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カテゴリー: アメリカ

グローバル・スーパーリッチ

カテゴリー:アメリカ

著者  クリスティア・フリーランド 、 出版  早川書房
 アメリカ人の99%の人口の所得は、わずか0.2%しか増えていない。しかし、上位1%の人の所得は11.6%も増えている。この上位1%の人にとっては、間違いなく景気は回復している。これって、日本でも同じことが言えますよね。
アベノミクスとやらの恩恵を受けている人は、日本でも上位のわずかの人々で、大半の人は恩恵どころか、冷酷な仕打ちを受けて泣いています。
 1970年代、上位1%の人々の年収は国民層総所得の10%だった。ところが、その35年後には国民総所得の3分の1を占めている。
 2005年、ビル・ゲイツの財産は465億ドル、ウォーレン・バフェットの財産は440億ドルだった。ところが、アメリカ国民のうち所得の低い40%、合計1億2000万人の財産は、全部あわせて900億ドルなので、ゲイツとバフェットの二人分の財産合計とほとんど同じ。
 これって異常というより、間違っていますよね、絶対に。
 スーパーエリートの所有する自家用ジェット機は、託児室を設けられるほど広々としている。また、ヨットにはヘリコプター2機と潜水艦が装備され、水泳用プールもある。
 しかし、スーパーエリートは安定しない世界に生きている。トップに立つ者の足下はきわめて不安定であるうえ、その不安程度はいっそう増しつつある。フォーチュン500企業のCEO平均在任年数は、この10年間で9.5年から3.5年までに短縮した。
所得上位1%の人々のあいだにも一本のくっきりとした溝がある。そのうち0.1%のウルトラリッチは、残りの0.9%、たんなるスーパーリッチを大きく引き離している。この溝は文化の溝であり、経済の溝でもある。
 ハーバード大学卒業という輝かしい学歴をもつ人々のあいだでもトップ集団とそれ以外の差が広がっている。たとえば、金融業界の者の所得は、それ以外の同窓生の所得の2倍にもなる。人は、金持ちになるほど強欲になる。
アメリカの弁護士の世界でも、格差が大きくなっている。2011年、アメリカでも有数の法律事務所のパートナー弁護士は年収1000万ドルをこえる。しかし、弁護士の平均年収は64万ドル。
 スター弁護士は、一般のパートナー弁護士の10倍もの報酬を得ている。ロースクールを卒業して弁護士になった初年度の平均年収は8万4111ドル。弁護士全体だと13万0490ドル。これまた、日本でも同じことが言えそうです。
 2012年の長者番付に乗った1226人のうち、77人が金融関係、143人が投資関係の仕事をしている。300万ドルをこえる運用可能資産を所有するアメリカ人は4万人。この4万人のうち40%が金融業界の人間。超富裕層の0.1%のうち、18%が金融業界関係、銀行家。
持てる者は与えられ、いっそう豊かになる。だが、持たざる者はなけなしの持ちものまで奪われる。
 企業全体の価値が10%上昇すると、CEOの給与は3%上昇する。しかし、一般労働者の給与は平均して0.2%しか上昇しない。これまた日本にもあてはまりますね。トップの高給とりが目立ちます。年収1億円前後という大企業の取締役が日本でも珍しくないようになりました。格差がどんどん拡大しています。
みんな、だれでもスーパースターになれると思っているが、勝者が総取りする経済社会では、トップの空間に余裕がなく、大半の者がはじき出されてしまう。
 超富裕層の人々は、アメリカの人々の窮状に同情的であるとしても、自分たちがその窮状に加担してしまうのは仕方ないと割り切っている。
 こんな不公平な社会は、とても公正とは言えません。みんなで声をあげて変えていくべきだと私は思います。みなさん、いかがですか。ご一緒に声をあげましょうよ。
(2013年11月刊。2000円+税)
 日曜日(16日)、チューリップの花が一本、咲いているのを発見しました。先発隊です。火曜日には、三本に増えました。ピンクと黄色の花です。これから、毎日、楽しみです。どんどん増えて、楽しませてくれます。
 日曜日には、ジャガイモの根を植えつけました。娘がうねをつくってくれていましたので、そこに3種類のジャガイモを植えてみました。6月ころに収穫できるはずです。

ショック・ドクトリン(上)

