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カテゴリー: アフリカ

ぼくは少年兵だった

カテゴリー:アフリカ

著者:イシメール・ベア、出版社:河出書房新社
 初めて戦争の巻き添えをくったとき、ぼくは12歳だった。
 激しい内乱の起きていた西アフリカのシェラレオネで12歳から15歳まで少年兵士として戦闘に従事し、生き抜いた著者の体験記です。この本は「戦場から生きのびて」というのがメイン・タイトルになっていますが、この本を読むと、まさしく実感させられます。よくぞ戦火のなかを生きのびられたものです。大勢の友人・仲間が次々に銃弾で倒れていくなか家族をみんな失い、著者ひとり生きのびました。それだけ運が強かったのです。
 戦争を賛美する人がいるが、戦争にロマンなどはなく、あるのは悲惨さだけ。人間を殺すことは、相手を非人間化させる行為だが、それは同時に自分の人間性もうしなわせてしまう。
 シェラレオネでなぜ内乱が起きたのかは、この本を読んでもさっぱり理解できません。ルワンダのツチ族とフツ族のような争いという明確なものはなかったようです。政府軍と反乱軍との戦いとしか書かれていません。そして、反乱軍はデビル(悪魔)というべき存在でしかありません。
 反乱軍に捕まった少年はすぐに兵士にされ、熱した銃剣で身体のどこかに反乱軍を意味するRUFを刻みつけられる。これは一生消えない傷痕になるばかりか反乱軍から絶対に逃げられないことを意味した。反逆者のイニシャルの刻印をつけて逃げるのは、殺してくださいと言っているようなもの。政府軍の兵士はそれを見たら一も二もなく殺すだろうし、好戦的な民間人だってそうするだろう。
 歌と踊りが大好きだった著者たち6人の少年は、戦争から逃げようとジャングルの中をさまよったあげく、政府軍に組み込まれてしまいます。そして、わずかの訓練を受けると、たちまち本物の戦場へ駆り出されていきます。
 戦闘行為の前に白いカプセルが渡される。それをのむと夜じゅう目がさえて眠れないのが一週間も続いた。そのうち、平気で銃をうてるようになった。
 火薬とコカインを混ぜたブラウン・ブラウニと呼ぶものを吸引し、白いカプセルを大量に飲む。それがたっぷりのエネルギーをくれる。汗びっしょりになり、着ている服をすべて脱いでしまった。身体がふるえ、目はかすみ、耳も聞こえない。あてもなく村を歩きまわる。そわそわした気分になった。何に対しても無感覚になる。何週間も眠れなくなるほどの莫大なエネルギーを感じた。夜にはみんなで戦争映画をみる。『ランボー』や『コマンドー』だ。
 ぼくらは獰猛になった。死という考えは頭をよぎりもしなかった。人を殺すのが、水を飲むのと同じくらい簡単になった。ぼくの頭は、初めて殺しの最中にぷつんと切れた。良心の呵責に耐えられないことを記憶するのをやめた。
 ぼくらは2年あまり戦い続け、殺人が日常茶飯事になっていた。誰にも同情しなかった。
 そんな元少年兵の社会復帰訓練センターに収容されます。収容所のなかで、元少年兵たちは元いた政府軍と反乱軍の2派に分かれて殺しあいもしてしまいます。
 薬の助けを借りずに眠れるようになるまでに数ヶ月かかった。ようやく寝入ることができるようになっても、1時間とたたないうちに目が覚めてしまう。夢のなかで、顔のない武装兵がぼくをしばりあげ、銃剣ののこぎり刃でぼくの喉を切り裂きはじめる。ぼくはそのナイフが与える痛みを感じる。汗びっしょりなって目を覚まし、虚空にパンチをくり出す。それから外に飛び出し、サッカー場の真ん中まで走って行って、膝をかかえこんで身体を前後に揺らす。子どものころのことを必死で思い出そうとしても、できなかった。戦争の記憶が邪魔をするのだ。
 樹皮に赤い樹液がこびりついている木のそばに行くと、捕虜を木にしばりつけて撃つという、何度も実行した処刑の光景を思い出す。彼らの血は木々を染め、雨期の最中でさえ、決して洗い落とされなかった。
 著者は社会復帰訓練センターを経て、おじさんの家庭にあたたかく迎えいれてもらって社会復帰できました。ところが、シェラレオネそのものがまた内乱の危機におそわれ、ついに国外へ脱出することになるのです。
 少年兵士たちのおかれている厳しい現実、そして少年兵士を社会復帰させることがいかに大変な事業であるかを理解させてくれる本です。
 表紙にうつっている、いかにも聡明そうで、明るい笑顔からはとても想像できない過去をもつ元少年兵士です。
 庭にある小さな合歓(ねむ)の木が花を咲かせています。紅い、ぽよぽよとした可愛らしい花です。
(2008年2月刊。1600円+税)

