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カテゴリー: 日本史(戦国)

日本人の戦争

カテゴリー:日本史(戦国)

著者:ドナルド・キーン、出版社:文藝春秋
 まず、有名な著者を紹介します。
 1922年にアメリカはニューヨークに生まれました。コロンビア大学で日本文学を学び、アメリカ海軍の日本語学校で学んだあと、情報士官として太平洋戦線で日本語の通訳官をつとめました。戦後、京都大学にも留学しています。つまりは、日本語が読める、日本の研究者であるアメリカ人の学者です。
 日本人作家の日記を読んで、その分析がこの本にまとめられています。
 ここでは、私にとって「くのいち忍法」などで身近な存在である山田風太郎にしぼって紹介することにします。
 日本人が日記をつける習慣は古く10世紀にまでさかのぼる伝統である。日本人は、別に事件のないときでも、ごくあたりまえの日常の経験を、日記に書くことで残す必要を感じていた。それは老年になってからの備忘録として、あるいは子どもたちの教育に資することを願ってのことだった。
 日本軍の兵士は、新年になるたびに日記帳を支給された。アメリカの軍人は日記をつけるのを禁じられた。敵にとって有利な情報が日記に記されることを恐れたから。日本軍で日記をつけるのが奨励されたのは、日記を検閲して、思想状況を確認しようとしたから。
 山田風太郎は、昭和20年1月1日、医学部の学生として日記に次のように書いた。
 「運命の年、明く。日本の存亡、この1年にかかる。祈るらく、祖国のために生き、祖国のために死なんのみ」
 激しい空襲、また原爆が落とされたあとも、山田の戦争支持の姿勢は揺らぐことがなかった。8月15日の天皇の放送を聞いたとき、山田が味わったのは、安堵の思いではなく、苦い失望だった。
 山田は、戦時中、この戦争での日本の勝算について、客観的に考えることが出来なかった。日本の敗北の可能性について触れることは、山田には出来なかった。
 ヒットラーの死を知った山田は、ヒットラーを絶賛している。
 ヒットラーは、実に英雄なりき。シーザー、チャールス12世、ナポレオン、アレキサンダー、ピーター大帝に匹敵する人類史上の超人なりき。いやはや、なんということ・・・。
 8月15日朝、友人から天皇が放送すると聞いた山田風太郎は、いよいよソ連に対する戦線の大詔であると確信した。うむむ、ちょっとどうなんでしょうか。
しかし、終戦後まもなく、山田は人々が軍人を軽蔑の眼で見るようになったことを知って愕然とする。そして、9月1日の日記に山田は、多くの日本人が驚くほど短時間のうちに、従来とまったく正反対の態度をとるようになるに違いないとの予言を書いた。
 「今まで神がかり的信念を抱いていたものほど、心情的に素質があるわけだから、この新しい波にまた溺れて夢中になるだろう。敵を悪魔と思い、血みどろにこれを殺すことに狂奔していた同じ人間が、1年もたたぬうちに、自分を世界の罪人と思い、平和とか文化とかを盲信しはじめるであろう」
 さらに、山田は次のように予言した。
 「このぶんでは、いよいよ極端なる崇米主義が日本に氾濫するだろう」
 山田の嘲笑の対象となったのは、新たに手にした自由を喜び、軍閥によって課せられた奴隷状態の束縛から日本人を解放してくれたことで、マッカーサー元帥に感謝を捧げている類の人々だった。
 終戦時に大学生だった山田風太郎の日記を主として紹介しましたが、それは、彼が当時の典型的な軍国青年だったことを意味すると思ったからです。
(2009年10月刊。1714円+税)

