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カテゴリー: 日本史(戦前)

南京事件(新版)

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)

著者 笠原十九司 、 出版 岩波新書

 日本人、日本軍って、どうして、こんなに残酷なことが出来た(出来る)のか、たまりませんし、本当に残念でなりません。

 南京大虐殺について、今でも「ウソだ」と叫ぶ人がいて、それを信じている人が少なくないのも本当に残念です。つい先日、弁護士会の文書を作成中に、南京事件の被害者数(20数万人)に触れたところ。「一説によれば」と書き加えるような指摘を受け、唖然としました。

 たとえば、当時、南京には20万人しかいなかったから、虐殺された人が20万人とか30万人というのはウソだという「批判」があります。しかし、20万人というのは、南京城内の安全区の人口であって、周辺から避難してきた人を含めると200万人ほどに膨れあがったのです。また、日本軍(皇軍)は、昔も今も規律正しい軍隊だから、そんな非道なことをするはずがないと信じている人がいます。たしかに、日本にいるとき、また日本に帰国してからは善良な夫であり、父であったかもしれませんが、中国の殺し殺されという過酷な戦場をくぐり抜けた日本人将兵は、疲労困憊(こんぱい)して、食料も現地調達というなかで、中国兵を人間とみないで、ただひたすら鬼となって中国の人々の殺戮を繰り返したのです。

 南京政略は、当初の大本営の方針ではなかった。現地の軍トップたちが功名を競いあうなかで突っ走ったもの。なので、兵站(へいたん。食料の確保)も十分な手当てはなされなかった。そして、南京を陥落させたら、中国軍は降伏して戦争は終わると日本軍トップは考えていた。しかし、蒋介石は、さらに奥地の重慶で軍を再編して徹底抗戦の構えを崩さなかった。中国軍を甘く見ていたわけです。

 昭和天皇は結局、南京が陥落したことで、人々が熱狂するのを受けて、南京政略を偉大な成果だと賞賛した。この天皇の賞賛が陸軍上層部の尻を叩いたのです。これは決定的に間違っていました。

重慶に対する無差別爆撃がありましたが、同じような無差別爆撃を南京にもしていたのです。

日本全土を火の海に沈めてしまったのは、アメリカ空軍のカーチス・ルメイ将軍でしたが、戦後になってこのカーチス・ルメイに対して最高クラスの勲章(勲一等)を日本政府は贈呈したのです。信じられない暴挙です。

上海派遣軍司令官に任命された松井石根大将に与えられた任務に、南京政略は含まれていなかった。 松井は当時59歳で、同期ではもっとも昇進が遅かった。そこで、功名心を立てようとしたと考えられる。

この上海派遣軍は必要な兵站機関をもっていなかったし、法務部も在しなかった

 南京政略に従事していた日本軍は、士気の低下、軍紀の弛緩(しかん)、不法行為の激発が深刻な問題となっていた。

南京でまだ戦闘が続いているのに、12月11日、誤報から南京城政略として、成功を喜ぶ国内の状況に接して、南京の日本軍は怪げんな思いだった。日本国内は戦勝ムードに沸きかえった。

日本軍は自らも食料が乏しいので、捕虜をかかえることは不可能だった。そこで、方針として捕まえた中国兵の全員殺害を実施していった。

 日本軍占領下の南京は、「陸の孤島」となり、「密室犯罪」が出来る状況だった。そんななかで、日本軍兵士による強姦が横行したのです。

著者は結論として、被害にあった兵士と民間人あわせて20万人前後であるとしています。中国側のいう「30万人」という数字も、あながち誇張とは考えられないのです。

 南京事件を否定するかのような教科書(令和書籍)が文科省の検査に合格するなんて、いったい日本政府はどうなっているのか、と思います。 改めて広く読まれるべき新書だとつくづく思いました。

(2025年9月刊 1120円+税)

1945最後の秘密

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)

著者 三浦 英之 、 出版 集英社

 真珠湾攻撃に参加した海軍航空兵の一人(山川新作氏)は、48期11人のうち敗戦まで生きのびた、ただ一人だった。

1942年5月、アフリカの東側にある大きな島、マダガスカルを日本軍の潜水艦3隻で攻撃した。出撃したのは2人乗りの小型・特殊潜航艇2艇。魚雷2発を積んでいた。うち1艇がイギリス海軍の戦艦に魚雷を命中させて大破し、またタンカーを撃沈した。チャーチル首相は、その回顧録で被害を認めている。アフリカ沖まで日本軍が出撃していたなんて知りませんでした。

 ミッドウェー沖海戦で、日本海軍は主力空4隻を沈められ、航空機300機を失うという大敗北を喫した。ところが、大本営発表では逆に米海軍を撃破し、日本は1隻喪失しただけという、とんでもない嘘を発表した。