地獄のドバイ

カテゴリー:アフリカ

著者:峯山政宏、出版社:彩図社
 北大理学部を出た日本人の若者が海外で寿司職人となって一旗上げようと、いま世界最先端のドバイで渡って体験した悪夢のお話です。世の中、何ごとも表があれば裏があるというわけですが、このドバイの話は、ちょっといくらなんでもひどすぎる。そう思いました。ドバイは地獄だという英文タイトルのとおりです。大金持ちにとっては天国のような国なのですが・・・。
 ドバイはアラブ首長国連邦(UAE)の一つ。いま大変な建設ラッシュのため、世界のクレーン車の25%が埼玉県ほどの面積しかないドバイに集まっている。ドバイの経済成長率は16%。いくらでも入れ替えのきく外国人労働者は奴隷のように扱われる。出稼ぎ労働者のために職場環境をよくしようという発想はない。高層ビル建築現場に働く外国人労働者の賃金は105ドル。一流ホテルの従業員であっても、月給3万円もあればいいほうだ。
 著者は東京の江戸前寿司職人養成学校に入った。3週間で一人前にするというふれこみだ。受講料はなんと40万円。しかし、ドバイでは寿司職人にはなれませんでした。何のコネも紹介状もなかったからでもあります。やむなく肥料会社に入り、大金持ちの社長邸宅の芝生に水やりをする仕事につきます。水道管のパイプがよく詰まるのです。
 外国人労働者の賃金をケチるから手抜き工事が蔓延し、結果的に水をロスすることになってしまう。そんな皮肉な現実があっても、大金持ちは、何とも思いません。すべてはお金で解決できるからです。
 著者は肥料会社に勤めていた。パスポートもあり、3年間のUAEの居住許可証も労働ビザも持っている。そのうえ、日本に帰ろうとして飛行機も手配していた。にもかかわらず拘置所へ入れられた。ええーっ、なぜ、なぜ・・・?
 勤めていた会社が閉鎖されたら、次の職場に移る前に拘置所に入れられることになっている。そんなバカな・・・!?
 しかし、それがドバイという国の法律。うひょう、し、信じられませんよね、これって。
 拘置所に入れられる。そのときスーツケースに拘置所の係官がわざと番号を間違える。荷物を行方不明にして巻き上げるため。な、なんと、そんなことが堂々とまかり通っているとは・・・。
 そして拘置所内のひどい生活ぶり。読むだけで鼻の曲がりそうな汚濁にみちみちた雑居房に前科もない日本人が一人ほうりこまれるのです。心細いですよね。200畳ほどの部屋に300人をこえる囚人が押しこまれている。囚人には、くの字になって寝るだけのスペースしか与えられていない。新参者は悪習臭を放つトイレの側で寝るしかなかった。そして、1年以上も風呂に入っていない囚人たちの強烈な体臭が押し寄せる。
 幸運にも、わずか4日間で出所できた著者による、この世の地獄ドバイだよりでした。あなたもドバイに行く機会があったら、その前にぜひ読んでみてください。
 私の娘がドバイへ一人旅に出かけ、無事に戻ってきましたが、旅行中にこの本を読みましたので、それなりに心配したことでした。
(2008年5月刊。590円+税)