カテゴリー:アメリカ

著者  ナオミ・クライン 、 出版  岩波書店
 シカゴ学派が、チリのアジェンデ大統領を殺害した軍部クーデターを支えたということは聞いていましたが、シカゴ学派は、チリだけでなく世界中の国々を徹底して荒らし回ったことを本書で深く認識しました。
私も名前だけは知っている経済学者のミルトン・フリードマンという人は、そのあこぎさで許すべからざる人物だと思いました。なんでも自由、すべての規制を撤廃して権力者に自由にやらせたらいいなんて、とんでもない考えの持ち主です。それでは、大金持ちが奴隷を所有するのまで自由だとして、認めることになってしまいます。
 2001年の前には、とりに足りない規模だったセキュリティー産業は、今では2000億ドル規模の一大産業へと成長した。
 そして、大金が動くのは、国外の戦争においてである。イラク戦争のおかげで、アメリカの兵器産業は大もうけした。そして、アメリカ軍部の維持そのものが、世界でもっとも急成長するサービス経済の一つになった。
 今では、アメリカ軍は戦地にバーガーキングとピザハットを引き連れて行っている。
 ハリバートンの株主にしてみたら、20億ドルの収入をもたらしてくれたイラク戦争は、万々歳というわけだ。
 ブッシュ政権は内部者による拷問を可能にした。9.11以降、ブッシュ政権は、拷問する権利をだれはばかることなく要求した。ラムズフェルド国防長官は、アフガニスタンで拘束された囚人は、捕虜ではなく、「敵性戦闘員」なので、ジュネーブ条約は適用されないとした。そして、一連の特殊尋問行為(つまり拷問すること)を承認した。
 拷問の新しい定義は、臓器不全のような重大な身体的損傷に匹敵する痛みをともう場合に限られるとしている。すると、アメリカ政府は新しく開発した方法で自由に拷問できる。
 シカゴ学派は、景気の後退や不況を意図的に引きおこすことを推奨する。それは大量の貧困者を発生させる冷酷無比の考え方だ。
 チリは、シカゴ学派の理論に厳密に従っていたにもかかわらず、チリ経済は破綻した。そして、少数のエリート集団が、きわめて短時間に大金持ちになった。
 ミルトン・フリードマンは、1976年のノーベル経済学賞を受賞した。しかし、フリードマンの理論を実行に移したチリにおいて直面した現実は、あまりにも痛ましいものだった。
 フリードマンの唱える自由市場主義を実行に移そうとしたのは、自由が著しく欠如した独裁政権だけだった。
 フリードマンによれば、自由貿易が実現すれば、職を失った人には新たな職が創出されるはずだった。しかし、現実には、20%の失業率が30%にまで上昇した。ごく少数のエリート階級がますます富裕になる一方、労働者階級に属していた国民の大部分が経済からはじき出されて、無用の存在になってしまった。
 1999年、世界各国政府の閣僚のうち、シカゴ学派の出身者が25人いた。中央銀行の総裁としては10人。
フリードマンは、規制のない盲活動の自由を重視し、政治的自由は付随的な者、あるいは不必要なものとさえみなしていた。こうした「自由」の定義は、中国共産党指導部で形成されつつあった考え方とうまく合致した。すなわち、経済を開放して、私的所有と大量消費を促す一方で、権力支配は維持し続けるという考え方である。
 そうすれば、国家の資産が売却されるにあたって、党幹部とその親族がもっとも有利な取り引きをし、一番乗りで最大の利益を手にできるという筋書きだ。
中国には、低い税金と関税、賄賂のきく官僚、そして何より低賃金で働く大量の労働力がある。そして、その労働者たちは、残忍な報復の恐怖を体験しており、適正な賃金や基本的な職業の保護を要求するといったリスクを冒す恐れは、長年にわたってないと考えられてきた。
 シカゴ学派の果たしてきた具体的な役割が、小気味いいほどの鋭い切り口で暴露されています。こんな大金持ち万歳の学説を経済学者がもてはやすなんて、とても信じられませんでした。
(2012年10月刊2500円+税)

