(霧山昴)
著者 倉本 一宏 、 出版 講談社現代新書
高句麗好太王碑は有名です。413年に亡くなった好太王の墓の近くに大きな石碑が建てられ、今に残っています。
明治13年(1880年)に発見され、1884年に陸軍の情報将校(酒匂景信)が拓本を日本に持ち帰った。この碑文について、酒匂が石灰を塗って碑文を改ざんしたという説があったが、今では完全に否定されている。
この碑文では、倭国は大敗を喫している。ただし、倭国の将兵が渡を渡って朝鮮半島南部に上陸したというのは史実だと考えられる。倭国軍は、朝鮮半島に渡って、百済や加耶(かや)と共同の作戦をとって高句麗と対峙していた。
馬を「うま」と訓じるのは、中国語のマ(バ)が転じたもの。倭語には、この動物をあらわす言葉がなかった。倭に馬はいなかったし、見たこともなかったので当然のこと。また、馬を駒(こま)というのは、高麗(こま)から来ていて、高句麗の動物という意味だ。
筑紫磐井(つくしのいわい)は新羅(しらぎ)と結んでいた。倭国の継体大王は新羅遠征軍を派遣した。倭にとって「任那(みまな)復興」など、いかにも非現実的な願望にすぎないし、すぎなかった。そして、倭国の軍事出動が「平和を望んだ聖徳太子」なるものは、まったく史実に反する誤りである。
鎌倉時代の蒙古襲来前に、刀伊(とい)が1019年に入寇(にゅうこう)してきた。刀伊は、東部満州のツングース系の民族。女真族は、このころ、しばしば高麗を掠奪していた。
「ムクリ、コクリが来るよー・・・」と泣き叫ぶ子ども相手に叱る言葉。ムクリは蒙古つまりモンゴルのこと、コクリは高句麗・高麗のこと。
古代日本が古代朝鮮半島の国々と、どのように関わったのかを考えさせてくれる本です。
(2017年5月刊。880円+税)
戦争の日本古代史
