法律相談センター検索 弁護士検索
カテゴリー: 中国

南京大虐殺から雲南戦へ

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 青木 茂 、 出版 花伝社
 中国は1944年5月から日本軍に対して反撃を開始した。垃孟(らもう)などの日本軍守備隊を全滅させるなどの勝利を重ね、1945年1月までに日本軍を雲南から追い払った。中国が「日本に唯一、完全勝利した」雲南西部を舞台とする戦役、つまり雲南戦を中国は滇西(てんせい)抗戦と呼んでいる。
 ところが、このときの中国軍が蔣介石の国民政府軍であったことから、1980年代まで中国政府はずっと黙殺してきた。ところが、1990年代の江沢民政権になってから、中国政府は「歴史の空白」を埋め始めている。そして、2014年2月、中国の全人代常務委員会は9月3日を中国人民抗日戦争勝利記念日とした。
 9月3日とは、1945年9月2日に日本政府が降伏文書に調印した日の翌日のこと。
 滇西(てんせい)抗戦とは、前述したとおり、雲南省西部におけるビルマ援蒋ルートをめぐる日本軍と中国軍との戦い(雲南戦)のこと。雲南戦戦において、中国と日本の双方は、軍備を互いに増強しながら怒江(どこう)を隔てて2年以上も対峙した。
 日本軍は、1942年に垃孟(松山)を占領し、第56師団113連隊3000人を駐屯させた。1944年8月、中国軍は全面攻撃を開始し、9月7日、日本軍から垃孟を奪還した。日本軍の守備隊1200人は全滅。中国軍も7600人もの犠牲者を出した。
 日本軍があまりにも残虐な行為をしたことから、日本兵の死体は膝を折り頭を下げる姿勢(土下座埋葬)で埋め直され、倭塚がつくられている。日本兵に謝罪させるための土下座埋葬だ。日本軍に対する雲南地方の住民の怒りは今も鎮まっていない。日本兵の遺骨の収集や慰霊祭の実施は今も許されていない。それほど、現地住民の日本軍への反感は強い。
 裁判所での調停の待ち時間のなかで読了しました。
 日本軍って、本当にひどいことを中国でしたんですね、同じ日本人として、許せません。加害者は忘れても被害者のほうは忘れないことだということがよく分かりました。
(2024年2月刊。1700円+税)

美貌のスパイ、鄭蘋如

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 柳沢 隆行 、 出版 光人社
 父が中国人、母は日本人という、美貌の娘が中国側のスパイとなり、25歳にして日本軍から銃殺されたという実在の女性の足跡を詳細にたどった本です。
父と母が知りあったのは日本です。大勢の中国人留学生が日本にやってきました。そして、そのなかには日本人女性と知りあい結婚して、中国に渡った人たちがいました。父親となった中国人が留学したのは法政大学です。私の亡父も法政大学ですが、かなり後輩になります。
中国に戻ってから、父親のほうは国民党員として活動しはじめ、結局は、司法部で活躍します。母親のほうは、士族の末娘として生まれ、行儀見習いの奉公先で中国人留学生と出会って恋に落ち、親の反対を押し切って、中国に渡ったのでした。
 父親は中国での弁護士資格を取得し、検察官として働くようになります。
 そして、問題の彼女は三姉妹の二女として生まれました。彼女は、上海法政学院(4年制の大学)に入学します。
 満州事変に始まる日本軍の侵略行為に対して彼女は愛国心(もちろん中国が祖国です)に燃える学生の一人として行動するようになります。1932(昭和7)年1月の第一次上海事変のころのことです。
 そして、彼女は当時の中国を代表する人気月刊画報誌「良友」の表紙全面を飾ったのでした。たしかに間違いなく美人です。しかも、いかにも知性にあふれています。
 1937年8月、第二次上海事変が起きるなか、法政学院3年生の彼女は、CC団に加入します。CC団とは、蔣介石の国民党の組織の一つです。CC団は「中統」とも呼ばれます。スパイ活動を主任務の一つとする組織です。国民党には、「中統」と「軍統」の二つがありました。
「軍統」のほうが、よりテロなどのファシスト的活動を得意としていますが、この二つとも、蔣介石に絶対的忠誠をつくす点ではあまり変わりがありません。そして、彼女は、「中統」CC団のスパイとして、日本軍の「大上海放送局」で働いたこともあります。
 また、彼女は近衛文麿首相の子どもである近衛文隆に接近し、親密な交際をするまでになります。周囲が危険を察知して、急遽、文隆は日本に強制的に帰国させられ、関係は打ち切られてしまうのでした。
 結局、「中統」を裏切り日本側についた人間を処刑する手伝いをするのに彼女は失敗してしまいました。そして、日本軍に出頭するのです。まさか銃殺されるとは思っていなかったのでしょう。
 しばらく監禁されたあと、広い何もない荒野原で銃殺されてしまいました。1940年2月も半ばのことです。どうやらその遺体は今でも見つかっていないようです。現場付近が大々的に開発されたことであまりにも変わってしまったからです。
 歴史の悲劇の一つがここにもあると思いました。
(2010年5月刊。2500円+税)

