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カテゴリー: 日本史(戦前)

ブラック・スノウ

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)

著者 ジェームズM・スコット 、 出版 みすず書房

 1945年3月10日、東京は300機ものB29によってほとんど焼失し、10万人が亡くなり、100万人が焼け出されてしまいました。これは、当時38歳のカーチス・ルメイ将軍の指揮によるものです。

 戦後、日本はこの大虐殺を指揮したカーチス・ルメイ将軍に勲章を送りました。1964年のことです。それも、なんと最高の勲一等旭日大授章です。よくぞ罪なき市民(日本人)10万人を殺していただきました。日本国として深く感謝しますというわけです。まさしく日本人(正確には日本政府)の奴隷根性をよくあらわしている勲章です。とんでもないことではないでしょうか……。

 カーチス・ルメイは、この無差別じゅうたん爆撃によって、日本を「暗黒時代」に戻すと高言していました。そして、ベトナム戦争のとき、同じくカーチス・ルメイはベトナムを「石器時代」に引き戻すと断言したのです。また、ケネディとフルシチョフのキューバ危機のとき、カーチス・ルメイは核攻撃をためらうなとケネディに進言してもいます(幸いにも、ケネディはその進言を却下しました)。

 その後、調子に乗ったカーチス・ルメイはアメリカ大統領選挙にジョージ・ウォーレスという右翼候補の副大統領候補になりましたが、思慮に欠ける発言を繰り返したため、メディアの嘲笑の的となり、ついには「ジェット爆撃機に乗った石器時代人」とまで風刺され、戦時中の英雄という評価は吹き飛んで、1990年に死ぬまで悪評に悔やんだ。本人も「英雄から役立たずに転落した」と語っていたそうです。日本人がどんなに無惨に死のうが、苦しもうが、まったく良心の苛責を感じなかった男の哀れな顛末です。

 この本は、B-29がなかなか実用化しなかったこと、非武装の市民に対する大量無差別爆撃は犯罪ではないかという良心のとがめを感じていたアメリカ軍のトップもいたことを明らかにしています。

 この本には書かれていませんが、非武装の市民に対する無差別爆撃を世界で初めて実施したのは、日本軍なのです。重慶への無差別じゅうたん爆撃です。英米軍によるドイツのドレスデン無差別攻撃もひどいものですが、カーチス・ルメイは、日本全土を焦土にする目的で、執拗に最後まで実施しました。そして、昭和天皇が、交渉を有利にするため、どこかで必勝の一撃をアメリカ軍に加えたいと粘ったのも、日本人の被害を増大させる原因となりました。

B-29の開発費用は37億ドル。そして、実戦に使われはじめても当初はエンジン不調などで、うまくいかない機が続出した。東京大空襲は、低高度(1600メートル)なので、日本軍の対空砲火によって70%を失う恐れがあると見込まれていたのです。そこをカーチス・ルメイは強引に押し切ったのでした。賭けに勝って英雄となったわけです。

 3月10日の東京大空襲の被害にあった早乙女勝元氏の本は私も読みましたが、著者は、早乙女氏ほか日本人の被災者からも話を聴いています。

 戦争にならないようにするのが政治家の責務だというのを痛感させられます。好戦タカ派の高市首相にはぜひ読んでもらって、頭を少し冷やしてほしいと思いました。

 

(2025年12月刊。4620円)

しずくと祈り

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)

著者 朽木 祥 、 出版 小学館

 1945年8月6日午前8時15分、広島市の上空にあらわれたB29爆撃機3機のうち1機が、原子爆弾を投下した。その瞬間、空に巨大な日の球が出現した。まるで、もう一つの太陽のように。異様な太陽はすさまじい光と熱を発し、大地を底から鳴らすや、恐ろしい風で町をなぎ倒した。

 人々は生きながら焼かれた。鳩が地に落ちて、ぶざまに跳ねた。横倒しになって、のたうち回る馬の脇で。男とも女とも分からない人々が、いたるところに倒れている。

 焼かれてボロボロになった身体を引きずりながら、懸命に逃げようとしている人々もいる。顔が赤むけになってパンパンにはれている者、目玉が飛びだしている者、皮膚がめくれて身体や指先からぶら下がっている者。ほとんどが裸同然だった。腰ひもだけの姿で呆(ほう)けたように歩いている女の人もいた。みんな、生きながら焼かれた。