 このとき、航空母艦「赤城」も撃沈されたが、幸いにも救出された乗組員がいた。日本に戻ってからは、「軍の機密」を話すなと厳命された。

 満州国の経済は阿片(アヘン)で回っていた。そして、日本敗戦当時、大量の阿片が現地に残っていた。これをどうするか…。阿片の総量は14トン。当時のヤミ価格では、満州国予算の3分の1から5分の1に匹敵する金額になる。この阿片が行方不明となった。

 GHQが7トン半(時価72億円)を押収したことが当時(1946年3月)の新聞記事で紹介されている。しかし、本当は、やはり阿片は14トンあった。それは満州・奉天の星製薬の倉庫にあった。これを関東軍は日本の厚生省あてに送ろうとした。それが途中で消えてしまったということ。

 この本では、それに岸信介元首相がからんでいたことが示唆されています。岸信介は満州国の最上層に官僚として、阿片にも関わっていたことが、他の文献でも明らかにされています。このような秘密資金をもって戦犯として収容されていた巣鴨プリズンから早々と釈放され、そして自民党の原型をつくるのに力を貸し、ついには日本の首相にまでなったのです。まさに岸信介こそ日本の黒歴史の権化ともいうべき存在なのです。

 日本の戦中、戦後には、まだまだ釈明されていない深い闇が多々あることを知りました。

(2025年6月刊。2200円)

王希奇の「一九四六」

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)

著者 鈴木 宏毅・高橋 礼二郎 、 出版 社会評論社

 日本敗戦後の1946年に、旧満州から当時2歳4ヶ月の2人が引き揚げてきました。その後、2人は同じ高校に進むものの、接点はありませんでした。

中国人画家である王希奇は『一九四六』という大きな油絵を描いた。縦3メートル、横20メートルという超大作。1946年に始まった日本人の満州からの引揚状況を群像として描いている。

日本人の幼児2人は家族とともにハルビンから葫蘆島を経由して九州に着いた。

 2018年11月、米沢興譲館高校の同窓(級)会が開催されたところ、同級生のうち26人が参加した。そのうち、5人も中国からの引揚者だということが判明した。これは、それまでは満州からの引揚者であることを周囲の人になるべく知られたくないという事情があったことによる。

 しかし、著者の二人は、自分たちの体験を文字にし、また若い学生たちに語り伝えるべきだと奮起した。そして、ついに2017年6月、かつての「故郷」のハルビンへ向かった。

 中国人画家・王希奇は葫蘆島に近い遼寧省錦州市の出身。

 「戦争に勝者はいない。今の平和をみんなで守らなければならない」

 この考えから、自分の『一九四六』を2018年に舞鶴引揚記念館において展示した。その前、2017年に東京でも展示している。画家は、朝日新聞「ひと欄」で紹介された(2018年10月4日)。今度、11月6日から、福岡でもアジア美術館で展示されるそうですので、私もみに行くつもりです。

 今、葫蘆島駅は廃駅になって残っている。岸壁には、記念碑があるが、係留塔(ビット)が残っているのみ。

 私も叔父(父の弟)が満州で日本軍兵士となり、また日本敗戦後は八路軍とともに工場の技師として働いた状況を本(『八路軍(パーロ)とともに』花伝社)にまとめましたので、親近感をもって読み進めました。

 日本人の戦争被害(加害者の側面もあります)を語り伝えることの意義を再確認しました。

(2025年8月刊。2300円+税)

無名兵士の戦場スケッチブック

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)

著者 砂本 三郎 、 出版 筑摩書房

 圧倒的な迫力のある絵に驚かされました。戦場の生々しい現実が伝わってきます。

ところが、驚くべきことに、これらの絵は、戦後、日本に引き揚げてすぐに描かれたものではないというのです。戦後30年以上もたった1979年ころに描かれています。56歳のとき、脳出血で倒れ、回復したあと、著者は静物画を習いはじめ、2年ほどして絵画の基礎が出来てから戦争時代の絵を描き出した。いやあ、それにしても実に生々しい絵です。

 1940年、41年ころ、一緒に中国の戦場に行き、そこで戦死した戦友36人の顔が描かれています。一人ひとり、もちろん顔が違います。決して写実的ではありませんが、そうか、こんな人だったんだなと、全員フルネームで紹介されています。まったく頭が下がります。まさしく鎮魂の思いが込められています。

 著者も負傷はしていますが、軽いものでした。日本敗戦前に日本に戻ってきています。次に応召したときは、中国ではなく、ウェーキ島(大鳥島)で、飢餓の日々を過ごしたのでした。

中国戦線で、抗日軍兵士を匪賊として日本刀で首を落として殺害する状況も描かれています。日本軍は捕虜収容所をつくることもなく、全員、次から次に虐殺していったのでした。その典型が南京大虐殺です。皇軍(日本軍)が虐殺するはずがないという俗説は、この絵一枚からも見事に否定されます。

日本兵(戦友)が敵の中国兵の弾で殺傷される様子も描かれています。敵の機関銃によって次々に戦死していく状況です。

日本軍の無謀な渡河作戦で、隊長以下400人がまたたく間に戦死。それを指揮した無能な日本軍将校を厳しく批判しています。突っ込めと号令をかけ、自分は後方でぬくぬくとしている軍上層部を許していません。

