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カテゴリー: 日本史(戦国)

「秀吉の御所参内、聚楽第行幸図屏風」

カテゴリー:日本史(戦国)

 著者 狩野 博幸、   青幻舎 出版 
 
 昨年(2009年)秋に、新潟県は上越市で初公開された屏風絵が秀吉や秀次そして聚楽第などを描いているというのです。とても珍しい屏風絵なのですが、著者はそれをこと細かく実証しつつ解説してくれます。眺めて楽しく、読んでうれしくなるような本です。
 京都の御所を出て進んでいく行列の中央に天皇しか乗ることの出来ない鳳輦(ほうれん)が描かれている。その輿の上には金銅製の鳳凰が飾られている。なるほど、白装束の者たちが鳳輦をかついで進んでいます。そして、反対側からは、多くの武士たちに守られて進む牛車が描かれている。その牛車には、桐の紋がはっきり見える。
後陽成天皇が聚楽第(じゅらくだい)に行幸したのは天正16年(1588年)4月14日のこと。秀吉が聚楽第をつくったのは京都における政庁を作るためだったが、天皇の行幸もその視野に入れていた。
 秀吉は、天皇の行幸のとき、室町将軍のときの先例を無視して、内裏に御迎(おむかえ)に参上した。そして秀吉は桐紋の牛車に乗って、天皇の乗る鳳輦と向かいあう形で進んでいった。このあたりは、この本に解説とともに屏風絵が拡大されていますので、よく分かります。
秀吉の参内、天皇の行幸は華やかさのなかにも、恐るべき緊張の下に進められた。厳重な警固が張られ、行幸にあたっては、内裏から聚楽第までわずか15町ほどのあいだに6千余人の武士が張りついて警備していた。屏風絵に描かれた武士たちは、いずれも脇差しさえも着していない。
 この屏風絵は、儀式は儀式として描き尽くしながらも、それとは無関係に当時の市中に生きる人々の姿をこと細かに描いている。当時の女性たちが夫の諒解を得ることなく、勝手に外出している様子も描かれている。外国からやって来た宣教師たちが驚いた光景である。宣教師たちは、女性の貞操観念の低さにも呆れている。女性は自由だったのである。日本の女性こそ、世界でもっとも自由な存在であったと知るべきなのだ。女性だけでなく、子どもたちも伸びのびと生きていました。うらやましい限りです。
このようにきらびやかな素晴らしい屏風絵が最近まで広く世に知られていなかったというのは惜しい限りです。一見、一読の価値ある本としておすすめします。
 
(2010年10月刊。2500円+税)

戦国鬼譚・惨

カテゴリー:日本史(戦国)

 著者 伊東 潤、 講談社 出版 
 
 うまいですね、すごいです。やっぱり本職、プロの作家は読ませます。日本IBMに長く勤めたあと、外資系の日本企業で事業責任者をやっていた人が執筆業に転じたというのです。異色の経歴ですが、きっと金もうけなんかよりも自分の好きなことをしたいと思って転身したのでしょうね。見事な変身です。賛嘆します。私も見習いたいのですが・・・・。
 武田信玄以後の武田家に仕えていた武将たちの、それぞれの生き方が短編の連作として描かれています。どれもこれも、さもありなんという迫真の出来ばえです。
 戦国時代の末端の武士の頭領たちに迫られた決断の数々が、豊かな情景描写とともに再現されていますので、読んでいるうちに、たとえば木曽谷に、また伊奈谷に潜んでいる武将にでもなったかのような緊迫感があり、身体が自然と震えてくるのです。まさに武者震いです。
 武田信玄が追放した父親の信虎が登場し、また、信玄が死んだあとの勝頼も登場します。しかし、この本の主人公は、武田家を昨日まで支えてきて、主君勝頼を見限って裏切っていく武将たちです。そして、それはやむをえない苦渋の選択だったということを理解することができるのです。戦国時代の武将の心理を考えるとき、なるほどそういうこともありうるかなあ・・・・と、参考にできる小説だと思いました。
 ただ、読み終わったときちょっと重たい気分になってしまうのが難点と言えば難点です。でも、戦国武将の気分にどっぷり浸ってみたいという人には強くおすすしますよ。 
(2010年5月刊。1600円+税)

