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検証・安保法制10年目の真相

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 長谷部 恭男 ・棚橋 桂介 ・豊 秀一 、 出版 朝日新書
 安保法制は憲法違反だ。このことを司法の場ではっきりさせようという裁判が全国各地で提起されました。私も福岡訴訟に少しばかり関わりました。
全国で25件の裁判が起こされ、原告は7700人、弁護士も1700人が代理人となった大型訴訟です。その中心的役割を担ったのは長崎出身の寺井一弘弁護士(故人)でした。日弁連事務総長、法テラス理事長もつとめています。
 安保法制が憲法違反だということは、憲法学者、元法制局長官そして、元最高裁長官まで声をそろえて一致しています。山口繁、元最高裁長官は、朝日新聞のインタビューにこたえて、「少なくとも、集団的自衛権の行使を認める立法は違憲と言わねばならない」と明快に語りました。「違憲の疑いがある」という、あいまいな表現ではなかったのです。
 国会審議のなかで、呼ばれた3人の憲法学者が、全員、安保法制は憲法違反だと断言しました。早稲田大学の長谷部恭男・笹田栄司、慶応大学の小林節名誉教授の3人です。内閣法制局の元長官として、宮崎礼壹(れいいち)、ほかに阪田雅裕氏なども違憲だと明確でした。
 ほとんどの裁判所が憲法判断を示さなかったなかで、唯一、憲法判断したのが仙台高裁の小林久起(ひさき)裁判長でした。2023年12月5日の判決です。残念なことに、小林判事は定年も間近でしたが、翌2024年4月20日、突然に病死(致死性不整脈)されました。
 集団的自衛権の行使を「部分的」に許容したとされる安保法制の合憲性について、中身に踏み込んで判断したのです。ところが、判決が原告の請求(控訴)を棄却するものであったことから、メディアは、安保法制の合憲性を認めたものとして報道されました。
 しかし、長谷部教授は、単純にそう読んではいけないと指摘し、その理由を詳しく展開しているのが、この新書です。長谷部教授の詳しい解説の結論は、集団的自衛権を行使するのは、実のところほとんど不可能だということです。
 他国が武力攻撃されたとき、それが日本国民の生命・自由・幸福追求に対する権利が根底から覆される場合、この場合だけが、集団的自衛権の行使が認められるものであるとし、その条件が厳格に守られる限り、明白に違憲とまでは言えない、ということ。しかし、実際問題として、この条件は、まず考えられないから、実質的には、集団的自衛権の行使は認められないと判決は言っているということ。そこで、集団的自衛権の行使を可能にする自衛隊法76条1項2号は、法令として意味をなさない、死んでいる、死文だ、使おうと思っても使えない条文だと小林判決は言っている。
 したがって、長谷部教授は、小林判決は、原告団が求めたものは得られていると評価します。なので、この仙台高裁判決について、原告団が上告しないと決断したことも長谷部教授は是認し、同調しています。
 小林判決の前、長谷部教授が法廷で証言するについては、裁判所のほうから訊きたいという声が上がったというのも異例のことでした。そのうえ、仙台高裁では小林裁判長は長谷部教授に対して、なんと30分間も延々と補充尋問したというのです。それは、先行する棚橋弁護士の尋問が下手で、ポイントを外していたからというものではありません。
 長谷部教授を証人として採用する前、小林裁判長は、「この裁判では、司法の領域なのか政治の領域なのかについても争点となっているし…、裁判は原則的に口頭主義であって広く傍聴人も聞いてもらうという意義もあるから」と言明したとのことです。これはすごいですね。
 小林裁判長は、我が国の国民が存立の危機に陥って、国民の生命・自由・幸福追求の権利が根底から覆されるという恐れが、他国への攻撃によって起こるということは、どうも考えられないと思ったのではないか…。
 棚橋弁護士は、法廷にいて小林裁判長が判決文の要旨を読み上げるのを聞いていた。すると、小林裁判長は、傍聴人に語りかけるような感じで読み上げていったが、なかでも肝心なところは、特にゆっくり声を張り上げていたことを紹介しています。なるほど、小林裁判長は、傍聴人(記者も来ています)を通して、世間にアピールしようとしたんですね…。
そこで、長谷部教授は、この小林判決の全文に目を通したうえで、「裁判官として精一杯の判断をしたという印象だ」と朝日新聞のインタビューに答え、さらに、「政府にクギを刺した判決だ」ともコメントしています。政府に対して、厳格な条件を守りなさいよと言っている判決だというのです。
 日本に対して本気で武力攻撃するつもりなら、弾道ミサイルを撃つような効率の悪い真似をするよりも、日本海岸の原発(原子力発電所)を二つ三つ壊してしまえば、それでもう日本はおしまい。これは長谷部教授の指摘ですが、まったく、そのとおりです。
 小林判決をまさしく深堀しています。少しばかり難しい展開もありますが、今の司法を取り巻く状況のなかで、小林裁判長はギリギリの線まで考え、考え抜いたのではないか。この悩み事をふっ切って書いた判決だということのようで、私としては、もっと世間に分かりやすく、ズバッと、違憲だと断じてほしかったのですが…。
(2025年7月刊。990円)

