法律相談センター検索 弁護士検索
カテゴリー: ヨーロッパ

ヒトラー

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ハンス・ウルリヒ・ターマー 、 出版 法政大学出版局
 アドルフ・ヒトラーは、人生の最初の30年間を、社会の片隅で無名の人間として過ごし、自伝における自己賛美とは逆に、職業教育や市民教育にほとんど真面目に取り組まなかった。ヒトラーは「目的のない生活」を過ごしていた。
 実際に政治的な「修業」をせずに、あれほど短期間のうちに大衆の指導者にのぼりつめた者はめったにいない。ヒトラーは準備がないまま突如としてドイツ帝国の首相となり、ごく短期間のうちに、並外れた個人的な権力まで拡大することができた者もまれだ。
 歴史によってヒトラーがつくられ、ついでヒトラーが歴史をつくった。
 ヒトラーは、思いやりと愛情に満ちた母親よりも、暴君的な父親からより多くの性格を受け継いだようだ。母親のあふれんばかりの愛情と寛大さが、若いヒトラーの、自分を過大評価し、無駄な努力はしない傾向を助長したように思われる。
 ヒトラーの幼少期で確実なのは、学業不振。数学と博物学では「不可」をとった。教師は、ヒトラーを「なまけ者」と判断した。地理と歴史も「可」だった。ヒトラーは、16歳で学校とおさらばし、それを喜んだ。
 ヒトラーはウィーンの芸術アカデミーには「デッサン不可、学力不足」と評価され、入学できなかった。オーストリアで徴兵検査を受けると、「不適格、身体虚弱」と判定された。
 ヒトラーは、バイエルン軍に志願し、兵役に就いた。ヒトラーは陸軍1等兵に昇進したが、伍長への昇格は断った。そして、伝令兵として行動した。
 1920年3月に除隊したヒトラーは、職業政治家となり、集会で演説するようになった。ヒトラーは、演説のテクニックに磨きをかけ、劇的に語った。聴衆の気分を感じとり、それをあおるかのように、初めは落ち着いて控え目な口調で、それから徐々に高揚し、ときに半狂乱になるほど聴衆の心をつかんだ。
 ヒトラーの演説は演劇のようで、身振・手振りや表情が発声と合ったとき、聴衆に向かってこれまで以上に激しく言葉をたたきつけるとき、声と身体は一体となって話に独特の効果を与えた。ヒトラーの仰々しいパフォーマンスと演説の政治的な内容は深く結びついて、互いに補いあった。その演説の力は、ヒトラーのカリスマ性を確立した。客席の前に、ヒトラーは嘘と欺瞞の世界をつくり出した。
 煽動家ヒトラーにとって、効果だけが重要だった。平和を愛する政治家とすら自己演出して納得させ、現在の悪に対する解決策を示し、漠然とした約束にすぎないが、よりよい未来を人々に期待させた。
ミュンヘンの社交界にデビューするとき、ヒトラーは、信じられないことに恥ずかしがり屋で、控え目な人物だった。おずおずと遠慮がちに肘掛け椅子にすわった。
 こんな描写を読むと、チャップリンの乞食紳士を連想させます。
ヒトラーには声の魔力と情熱があり、その振る舞いは素朴な印象を与え、教養ある社交界を魅了した。周囲はヒトラーを天才とみなし、反ブルジョア的な性格を称賛した。ヒトラーは猫をかぶっていたのでしょうね。
 1923年、ナチス党員は短期間のうちに10倍にふくれあがり、5万5000人を超えた。党員は、中産階級の人々が多かった。他の階級に属する人々も、ナチスの過激なプロパガンダや枚済のレトリックに心が動かされた。初期のナチス党の3分の1は労働者だった。
ヒトラーは1924年、9ヶ月間の収監生活を送ったが、それはホテルに滞在したようなものだった。35歳の誕生日を刑務所で迎えたヒトラーの前に、贈り物や花が山のように積み上がった。
ヒトラーは時流を読むのが得意だった。刑務所で執筆した『わが闘争』はつぎはぎだらけのお粗末な作品。この本は1925年7月に第一巻、翌26年12月に第二巻を刊行した。それほど売れなかったが、1930年の普及版は1932年に9万部も売れた。そして、翌33年末には100万部の大台をこえた。
 ヒトラーの憎悪は、国際主義、平和主義、民主主義に向けられた。この三つの仮想敵は、いずれも、マルクス主義とボルシェヴィズムへの挑戦と結びついていた。
 自信があって経験も豊富で、ヒトラーの上辺(うわべ)だけの魅力を見抜くような同年代の女性とは、明らかにうまくいきそうもなかった。
 ヒトラーは欺瞞の名手であり、大勢の聴衆の前での議論は避けた。質問に対して答弁しなければならないときには、のらりくらりとかわした。
ナチス党内の権力ゲームにおいては、互いに競いあわせて漁夫の利を得、忠実な取り巻きをつくろうとした。1931年末のナチス党員は80万人になった。
 「指導者は、まちがえてはならなかった」
 1932年のころ、総選挙でナチス党は200万票も失い、党の金庫は空(カラ)っぽ、だった。
 ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に指名したとき、ヒトラーはすぐに「お払い箱」になるだろう、多くの人がそう考えていた。このとき、ヒトラーは、まじめな政治家という印象を与え、不信感をもつヒンデンブルク大統領に取り入るべく、全力を尽くした…。
 ヒトラーの任命は、形式的には合法に見えても、憲法の精神に大きく反していた。1933年1月30日、ヒトラーは独帝国首相に就任した。
1934年4月までに数百人のユダヤ人大学教員、4000人ものユダヤ人弁護士、300人の医師、2000人の公務員が退職していった。
「本が燃やされるところでは、最後には、人間も燃やされる」
これはハインリヒ・ハイネのコトバ。まったく、そのとおりですよね。
ヒトラーの生い立ち、権力を握る過程でのエピソードなど、ヒトラーの真実に迫る本だと思いました。一読を、おすすめします。
(2023年4月刊。3800円+税)