皆実(みなみ)町にあった住友銀行も、外壁だけになっていた。ただ、玄関は形を留めていて、石の階段が残っている。いま、広島の原爆資料館にある「人影(ひとかげ)の石」の黒い部分には、たしかに人間が座っていた。

「石の上に緑色の影がはっきり残っていた」というのは、直後に「死の人影」の主を収容した男性の目撃証言。それは、「子どもかと思うくらい小柄な女性の遺体だった」。あれっ、「人影」の主は男性じゃなかったの…?私は、ふと疑問に感じました。

 1945年、米軍カメラマンが石段の影を撮影したとき、近くにいた男性をすわらせて再現写真を撮ったことから、石段にすわっていたのは男性だというのが、いつのまにか通説になっただけのこと。なーるほど、そうだったんですね…。

 この本は、すわっていたのは越智ミツノさん(当時42歳)だとしています。娘が名乗り出て、前後の目撃者の証言と合致しているからです。

この石段は黒っぽい御影石で出来ていた。原爆の熱戦を浴びて白変したとき、人間がすわっていた部分だけ、黒く人の形に残った。戦後しばらくは、影の部分はコールタールみたいに真っ黒だったらしい。すわっていた人間由来の成分が石に染みついて黒い影のように残った可能性がある。

 奈良文化財研究所の調査によると、「人影の石」は、有機物がついたものであり、人間の皮膚などの生体成分の可能性があるという。貴重な掘り起こしの成果です。

核爆発の恐ろしさを再認識しました。日本は非核三原則を絶対に投げ捨ててはいけません。

(2025年10月刊。1540円+税)

刻印

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)

著者 松原 文枝 、 出版 角川書店

 満蒙開拓団、黒川村の女性たち。これがサブタイトルの本です。開拓団を守るため、彼女たちはソ連軍に差し出された。だが、それは、なかったことにされてきた―。

声を上げることで封印は解かれ、史実が刻まれる。自分を取り戻した女性たちの長き歩み。オビにはこう書かれています。

あまりに可哀想な女性たちの話ですので、購入したものの、積ん読にしておこうかなとも思ったのですが、意を決して読み始めました。そして最後まで読み通して、少しばかり救われた気持ちにもなりました。というのは、20歳前の若い女性がとんでもない人身御供の身になった事実を、本人が氏名を明らかにし、顔も出し、大勢の人の前で事実を語ったのですが、それを通して笑いのなかった生活から、孫と屈託ない笑顔で接するように変わったことが紹介されているからです。

黒川村というのは今はなく、今は岐阜県白川町の黒川地区です。有名な飛騨・高山より南側になります。

黒川開拓団は近くの村の人々もあわせて総勢129世帯、662人から成る。1940年当時の黒川村は人口4千人で、貧しい山村。

「貧乏人は満州に行け。次男坊・三男坊は満州に行け」と呼びかけられた。ところが行った先は、中国の農民が開墾した農地であり、そこに住んでいた。つまり、開拓団といっても、実は開拓者でも開墾者でもなかった。地区内に1000人の中国人と80人の朝鮮人が住んでいた。広い農地を開拓団だけではまかなえず、水田は朝鮮人に、畑は現地の中国人に貸し付けた。そして、現地の人々を小作人や使用人として使う、支配層だった。

日本の敗戦が近づくころになると、関東軍は次々に転出していったが、開拓団には何も知らされず置いていかれた。そのうえ、開拓団の青壮年は次々に兵隊にとられて、開拓団は年寄りと子ども、そして女性ばかりになった。

日本敗戦を知ると、それまで抑圧されていた現地の中国人が集団で開拓団を襲撃してきた。それに対して開拓団は多勢に無勢のうえ、頼りになるはずの壮年男子がいない。そこで、進駐してきたソ連軍と交渉して開拓団の安全を確保しようとした。そのときの条件が女性を差し出すこと、というもの。そうして、開拓団を守るためということで数えで18歳以上の未婚の女性15人が差し出されることになった。1回に4人ほどが接待所に行き、雑魚寝状態でソ連兵に犯されたとのこと。

その前に風呂に入り、終わったあと女性たちの子宮を医務室で洗浄する係がいた。それでも女性たちは梅毒にかかり、淋病に感染した。そして、チフスに感染するなどして女性4人が死亡した。この状況が11月まで続いた。