動物たちの江戸時代

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 井奥 成彦 、 出版 慶應義塾大学出版会
 江戸時代、人々は今より以上に動物とともに生きていた。
 犬は、江戸初期は「食べられる動物」だったのが、中期の元禄期の「生類憐みの令」によって保護される存在となり、後期には、愛玩動物(ペット)としての特色が強くなった。日本も昔は、中国や韓国と同じように、犬を食べていた。将軍綱吉の「生類憐みの令」がそれを禁止した。四谷に1万9千坪、大久保に2万5千坪、中野に16万坪の犬小屋をつくって、中野だけでも10万頭の犬が収容された。当時の犬の寿命は10年もなく、大量の犬を飼育するのは難しくて、病死する犬も多かった。この「生類憐みの令」によって、日本人は犬を食べなくなった。
そして、何頭もの犬が単独で伊勢参宮を果たした。もちろん、これは人々が伊勢参りに行っていたので、その同伴者(犬)としてのこと。新潟市から伊勢神宮まで参宮に出かけ犬が記録されている。犬は、首に巻きつけた袋に、自宅に戻ったときは銭1貫700文も入っていた。吉原遊郭(ゆうかく)では、狆(ちん)という犬種に人気があった。犬の墓のなかには、戒名の彫られた犬の墓石が発掘されている。
江戸後期には、犬や猫はペットとして愛されていて、死んだら墓がつくられていた。
江戸城の大奥では、猫が飼育されていった。猫(ミチ姫、サト姫などと呼ばれていた…)は、餌代が年に25両もかかっていた。
 東日本と九州では、牛より馬のほうが多く、西日本では牛の比率が高かった。日本の馬は小柄で、サラブレッドのような高さはなかった。江戸時代の馬は、およそポニーと呼ばれる中・小型馬。体高130センチに満たない馬がほとんどだった。牛は、使役の役割を果たすと、供養塔を建ててもらっていた。
ペットの供養源となっていたのは「鳥屋」。鳥屋にはブリーダーとしての一面がある。
江戸時代の人々は「薬食い」と称して、猪や鹿などの獣肉を食べていた。
 象が日本にやって来たのは15世紀のこと。それ以来、何度も日本にやって来て、記録が残っている。
 江戸時代、「接待・饗応」の場として、鶴しかも黒鶴が珍重された。
 江戸時代には芝居小屋があって、芝居が演じられた。曲馬芝居というのは、衣裳を着けたプロが馬上で芝居をするという馬上芝居だった。
 江戸時代が決して暗黒の時代ではなかったことが分かります。
(2025年4月刊。2640円)