沈黙の勇者たち

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 岡 典子 、 出版 新潮選書
 ヒトラー・ナチス支配下のドイツで1万2千人ほどのユダヤ人が地下に潜伏し、その半数近い5千人が生きて終戦を迎えた。これは驚異的な生存率ですよね。
ユダヤ人の潜伏に手を貸したドイツ市民は少なくとも2万人をこえると推測されている。彼らは、隠れ場所を提供し、食べ物や衣服を与え、身分証明書を偽造し、あらゆる非合法手段によって、ユダヤ人を匿(かくま)った。
 それはどんな人々だったかというと、その多くがごく平凡な「普通の人々」だった。職業もさまざま、年齢は老人も子どももいた。強固な思想の持主ばかりではなかった。圧倒的多数のドイツ国民がユダヤ人迫害に加担し、あるいは「見て見ぬふり」に終始するなかで、彼らは自分や家族を危険にさらしてまでユダヤ人に手を差し伸べた。
 1933年の時点で、ドイツ国内にいたユダヤ人はわずか52万5千人。ところが、ユダヤ人は、政財界、学問、文化、芸術などの分野で中心的な役割を担っていた。医師にも弁護士にもユダヤ人は多かった。これは現代アメリカでも言えることのようです。ユダヤ人は子弟の教育にことのほか熱心な民族だと言われています。潜伏期間においても、ユダヤ人は子どもたちには学問の機会を保障しようとしたようです。
ゲシュタポ(ナチスの秘密警察)がユダヤ人狩りに出動するときの80%は一般市民からの密告だった。また、ナチスは、いち度つかまえたユダヤ人を転向させナチスの協力者(「捕まえ屋」)に仕立てあげた。
 「地下に潜る」とは、ユダヤ人であることを隠し、別人になりすまして生きること。本当の名前を捨て、ユダヤ人の身分証明書を捨て、家を捨て、監視の目をかいくぐり、偽名を使って仕事を見つけ、闇で食料を手に入れ、家族と離れ離れになってでも生き抜く覚悟が必要だった。
 身分証明書を手に入れるのは、救援者から譲り受ける(譲った人は紛失として届け出て、再発行してもらう)、闇で入手する、あるいは盗む。この三つしかない。
ある親衛隊高官は、自分の娘が潜伏ユダヤ人と恋仲になったことから、そのユダヤ人青年を自宅に匿い、親衛隊員の身分証明書を偽造し、制服まで支給してやった。いやあ、そんなことがあったのですか…。
ユダヤ人弁護士カウフマンのユダヤ人救援者ネットワークは総勢400人というもので、最大規模でした。このカウフマンはユダヤ人として生まれながら、親の方針でキリスト教徒として育てられ、プロテスタント教会で洗礼も受けていた。カウフマンが何より強制収容所に入れられなかったのは、貴族階級出身のドイツ人女性と結婚したから。
 カウフマンのネットワークは身分証明書を大量に偽造していた。身分証明書の偽造に関わったのは22人、食料配給券の調達者は34人もいた。
 1943年8月19日、カウフマンは逮捕された。ゲシュタポへの密告によるものだった。そして、翌1944年2月17日、ザクセンハウゼン強制収容所で射殺された(58歳)。
潜伏ユダヤ人を助けた人々の善行は長いあいだ埋もれていました。これは、ドイツ国民の多くがホロコースト(ナチスによるユダヤ人の大量虐殺)を知らなかったとされてきたが、実は多くのドイツ国民はユダヤ人大量虐殺を知り、それに加担し、利益を得てきたことがあきらかになってきたことに関わるものなので、いわばタブーだったことによる。ひるがえって、日本でも今でも「南京大虐殺」なんてなかったという嘘が堂々とまかり通っていますので、共通するところがあります。
 本書は「沈黙の勇者」について統合的な形で日本人に示してくれるものとなっています。ご一読をおすすめします。
(2023年5月刊。1750円+税)