ソウル・コレクター

カテゴリー:アメリカ

著者  ジェフリー・ディーヴァ―   、 出版   文芸春秋
 インターネット万能社会の怖さ描いたアメリカの小説です。
 ある人の情報をすべて入手し、その人になりすまし、犯人に仕立てあげたり、その人に近づいて騙し、強奪してしまうのです。
 私自身はガラケイしか持ちませんし、ホテル以外はすべて現金ですので、それほどの情報は集まらないような気もしますが、その気になれば私の知らない(忘れた)データもたくさん集まることでしょうね。そして、今や、いつ、どこにいったのか、また、今どこにいるのかまで、リアル・タイムで判明するのです。
 先日の川崎の脱走犯人もケータイを使ったため、その所在が判明したのでした。そして、このデータを収集する元締めは政府ではなく、民間企業なのです。なぜか?
 個人情報保護法(プライバシー法)に抵触すると判断されるので、政府はやれなくなった。そこで、民間企業を使うしかない。
 警察に寄せられてくる情報のほとんどは匿名の一般市民から寄せられたものと見せかけられているが、実は、政府機関などが収集したもの。警察だって、この民間情報収集機関を利用している。
 絶対に部外秘なのに、第三者に、漏れている。いったい、だれが、どのようにして入手したというのか・・・・。この本は、情報がもれていたときにどうなるのか、その怖さを生々しく伝えてくれます。
 たとえば、居酒屋で見知らぬ人と相席になり、話し込むと不思議なほど趣味が合致し、たちまち意気投合する。しかし、実は、趣味その他のデータを入手して、近づいているのであり、それで、話を合わせているだけなのです。そして、その居酒屋に前もっていたのも、日頃の行動パターンをしっかり把握していたからです。これって、怖いですよね。
 ある日突然、ネット上の全取引がクローズされ、ついには犯行現場の遺留品があなたのものだというのです。
 疑われて当然の、怖い話が臨場感あふれるストーリとして進行していきます。
(2009年10月刊。2381円+税)