村人の城、戦国大名の城

カテゴリー:日本史(戦国)

 著者 中田 正光、 洋泉社歴史新書 出版 
 
 北条氏照(うじてる)の領国支配と城郭。こんなサブタイトルがついています。氏照は、今の八王子に城を構えていたようです。そして、村人の城のほうは有名な黒沢明監督の『七人の侍』をイメージするといいとのこと。この映画は時代考証がよく行き届いていて、戦国期の村人の生活や風習が実によく再現されているそうです。
 北条早雲は、実は本人は「北条」を名乗ったことがない。北条を名乗ったのは、二代目の氏綱から。北条早雲は、江戸時代につくられた名前である。実際に呼ばれていたのは、伊勢盛時(もりとき)とか、伊勢宗瑞(そうずい)であった。うへーっ、そうなんですか・・・・。
早雲は一介の素浪人から一国の主にのし上がったというのは間違いで、実際には歴とした家柄であり、中央政府で将軍に仕えて、「申次(もうしつぎ)」という外部の仲介役をつとめていた役人だった。なんと、なんと、思い込みというのは恐ろしいものですね。
滝山城のかつての雄姿が図解されていて、よくイメージが伝わってきます。
 戦国時代、平百姓でも苗字をもった者がいたことは既に知られている。日本人は、昔から識字率も高く、名なしの権兵衛を嫌ったのですね。
武田信玄が信州志賀城を攻め落としたときのこと。城内の兵を攻め立て三千人を討ちとり、その首を志賀城の周りにことごとく晒した。そして城内に残された婦人、子ども、老人を生け捕りにし、意気揚々と甲州へ引き上げた。帰陣してから人身売買市を開き、2貫、3貫、5貫、10貫という値段をつけて売りさばいた。要するに、身代金を得る場になった。捕らわれた者の親類が身代金を支払って生け捕りにされた人たちを買い戻した。これが当時の戦いの現実だった。相手を殺し、領主から名誉の感状を受けるより、生け捕りにして身代金を獲得した方が得だということ。殺さないで身代金を手にすれば、現実の生活は豊かになっていく。
 当時の合戦の実態は、相手の領国に侵入して田植え時の苗代を踏みあらしたり、収穫時の稲を刈り取って強奪することが多かった。さらには、民家に押し入って金目になるものを手当たり次第に盗み、奪い去った。
 当時の戦場は、うまくすれば人身売買で身代金を手に入れられる、大金が入ってくるうれしい稼ぎ場でもあった。二男三男たちが家長(長男)から離れ、積極的に戦場に赴いていった背景には、こうした事情があった。うむむ、そういう実情があったのですか。『七人の侍』も、そんな前提でみると、また認識が深まりますよね。
 ルイス・フロイスは、『日欧文化比較』のなかで、「日本では、ほとんどいつも小麦や米や大麦を奪うために戦っている」としている。つまり、当時、合戦する狙いは食糧を奪うことにあるといっているのです。
 一乗谷の朝倉氏の支配は100年間続いたが、伝染病の記録がない。いかに一乗谷が衛生的に管理されていた都市であり、住民がすぐれた衛生思想の持主であったか理解できる。城内は馬小屋に至るまで常に清潔が保たれていた。私も、朝倉の一乗谷に行ったことがあります。戦災にあって消滅した町屋が復元されていて、当時の生活を実によくしのぶことが出来ます。
 中世の城が図解され、とても分かりやすく読める本です。
(2010年4月刊。840円+税)

信長が見た戦国京都

カテゴリー:日本史(戦国)

