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カテゴリー: アメリカ

慟哭のハイチ

カテゴリー:アメリカ

著者:佐藤文則、出版社:凱風社
 1988年から今年(2007年)まで、ハイチを訪れ続けている日本人カメラマンによるハイチ・レポートです。
 ハイチ共和国はカリブ海のイスパニョラ島の西側3分の1で、東側はドミニカ共和国。日本の四国の1.5倍の面積です。国土の4分の3が山地だが、森林は5%でしかない。それほど環境破壊がすすんでいる。人口は870万人で、人口の95%が黒人で、残る5%は混血と白人。カトリック教徒が80%で、プロテスタントが16%。しかし、同時にブードゥー教徒が8〜9割いる。日常語はクレオール語でフランス語も通じる。
 熱帯性の気候で、平均寿命は52歳。識字率は53%、失業率は60%。1人あたりの国民所得は450アメリカ・ドル。
 民主化への希望の星として現れたアリスティドは、1991年に軍のクーデターによって失脚する。しかし、10年後に2期目の大統領に就任した。ところが、2004年2月、反政府武力勢力の反乱によって再び失脚し、ハイチの混乱は2007年も続いている。
 ハイチは、世界初の黒人共和国として歴史に名を残す。音楽、絵画など、文化的にも豊かな才能にあふれている。キューバは対岸にある。
 ハイチ軍は、いわばギャングの連合体である。高級将校たち個々の利益を背景に、微妙なバランスで成り立っている組織だ。弱みを見せたら、すぐに抹殺される弱肉強食の世界である。
 コロンブスが1492年にイスパニョラ島に着いたとき、50万から100万のタイノ・アラワク族が住んでいた。
 これほど善良で、しかも従順な人間は全世界のどこにも見あたらない。
 スペイン王に対して、コロンブスは、このように報告しています。
 1681年に2000人だった黒人奴隷は砂糖の輸出量が増加するにつれて増え、  100年後には50万人に達した。苛酷な労働と待遇のために死亡率は高く、20年ごとに奴隷の総数が入れ替わった。
 アメリカは1915年7月に海兵隊300人を派遣してハイチを19年にわたって支配した。
 1957年、デュヴァリエが大統領に当選した。デュヴァリエ政権を支えたのは私的軍隊であるトントンマクートである。秘密警察であり、スパイであり、言論、人権弾圧機関でもある。不穏な動きがあると徹底的に弾圧した。犠牲者は3万〜6万人と言われる。
 アリスティド派の武装民兵をシメールと呼ぶ。軍隊のように統制されているかのように思うと間違いで、その実態は武装した若者の寄せ集め集団。スラム街をナワバリとするギャング団や戦闘的な政治グループに属する若者たちのこと。教育の機会もなく、職もなく、将来への期待をもてない若者たちが、拳銃をふりまわし、ギャングに憧れるのだ。
 アリスティドが最初に失脚した1991年9月のアメリカ大統領はジョージ・ブッシュ、再び失脚した2004年2月は息子のジョージ・W・ブッシュだ。
 アメリカ政府は、反米色の濃いアリスティドを「信用できない人物」として、反アリスティド政策をとってきた。キューバやベネズエラに対するアメリカの政策と同じですね。
 絶え間ない政権抗争、国際社会の極端なまでの圧力と無関心、そして、その背後にはいつもアメリカの影が漂う。すべてが無力。これがハイチの政治風土である。すべてゼロからの出発を余儀なくされる。いま、ハイチには9000人の国連平和維持部隊が駐留している。日本に居住するハイチ人は十数人、ハイチに居住する日本人は12人。
 早く安定した、平和な国になってほしいと思いました。それにしても、こんな危ない国に長く滞在し、日本へ貴重なレポートを送り続けている著者の勇気を称賛します。
(2007年7月刊。2700円+税)

オッペンハイマー(上)