黒川開拓団が日本に帰国したのは翌46年8月から10月にかけて。満州に渡った662人のうち208人が現地で亡くなり、451人が帰国した。残留孤児は3人。

1982年3月に亡くなった女性4人を慰霊する『乙女の碑』が建立されたが、そこには何も書かれていなかった。しかし、何があったか歴史の事実として記録しておこうということになり、4000文字から成る碑文を書き込んだ。2018年11月にその除幕式が挙行された。碑文のなかには女性たちが「性接待」を余儀なくされたことだけでなく、開拓団は中国へ侵略していたものであることも明記された。

そうなんですよね。日本は戦争を始め、中国大陸を含めて各地で残虐な行為も敢行しているのです。二度と戦争をしないと誓ったはずの日本、それを明記している日本国憲法が踏みにじられようとしている最近の実情は背筋が寒くなります。

それなのに危機を煽りたてる高市首相の支持率が70%だなんて、とても信じられません。政府の行為による戦争の惨禍を二度と繰り返してはいけません。いい本でした。ご一読をおすすめします。 

 

(2025年8月刊。1870円+税)

昭和期の陸軍

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)

著者 筒井 清忠 、 出版 筑摩選書

 戦前の日本では、2・26事件を起こした青年将校たちにみられるように、軍人は自らエリート意識をぷんぷんさせる自信満々の野望家集団だと思い込んでいましたが、大正後期の軍縮時代には、軍人は抑圧されていて、劣等感と被差別意識を抱いていたというのです。これには驚きました。

大杉栄たちを虐殺した、かの悪名高い甘粕は、法廷で、「軍人は極めて殺風景で非常識なものと一般に世間から見られている」と述べるなど、当時の軍人の社会的地位の低さからくる劣等感を表明しているのです。

蔑視される軍人に対して、マスメディアで脚光を浴びている知識人とが対比されていました。

 後藤新平内務大臣は大杉栄のスポンサーのような関係にあった。大杉と一緒に殺された伊藤野枝は、頭山満(右翼の大物)の親類で、「お金に困ったら来るように」と言われていた。また、甘粕の妹(甘粕鍋子)は社会運動家だった。人間関係が、このように錯綜していることも初めて知りました。

大正7年ころ、陸軍将校生徒の志願者が著しく減少して、大きな問題となった。大正10年11月から、ワシントンで軍縮会議が開かれた。世論は軍縮を支持していた。そして、それは陸軍だけでなく、海軍にまで波及した。海軍兵学校の志願者が激減してしまった。犬養毅は、大正11年、軍学校の廃止も提案した。

新聞も軍縮の実行を政府に迫った。陸軍は、このころ「軍閥」として政撃され、激しい批判にさらされた。

ところが、昭和5年のロンドン海軍軍縮条約に対して、軍人たちは激しく反発した。そして、翌昭和6年の満州事変勃発後は、今度は世論は雪崩(なだれ)を売って反対の方向につき進んでいく。風向きって、こんな風にころっと変わってしまうのですね。今の日本で、準与党ともいうべき参政党やら国民民主党(玉木雄一郎・党主)が目下、人気を集めているのは、結局、きっと一過性なんでしょうね。でも、その害悪は看過できません。

陸軍省と参謀本部こそ、陸軍を支える、もっとも重要な二つの柱。陸軍省は、陸軍大臣(次官)、軍務局長、軍事課長、軍事課高級課員というラインで、動いていた。ここがエリート軍人たちの究極的に目ざすポストだった。

参謀本部では、総長、次長、第一部長、作戦課長というラインがもっとも重要。

下級職ほど陸大成績の優等者が選ばれている。これに対して、上級職では成績にあまり関係なく、派閥的原理によって人事が進められていた可能性が高い。

準軍事的性格の強い参謀本部の作戦関係は成績に依拠する側面が強く、軍政にわたり政治的側面の強い陸軍省の軍務局関係はそれほど成績を配慮しなかった。なーるほど、です。

 乃木を批判するインテリは多かった。しかし、夏目漱石や森鴎外など、乃木支持インテリもいた。

昭和の初めころ、日本陸軍は軍事的に劣勢となっていて、軍事大国とは、とても言えない状況にあった。

 著者は私と同世代ですが、よく調べていて、大変勉強になりました。

(2025年7月刊。2090円)

人びとの社会戦争

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)

著者 益田 肇 、 出版 岩波書店

 戦前の日本が、なぜアメリカとの戦争という、今思えば明らかに無謀で、勝てるはずもない戦争に突入していったのか…。その鍵を解き明かそうとする大作(2段階、580頁)です。