 著者 河内 将芳、 出版 洋泉社歴史新書  
 
 この本を読んで最大の収穫があったと思ったのは、本能寺の変についての見方です。著者は次のように述べています。
 信長は光秀に殺されたというよりもむしろ、京都に殺されたといったほうがよいのではないかと思われる。御座所の本能寺に信長が6月3日まで滞在していることが明らかなうえ、その御座所の警固もほとんどなきに等しい状態であったならば、光秀でなかったとしても、信長を討ち果たすこと自体は、それほど困難ではなかったと考えられる。信長の無防備さについては、当時から「御油断」とか「御用心なし」と指摘されていた。信長にとって、京都はそれだけ安全な場所と認識されていたことを意味する。しかし、それは、あくまで信長の認識であって、実際に京都が信長にとって安全だったのかどうかとは別問題であろう。
 信長には元亀争乱以降に身につけていった自らの武力への自信と、その武力を後ろ盾とした支配に対する過信というものがあった。信長が予期もしないほどに「御油断」していたところにこそ、このとき信長が京都で死ななければならなかった最大の原因があったように思われる。
 本能寺の変のあと、京都の人々は光秀のことを主君を殺した謀判人とはとらえていなかった。しかし、ふたたび戦乱の世になることを恐れ、当時、洛中でもっとも安全だった「禁中」(内裏)の中へ逃げ込み、避難小屋を建てて日々を過ごしていた。
 戦国時代の京都は、今と違って天皇の住まいである内裏のすぐそばまで麦畑が迫っていた。かつての市街地には麦畑などの農地の中に上京と下京という二つの市街地が浮かんでいた。左京を洛陽、右京を長安といった。洛陽の中だから、洛中という。
 信長は本能寺をずっと利用・宿泊していたのではない。むしろ、もっと多くは、日蓮宗寺院である妙覚寺を利用していた。信長は洛中に拠点を構えるという意思が薄かった。信長は、延暦寺焼き打ちなどによって京都の人々から恐れられる存在となった。しかし、恐れられる存在となったことは、信長とその軍勢にとって、また京都の人々にとっても決してプラスに働くことはなかった。
 暴力への反動、そして過信した「独裁者」への哀れな末路を思い起こさせる貴重な指摘です。これだから、本を読むのは止められません。
(2009年2月刊。1600円+税)
 秋は春咲きの球根を植え付ける季節です。せっせと庭を掘り返して、チューリップなどを飢えています。これまで畳3枚分ほど、250本は植えたと思います。目標は500本ですので、まだまだです。チューリップ以外にも、ラナンキュラスやフリージア、クロッカスなども植えつけます。周囲にビオラを植えました。パンジーよりも小さな花で、可憐さに惹かれる花です。
 初夏に植えていたピーマンが実をつけていました。すごく固かったのですが、ゆでると美味しくいただけました。日本の食糧自給率はもっと高めるべきですよね。

山本五十六

カテゴリー:日本史(戦国)