カテゴリー:アメリカ

著者:カイ・バード、出版社:PHP研究所
 第二次大戦前のアメリカで、知識人のなかに共産党の影響がすごく強かったことを改めて認識させられた本でした。
 オッペンハイマーとは、日本に落とした2つの原子力爆弾をつくったロスアラモス研究所の中心となった天才的物理学者です。
 オッペンハイマーは、その名のとおり、ドイツ移民の家系であるが、民族的にも文化的にもユダヤ人だった。ただし、シナゴーグには属していなかった、という意味で、正統派のユダヤ教徒ではない。
 オッペンハイマーは歴史、文学、数学、物理のコースに加えて、ギリシャ語、ラテン語、フランス語、ドイツ語、すべてで優をとった。博士論文を提出して、口頭試問を受けたとき、試験管の一人が、「うまく逃げ出せたよ。彼は試験管の私に質問を始めたのだ」と同僚に話した。ひゃあ、信じられませんね。さすが、天才です。
 オッペンハイマーは、愛する弟に次のようにアドバイスしました。
 一緒にいるためにキミの時間を消費させようとするのは、若い女性の職業みたいなもので、それを払いのけるのがキミの職業だ。デートというものは、浪費する時間のある人にとってのみ重要である。キミやぼくには重要ではない。
 うむむ、なんという言葉でしょうか。天才って、やはり浮き世離れした存在なんですね。
 オッペンハイマーは、ユダヤ人としての出自を自己宣伝することは決してしなかった。オッペンハイマーはユダヤ人であったが、ユダヤ人でなければよかったと思っており、また、そうでないふりをした。
 オッペンハイマーはバカは人間(ときには、普通の物理学者もここに入る)を相手にすることを拒んだ。
 オッペンハイマーには、一つの問題にあまり長く固執する忍耐力がなかった。オッペンハイマーの才能は、すべての学問分野を合成する能力にあった。
 アメリカの共産党は1938年に7万5000人のメンバーをかかえていたが、入党1年未満の新人が大部分だった。1930年代に、合計すると25万人のアメリカ人が短期間でもアメリカ共産党と関係をもった。
 オッペンハイマーの彼女となったジーン・タトロックは共産党員であり、共産党の太平洋沿岸の機関紙である「ウエスタン・ワーカー新聞」に寄稿していた。
 オッペンハイマーは、『資本論』3巻を隅から隅まで読み、レーニン全集も読破した。これはすごいですね。私も『資本論』は分からないながらも2回読みました。1回目は大学生のとき、2回目は弁護士になってからです。でも、私には難しすぎて、よく理解できませんでした。レーニンの主要な著作はだいたい読んだつもりですが、全集の読破なんて、だいそれたことは考えたこともありません。それでも10巻選集は全部読んだように思います。レーニンの本は分かりやすく、かなり理解できました。
 オッペンハイマーは、どこかの時点で共産党員であった親類、友人、同僚に囲まれていた。左翼のニューディール政策支持者として、オッペンハイマーは共産党が支持する運動に相当額の資金を寄付した。しかし、オッペンハイマーは、本人が常に主張したように、決して正式党員ではなかった。
 1939年8月に結ばれたナチス・ドイツとソ連との不可侵条約によってアメリカでは多くの共産党員が脱党した。この条約は今からすると、明らかに独裁者スターリンの大きな誤りの一つです。
 オッペンハイマーは、常にフランクリン・ルーズベルトと彼のニューディール政策に夢中だった。オッペンハイマーは、1940年11月にキティ・ハリソンと結婚した。キティは誰もが共産主義者として扱った女性である。
 オッペンハイマーは、原子爆弾だけが、ヨーロッパからヒトラーを追い払うことができるという絶対の信念をもっていた。しかし、アメリカ軍はオッペンハイマーが機密に近づくことを懸念した。共産主義との結びつきが強いことからだ。
 ロスアラモスが1943年3月に開所したときは100人の科学者とスタッフがいた。6ヶ月後に1000人になり、1945年夏には、民間人4000人と軍人2000人がいた。住人の平均年齢はわずか25歳だった。研究所の統括者であったオッペンハイマーは39歳だった。
 アメリカでは、このあとマッカーシー旋風がすさまじく吹き荒れ、赤狩りが始まり、インテリが一斉に共産党から逃げ出しました。いまでは、大学のごく一部に細々と共産党の影響力が残っているだけのようです。もっとも、この状況は、日本でもあまり変わりませんよね。
(2007年8月刊。2000円+税)