私が決める、私の幸せ

カテゴリー:フランス

(霧山昴)
著者 大畑 典子 、 出版 ワニブックス
 29歳のとき、一級建築士の女性が思いたって単身フランスに渡り、フランスで「結婚」し、2人の子どもを育てている生活を振り返っています。
結論として、「キラキラしたフランス生活ではないけれど、夢見ていた平凡で温かな暮らし」を実現しているとのこと。写真の笑顔でそれを実感できます。なにより、2人の子と一緒に過ごしているパートナーの写真がホッコリさせてくれます。
 肩の力を抜いて、自分の夢に向かって軽やかに生きていくことを著者は大切にしているのです
 東京では建築士として、がむしゃらに働いていて、ふと思ったのでした。こんな生活をし続けていて、本当に幸せな未来が待っているのか。何か大切なことを見失いかけていないか…。まあ、それにしてもフランス語も話せないのに、よくもフランスに行こうという気になったものですね。いえ、フランスに観光に行くというのではないのです。何日、何ヶ月間の観光旅行なら、フランス語が話せなくてもなんとかなりますよね、きっと。著者は英語は話せるのですが、それではフランスでは生活できません。
 日本の建築士の資格はフランスでは通用しません。そこで、著者はナントにある建築大学の大学院に応募して、無事合格したのです。やはり、ただ者ではありませんね。
そして、フランスでパートナーの男性と出会って、2人の子どもをもうけて、現在も子育て中です。
先ほど「結婚」と書きましたが、正確にはPACSというフランス独特の制度を利用していて、結婚したのではありません。今は、フランス国籍の子どもの母親としてフランスに滞在する権利があります。
著者が住んでいるのは、ナントという地方都市。フランス史では「ナントの勅令」が有名です。私も名前は知っていますが、残念ながら行ったことはありません。
 フランス人の食生活は、ともかく日常的に大量の乳製品を摂取する。それにあわせるのは日本人にはきついので、和食中心に切り替え、子どもが生まれてからも週に半分ほど和食の日にしているそうです。
 著者は自分にとって心地よくないという人間関係は手放すことにしたと思います。大賛成です。先日も、この依頼者とはうまくやれそうもないな、いつ、どうやって縁を切ろうかと思っていると、先方から解任の話が出て、心底からほっとしました。これは、お金には代えられません。
フランスでは、婚姻届出が23万7千に対して、PACSの届出も19万2千あります。結婚よりほんの少しだけ少ないのです。連想ゲーム的にいうと、日本でまだ実現できていない選択的夫婦別姓なんて、なんで反対する人がいるのか、まったく理解できません。頑迷固陋な右翼は、戦前(明治)の家族(江戸時代までは日本も夫婦別姓でした)に無理矢理に戻したいというのです。日本の伝統を無視した、愚かな人たちとしか言いようがありません。
 著者は「国際結婚」をしたことになりますが、その難しさを実感しています。わが家にも国際結婚した娘がいますので、よく分かります。その点からも、参院選のとき、「日本人ファースト」なんて叫んだ政党を許すことができませんでした。
 外国在住経験のない人が国際結婚すると、「モラハラ関係」になりやすい。そうなんですよね。はやり、誰だって自分が体験していないことは、なかなか理解できないのです。それを日頃から口に出してはっきり言える関係をつくり出す必要があるのです。でも、これって、案外むずかしいことなんです。
大切なことは、国際カップルは、お互いに経済的自立しておく必要があるということ。依存関係では、破綻したときにたちまち困るのです。
 フランスには離婚保障手当なるものがあるそうです。初めて知りました。離婚したあと、収入の少ない配偶者の生活レベルが下がってしまわないよう、収入の多い側が少ない側に支払うものです。ただし、ずっとではないようです。
 フランスの家庭に客を招いたとき、靴を脱がせるのは失礼にあたる。これは、まったく生活習慣の違いですね。
フランスには家事代行を利用している家庭が多いが、その費用の半分を国が負担してくれる。それは、共働き夫婦を支援する制度。いやあ、これはいいですね。
 フランスでは在宅保育制度についても、国が費用を半分負担する。これまた、国の少子化対策のひとつだと思います。日本でもやったら、どうでしょうか。
 排外主義がはびこっているのはフランスも同じのようですが、この本を読むと、ますます、みんな同じ人間なんだから、どこかで折りあいをつけて共生していこうという気になります。
(2025年3月刊。1760円)