長恨歌

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 王 安憶 、 出版 アストラハウス
 かなり前のことですが、上海には2度から3度、行ったことがあります。超近代的な巨大都市でした。奇抜な格好の高層ビルが立ち並び、巨大な群衆がせわしなく街路を往来していました。上海の地に立って、ここが「共産中国」だとはまったく思えませんでした。東京以上に資本主義の街だと身体でもって確信したのです。
 この長編小説は、そんな上海が舞台です。いえ、舞台というより主役そのものです。これは著者が言っているのですから、間違いありません。
一人の女性の運命を描いたけれど、この女性は都市の代弁者にすぎない。描いたのは、実のところ都市の物語だ。
 第1部は、日本敗戦前の1940年代の繁華な上海を描いている。国民党政府の幹部の妾になるのです。そして、その幹部は国共内戦のなかで死にます。
 第2部は、1950年代の日常生活を描きます。中国は復興過程にあるわけですが、共産党の政治も、文化大革命も直接的には描かれず、毎日の生活が淡々と過ぎていきます。いえ、子育ての話はあります。
 そして、第3部は1980年代の上海です。人々は投機に夢中になっています。そんななかで、主人公の女性は悲劇的な死を迎えるのです。
 1954年に生まれた著者は、もちろん戦前の上海を体験しているわけではありません。すべては想像上のものでしょう。それでも1940年代ミス上海コンテストをめぐる描写は秀逸です。まるで眼前でミスコンテストが遂行されているかのようです。そこが著者の筆力というものでしょう。私も、あやかりたいと本気で願っています。
 著者は、この小説を着想するきっかけは、かつてのミス上海が若い男に殺されたという新聞記事を読んだことにあるとしています。似たような話は、日本の高名な作家も言っていました。なので、作家は、新聞の小さな三面記事も見逃すことはないのです。私も、毎朝夕、新聞を丹念に読んで、モノカキとしてのヒントをつかもうと努力しています。
 ハトは、この都市(上海)の精霊である。毎朝、たくさんのハトが波のように連なる屋根の上空を飛んでいく。
 ハトは、この都市を俯瞰(ふかん)できる唯一の生き物なのだ。1946年、空前の和平ムードのなかでミス上海コンテストが企画された。
 このコンテストで主人公の王琦瑶は、3等になったので「ミス三女」と呼ばれるのでした。
 ともかく、この小説のすごいところは、情景描写そして心理描写が、それこそ微に入り細をうがつほどの繊細さなのです。まさしく読むだけで圧倒されます。その情景の雰囲気にたっぷり、いえ、どっぷり浸ってしまいます。その感触が読む人を心地よくさせるのでしょう。
 そんな情感を味わいたい人におすすめの現代中国小説です。
(2023年9月刊。3200円+税)

