著者 小和田 哲男 、 出版 ミネルヴァ書房
秀吉が天下を取れたのは、官兵衛と半兵衛という二兵衛がいたからだ、と言われることがある。半兵衛とは、竹中半兵衛重治のこと。官兵衛とは黒田官兵衛、義高(よしたか)のこと。
戦国時代、重要な決定は大将一人で決めるのではなく、重臣立ちの会議によって決められていた。
後詰(ごづめ)とは、後巻(うしろまき)ともいい、味方の城が敵に包囲されたとき、城を攻めている敵に包囲されたとき、城を攻めている敵のさらに外側を大軍で包囲し、城の外と中とで敵を挟み撃ちにしようという戦法であり、そのための援軍のことをいう。
天正6年(1578年)、織田方だった摂津の荒木村重が有岡城で信長に対して叛旗を翻した。荒木村重の謀反は、三木城の別所長治を相手として戦っている秀吉にとって、まさに青天の霹靂だった。そこで村重を説得すべく黒田如水が最後に送りこまれたところ、有岡城内に幽閉されてしまった。しかし、如水と日頃接していた重臣たちは、如水が村重と同心して織田家を裏切ることは絶対にないと信じていた。
黒田如水は、1年間も狭い牢に閉じ込められていたため、膝は不自由になり、頭髪はぬけて禿になった。これは一生回復しないままだった。
織田信長が本能寺の変で倒れ、秀吉が「中国大返し」をするとき如水は知恵を働かした。秀吉の軍勢に毛利勢が加わっているように見せかけるため、毛利家の旗20本を借り受け、陣の先に立てていた。
著者によると、黒田如水はキリシタンだったとのことです。博多の教会堂で、如水追悼の儀式が行われたそうです。知りませんでした。
また、如水は、戦国武将としては珍しく、殺戮を好まなかったと書かれています。そして、如水は正室だけで、側室をもたなかったという点でも変わっています。
この本には偽書とされる『武功夜話』の引用もあったりして、歴史書としてはどうなのかなと思うところもありますが、黒田如水の歩みを分かりやすく伝えていました。
(2012年1月刊。3000円+税)
黒田如水