関ヶ原、島津退き口

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著者、桐野 作人 、学研新書 出版
 天下分け目の戦い、関ヶ原の合戦において西軍の雄、島津義弘軍は敗戦が決まったあと、決死の敵中突破を図り、なんとか成功します。この本は、まず著者自身が「島津の退(の)き口(ぐち)」のルートを実地に踏破した体験にもとづいて書かれていること、そして、生還した将兵たちの手記を活用しているところに大きな特徴があります。つまり小説ではなく、その意義を実証した本なのです。
この本を読むと、当時の島津家というものが対外的にも内部においても、きわめて微妙な立場にあって、義弘が大軍を動かせなかった実情とその苦悩がよく伝わってきます。そんな苦しいなかで、よくぞ敵中突破300里に成功したものです。驚嘆せざるをえません。
 島津家中で義弘は孤立化していた。石田三成と義久との間で板ばさみになっていた。
 関ヶ原合戦において、義弘は太守ではなかったので、領国全体に対する軍事動員権を有しておらず、そのため、義久や忠恒の家臣はもちろん、一所衆とよばれる一門衆や国衆からの協力もほとんど得られず、自分の家臣団以外はほとんど動員できなかった。
 義弘は、西軍に加担することを決めてから、11通もの軍勢催促状を国許に送った。しかし、義久・忠恒は義弘の懇請を黙殺し、ついに最後まで組織的な動員はなかった。
 結局は、関ヶ原における義弘の軍勢は1500人ほどだったと推定される。
 島津勢は、関ヶ原合戦においては、「二備え」(にのそなえ)、二番備、後陣だった。勝機は去ったと判断し、66歳の義弘は、前方を突き破って故国へ帰ろうと考えた。
 島津勢の主要武具は鉄砲だった。これを足軽ではなく、武士が撃った。退き口の敵は、飢えだけでなく、東軍方や百姓たちの落武者狩りが容赦なく義弘主従に襲いかかった。
 途中で300人ほどのはぐれ組みが発生した。
 関ヶ原の戦場離脱から鹿児島帰着まで190日かかった。走破距離は海路をふくめて千数百キロに及ぶ。何より義弘の生き抜くという牢固な意志力と義弘を慕う家臣たちの自己犠牲的な奉公と献身の賜物であった。
義弘とともに大阪に戻ったのはわずか76人でしかないが、これは島津勢の生き残りすべてではない。1500人の島津氏の将兵3分の2が戦死もしくは行方不明となった。逆にいうと、3分の1も鹿児島にたどり着いたわけです。
義弘は、85歳の大往生をとげた(1619年)。
 義弘軍の敵中突破の実情をしのぶことができる面白い本でした。
(2010年6月刊。790円+税)

センゴク兄弟

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著者 東郷 隆、 出版 講談社
 ときは戦国時代。信長、秀吉につかえて、四国讃岐10万石の領主となった。失態があって浪人。後に戦功をたてて信州小諸5万石の主に返り咲いた。江戸時代になって兵庫県出石5万8千石の領主になるも、江戸末期に仙石騒動という有名な家督争いがあって、3万石に減封された。
 青年漫画誌ヤングマガジン掲載の、「センゴク」シリーズの原作本です。
 よく出来ています。よく調べています。感嘆しながら、どんどん読み進めました。
 越前の一乗谷が出てきます。私も一度だけ行ったことがあります。古い小京都といった趣があります。織田信長がまだ天下を取る前の時代です。美濃には、斉藤道三ががんばっていました。
 仙石兄弟が初陣に出かけるとき、旗持ち1人、長柄が6人、弓2人。兵糧運びの軍夫3人、馬上の武者2人。長柄は軍役規程によって2間半が4本、1間半の短槍2本。いずれも穂の長い直槍で、持ち手は自前の具足を身につけているものの、その形は鎧の袖がなかったり、脛当てがなかったりだった……。
 桔梗一揆。これは武士団の団結した姿を示すもの。
 着到(ちゃくとう)。国主からの催促状を差し出して名簿に記入すること。炭鉱で坑内に入る(下がる)前に点呼を受けるのも、同じく着到と呼んでいました。
 詞戦(ことばいくさ)は、慣れたものでなければつとまらない。少しでも言葉に詰まれば、敵味方の笑いものとなり、二度と立ち直れないほどの恥辱となる。これは、単なる悪口合戦ではなく、言葉によって相手を屈服させる呪詛(じゅそ)なのだ。
江戸期と異なり、戦国時代の百姓身分は帯刀が許されていた。
 物揃え(ものぞろえ)。軍役ほどおおげさなものではないが、近隣で不意の小競り合いがあったときに備えての予備動員のこと。
 懸銭(かけぜに)とは、畑に対する賦課額。
 秋成(あきなり)とは、秋の収穫高。
巻数(かんじゅ)とは、年末の特別な祈祷札のこと。
 公界人(くがいにん)とは、乞食のこと。浮浪者が多かった。公界人は神の子。これを守るのは神仏を尊ぶものの務めである。
 御発(ごはっこう)は出陣。山入りでは大事な家財を村の城に運び込んでいた。
 戦国時代について、よくよくイメージの湧いてくる本でした。ところが、参考文献に『武功夜話』が紹介されていますが、これは偽作だと私も思っています。ですから、引用するときには、せめて偽作とも指摘されているくらいのことは触れるべきでしょう。
 