カティンの森のヤニナ

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 小林 文乃 、 出版 河出書房新社
 カティンの森事件とは、第二次世界大戦中に、ソ連軍の捕虜となっていたポーランド人将校2万5千人が大量虐殺され、埋められてしまった事件。これは、スターリンがポーランドという国を完全支配するため、ポーランド軍の幹部である将校たちを抹殺しようとしたもの。大量虐殺が発覚すると、スターリンは、その犯人をヒトラー・ナチスだと言い逃れようとした。
 そして、第二次世界大戦で苦労していたイギリスなどは、ソ連を味方にひきつけようとして、ヒトラー・ナチスが犯人ではなく、スターリンのソ連が犯人だと分かっていながら、「黙して語らず」の姿勢を貫いたのでした。
この2万5千人のポーランド人将校のなかに、たった1人だけ女性の犠牲者がいたのです。それが、本書の主人公である女性パイロットだったヤニナ・レヴァンドフスカ。ちなみに、ポーランド映画の巨匠アンジェイ・ワイダ監督の父親も、この事件で殺されている。
ヤニナは殺されたとき、32歳だった。ヤニナは、ポーランド空軍の中尉だった。
 ポーランドは、第二次世界大戦のなかで、3千万人の国民のうち、6百万人が殺害された。まさしく、国の存亡をかけていたのですね。
 それにしても、スターリンの責任は重大です。犠牲者はドイツ製の弾丸で頭を撃ち抜かれていたが、遺体の手を結んでいた縄は、ソ連製だった。
 天文学者のコペルニクス、科学者のキュリー夫人、ショパンもみなポーランド人。ナチス統治下のポーランドではショパンの曲は禁止されていた。うひゃあ、これまた、あまりにも野蛮そのものですよね。
 ポーランドがソ連の衛星国だったときは、「カティンの森事件」それ自体が「なかったこと」にされていた。
 ヒトラー・ナチスのユダヤ人などの大量虐殺も決して忘れることのできないほどひどいものですが、スターリン・ソ連のポーランド人大量虐殺(「カティンの森事件」)も忘れてはいけないことです。
戦争は狂気の連鎖を生むといいますが、現代の日本も、「戦前」にあるようで、岸田政権は空前の大軍拡予算を組み、また、ヘイトスピーチが公然と横行しているのを見て、空恐ろしくなってしまいます。
(2023年3月刊。2320円)