 中国大陸での戦闘において、日本軍は苦しい戦いを余儀なくされていたのです。重慶軍(国民党軍です。八路軍ではありません)は意気軒昴だったのです。決して、軟弱ではありませんでした。

ウェーキ島の日本軍将兵は弾薬も食料もなく、みなガリガリにやせ果てていた。そのうえ、口減らしのための見せしめ処刑が日本軍には横行していた。

飢えのために食べ物を盗んだことが見つかった兵士は、他の者へのみせしめとして処刑されていった。毎月、1人か2人の兵士が処刑された。要するに、口減らしです。ひどいものです。

 乾パン4千個が1日分の食料。ついには、人間の肉(人肉)まで食べた。いやはや、極限きわまりない状況です。

ウェーキ島での自画像は、まさしく骨皮筋右衛門そのものです。もはや兵士ではなく、ガイコツ集団でしかありません。

なので、著者は、再軍備を主張する者に対して、鋭く批判するのです。今の日本で軍事力に頼り、大軍拡に走る自民・公明政権への痛烈な批判にもなっています。

7月に第一刷が出て、8月には第2刷となっているのも当然です。今、大いに読まれるべき本として、ご一読を強くおすすめします。

(2025年8月刊。3080円+税)

不屈のひと。物語「女工哀史」

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 石田 陽子 、 出版 岩波書店
有名な 「女工哀史」を書いたのは細井和喜蔵。そして、細井に女工の実情を語り聞かせたのは、その妻(内縁)の堀トシヲ。堀トシヲは、19歳のとき、東京モスリン亀戸工場に女工として働いていた。そして、そこで労働組合に出会った。
 日本労働総同盟友愛会の鈴木文治会長は、次のように女工たちに語りかけた。
 「労働者は人格者である。決して機械ではない。個性の発達と社会の人格化のために、教養を受け得る社会組織と、生活の安定と、自己の境遇に対する支配権を要求する」
 今日の日本で多くの人がスキマバイトをして毎日の生活をやりくりしています。そこでは人格が尊重されることなく、単なる機械のように働かされています。教養を身につける余裕どころか、生活の安定もなく、ひたすら企業に支配されるばかりです。
 「外国人」のためにそうなったのではありません。営利しか念頭にない企業優先原理が生み出した病理現象です。
細井和喜蔵の出身地は京都の丹後半島の付け根にある与謝郡加悦(かや)町。13歳のとき大阪に出て工場で働き始めた。
 堀トシヲが働きはじめたのは10歳5ヶ月のときで、岐阜県大垣市の織物工場。
細井和喜蔵は織布工場で働きながら、悲惨な労働実態を世に問うべく書き続けた。
 1923(大正12)年9月1日、関東大震災が発生。警察と憲兵隊は「朝鮮人襲来」のデマを拡散し、民間人を扇動しつつ、自らも朝鮮人の虐殺を開始し、あわせて「主義者」として労働組合運動の活動家を根こそぎ検挙して、憲兵隊とともに大虐殺を敢行していった。
 いやあ、本当にひどいものです。この朝鮮人虐殺(中国人も含まれますし、間違われて相当数の日本人も殺されています)は歴史的に証明された事実です。ところが、小池百合子・東京都知事は知らんぷりを決め込んだままです。ひどいものです。
 細井和喜蔵は1925年8月、病死した。その後も「女工哀史」は売れたが、堀トシヲは内縁の妻ということで、印税はもらえないという。堀トシヲは高井信太郎とともに香川豊彦夫妻の下で働いた。
 そして、日本敗戦後、高井信太郎も病死し、トシヲは、子どもたちを養うため、ヤミ商売を始めた。ヤミタバコ売り…。
 ヤクザ(暴力団)とも、警察や裁判所とも対等にわたりあった。
 次はニコヨン暮らし。ここでは自由労働組合づくりを進めた。このとき出色なのは、組合で映画を安くみれる取り組みをして喜ばれたということ。
 ところが、自由労組にも第二組合が出来て、団結は切り崩された。
 堀トシヲは高井トシヲとして、伊丹全日自労の委員長として活動した。
 「女工哀史」の作者(細井和喜蔵)を支えた元紡績女工が今なお元気に活動している。それを知って、大学の先生が、堀(高井)トシヲの人生の歩みを聞き書きすることになった。
 主要参考文献のトップに、高井としを「わたしの『女工哀史』」(岩波文庫)があげられています。私の知らない本でした。東洋モスリン亀戸工場で起きた壮絶なストライキのことを少しばかり調べて、父のことを書いた本(『まだ見たきものあり』花伝社)で紹介したのですが、認識不足というか、調査(探索)不足でした。さすが半藤一利氏の調査補助者として長く活動してきた著者ならではのきめこまかさに圧倒されてしまいました。
(2025年6月刊。2420円)

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