倒壊する巨塔

カテゴリー:アメリカ

著者  ローレンス・ライト 、 出版  白水社
 アルカイダと9.11への道、というサブタイトルのついた上下2冊の大作です。
 サウド王家、とくにファサイル国王の子供たちとビンラディン家の絆は非常に強かった。父王の載冠前後おけるビンラディンの得難い尽力を、息子たちは決して忘れなかった。
アフガン戦争の最初の数年間、ビンラディンは「生身の参加への恐怖」から、実際の戦場とは十分な距離をとっていた。この事実を、ビンラディンは後に大きく恥じることになる。
 ビンラディンがムジャヒディンのために1000万ドル近く集めたことによって、アフガン・ジハードにおける最高民間財務責任者と目されるようになった。
ビンラディンは、ジハードを戦うアラブ義勇兵とその家族に旅費と住居と生活費をもれなく提供した。毎月の支給額は1家族あたり300ドルだった。このビンラディンの出してくれるお金に惹かれて人が集まってきた。
 サウジ政府はアフガン・ジハードに対して年間5億ドルもの資金提供を行っていた。この資金は、アメリカ政府が管理するスイスの銀行口座に振り込まれ、ムジャヒディンの支援活動につかわれた。
 多くのアラブ青年をペシャワールに呼び寄せた誘因は、アフガニスタンで勝利を勝ち取ることではなく、死を迎えることだった。殉教こそ、まさにアッザームが若者やビデオなどで売り込んだ商品だった。華々しく、しかも意味のある死。人生の喜びや努力のしがいのない政府の抑圧下に暮らし、経済的な損失に人々がうちひしがれている場所では、そうした誘惑は、とりわけ甘美に響いた。
 殉教という行為は、報われることのあまりに少ない人生の理想的な代替物をそうした若者に与えた。輝ける死によって、罪人は最初の血のほとばしりとともに許され、死に至る以前に、すでに天国にそのところを得るといわれている。ひとりの殉教者の犠牲により、一族の70人が地獄の業火から救われるかもしれない。
 貧しい殉教者は天国で、地球そのものよりも価値のある宝石で飾られる。カネがなければ女性と知りあうチャンスすらなく、しかも高望みをいとう文化のなかで育った若者が、ひとたび殉教者になりさえすれば、72人の処女と夫婦になる喜びに浸れるという。黒い目の美しい乙女たちが、肉と果物とこのうえなき清浄なワインというご馳走とともに殉教者を待っている。
 アッザームが描いてみせた殉爛たる殉教者のイメージは、死のカルトをつくり出し、やがてアルカイダの中核部分を形成していく。これに対してアフガン人にとって、殉教という行為は、それほど高い価値をもっていなかった。このようにして数千人のアラブ人、実際に戦場に行ったのは数百人ほど、が戦況の推移に実質的な変化をもたらしたことは一度もなかった。
 アルカイダは、アフガニスタンで新兵を採用した。新兵はビンラディンに忠誠を近いというサインをし、秘密厳守を誓った。その見返りとして、独身者は月1000ドルのサラリー、既婚者は月1500ドルを受けとる。全員に毎年、故郷への往復チケットが支給され、1ヵ月の休暇が与えられ、健康保険制度も完備していた。
ビンラディンはアフガン・ジハードのさい、サウド王家のメンバーと密かに接触し、アメリカの参戦に対する感謝の気持ちを伝えている。
サウジアラビアの駐米大使、バンダル・ビン・スルタン王子は、ビンラディンが訪ねてきて、こう言ったことを憶えている。
 「ありがとうございます。世俗主義者、不信心者のソ連を排除するため、我々にアメリカ人をもたらしてくれたことに感謝します」
 世界にあまたの国があるけれど、互いにかくも異なりながら、かくも深い相互依存にある二国間関係はほとんど例がない。それがアメリカとサウジアラビアの関係だった。
同時多発的な自爆攻撃スタイルをアルカイダはとった。これは目新しく、リスクをともなう戦法だ。複雑で手間がかかるため、失敗の可能性や当局に事前に察知される危険性がそれだけ増す。だが、ひとたび成功すれば、比較にならないほど注目を全世界から集めることが出来る。
 アメリカの情報機関にとって、ビンラディンやザワヒリの動向をつかむ最善の方策は、彼らが使用する衛星電話の追尾だった。探索機を当核地域の上空に飛ばしていれば、電話を逆探知することによって正確な位置を割り出す手がかりが得られる。
 2000年10月12日、イエメンの港町アデンにいたアメリカ海軍のミサイル駆遂艦「コール」にモーターボートが近づいてきて爆発した。死者17人、負傷者39人。この攻撃はビンラディンにとって大勝利だった。そのおかげでアフガニスタンにあるアルカイダ系の基地は新兵たちであふれかえり、湾岸諸国の篤志諸国の篤志家立ちはオイルダラーの詰まったサムソナイトのスーツケースを携えてやってきた。資金が隅々まで行きわたりだした。
 タリバン政権の指導部は、この国にビンラディンがいるとの是非をめぐって意見対立を続けていたが、カネ回りが良くなるにつれ、制裁や報復への懸念はあるものの、アルカイダに対してより協力的になっていった。
 2001年7月5日、アメリカの国家対テロ調整官ディック・クラークは、アメリカ国内を管轄する各政府機関FAA(連邦航空局)、INS(移民帰化局)、沿岸警備隊、FBI、シークレット・サービスなどの代表を一堂に集め、ひとつの警告を発した。
 「何か非常に人目をひくような、派手な出来事が、それも近々起こるはずである」と全員に申しわたした。
 9.11のあった日の夜、私は何も知らずに福岡の先輩弁護士たちと会食し、ホテルに戻ってテレビをつけたのでした。最初みたとき、何の映像が理解できませんでした。世の中には信じられないことが起きるものです。
この本を読むと、あのテロ行為は、アメリカが育成したテロリストたちがアメリカに牙を向いたという意味で必然だったということが分かります。とんでもないことですが、結局、アメリカの暴力的体質は報復の連鎖を生むものだと言うことなのです。根本的な発想の転換が求められています。
(2009年10月刊。2400円+税)

