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中世九州の政治・文化史

著者:川添昭二、出版社:海鳥社
 14世紀。九州探題として九州を制覇していた今川了俊は足利室町幕府の基礎をつくった武将ですが、同時に二条良基の正風連歌の継承者として、文化の面でも活躍しました。
 和歌と違って連歌は、遊戯性・娯楽性そして一座性があるため、創作と鑑賞を共同で楽しむことができるものですから、堂上貴族から庶民まで、全国的に大流行していました。今日も連歌、明日も連歌といって、連歌にばかりかかわっていたので身代おちぶれてしまった。そんな様子が紹介されています。九州でも、連歌の面白さにはまった人が続出したようです。各地で連歌の会が催されています。京都から連歌の師匠がやってきて、九州各地を巡回していたのです。
 連歌は、戦国期の16世紀に入っても依然として盛んでした。専門の連歌師が九州内を巡回していたのです。決して殺し合いばかりの殺伐な時代ではありませんでした。
 1568年、高橋紹運(立花宗茂の父親)が岩屋城にたてこもり、北上してきた島津の大軍を迎え撃って、壮烈な全員戦死をとげた有名な岩屋城合戦の真相が語られています。すなわち、豊臣秀吉の九州平定戦の前哨戦として島津軍と戦ったことから、高橋紹運が玉砕し戦死しても、その子・立花宗茂は秀吉の直臣となることができ、柳川藩・三池藩が誕生することになったというのです。
 ただし、高橋紹運が40歳とまだ若かったので、臨機応変の謀計を欠いて血気にはやったための悲惨な結果だ。そんな見方が当時からあったことも紹介されています。

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