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カテゴリー: ヨーロッパ

古代ローマ解剖図鑑

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 本村 凌二(監修) 、 出版 エクスナレッジ
 古代ローマは、紀元前753年の建国から476年の西ローマ帝国の滅亡まで、1200年の歴史がある。
前753年に建国宣言でもされたのかなと不思議に思っていると、なんのことはない、神話なんですね。ラテン人のロムロスが前753年に建国したという神話があるというだけなのです。まあ、それはともかくとして、ローマの政治には私たちもよく知っている人物が次々に登場します。塩野七生の「ローマ人の物語」(新潮社)はかなり前のことですが、最後の15巻まで読み通しました。たいした筆力だと圧倒されてしまったことでした。
ローマがカルタゴと争ったポエニ戦争では、カルタゴ軍の象兵がローマ軍のスキピオ将軍の策略が成功して打ち破られましたが、このときトランペットと投げ矢で象たちを撹乱したとのこと。
 映画にもなった「スパルタクスの乱」は最盛期は7万人もの大反乱軍でした。
 古代ローマ軍の軍団は「レギオ」と呼ばれ、「百人隊」(ケントゥリア)を基本単位とし、ファランクス(密集陣形)を三重戦列に編成するのが特徴。この三重戦列は、最前列が後ろに下がり、第2列が前に出ることを繰り返し、兵を休ませんことが出来たので、持久戦になれば負けなかった。第1隊列には機動性にすぐれた若い新兵が配置され、第2隊列には、体力の充実した中堅の兵、第3隊列には長槍を武器とする古参兵で編成。
 ローマの歩兵の装備は自前で調達するのが当然だったので、装備が用意できないから参加できないという市民もいた。つまり、戦争は、貴族や富裕層の「特権」だった。
 帝政期の首都ローマの人口は100万人。
 円形闘技場ではライオンなどの猛獣と槍一本で剣闘士は戦った。殺された猛獣は3500頭にのぼる。
 映画「ベン・ハー」は忘れられません。大競走場で戦車を競争するのですが、その圧倒的迫力に思わず息を呑んで画面をくい入るように見つめました。
 ローマの偉大さは水道橋をみると実感します。私も、はるばるポン・デュ・ガールを現地まで見学してきました。橋の全長は269メートル、水道全体の長さは52キロメートル。高さ49メートルある水道橋をポンプを使わず、傾斜だけで1日2万リットルの水を流したのです。傾斜は、1キロメートルにつき34センチという傾斜です。その測量技術そして、土木建築技術のレベルの高さには驚嘆するほかありません。機会があったら(ぜひとも機会をつくって)ぜひ現地にまで足を運んでみてください。感激すること間違いありません。
ローマ市民、庶民の家には風呂もトイレもなく、台所もなかったというのに驚かされます。外食店を利用していたようです。そして、トイレは公衆トイレ。
イラストつきの解説本なので。ローマ人の生活について、イメージがよくつかめました。
(2024年4月刊。1800円+税)