第二次世界大戦・影の主役

カテゴリー:アメリカ

著者  ポール・ケネディ 、 出版  日本経済新聞出版社
 1943年秋、ドイツ空軍は押し寄せる米軍機の大編隊を相手に、明白な勝利を収めていた。
 ノルマンディー上陸作戦の開始当時、フランス鉄道網は年初と比べて30%にまで減少していた。7月当初には、わずか10%に減っていた。だから、ドイツ軍は、フランス西部に応援部隊を送るどころか、前方部隊を引き揚げることもできなかった。
 1946年6月から10月までのあいだに、ドイツのパイロットと搭乗員1万3000人が戦死した。ドイツ空軍の編隊長クラスは、おもにマスタングに撃墜されていた。その痛手からドイツ空軍は立ち直れなかった。このようにして連合軍がヨーロッパ西部の制空権を握ったのは、Dデーのわずか3ヵ月ほど前だった。
 1944年2月から5月にかけてのドイツ空軍打倒は、接戦だったかもしれないが、史上最大の勝敗を決する軍事行動でもあった。
 戦略航空攻勢は、ドイツ国民の士気を打ち砕くことはできなかった。いくら打ちのめされても、ドイツ人は戦いをやめようとはしなかったし、ナチス政権打倒に立ち上がろうともしなかった。英米空軍の無差別爆撃は、かえってドイツ国民の戦意を高揚させてしまった。
 1943年2月、アフリカ大陸はチュニジア中部の岩山の戦略的要路カセリーヌ峠をめぐって、アメリカ軍部隊が初めてドイツ軍と本格的に交戦した。カセリーヌ峠の戦いは、1942年始めにフィリピンでマッカーサーのアメリカ軍が日本軍に敗北して以来、アメリカ軍が第二次世界大戦で味わった最大の屈辱だった。カセリーヌ峠の戦いにはアメリカ兵3万人が投入され、そのうち6000人を失った、戦車183両、半装軌車104両、砲20門以上、ジープとトラック500台以上を失った。これに対してドイツ軍の死者はわずか201人だった。
 ところがドイツ軍の電撃戦も、その後は停止させられた。それはイギリス軍のシャーマン戦車ばかりではなく、広大な地雷原と、大量の砲とバズーカ砲を使用する特殊な対戦車大隊が功を奏した。
 イギリス軍のモントゴメリー将軍は全面的な攻勢をかけ、ドイツのロンメルは苦戦した。壮絶な戦いが終わったとき、イギリス軍の戦車は200両が大破し、走行不能に陥っていたが、それでも600両が残っていた。これに対して、ロンメルには30両しか残っていなかった。
 ドイツは3つの戦線で戦い、いっぽうソ連はドイツとだけ戦っていた。連合軍が北アフリカと地中海に進出したことにより、ドイツ国防軍最高司令部は、もっとも精強な師団をスターリングラードの戦いから引き抜かざるをえなかった。そもそもドイツが全方面で強力な軍事力を発揮するのは無理だったのだ。北アフリカに上陸した英米連合軍は、スターリングラードの戦いにも影響を及ぼした。また、シチリア上陸も、クルスクの戦い(戦車戦)に影響を与えた。
 ソ連のつくった初期のT-34戦車は、欠陥の塊で、戦場では全く信頼できなかった。T-34戦車が真価を発揮したといえるのは、1944年初めから半ばにかけてのこと。
 T-34戦車は、ドイツ軍とのクルクス戦車戦で敗退したあと、望まれていた改良が修理・製造工場で進められた。
 ジューコフは、大規模な地雷原の敷設に専念した。これは、ロンメルやモントゴメリーが地雷を重用したのと同じだ。アメリカ軍は地雷戦をあまり利用していない。エルアラメインの戦いで示されたように、地雷原は攻撃側がそれを突破するのに苦労するため、防御側に行動する貴重な時間をもたらす。
 クルスクの戦いでは、これがさらに大規模に実証され、世界最大の地雷原戦とまで呼ばれている。ドイツ軍の高速の装甲攻撃を擾乱するのに、縦深地雷原にしくものはない。
 赤軍の防御地雷原は、優秀な土木工兵部隊が敷設し、奥行が25~40キロあった。
 1943年半ば以降、アメリカからソ連に対して、スチュードベイカーのトラックが陸続と送られ、ジープも至るところにあった。赤軍の車両の半数以上(66万5000台のうち58%)は国産だったが、アメリカ製のトラックとジープのほうが、はるかに頑丈で信頼できた。アメリカ製の車両はもっぱら戦闘部隊の武器弾薬の輸送に使われ、ソ連製のトラックは予備の補給品の輸送や傷病者の後送に使われた。
 アメリカ製トラックをイギリスの輸送船国が運び、ジューコフの前線部隊の機動性が向上したというのは不思議な共存関係だ。
 赤軍のクルスク防御の成功と翌年の着実な西進には、赤軍がドイツ軍よりも優れていた三つの事柄が役立った。架橋能力、欺瞞の技術、そして膨大なパルチザン網だ。
 第二次世界大戦の戦史を読むときには欠かせない視点が満載の大変な力作でした。知らなかったことが多く、最後まで興味深く読みとおしました。
(2013年8月刊。3500円+税)

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