文品、藤沢周平への旅

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 後藤 正治 、 出版 中央公論新社
 私は弁護士になる前の、2年間の司法修習生のころ、山本周五郎にはまっていました。同じ修習生仲間(仙台・石巻市の庄司捷彦氏)から勧められたのですが、たちまち江戸情緒たっぷりの豊かな人情話の虜になってしまいました。
弁護士になってからは、藤沢周平です。山田洋次監督が映画化していますので、視覚的にも没入することが出来るようになりました。ありがたいことです。
藤沢周平の生まれ故郷である山形県鶴岡市には亡き上田誠吉弁護士(自由法曹団の元団長)と一緒に(といっても、私は下っ端で、あまり役に立っていませんが…)。灯油裁判の原告弁護団の一員として何回か行っています。落ち着いた、古い城下町だという印象が強く残っています。
風景や情景の描写における藤沢周平の筆運びの精密さ、巧みさはよく指摘される。それは少年期からの読書量に加え、俳句や短歌や詩に親しんだことも一助になっていようが、細部への観察力、折々に覚えた心象や想念を記憶に留め置き、それらを文章に置き換えていく、やはり天与の技量があった。
藤沢周平は28歳の妻を亡くした。幼い娘は、まだ1歳。鬱屈(うっくつ)した気持ちのはけ口が小説を書くことだった。だから出来あがったものが暗い色彩を帯びるのは当然のこと。物語という革袋の中に、鬱屈した気分をせっせと流し込んだ。そうすることで、少しずつ自分は救済されていった。
藤沢周平は短い教員生活のあと長い結核療養の年月を過ごした。これは大学に行っていない藤沢周平にとって、「私の大学」となった(師範学校は卒業している)。
 そして、東京で業界紙に勤めた。29歳から46歳まで、17年ものあいだのことで、これが「もうひとつの大学」になった。
藤沢周平は、雑誌に寄稿するとき、必ず締切を守った。
 藤沢周平の作品、とりわけ前中期の士道小説には、権力というものに対する冷え冷えとした感触がある。主人公の下級武士たちは、権力に翻弄されてつつもなお、意地と矜持(きょうじ)を失わない。
 藤沢周平の小説には負のロマンがある。主人公は、暗い宿命のようなものに背中を押されて生き、あるいは死ぬ。
小説は、私という兵士が口ずさむ軍歌のようなもの。軍歌の常として、メロディがやや悲惨味を帯びるのは、やむを得ない。歌わない兵士が大部分のなかで、ともかく軍歌を自分なりに歌えるのは、恵まれたこと。たとえ、音痴気味だとしても…。
 藤沢周平は、健康な懐疑主義、なんであれ、絶対的な存在、唯一無二、唯一神的なものを好まなかった。
藤沢周平は作風を転換させたが、それには長い年月を要した。
 娘(展子)によると、藤沢周平は、庄内弁のカタムチョ(頑固)で、便利な流行(はや)りものは好まない。テレビも故障するまで白黒。
2階の和室を仕事部屋にしていたが、クーラーはなく、うちわ片手に原稿を書く。チヂミのシャツ、腹にサラシを巻き、下半身はステテコ姿。
 時代や状況を超えて、人間が人間であるかぎり不変なものが存在する。人間の内部、ホンネということになると、むしろ何も変わっていないのが真相だろう。小説を書くということは、そういう人間の根底にあるものに問いかけ、人間とはこういうものかと仮りに答えを出す作業だろう。作家にとって、人間は善と悪、高貴と下劣、美と醜をあわせもつ小箱だ。作家は魔に憑(つ)かれた人種というしかない。つくられた小説世界の中で、作者もいっときの虚構の楽しみを読者と共有する。
藤沢周平の世界をたっぷり堪能した思いのする本でした。
(2025年3月刊。2640円)