中世の騎士の日常生活

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 マイケル・プレストウィッチ 、 出版 原書房
 リアルな騎士の生活を紹介した本です。興味深く読み通しました。
中世のヨーロッパには紛争が絶えなかった。なので騎士は苦労せずに雇い主を見つけられた。フランスとイングランドの争いは1337年に始まり100年間も続いた(百年戦争)。
 フランス側からみると、敵のイングランド王家はフランス王に謀反を起こしている臣下である。イギリス側からすると、フランス王家の血を引くイングランド王がフランスを自分のものだと考えるのは、しごく当然のこと。だから、国家間の紛争というより、フランスの内戦のようなもの。1346年のクレシー、1356年のポワティエそして1415年のアジャンクールの戦いでの三度のイングランドの大勝利によって、区切りがついた。
剣術は万人向けの武術ではない。エリート兵だけの技術である。
 騎士に読み書きは必須である。点呼名簿を保管し、令状に目を通して、それに従い、合意や契約を結ぶ必要がある。
 騎士になるには、①体力があり、②馬を扱え、③槍と剣をうまく使え、④宮廷作法を身につけていることが必要。
 イングランドでは、年間40ポンド以上の価値のある土地を所有している者は騎士になれる。つまり、身分が低い、あるいは怪しげな出自をもつ者でも騎士になるのは、フランスよりも簡単。
叙任の儀の前には沐浴(もくよく)し、しばらく湯船につかる。日頃は風呂に入ることはあまりなくても、罪を清めるために沐浴は必要。
 ひとたび騎士になったら、旗(バナレット)騎士へと出世する道が開かれる。
 フランスのブシコー元帥、ベルトラン・デュ・ゲウラン総司令官の2人ともそれぞれの法廷をもっている。元帥は、軍事にかかれる幅広い分野の司法権がある。
 1306年、のちのエドワード2世が王太子に叙任されたときの祝宴には、うなぎ5000匹、タラ287匹、カワカマス136匹、サケ102匹が供された。肉はどうしたのでしょうか…。
 クロスボウ(石弓)は、恐ろしいほど重くて太い矢を放つ。イングランド軍は長弓を使う。サラセントは、異なるタイプの短い弓を使う。
 甲冑(かっちゅう)の総重量は22~27キロくらい。暑いときに、身につけると窒息する恐れがある。甲冑は完全に身を守ってくれるものではない。1337年、ウィリアムは1本の矢が三枚重ねの鎧下と三層の惟子を貫通して死んだ。
 テンプル騎士団は、14世紀初めに解体された。たくさんの土地を所有し、一大金融機関になっていたので、フランス王フィリップ4世がその資源に目をつけた。テンプル騎士団員54人は、1310年5月12日、異教徒の罪で火あぶりにされた。
 騎士が特定の領主に仕えると決めたら文書で契約を交わしておくのが最善。2通つくって、各自1通ずつもっておく。
 1346年、エドワード3世は、兵役に就くことを条件に1800人の犯罪者に恩赦を与えた。
行軍の速度は、1日8~10キロほど。ところが、1355年に突撃した黒太子は1日に40キロも進んだ。
略奪と横領は戦争につきもの。
1358年のフランス農民一揆のとき、農民たちが騎士を火あぶりにして、その肉片を妻子に無理やり食べさせた。騎士に同情する必要なんてないと考えたのだ。
 十字軍といっても、ほかのキリスト教徒に対する十字軍もあった。騎士には十字軍に参加する義務はない。
敵を捕虜にしたら、身代金を要求できる。アジャンクールの戦いで、フランス軍の反撃を恐れたヘンリー5世は捕虜の殺害を命じた。これは多額の身代金を得るチャンスを失うという点で、財政的には愚かな判断だった。捕虜や身代金は売買もできた。
 「実践非公式マニュアル」というものですから、かなり騎士の実情を明らかにしているように読みながら思いました。
(2024年4月刊。2500円+税)