(2009年12月刊。1600円+税)

城と隠物の戦国誌

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著者 藤木 久志、 出版 朝日新聞出版
 和田竜『のぼうの城』(小学館)は大変面白い小説でしたが、その素材となった「忍城戦記」が紹介されています。「忍城戦記」は『埼玉叢書』(国書刊行会)にのっているそうです。それによると、忍城に領域の村人がやって来て籠城した様子が、次のように紹介されています。
 長野口持ち 足軽30人 農人300人
 北谷口持ち 足軽30人 農人200人
 佐久間口持ち 足軽40人 農人・商夫430人
 忍口持ち  足軽100人 町人670人
 行田口持ち 足軽420人 百姓・町人500人
 皿尾口持ち 足軽25人 百姓・町人150人
 持田口持ち 足軽420人 百姓・町人2627人
 15歳以下の童部など1113人、男女都合3740人立て籠るなり。
 忍城に緊急避難した周辺の人々のうち、75%ほどの百姓・町人が戦闘要員として諸口に配置された。
 そして、石田三成側の水責め工事の土木労働に雇われた周辺民衆の動向についても書かれている。このとき、石田三成は、土木工事の労働の報酬として、賃金(米銭)を「昼の労働には一人当たり永楽銭60文と米一升」「夜の労働には、永楽銭100文と米一升」と、かなりの高額を公約したので、「近隣・近国」の村や町は、ほとんど築堤ラッシュの状況を引き起こした。このころは、一日に米4升が相場たった。水責め工事が1週間で完成したのはそのせいである。
 落城したあと、秀吉が石田三成に対して、「避難民を殺したら、隣郷がみな荒廃するだろう。だから助けてやれ」と指示していた。
 戦国時代のお城と民衆とのさまざまな関係を実証的に究明している、面白い本でした。
(2009年12月刊。1300円+税)

小太郎の左腕

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著者 和田 竜、 出版 小学館
 ときは戦国時代。種子島から入ってきた鉄砲が大量に使われ始めています。
 火縄銃による試合があります。火縄銃は連射を旨とすれば、1分間に5発の弾を撃つことが可能だ。小太郎は、これをやった。もはや速いという程度のものではない。ほとんど無造作ともいうべき所作で、瞬く間に玉薬を銃口に流し込み、弾を押しこみ、火皿に口薬を盛り、火ぶたを閉じた。火ぶたを閉じるや、すぐさま鉄砲を構えた。火ぶたを切るや、引き金を引いて激発させた。
 小太郎は、実は雑賀(さいが)衆の一人であった。雑賀衆とは、現在の和歌山市を中心とする一帯に猛威をふるった鉄砲傭兵集団である。鉄砲についてまだ懐疑的な当時の武将たちも、その雑賀衆の鉄砲における精兵ぶりには舌を巻き、彼らを敵に廻すのを極度に恐れた。
 雑賀衆は、五組の代表者が合議のうえで衆としての方針を決め、雑賀五組に住む者たちは、その決定に従うという形態で運営されていた。とはいえ、五組の代表者が雑賀衆を支配しているわけではない。五組の代表者は各村々の決定事項を持ち寄るため、惣国の構成員は決定された事柄に当事者意識を持ち、それもあってその結束は比類ないものとなった。そして、雑賀衆として敵と認めた一国には、一丸となってこれに当たった。
 えいえい、おう。
 この叫び声は、漢字で書くと、曳々、応だそうです。初めて知りました。
 『のぼうの城』も傑作でしたが、この本も実に読ませます。たいした腕前です。感心しながら一気に読みとおしました。
 
(2009年12月刊。1500円+税)

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