戦争する国、平和する国

カテゴリー:アメリカ

著者:小出五郎、出版社:佼成出版社
 ノーベル平和賞を受賞したコスタリカのオスカル・アリアス・サンチェス大統領の話を中心にまとめた本です。
 コスタリカは300年ものあいだスペイン総督の支配下におかれた植民地だった。そして、コスタリカは1821年にスペインからの独立を宣言した。
 コスタリカとは、コスタ(海岸)とリカ(豊)かというスペイン語による。
 コスタリカは人口430万人。うちスペイン人と先住民との混血が95%、アフリカ系3%、先住民2%。
 中米にあるコスタリカは、50年前から軍隊をもたず、また、自然保護で有名な国です。
 コスタリカは、九州と四国をあわせたほどの面積しかもたない。しかも、国土の3分の1は3000メートル級の高山。活動中の火山も多い。変化に富む高山の存在が、動植物の宝庫である理由のひとつで、首都のサンホセも高原盆地にあり、標高が高いので、熱帯のイメージから遠い快適な気候。まるで軽井沢みたい。日本の四季より多様な自然環境がある。
 少し前のことですが、福岡の後藤富和弁護士がコスタリカに視察に行ってきたことを聞いて、うらやましいなと思ったことでした。
 コスタリカは、平和主義をとり、非武装・永世中立の国。そして、教育に投資する国。国家予算の20%を教育費が占める。
 1948年、大統領選挙の不正問題をきっかけに内戦が始まった。内戦は1ヶ月以上続き、犠牲者は2000人をこえた。勝利したのは革命軍で、リーダーはフィレーゲスであった。
 コスタリカの現行憲法は、翌1949年に成立した。軍は、恒常組織としては、禁止する。警備および公安維持のため、必要な警察力をもうける。こうなっています。
 コスタリカの教育水準は高い。教育水準が高いということは、国民の政治に対する関心が深いということ。選挙で政治に参加し、自分たちの未来を決めたい。みんながそう考えている。
 コスタリカ憲法に、国内総生産の6%は教育費にあてると明記している。ちなみに、福祉のための予算は、同じく9%をあてている。義務教育は9年間。学費はタダ。落第もある。大学も、国立が4校、私立が36校ある。国民の2%、8万人が大学生。つまり、大学適齢期の人口4人に1人は大学生だ。
 ひゃあ、すごいですね。日本では今4人に1人なんでしょうか?
 コスタリカ憲法には環境権が明記されている。そして、エコツーリズムが盛んであり、年間100万人をこえる人が海外からやってくる。
 コスタリカでは、選挙はお祭りである。投票率は70%ほど。4年に1回、国中が沸きかえる。同じ年にサッカーも試合もある。選挙権のない18歳未満の子どもたちも、選挙権はないが、投票権があり、投票する。そして、その結果は公表される。
 投票所の雑用は年長の子どもたちがこなす。また、選挙をとり仕切るのは選挙裁判所である。たとえば、投票日前後3日間のアルコール販売は禁止される。
 いやあ、感心しました。コスタリカっていう国は「親米」の国なのですが、アメリカの言いなりには決してならない国のようです。そこが日本とは決定的に違います。見習うべき国だと思いました。
 仏検(準一級)の結果を知らせるハガキが届きました。自信をもって開きます。合格の文字が目にとびこんできました。やれやれ、です。問題は得点です。86点でした。合格基準点が79点で、合格率は25%ですので、まずまずです。ちなみに、自己採点では87点でした。実は、準一級のペーパーテストの合格は、これで5回目です。だいたい7割はとれるようになりました(一級のほうは3割台で低迷中です)。口頭試問のほうは3回受けて、1回だけパスしましたが、あと2回は不合格でした。
 口頭試問は個人面接です。3分前にフランス語で書かれたテーマ(そのときどきの時事問題が多いようです。たとえば狂牛病問題とか、学校5日制の導入とか)2つのなかから一つを選び、3分間、それについてフランス語で話すのです。これは本当に難しいです。そのあと、フランス語での質問にこたえます。全部で7分間ですが、とても緊張します。思ったようにフランス語の単語が出てこないのです。まあ、それでも、せっかくですから、もちろん今回も受けます。
(2007年9月刊。1400円+税)