アフリカ、子どもたちの日々

カテゴリー:アフリカ

著者:田沼武能、出版社:ネット武蔵野
 著者が世界の子どもの写真を生涯のテーマーに決めたのは、今から40年以上も前の 1966年、37歳のとき。初めてアフリカの大地を踏んだのは1972年。
 黒柳徹子はユニセフの親善大使となって毎年アフリカを訪問している。そのとき著者は必ず同行し、写真をとる。写真家は大変だ。撮影日時、難民キャンプの呼び名、キャンプの人口、子どもの名前、年齢、親の名前などなど。夜遅くまで撮ったフィルムと一緒にデータをきちんと整理し、次の朝を迎える。うひゃー、すごいんですね。
 アフリカでは6000万人の子どもが貧困のために学校へ行けない。アフリカでは内戦と同じくらいにエイズが重大問題だ。世界の人口65億人のうち11%がサハラ以南に暮らす。その63%がエイズウィルスの感染者、エイズ孤児の80%がアフリカに集中している。
 そんなアフリカに住み、生活している子どもたちですが、写真に登場しているアフリカの子どもたちの目はキラキラと輝いています。弟妹の守りをし、みんなと楽しそうに遊んでいます。
 手製のギターを弾きながらコーラスに興じる子どもたちもいます。娯楽の少ない村では、著者の乗る車を子どもたちはどこまでも走って追いかけてきます。
 サッカーで遊ぶ子供たちの写真もありますが、よく見ると、普通のサッカーボールではありません。古新聞を丸めて、ぼろ布で包み、ひもで巻いただけのものです。でも、そんなサッカーボールで一日中遊んで飽きません。女の子たちは民族衣装で踊ります。
 水運び、市場での物売り、畑づくり。子どもたちはたくましく生きていきます。家造りだって手伝います。
 学校で勉強もしたいのです。コーランを朗唱します。青空教室のこともあります。内戦犠牲者のカロン君は政府軍の少年兵となり、ゲリラに両腕を鉈(なた)で切り落とされてしまいました。栄養失調で死んでいく子どもも大勢います。その前にガリガリにやせ細ってしまいます。
 1年間に世界の子どもの22%がアフリカで生まれ、5歳未満の子どもの死の49%がアフリカの子ども。50万人の女性が妊娠と出産に関連して亡くなるが、その大多数がアフリカでのこと。世界にいる1520万人のエイズ孤児の80%がアフリカの子ども。アフリカではHIV感染者の61%が女性。マラリアによる犠牲者100万人のうち、95%がアフリカの人々で、その大多数が5歳未満の子ども。
 いやあ、アフリカを見殺しにはできませんよね。日本という国はいったいアフリカのために何をしているのでしょうか・・・。
(2008年5月刊。1900円+税)

アフリカにょろり旅

カテゴリー:アフリカ

著者:青山 潤、出版社:講談社
 東大の研究者は、ここまでやります!というのがオビのうたい文句です。東大でなくても同じでしょうか、ともかく学者って、大変な職業だと、つくづく思いました。なにしろウナギを求めて地の涯、海の涯まで、どこまでもどこまでも旅を続けるのですから・・・。たいしたものです。
 一般に川の魚と考えられがちなウナギであるが、実は、はるか2000キロも離れたグアム島付近の海で産卵する降河回遊魚であり、繁殖という生物のもっとも重要なイベントを太平洋のど真ん中で行う立派な海洋生物なのである。
 なんていう、小難しい話は出てきません。ウナギ全18種類を机の上に並べてみたい。ウナギの形態と遺伝子を調べるためには、世界に生息する全種類のウナギの標本を自分で採集するほかない。この本に登場するのは、これを前提としての話です。これが簡単なようで、実は大変なことなんです。
 アフリカ大陸に乗りこむ。マウライ、モザンビーク、ジンバブエの3ヶ国を10数時間で走り抜ける国際路線バスがある。時速100キロ。道の両側には未処理の地雷が埋まっている。検問所の壁には、ライフルや自動小銃からロケット砲まで、さまざまな武器がかかっている。おー、怖いですね。アフリカでは各地で内戦が起きていますからね。
 モザンビーク。気温は52度。体内の血液が沸騰しているかのよう。頭の中がグワングワンと回転する。シャワーから噴き出すのは40度近いお湯。
 湖にボートを浮かべ、また湖岸で釣り糸をたれてウナギを求める。湖岸は実は地雷原だった。なんという幸運。
 ホテルのベッドカバーには、小さな赤いアリがウジャウジャとはいまわっている。
 次に泊まったモーテルにはトイレがない。ドアを出たら、いくらでも空き地があるから好きなところでやりな。でも、あんまり家の近くでしたらだめだよ。
 うーん、なんということ・・・。
 モーテルの近くの人々にウナギ集めを頼む。インチキな宣伝だ。
 皮膚に斑紋をもつウナギを見つけたら1000クワッチャあげる。それ以外だったら 100クワッチャ。架空のウナギに1000クワッチャの値段をつけてみんなをウナギ捕りに巻きこみ、目的のウナギ(ラビアータ)を捕ってもらうという画期的な方法だ。さて、これがうまくいったか。残念ながら、ノー。
 ところが、ふり出し地に戻ったところで、ついに待望のウナギ、ラビアータに遭遇することができた。しかし、喜ぶのはまだ早い。学者の任務は、これを30匹集めること。
 どこの世界にも変わり者はいる。形態にしろ遺伝子にしろ、一匹だけの結果が、本当にその種類を代表しているかどうかは分からない。そのため、ある程度の個体数を集める必要がある。その目安が30個体なのだ。だけど、8匹しか集まらない。でも、もう2ヶ月のアフリカ生活で神経が切れる寸前まで行っていた。だから日本帰国を決断した。
 ニホンウナギは、新月の夜、マリアナの海山で産する。
 これが学者の仮説だ。なんとロマンチックな仮説だろう。しかし、そのロマンを支えているのは血と汗と涙なみだの体験だった。いやー、すごいすごい。あんまりすご過ぎるので、私はとてもアフリカに行く気にはなりません。