 著者 田中 宏巳 、吉川弘文館 出版 
 
 日本海軍の連合艦隊司令長官として有名な山本五十六提督の実像を仮借なく暴いた衝撃的な本です。この本を読むと、山本五十六っていう海軍提督がなぜ、東郷平八郎と並んで有名なのか、わけが分からなくなります。
 たしかに真珠湾攻撃で華々しい戦果をあげたが、4ヶ月のあいだ勝ち続けたあとは、じりじり後退する一方であり、日本が劣勢に立たされはじめたところで山本提督は早々に戦死したため、敗戦の将にならずに死んだ。だから、山本の名声の根拠は不明なのである。
 ロンドン軍宿会議の当時、日本政府は、国民の存在が視野に入っていたとはとても思えない。うへーっ、なんだか、これって今の日本政府とまるで同じですよね。
強い軍備によって国を守るのも国家のためだが、国の財政負担を軽減させることも国家のためであり、どちらも国家のために欠かせなかった。海軍軍人は軍備にしか関心がなかっただけでなく、軍縮が外国との約束事であり、これを破れば国家間の対立を助長しかねないにもかかわらず、海軍軍人が国際通という一般論とは裏腹に、意外なほど国家間の関係に無節操だった。
日本においては、陸海軍におよる航空機開発がまったく別個にすすめられた。これは世界的にみても特異な現象であった。アメリカでさえ国家をあげてやっとB29を完成させたのに、日本では、同じような性能をもつ大型攻撃機の開発を別々にやろうとした。このとき、陸軍が支配的になることを山本五十六が嫌ったため、空軍として独立できなかったし、研究開発が一本化できなかった。山本五十六は歴史の流れに背を向けた。空軍を独立させたとき、その指導権を陸軍出身者がとり、陸軍の用兵思想にもとづく空軍になることを山本たちは危惧した。要するに、組織の縄張り争いであり、人数の多い陸軍にはかなわないが、指導権を取りあげられたくないというのが山本の考えだった。そもそも、山本は海軍航兵隊だけで戦えると錯覚していた。
日本海軍は、日露戦争の教訓をあたかも絶対的公理のように扱い、もっとも近い第一次世界大戦の教訓を究明しなかった。このため、海軍では戦訓研究の発展が妨げられ、戦略戦術思想の研究が停止状態になった。
 日本海海戦から40年たつのに、この海戦の勝利の戦訓を取り入れた「海戦要務令」は高い価値をもつとし、軍機として厳しい秘密扱いを続けた。日進月歩の軍事技術の進歩と古色蒼然たる「海戦要務令」の軍事思想とが矛盾なく整合することはありえなかった。
 山本五十六は革新性にみちた軍人ではなかった。艦隊決戦で大勝利すれば、日露戦争のように講和の機会が訪れると海軍軍人が抱いていた極楽トンボに近い楽観論に近い考えを山本五十六も持っていた。つまり、艦隊決戦にアメリカ海軍を引き込み、これに大勝すれば和平の機会があると山本も日本海軍も考えていた。総力戦では、途中の和平が不可能なことを山本は理解していなかった。
 日本海軍における艦隊決戦主義は宗教の教義みたいなもので、情勢や環境がそんなに変わっても信じられ続けた。技術の進歩や兵器の変化を認めながら、それを駆使する思想を変えようとしない矛盾に気づかない海軍軍人が多すぎた。
 山本五十六が辞職をちらつかせて要求するからハワイ作戦(真珠湾奇襲)にお付きあいはするが、本当は南方作戦が主作戦だから、ハワイ作戦で空母を損傷して南方作戦に支障が出てはたまらないというのが海軍軍令部の本音だった。だから、せっかくのハワイ奇襲も、軍令部や南雲・草鹿らによって肝心な点が骨抜きにされてしまった。真剣に勝利の機会を探し続けた山本が気の毒なほどだ。うへーっ、そうだったのですか・・・・。
昭和17年3月の珊瑚海海戦で、日本海軍が敗退した。このとき、世界初の空母機動部隊戦だった。しかし、歴史に学ばない、戦訓に学ばない日本軍人の性向が、日本の運命を左右することになった。珊瑚海海戦は、日本海海戦のように並行する戦艦中心の敵と味方の艦隊が打ち合う近代海戦を過去のものとし、空母機が相手の艦隊に対して爆弾、魚雷を放つ、新しい戦闘形態に切り替わる転換点だった。
このころ、山本五十六の声望は頂点に達しており、その一言一言がまるで神の声であるかのように海軍内にこだましていた。周囲のそんな雰囲気に山本自身も冷静な観察眼を失っていた。部下たちが浮ついていても、その雰囲気を戒め、失敗を客観視する冷静さこそ司令官の責任だったが、このころの山本には、これが欠けていた。
山本だけでなく、連合艦隊の指揮官に欠けていたのは、歴史の教訓に学ぶ姿勢、時間軸をたどって物事を考える態度であった。
山本五十六がラバウルへ飛行機に出かけるのをアメリカ軍は暗号解読で察知していたのは有名ですが、そのとき日本軍の打った電文は長く、なんと二回も発信したのでした。巡視の準備(たとえば、服装など)まで電文にしていた。これは最前線の緊迫感が欠如していたことの反映である。
なるほど、ですね。山本五十六提督と日本海軍の実像を初めてしっかり知った気がしました。
(2010年6月刊。2100円+税)
 ディジョンから車で1時間ほどかけてフラヴィニ・シュル・オズランという村へ出かけました。フランス映画『ショコラ』の舞台となったちいさな村です。フランスの美しい村の一つに選ばれているというので行ってみました。陸の孤島にポツンと浮かんでいる本当に小さな村でした。小さなスーパーが一つ、カフェが一つしか見当たりません。周囲には平穏な牧草地が広がっています。ところどころ白い牛たちが固まって点在して、いかにものどかな風景です。大きな古い納屋が食堂になっていて、人々が詰めかけ満員盛況でした。私はカフェでワインを一杯飲んでゆっくり休憩しました。
 ここで日本人夫婦とばったり出会いました。やはり同じようなことを考える人はいるものなんですね。

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