失われた文明マヤ

カテゴリー:アメリカ

著者:恩田 陸、出版社:NHK出版
 メキシコ南部からグアテマラあたりにあったマヤ文明を現地の写真つきで紹介する本です。マヤ文明が高度に発達していたことは残された石造の遺跡の素晴らしさからもよく分かります。本当にすごく立派な石造りの建物がたくさんありますし、彫刻もきめ細かいものです。
 マヤ文明は中央集権型の構造ではなかった。マヤ文明が長持ちしたのは、ネットワーク型の都市文明だったから。ネットワーク型組織は故障に強い。マヤでは、そこそこの規模の都市がゆるやかにつながっていたので、どこかがつぶれても残りは生き続けることができた。
 1695年、古代マヤ文明の中心地ティカルの遺跡が再発見された。密林のなかに忽然とピラミッドがそびえ立つ。1号神殿は高さが45メートルもある巨大な建造物だ。ところが、当時の古マヤの人々は鉄を知らず、つかったのは石の道具だけ。また、牛も馬もつかわず、すべて人間が担いで運んだ。
 うむむ、これはすごいことですね。
 ティカルには、およそ6万人が住んでいたと推定されている。
 この本では深紅に塗られた建物が建ち並ぶティカルの町の様子がCGで再現されています。まさに圧巻です。荘厳とでもいうべき眺めです。
 さらに驚くべきことは、ここに人工の貯水池が3つあったというのです。ティカルには川も湖も沼もなく、そのままでは乾期に人々は生活できないので、貯水池をつくった。それも、高度、中度、低度と、水の汚染度の違いで、水の利用を区別していたというのです。すごいですね。
 チチュン・イツァーのピラミッドには、春分の日になると、大蛇の頭にうねるような光の胴体がつながった、豊穣の神・ククルカンが出現する。
 これは、ピラミッドが真北から17度傾いていて、古代マヤ人は、太陽の観測から、それがつくる影の位置を正確にとらえて精巧な建築で再現したのです。
 こういっても、言葉だけでは分かりにくいと思います。しかし、特定の日に、影だけで大蛇を出現させるなんて、きわめて高度の天文学と建築学の知識を要することです。いやあ、まったく驚いてしまいます。
 このククルカンが降臨すると、それからひと月後に雨期が始まる。つまり、ククルカンの出現は、大事な農作業を始めるタイミングを教えるわけである。
 古代マヤ文明の遺跡からは、古代マヤの戦争を描いた壁画も発見されています。カラー写真で、迫力ある戦闘場面が描かれていることがよく分かります。
 インカ帝国とが別の高度に発達した文明があったことが、たくさんの写真を眺めているだけでも、よく分かります。
 今日は、私事ですが、私の50代で最後の誕生日なのです。そうなんです。来年は、ついに私も還暦を迎えるというわけです。我ながら信じられませんが、このブログを読んでいただいている方々へのお願いです。そのことについての一言コメントをぜひお寄せください。辛口コメントでも、もちろん結構です。
 還暦を目前にして、私も、もう一回、何か新しいことをしたいと考えています。
(2007年6月刊。1600円+税)