「闇の奥」の奥

カテゴリー:アフリカ

著者:藤永 茂、出版社:三交社
 ベトナム戦争を描いた有名な映画に「地獄の黙示録」があります。ヘリコプターがワグナーの「ワルキューレ」の音楽を最大ボリュームで響かせながら地上のベトナム人をおもしろ半分に虐殺していくシーンは有名です。
 この映画「地獄の黙示録」(フランシス・コッポラ監督)のシナリオは、ジョセフ・コンラッドの小説「闇の奥」をもとにしている。この「闇の奥」は中央アフリカのコンゴ河周辺を舞台としている。そこでも、ベトナム戦争と同じように現地住民の大虐殺があったのです。初めて知りました。
 1900年ころ、中央アフリカのコンゴ河流域の広大な地域がベルギー国王レオポルト2世の私有地になっていた。そこで先住民の腕が大量に切断された。レオポルド2世は 1885年からの20年間に、コンゴ人を数百万人規模で大量虐殺した。
 1880年当時、コンゴ内陸部には2000万人から3000万人という大量の黒人先住民が住んでいた。そこを人口希薄の土地と想像するのは誤りである。
 このコンゴ地域には天然ゴムがとれた。1888年にコンゴで産出された原料ゴムは 80トン。それが1901年には6000トンにまで増大した。
 コンゴでのゴム採取の強制労働のため、レオポルド2世は公安軍をつくった。1895年には兵員総数6000人のうち、4000人がコンゴ現地で徴集された。1905年には、白人指揮官360人の下、1万6000人の黒人兵士から成っていた。
 公安軍の白人将校たちは、単に射撃の腕試しの標的として黒人の老若男女を射殺してはばからなかった。 強制労働のあまりの苛酷さに耐え切れず、作業を捨てて黒人たちが密林の奥に逃げ込むのを防ぐのが公安軍の任務だった。銃弾は貴重なものだったから、白人支配者たちは小銃弾の出納を厳しく取り締まるために、つかった証拠として、消費された弾の数に見合う死者の右手首の提出を黒人隊員に求めた。銃弾一発につき切断した手首一つというわけである。えーっ、そんなー・・・。
 2人のイギリス人宣教師にはさまれた3人の先住民の男たちが写っている写真があります。男たちは、右手首をいくつか手に持っています。ぞっとします。
 レオポルド2世はコンゴ自由国という名前の私有地をもち、公安軍という名前の私設暴力団を有してコンゴの現住黒人を想像を絶する苛酷さの奴隷労働に狩りたてていった。その結果、コンゴの先住民社会は疲弊し、荒廃し、その人口は激減した。1885年から20年のあいだに人口は3000万人か2000万人いたのが800万人にまで減少してしまった。
 ところが、レオポルド2世はアフリカに私財を投入して未開の先住民の福祉の向上に力を尽くす慈悲深い君主としてヨーロッパとアメリカで賞賛され、尊敬されていた。
 なんということでしょう。まさに偽善です。
 レオポルド2世は奴隷制度反対運動の先頭に立つ高貴な君主として広く知られていた。
 アフリカ大陸にひしめく黒人たちは、人間ではあるが、決して自分たちと同類の人間ではないとヨーロッパの白人は考えていた。黒人が人間として意味のある歴史と生活を有する人間集団であると考える白人は少なかった。
 しかし、個々の白人の病的な邪悪さや凶暴さが問題ではなかった。問題は、現地徴用の奴隷制度というレオポルド2世が編み出したシステムにあった。うむむ、そういうことなんでしょうか。
 1960年6月、コンゴ共和国は独立し、35歳の元郵便局員であるパトリス・ルムンバが初代首相に選ばれた。しかし、ルムンバ首相がソ連から軍事援助を受け入れたので、アメリカのCIAはルムンバ首相を抹殺することにした。コンゴ国軍参謀長のモブツを買収し、クーデターを起こさせ、ルムンバを拉致して銃殺した。このルムンバの処刑にはモブツの部下とともに、ベルギー軍兵士たちが立会していた。
 2006年7月、ルムンバを首相に選出した1960年から46年ぶりにコンゴで第2回の総選挙が行われた。いやはや、アフリカに民主主義が定着するのは大変のようです。しかし、それはヨーロッパ「文明」国が妨害してきた結果でもあるわけですね。
 アフリカの政治が混沌とした原因にヨーロッパとアメリカの責任があることを強烈に告発した本でもあります。

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