リーゼ・マイトナー

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 マリッサ・モス 、 出版 岩波書店
 NHKの朝ドラ、「虎と翼」の主人公の女性は、戦前の日本で苦労して大学に入り、司法試験を受け、ついに弁護士、裁判官になることができました。ヨーロッパでも似たような状況があったことが分かる本です。
 この本の主人公のマイトナーは、ウィーン大学を受験し、1901年に入学しました。14人の女性が受験して4人が合格し、マイトナーは物理学を学んだのです。ところが、教授も学生も、ほとんどが白い眼でみるのです。それでも、マイトナーはウィーン大学で物理学の博士号を取得しました。
 やがて共同研究者となるハーンと出会い、ともに放射能の研究をすすめます。
アルベルト・アインシュタインはマイトナーと同じ年齢。31歳で、すでに有名でした。
さらに1922年、マイトナーはベルリン大学の教授になりました。ドイツで初めての女性の物理学教授です。
 ところが、1933年にヒトラーが政権を握ると、ユダヤ人迫害が始まります。マイトナーはユダヤ人です。ところが、心配はしたものの、すぐにドイツを脱出しようとは考えませんでした。それより研究室を失って、ゼロから再出発するほうを恐れたのでした。考えが甘かったのです。
マイトナーはオーストリア人でしたが、1938年3月、ヒトラー・ドイツがオーストリアを併合。マイトナーのパスポート(オーストリア国籍)は無効になりました。いよいよマイトナーは追いつめられます。大学での仕事はできず、出国も出来ません。さあ、どうする…。マイトナーを密出国させようという取り組みが始まりました。
 マイトナーの研究所の同僚にはナチのスパイもいて、マイトナーの動きを監視しています。変な動きがあれば、すぐに警察に密告・通報するのです。
 列車での逃亡のときは、マイトナーが女性であったことが幸いしたのでした。検問にひっかかることなく、危機一髪で脱出できました。
 そして、ついに原子が分裂すること、そのとき信じられないほどの強力なエネルギー源になることを発見したのです。そうなので、マイトナーこそ、核分裂を発見した女性科学者でした。
 でも、これは人類にとって悪夢の始まりでもありました。原水爆が開発される道を開いたというわけですから…。
 1945年8月6日、広島に原爆が投下された。このニュースをスウェーデンで聞いたマイトナーは泣きだした。マイトナーの「美しい発見」が原爆をもたらした。
マイトナーは「原爆の母」と呼ばれるようになった。
マイトナーの共同研究者だったハーンは1946年12月、ノーベル賞を受賞したが、このときハーンはスピーチのなかでマイトナーについてまったく言及しなかった。ただし、賞金からかなりの金額をマイトナーに渡した。せめてお金を分けようとした。
 マイトナーは、受けとったお金をユダヤ人と亡命科学者の定住支援のために寄付した。
 いま、マイトナーの名前は、原子番号109の元素マイトネリウムとして残っています。これは永遠・不滅です。初めて知る話でした。ヒトラー・ナチスのユダヤ人絶滅策は人類の貴重な英知をたくさん失ったのだろうとも思い至りました。
(2024年3月刊。2200円+税)

海賊の日常生活

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 スティーブン・ターンブル 、 出版 原書房
 海賊とは何者なのか…。世間で「海賊」と呼ばれる者たちは、決して自分を海賊だとは言わない。バッカニアは、自分を海賊だとは思っていなかった。自分のために財宝を盗んでいるわけではないから。政府のために働き、襲撃する正式な許可、私掠(しりゃく)免許状をもっていた。
 1243年、イギリスのヘンリー3世は、イギリス海峡でフランス船を襲撃する許可状を与えた。その見返りとしては、王に略奪品の半分を差し出せばよかった。
 イギリスではドレークは偉大な英雄だが、スペインでは悪党だった。
 海賊になる人は、みな、なりたくてなるのではない。多くの人々は、絶望の果てに海賊になる。船乗り稼業しか知らない男たちは、海賊団に入るより他に道はなかった。
 海賊は強制徴募という手段は使わない。説得して海賊団に加わらせる。
多くの海賊の末路は、公開の絞首刑に処せられるというもの。
海賊船の船長は、乗組員の投票で選出される。それには乗組員から尊敬を得ていること。船長は勇敢さと狡猾さを示し、乗組員の管理や船の舵(かじ)取りの能力をもち、戦い方を知っていなければならない。また、戦利品の記録や乗組員の借金の管理をしなければいけないので、せめて読み書き計算の能力が求められた。
 健康なコンゴウインコは、30年も生きる。多くの乗組員はサルを飼って、うまくやっている。
 船乗りは、火事にあう危険も多い。
 海賊は、風向きには特に注意を払う。そして、船団から遅れた船を狙って襲撃する。
東インド会社の船を攻撃するのは、きわめて愚かなこと。十分に武装しているし、海賊には慣れているし、護衛艦もいる。
 節操ある海賊は攻撃する前に、海賊の旗を掲げる。
海賊なるものの実情を知ることができました。
(2024年6月刊。2500円+税)