HHhHプラハ、1942年

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ローラン・ビネ 、 出版 創元文芸文庫
 ヒトラー・ナチスの高官だったラインハルト・ハイドリヒが暗殺されたのは歴史的な事実です。いくつか映画もありますし、私もみました。
 ハイドリヒはヒトラーの右腕としてユダヤ人大量虐殺を推進していきました。アイヒマンも出席したヴァンゼー会議を描いた映画も最近公開され、これも私はみました。
 ハイドリヒとは、いかなる怪物だったのか、小説として、読者に問いかけている本です。
 事実ではないようですが、ハイドリヒは父親がユダヤ人だという根強い噂につきまとわれたせいで、思春期を台無しにしたとのことです。
 ハイドリヒの暗殺現場で使われたイギリスの短機関銃「ステン」は、その場で故障して役に立たなかった。これなんか、ええっ、嘘でしょと言いたくなりますが、これまた事実でした。それほど故障の多い機関銃だったようです。結局、ハイドリヒの乗っていた車に目がけて投げた爆弾(イギリス製の対戦車手榴弾)によってハイドリヒは死に至った。
 チェコ政府が送り込んだ2人の暗殺者は、どちらも孤児で、妻子もいない。そういう若者が選ばれたようです。
ハイドリヒは、プラハ市内を装甲なしのオープンカーで運転手以外は警護の兵も乗せず、自宅にしていた城から市内まで通勤していた。
 ハイドリヒが暗殺されたことを知ったヒトラーは1万人のチェコ人を銃殺せよと命令した。
 これには、国内のレジスタンスが犯人ではない、ロンドンの仕業だ、集団的報復はしないほうがいいといさめられて、ヒトラーは引き下がった。
その代わりとして実行されたのが、リディツェ村の村民大量虐殺だった。村の存在自体が消し去られた。
そして、暗殺者たちが潜む教会堂が包囲された。ハイドリヒ暗殺の代償は、あまりに大きいものがありました。
 要人暗殺には反対ですが、ヒトラー暗殺が成功していたら、それももっと早く成功していたら良かったのに…と思うことが私にもあります。
(2023年4月刊。1300円+税)

古代ギリシア人の24時間

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 フィリップ・マティザック 、 出版 河出書房新社
 紀元前416年のアテネの日常生活を生き生きと再現しています。このころのアテネの都市人口は3万人。ただし、面積あたりの天才密度は、人類史上、ほかに例がない。
 このとき、アテネはスパルタの軍隊との戦争の幕間(まくあい)として平和を楽しんでいた。
 外国人居住者(メトイコス)は女性と奴隷と同じく民食に出席できない。また、裁判の陪審員にもなれない。それでも、アテネの裁判所に訴えることはできた。また、メトイコスは、アテネ軍に入隊できる。正式な重装歩兵にもなれた。
 アテネでは、人はさまざまな事情から奴隷になる。海賊に襲われた船に乗っていて、身代金が払えないと奴隷にされた。奴隷は、重大な社会的不利益の一種と考えられていた。
 貴族の娘は14歳で親元を離れ、人の妻となって自分の家中に入る。
 オリーブは、アテネ人の暮らしに欠かせない。食事のたびに出てくるし、料理に、掃除に、身を清めるのに、医療にも明かりにもオリーブ油は使われている。
三段櫂船はアテネのテクノロジーの最高峰。世界で最先端の海上兵器。三段の漕手が同時に櫂を水に差し入れられるように工夫されている。櫂は合計170本。全長35メートルの三段櫂船は、最高時速15キロメートル。この半分の速度で、終日巡航できる(実際にしたようです)。この漕手は奴隷ではなかった。というのも、奴隷は反抗心から、いい加減な仕事をするので使えなかった。
 三段櫂船は沈まない。水が浸入して操縦不能になっても沈没はしないのだ。
 奴隷を貸すのは、良い稼ぎになる、主人は奴隷1人につき週に1ドラクマを受けとった。
学校ではレスリングを教え、また、音楽の授業もあった。哲学者プラトンもこのころ産まれている。
 アテネでは市の公職は交代制。男性の市民は、一生に一度は公職につくことになる。評議会の定数は500人で、その議員は毎年交代する。再任なしで、一度しかなれない。
 アテネの女性は、たとえ未婚であっても、夫以外の男性とキスしただけで、「姦通」の罪を犯したとされる。
 強姦の傷は一時的なものだが、誘惑は妻を夫から永遠に引き離す危険がある。
ヘタイラは売春婦と違って決まった愛人がいる。アテネ人の女はヘタイラにはなれない。アテネの貴族の男が結婚するのは30歳過ぎてから。ヘタイラは、アテネの社交生活には欠かせない存在だ。
アテネには、女性も子どもも含めて10万人いて、政治に関われる成人男性は3万人。メトイコスが4万人、奴隷が15万人以上。つまり、人口の半分は奴隷。成人男性のメトイコスは2万人。なので、自由人の成人男性が集まると、5人に2人はメトイコスとなる。
 ギリシアとアテネの市民生活の一端を知ることができました。
(2022年12月刊。2860円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.