐘をついてもらいました。日本は初めての人です。
 
(2009年10月刊。2200円+税)

大飢饉、室町社会を襲う

カテゴリー:日本史(戦国)

著者 清水 克行、 出版 吉川弘文館
 室町時代の日本人として現代の私たちにもっともポピュラーなのは一休さん(一休宗純)だろう。一休は実在の人物であり、ドクロの杖を持って正月の京の町をねり歩いたり、森侍者という女性との赤裸々な情交を詩によんだり、破天荒な逸話にこと欠かない人物である。そうなんですか、そこまでは知りませんでした。トンチ話だけかと思っていました。
 一休が大きく悟ったのは応永27年(1420年)のこと。このとき応永の大飢饉が起きていた。室町幕府は4代将軍足利義持の時代である。
 応永の大飢饉は、日本中世史において希有な相対的安定期にいた人々を一気に恐怖のドン底に陥れた衝撃的な大災害だった。餓死者が相次ぎ、田畠は荒廃し、都は難民であふれかえって、行き倒れた人々の死臭が市街に充満していた。
 このころ、「風姿花伝」を書いた世阿弥元清(ぜあみもときよ)も活躍した。
 ムクリコクリ。私も子どものころ聞いた○きす。蒙古(ムクリ)と高句麗(コクリ)のことを指す言葉です。得体の知れない恐ろしいもの、という意味で古くから伝わっていました。鎌倉時代の蒙古襲来の恐ろしさは、室町時代になっても人々の記憶に生々しく生きていました。現に、対馬の倭寇を退治するため朝鮮半島から侵攻があったのでした。
 室町時代、京都の米商人たちは、米価を意図的につり上げるため、道路を封鎖し、お米が京都に入らないようにしていた。そのことを、察知した室町幕府は米商人を逮捕し、その主犯格6人を斬首した。
 いつの世の中にも我が身のことしか考えない悪徳商人というのは存在するものなのですね。
 祈雨奉幣(きうほうへい)、止雨奉幣(しうほうへい)。雨乞い、また、晴天祈願のこと。室町時代の70年間、雨乞いの祈雨奉幣は10件、晴天を祈願する止雨奉幣は11件。
 首陽に赴く、とは餓死すること。京都に向かうという意味ではない。中国の首陽山の故事に由来する言葉である。これも知らないものです。いやはや、世の中には知らないことだらけですね。だからこそ、本を読む楽しみがあります。
 中世の人々は、春に多く死んでいた。秋の稲穂を十分に得られなかった中世の人々は、その後、蓄えを食いつぶしながら何とか翌年まで生き続けるものの、初夏の麦の収穫を待ちきれないで、春になると次々に死んでいった。中世は慢性的飢餓状態にあった。うへーっ、そ、そういうことだったのですか…。
 応永という元号は延々35年にも及んだ。それは、改元する権限を握っていたはずの天皇の地位がかつてないほどまでに低下し、かわりに室町殿が朝廷の政務にテコ入れをするという事態になっていた。そして、どこからも改元が提案されないまま、応永の元号が放置されていた。むむむ、なーるほど、ですね。
 室町幕府は、守護や国人(こくじん)、地元の有力武士といった武家の前では何らの利益の代弁者の顔をしながら、同時に公家や寺社の前では天皇にかわって何らの利益の擁護者として振る舞わなければならないという二面性を持っていた。このジレンマは室町幕府がずっと抱えていた矛盾である。
 室町時代の本質的問題がよく分かる本でした。
  (2008年7月刊。700円+税)

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