つまり、いわゆる庶民、人々が戦争を欲しがったのです。

日中戦争がはじまって以来、国内の経済はきわめて好調だった。たとえば、大阪では、市民の総所得は1937年に3憶7753万円だったのが、1940年には9億6503万円と3年で2.5倍以上も上昇した。多くの人々が、その温かい懐具合でもって百貨店で買い物したり、レストランやカフェで食事したり、映画館に行ったり、また遊郭に行ったり、都会のさまざまな娯楽に興じていた。

大阪の私鉄、市電の乗客は1.2倍、運賃収入20%増、貨物収入30%増(1938年と1939年の比較)。料理屋は15%の売上増、カフェは20%増、大衆的居酒屋は32%増となっている。花街もにぎわい、客数は25%増、遊女や芸者への揚げ代も29%増となっている。

同じことは、農村部でもいえる。米価やまゆ相場、木材相場の値上がりのなかで、ずばぬけた好況にあった。

日本の輸出総額は台湾向けで3倍、朝鮮向けで4倍、満州向けで10倍となった(1929年と1940年の比較)。日本の総輸入の42%、総輸出の67%が対植民地貿易で占められた。

大阪に居住する朝鮮人は41万人(1941年)。日本内地の朝鮮人の3分の1が大阪にいた。

農村地帯に住む多くの農民にとって、兵役に召集されて出征することは、必ずしも絶望と苦肉を意味しなかった。それどころか、軍隊に入ることは、近代的な生活を手に入れるための現実的な機会を意味していた。目が回るほど、忙しく、苦しい農作業からの解放を約束するものだった。「毎日の入浴」、「仲々良い」食事、「立派な革靴」などが支給され、それなりの給料をもらえ、家族に送金できることを誇りに感じていた。農村に生まれ、若いうちに学校をやめて働きはじめた者にとって、軍隊は一種の教育の場であり、自らの才覚次第によっては、社会的に上昇していくことを可能にする場でもあった。召集令状を受け取ったとき、「シメタと叫ぶほどうれしかった」という青年がいた。

国防婦人会は、大阪の主婦(44歳)が40人ほどで、1932年に始めたもの。それが1年間に10万人、10年間で1000万人の会員を擁する、国家戦争の遂行に協力する、もっとも影響力のある愛国団の一つになった。

多くの人々は、ひかえ目と言っても、かなり肯定的、もっと端的に言えば、かなり熱狂的に日本の戦争を指示し、主体的にそれに参加していた。

満州事変直後に盛り上がった好戦的愛国主義とでも呼べるような戦争熱は、日露戦争で勝ち得た満蒙権益がなし崩しにされつつあるという論理が背景にあった。

満州で起きた万宝山事件のあと、東京帝大生の意識調査では、88%が満蒙のための武力行使を正当だと答えた。

1931年9月、朝日新聞社が満州事変の拡大に慎重の論説を書くと、大規模な不買運動が起きた。すると、新聞の売れ行きが、3万部減、5万部減と急激に減っていった。朝日新聞は役員会議を開いて、社論の転換と軍部を支持する方針が定められた。官憲の弾圧というより、社会的圧力に圧したということ。

渋谷駅に今もある忠犬ハチ公の銅像は、1935年にハチが死んだあと、全国から寄せられた香典18万円(今の9億円)による。犬ですら自らの本文を尽くし、役割を果たし続けた。なので、人間がそれを果たさなくてどうするという問いかけが社会的に大々的になされたということ。

南京大虐殺事件を引き起こした日本軍は、統計20万人もいながら、ほとんど食糧等の補給なしに、現地調達でやってきていた。食糧の略奪、捕虜の虐殺、不軍紀の横行は必然的結果だった。

1941年夏ころには、即時開戦論を唱えるような熱気があり、日米戦争を回避するための糸口を操っていた政治家や軍人、政府高官たちを圧倒していった。

「背後から来る、暗いうねり」に、もうどうにもならなくなった。この強烈な時代の傾向は、「無言の力」「時代の圧力」「世論的なもの」といえる。

当時、多くの人々は、二つの戦争、それまで延々と続いていた、それぞれなりの社会戦争と、新たに拡大した国家間戦争を同時に戦っていたことになる。

いやぁ、実に勉強になる本でした。ご一読をおすすめします。

(2025年9月刊。4730円+税)

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