幸徳秋水伝

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 栗原 康 、 出版 夜光社
 無政府主義者宣言というサブタイトルがついた本です。幸徳秋水はアナーキストとして活動していて、官憲ににらまれ、ついに大逆事件で捕まり、刑死させられました。
高知県に生まれ育つなかで自由民権運動に触れ、東京に出て中江兆民の書生をし、万朝報(よろずちょうほう)で記者をつとめます。平民社で活動したあと、アメリカに渡って見聞を広め、日本に戻って足尾銅山の鉱毒事件に関わって田中正造翁とも結びつくのでした。
 足尾銅山で従業員が暴動を起こしたのは、1907年2月4日のこと。古河鉱業も経営する足尾銅山には8千人以上の坑夫たちが働いていた。強圧的に働かされていた坑夫たちが怒りを暴発させ、事務所や会社役員宅に放火し、略奪していった。
 ついに軍隊が出動。高崎連隊3個中隊、300人が到着して、600人以上を逮捕。うち182人が起訴された。会社の被害は28万円、今の9億3千万円にあたる。
 このとき、幸徳秋水は35歳で、アメリカから帰国したばかりだった。「平民新聞」を発刊して宣伝していた。
 幸徳秋水は、高知県の四万十市で1871年11月5日に生まれた。本名は伝次郎。父は薬種業、酒業をいとなむ商人。14歳のとき、高知市に出て勉強し、さらに東京へ出た。東京では自由民権運動が再燃していて、それに関わるうちに東京を追放された。伝次郎はまだ16歳。
 いったん郷里に戻り、再び東京に出た。そして中江兆民の書生(学僕)となる。中江兆民は24歳のとき、フランスに渡って、パリ・コミューンに遭遇した。
 19歳の伝次郎は東京で英語を勉強した。
 「万朝報」は、1895年に発行部数6万6千部もあった。そこで、片山潜などの社会主義者と出会った。このころ秋水は教育の「無償化」を呼びかけていた。
 ところが、この「万朝報」が1903年10月、突然日露開戦論を打ち出した。戦争に反対したら、「非国民」のレッテルを貼られてしまう。秋水は、「万朝報」をやめた。このとき31歳。
 平民社をつくって活動するようになった。片山潜や木下尚江、安部磯雄などが同志。
1903年11月、秋水たちは、週刊「平民新聞」を発刊した。平民社の3本柱は、「平民主義」、「社会主義」、「平和主義」だ。
日露戦争が1904年に始まると、ラジオの代わりに新聞が大いに売れるようになった。
「天子、金持ち、大地主。人の血を吸う、ダニがおる」
1909年10月初め、「ぼくと一緒に天皇を殺しませんか」と誘ったら、即答で「賛成」。同年11月3日、爆弾実験が成功した。同年10月26日、ハルビン駅で伊藤博文は安重根よりピストルで暗殺された。
1910年6月1日、秋水は警察隊に捕まった。平沼騏一郎は、大逆事件でアナキストを大量に殺戮(さつりく)した。その功績が認められて、平沼は異例の大出世をとげてゆく。
平沼は、なんとしても大がかりな暗殺計画があったことにしたい。一大事件をフレームアップ(でっちあげ)して、社会主義者の血の雨を降らせる決意だった。
1911年1月18日、大逆事件の判決は、24人を死刑、残る2人は懲役11年と8年。そして、判決からわずか6日後の1月24日の午前7時10分、死刑が執行された。
450頁もの厚さの本に、一風変わった文体で、幸徳秋水の一生が語られていきます。読みやすくもあり、分かりにくいところもある伝記ですが、幸徳秋水の人柄は、よく伝わってくる本でした。
(2024年9月刊。3080円)

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