ナチスを撃った少女たち

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ティム・ブレイディ 、 出版 原書房
 このタイトルから、てっきり小説だと思って手にとって読みはじめたのですが、ノンフィクションなのです。ナチス占領下のオランダで、銃を手にとってナチスの将校そしてスパイ・裏切り者たちを撃ち殺していった3人の少女たちが描かれています。
当時、20歳の大学生と17歳と15歳の少女が主人公。20歳のハニーは現場からは逃げられたものの、ついに検問にひっかかって正体がバレて銃殺されました。あと2人の姉妹は長生きして、姉は2016年に92歳で亡くなり、妹も2018年に同じく92歳で亡くなっています。
 若い女性がまさかテロリストだとは思われなかったので生きのびていったのですが、ナチスの将校を殺害すると、ナチスは報復として無関係の市民を10人ほども殺害するので、世間の評判は必ずしもよくなかったそうです。なので、途中からは裏切り者の粛正(殺害)を主としています。ちょうどアンネ・フランクが隠れ家に潜んで生活していたころの話です。オランダでレジスタンス活動がこんなにも活発だったということを初めて知りました。
 とはいっても、実はオランダにいたユダヤ人の生存率は他国よりも明らかに低かったのです。ナチスが支配しはじめたときにユダヤ人が8万人いて、助かったのは、わずかに5千人だけ。オランダにいたユダヤ人の75%がホロコーストで命を失った。オランダから絶滅収容所に送られたユダヤ人は10万人にのぼった。
 1945年5月5日、オランダは連合軍によって解放された。ドイツの支配が5年続いた。ハニーがナチスによって銃殺されたのは、その少し前の4月のこと。姉妹の母親も左翼の活動家だった。
ドイツがオランダに侵攻してくると、オランダ女王は国民をナチスの前に放り出して、いち早く安全なロンドンに脱出していった。900万人のオランダ人は、あっという間にドイツ軍の支配下に置かれた。5ヶ月間は続くと予想されていた戦いは5日間でケリがついた。なにしろ、オランダには自転車連隊2個があるだけ、しかも、そのひとつは軍楽隊がついていた。
主人公の若い3人の女性が活動していたハールレムはオランダ西部の海に近い低地にある、由緒ある古都。チューリップ栽培が今日まで経済の要となっている。
ハニーは、アムステルダム大学に入学した。そして、政治活動と勉学に明け暮れた。ハニーは、左翼の女子学生の研究会のリーダーだった。
ナチス支配下のオランダには保安警察と秩序警察の二つがあった。レマンと呼ばれたオランダ人スパイを多数かかえていた、IDカードを持たない人々は身を隠す人(オンデルダイカー)と呼ばれた。この人々をレジスタンスはかくまった。
レジスタンスに加わる意思が本物か、スパイではないかというテストは過酷だった。
「きみたちは人を撃てるか?」
レジスタンスには、豪胆さと粘り強さが不可欠だった。レジスタンス運動の初期には、武器の入手先は、敵のドイツ兵しかなく、奪うしかなかった。レジスタンスは小さなグループがいくつもあり、内部で抗争もしていた。
レジスタンスは、毎日のように地下新聞を発行していた。地下室の印刷機や、ステンシル転写機を使っての発行だった。
綱渡りのような危ない日々がずっと続いていた。3人のうち2人の姉妹が戦後まで生きのびたのは、まさしく奇跡的です。
それにしても、20歳前後というと、男性でも女性でも、危険をものともせずに突進するのですね。私も同じ年代のとき、鉄砲ではありませんが、「明寮攻防戦」のとき、階段の上にいて、下から攻撃してきた日大全共闘の学生とゲバ棒でやりあったことをつい思い出してしまいました。今なら絶対にしませんし、できませんが、当時は怖さを感じることもなかったですね。それが若さというものなんだろうと思います。
若いオランダ人女性たちの命がけのナチスへのレジスタンス活動を知って息を呑む思いをしました。
(2024年8月刊。2200円+税)

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