古代メソアメリカ文明

カテゴリー:アメリカ

著者:青山和夫、出版社:講談社選書メチエ
 アメリカ大陸を最初に「発見」したのは、いうまでもなくコロンブス一行ではない。最初のアメリカ人は、モンゴロイドの先住民たちであった。彼らは、今から1万2000年以上前の氷河期にベーリング海峡が陸つづきになったころ、アジア大陸から南北1000キロに及ぶ広大な陸橋ベーリンジアをこえて、無人のアメリカ大陸に到達した。モンゴロイドの先住民たちは、1万年以上にわたって生活を営みつづけていた。
 チョコレートの原料のカカオは、メソアメリカの先住民が栽培化した。ジャガイモは南米で最初に栽培された。メソアメリカ原産のトウモロコシは、古代から先住民たちの主食である。古代メソアメリカでは、タバコは単なる嗜好品ではなく、重要な儀礼用植物であり、主として王族・貴族のあいだで、宗教儀礼を清め、儀礼的な病気治療にもちいられた。
 日本の秋の代名詞であるコスモス、クリスマスに人気のポインセチア、ダリア、マリーゴールドなども、みなメソアメリカ原産の花である。
 日本人と同じモンゴロイドである先住民が、コロンブス以前に「四大文明」をはじめとする旧大陸と交流することなく、メソアメリカ古代文明を独自に築き上げた。
 古代メソアメリカ文明は、石器を主要利器とした、きわめて洗練された「石器の都市文明」だった。
 メソアメリカの人々は、手だけ(十進法)ではなく、手足両方の指をつかって20進法で数字をかぞえたのが特徴。南米のインカ文明は、日本人と同じく十進法だった。ゼロの概念は、旧大陸ではインダス文明、新大陸ではマヤ文明が、それぞれ独自に編み出した。
 メソアメリカでは家畜はイヌと七面鳥くらいで、耕したり運んだりする大型家畜はいなかった。すべて人は徒歩だった。牛や馬も利用していない。
 マヤの王は、政治指導者であるとともに、国家儀礼では最高位の神官であり、戦時には軍事指揮官でもあった。専業の神官は存在せず、王や貴族が神官の役割を果たした。神聖王であったマヤの王は、先祖・神々と人間の重要な仲介者であり、神々と特別な関係をもつことによって自己の権威・権力を正当化した。
 戦争では王がしばしば捕獲・人身供犠にされ、戦争の勝敗は、都市の盛衰に大きく影響した。しかし、一つの王朝が遠い別の王朝を征服して直接統治することはなかった。
 古代メソアメリカは政治的に統一されなかった。これは、南米で、インカ帝国が15〜16世紀に中央アンデスを統合したのと対照的だ。16世紀からのスペイン人の侵略によって、古代メソアメリカ文明は破壊された。しかし、その後も影響は今に至るまで残している。
 トウモロコシは、乾燥・貯蔵が容易で、その余剰生産は、古代メソアメリカの都市文明をうみ出した原動力の一つとなった。
 トウモロコシ、マメ、カボチャはメソアメリカの三大作物である。
 鏡はあったが、それは鉱石を磨いたもので冶金ではない。鏡は支配層の威信財だった。
 マヤ民族という単一民族は過去も現在も存在しない。共通語の「マヤ語」はなく、30のマヤ諸語が、800万人以上の現代マヤ人によって話されている。
 マヤ文字は、漢字かなまじりの日本語とよく似ており、一字で一単語をあらわす表語文字、一字で一音節をあらわす音節文字からなる。マヤ文字は全部で4〜5万あり、60%くらい解読されている。
 暦は365日暦がある。古典期マヤ文明は、南北アメリカ大陸で、文字、算術、暦、天文学をもっとも発達させ、ゼロの概念を独自に編み出した究極の石器の都市文明だった。
 メキシコ中央高地のテオティワカンは、最盛期の200〜550年には、23.5平方キロの面積に12万5000人〜20万人の人口が密集する、南北アメリカ大陸で最大の都市であり、ローマに匹敵する世界的な大都市として繁栄した。
 アステカ人にとって、戦争とは敵を活かしたまま人身供犠のための捕虜として捕らえ、貢納を確保することが一大目的だった。スペイン人のような、敵を無差別に皆殺しにするという概念は存在しなかったのである。
 数百人のスペイン軍より最終決戦では20万人に及ぶ敵対先住民の同盟軍によってテノチティトランは陥落させられた。アステカ王国の敗北はここに原因があった。
 知らなかったことがたくさんありました。日本人の学者が、この分野でも活躍しているのですね。
(2007年8月刊。1600円+税)

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