懐郷

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 リムイ・アキ 、 出版 田畑書店
 台湾の小説です。それも原住民族の一つ、タイヤル族の女性が主人公です。その名前は懐湘(ホワイシアン)といいます。
 早婚です。15歳、中学生のときに結婚し(夫は17歳)、まもなく子どもを出産します。ところが、若い夫は怠け者のうえに、暴力夫でもありました。妻に手を出し、子どもたちにも容赦ありません。
 原住民のしきたりに従って結婚したので、別れるのも簡単にはいきません。その苦労、辛さが微に入り、細に入って刻明に描写されていきますので、読みすすめるのが辛くなります。でも、救いがあります。どんなに暴力を振るわれても、自分を見失うことはなく、ついに子どもを残してでも家を出て、ひとり立ちするのです。タイヤル族の女性はたくましいし、明るいのです。
 「苦境にあっても屈することなく努力を続けるタイヤル女性」というのは、本のオビのフレーズですが、まったくそのとおりです。だから、感情移入しても、なんとか読みすすめることができるのでした。
 タイヤル族にもいくつものグループがあるようですが、台湾原住民というと、私は、戦前に起きた「霧社事件」を思い出しました。台湾にある高山の中まで進出していた日本人が、1930(昭和5)年10月27日、運動会をしている最中に、現地住民(当時、日本軍が高砂族と呼んでいたタイヤル族)に襲撃され、134人もの日本人が殺害されました。これは日本軍による圧制への原住民族の反乱です。台湾にいる日本軍はもちろん放置できず、大々的な討伐軍(3千人以上)を組織して原住民族を徹底的に弾圧しました(1000人を殺害し、強制移住させました)。
 この霧社事件は日本に大きなショックを与えると同時に、台湾では英雄的な抗日事件と記憶され、今に至っています。最近も台湾映画になり、日本でも上映されました。私も天神までみにいきましたが、実に感動的な映画でした。
 いま、ガザ地区をイスラエルが暴力的に支配しようとしていますが、いかなる圧制も永遠に続くことはありません。イスラエルがガザ地区を支配できるどうかも疑わしいと思いますが、仮りに支配できたとしても、永続的に支配するなんて、まったくもって考えられません。同じように、一刻も早くロシア軍はウクライナから撤退すべきだと考えます。
 夫から暴力をふるわれた女性は、必ず悲惨な日々を送ると言われている。しかし、自信と能力と取り戻すことさえできれば、女性の生命は、男性には想像もできないほど、したたかなのだ。
 これは、弁護士生活50年になる私の実感とぴったり合致します。本当に悲惨な状況に置かれている女性が少なくないのは、弁護士として数えきれないほど目のあたりにした事実・現実です。でも、その一方で、したたかに、たくましく生き抜けている女性が多い(少なくないというより、多いというほうが適切です)のも現実です。男性だって、引きこもりを続けていたり、うつに悩んでいる人が少なくないどころか、多数います。
 タイヤル族が住むのは標高800メートルほどの高い集落、そして標高1800メートルもある高地です。主人公はこの800メートルの集落から標高1800メートルの集落へ嫁入りしたわけですから、どんなにか大変だったことでしょう。
 読み終えたとき、思わず大きく溜め息をついてしまいました。
(2023年9月刊。税込3080円)

隋、「流星王朝」の光芒

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 平田 陽一郎 、 出版 中公新書
 中国の統一王朝、隋。わずか37年間しか続かなかった隋帝国の内情を明らかにした新書です。
 隋の初代は文帝楊堅で、二代目の煬帝(ようだい)は、大運河を築き、帝国を拡大しました。ところが高句麗遠征に失敗して、唐に滅ぼされてしまったのでした。
 隋の母胎となった西魏・北周は、いわゆる漢族ではなく、鮮卑(せんぴ)を中心とする北族(ほくぞく。北方の騎馬遊牧民の流れをくむ人々)がヘゲモニーを握る遊牧系政権としての側面を有し、鮮卑よりの政治を実行した。
秦(しん)は十数年しかもたず、漢は400年続いたものの、その崩壊後は、三国時代として対抗・抗争する大分裂時代として400年も続いた。これに終止符を打ったのが隋。
北魏を支えた一番の柱は、優秀な騎馬軍事力。騎馬遊牧民は高度な騎射技術を身につけていた。
突厥(とっけつ)とは、もとアルタイ山脈方面で活動していたトルロ(テュルク)系の遊牧勢力のこと。
 遊牧社会における女性の社会的地位は、南の農耕社会に比べて相対的に高かった。
 隋の文帝は、「開西(かいせい)の菩薩(ぼさつ)天子」と尊称された。
 インド伝来の仏教を、異国の教えとして排除しようとする動きがあった。
二代目の煬帝は、604年7月、36歳で即位した。水路を利用して食料を首都等に運んだ。
 高句麗遠征のとき全軍30万のうち、損耗率8~9割という隋の大敗だった。
 煬帝期の政府は、さながら「移動宮廷」の様相を呈していた。煬帝は、その最後は、頭を押さえて、跪かされた。そして、自ら解いて渡した白い絹のスカーフで縊(くび)り殺された。50歳だった。
 唐の前の隋王朝について、少し知ることができました。
(2023年9月刊。1100円)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.