弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2025年8月 1日
幸徳秋水伝
日本史(明治)
(霧山昴)
著者 栗原 康 、 出版 夜光社
無政府主義者宣言というサブタイトルがついた本です。幸徳秋水はアナーキストとして活動していて、官憲ににらまれ、ついに大逆事件で捕まり、刑死させられました。
高知県に生まれ育つなかで自由民権運動に触れ、東京に出て中江兆民の書生をし、万朝報(よろずちょうほう)で記者をつとめます。平民社で活動したあと、アメリカに渡って見聞を広め、日本に戻って足尾銅山の鉱毒事件に関わって田中正造翁とも結びつくのでした。
足尾銅山で従業員が暴動を起こしたのは、1907年2月4日のこと。古河鉱業も経営する足尾銅山には8千人以上の坑夫たちが働いていた。強圧的に働かされていた坑夫たちが怒りを暴発させ、事務所や会社役員宅に放火し、略奪していった。
ついに軍隊が出動。高崎連隊3個中隊、300人が到着して、600人以上を逮捕。うち182人が起訴された。会社の被害は28万円、今の9億3千万円にあたる。
このとき、幸徳秋水は35歳で、アメリカから帰国したばかりだった。「平民新聞」を発刊して宣伝していた。
幸徳秋水は、高知県の四万十市で1871年11月5日に生まれた。本名は伝次郎。父は薬種業、酒業をいとなむ商人。14歳のとき、高知市に出て勉強し、さらに東京へ出た。東京では自由民権運動が再燃していて、それに関わるうちに東京を追放された。伝次郎はまだ16歳。
いったん郷里に戻り、再び東京に出た。そして中江兆民の書生(学僕)となる。中江兆民は24歳のとき、フランスに渡って、パリ・コミューンに遭遇した。
19歳の伝次郎は東京で英語を勉強した。
「万朝報」は、1895年に発行部数6万6千部もあった。そこで、片山潜などの社会主義者と出会った。このころ秋水は教育の「無償化」を呼びかけていた。
ところが、この「万朝報」が1903年10月、突然日露開戦論を打ち出した。戦争に反対したら、「非国民」のレッテルを貼られてしまう。秋水は、「万朝報」をやめた。このとき31歳。
平民社をつくって活動するようになった。片山潜や木下尚江、安部磯雄などが同志。
1903年11月、秋水たちは、週刊「平民新聞」を発刊した。平民社の3本柱は、「平民主義」、「社会主義」、「平和主義」だ。
日露戦争が1904年に始まると、ラジオの代わりに新聞が大いに売れるようになった。
「天子、金持ち、大地主。人の血を吸う、ダニがおる」
1909年10月初め、「ぼくと一緒に天皇を殺しませんか」と誘ったら、即答で「賛成」。同年11月3日、爆弾実験が成功した。同年10月26日、ハルビン駅で伊藤博文は安重根よりピストルで暗殺された。
1910年6月1日、秋水は警察隊に捕まった。平沼騏一郎は、大逆事件でアナキストを大量に殺戮(さつりく)した。その功績が認められて、平沼は異例の大出世をとげてゆく。
平沼は、なんとしても大がかりな暗殺計画があったことにしたい。一大事件をフレームアップ(でっちあげ)して、社会主義者の血の雨を降らせる決意だった。
1911年1月18日、大逆事件の判決は、24人を死刑、残る2人は懲役11年と8年。そして、判決からわずか6日後の1月24日の午前7時10分、死刑が執行された。
450頁もの厚さの本に、一風変わった文体で、幸徳秋水の一生が語られていきます。読みやすくもあり、分かりにくいところもある伝記ですが、幸徳秋水の人柄は、よく伝わってくる本でした。
(2024年9月刊。3080円)
2025年8月 2日
文品、藤沢周平への旅
人間
(霧山昴)
著者 後藤 正治 、 出版 中央公論新社
私は弁護士になる前の、2年間の司法修習生のころ、山本周五郎にはまっていました。同じ修習生仲間(仙台・石巻市の庄司捷彦氏)から勧められたのですが、たちまち江戸情緒たっぷりの豊かな人情話の虜になってしまいました。
弁護士になってからは、藤沢周平です。山田洋次監督が映画化していますので、視覚的にも没入することが出来るようになりました。ありがたいことです。
藤沢周平の生まれ故郷である山形県鶴岡市には亡き上田誠吉弁護士(自由法曹団の元団長)と一緒に(といっても、私は下っ端で、あまり役に立っていませんが...)。灯油裁判の原告弁護団の一員として何回か行っています。落ち着いた、古い城下町だという印象が強く残っています。
風景や情景の描写における藤沢周平の筆運びの精密さ、巧みさはよく指摘される。それは少年期からの読書量に加え、俳句や短歌や詩に親しんだことも一助になっていようが、細部への観察力、折々に覚えた心象や想念を記憶に留め置き、それらを文章に置き換えていく、やはり天与の技量があった。
藤沢周平は28歳の妻を亡くした。幼い娘は、まだ1歳。鬱屈(うっくつ)した気持ちのはけ口が小説を書くことだった。だから出来あがったものが暗い色彩を帯びるのは当然のこと。物語という革袋の中に、鬱屈した気分をせっせと流し込んだ。そうすることで、少しずつ自分は救済されていった。
藤沢周平は短い教員生活のあと長い結核療養の年月を過ごした。これは大学に行っていない藤沢周平にとって、「私の大学」となった(師範学校は卒業している)。
そして、東京で業界紙に勤めた。29歳から46歳まで、17年ものあいだのことで、これが「もうひとつの大学」になった。
藤沢周平は、雑誌に寄稿するとき、必ず締切を守った。
藤沢周平の作品、とりわけ前中期の士道小説には、権力というものに対する冷え冷えとした感触がある。主人公の下級武士たちは、権力に翻弄されてつつもなお、意地と矜持(きょうじ)を失わない。
藤沢周平の小説には負のロマンがある。主人公は、暗い宿命のようなものに背中を押されて生き、あるいは死ぬ。
小説は、私という兵士が口ずさむ軍歌のようなもの。軍歌の常として、メロディがやや悲惨味を帯びるのは、やむを得ない。歌わない兵士が大部分のなかで、ともかく軍歌を自分なりに歌えるのは、恵まれたこと。たとえ、音痴気味だとしても...。
藤沢周平は、健康な懐疑主義、なんであれ、絶対的な存在、唯一無二、唯一神的なものを好まなかった。
藤沢周平は作風を転換させたが、それには長い年月を要した。
娘(展子)によると、藤沢周平は、庄内弁のカタムチョ(頑固)で、便利な流行(はや)りものは好まない。テレビも故障するまで白黒。
2階の和室を仕事部屋にしていたが、クーラーはなく、うちわ片手に原稿を書く。チヂミのシャツ、腹にサラシを巻き、下半身はステテコ姿。
時代や状況を超えて、人間が人間であるかぎり不変なものが存在する。人間の内部、ホンネということになると、むしろ何も変わっていないのが真相だろう。小説を書くということは、そういう人間の根底にあるものに問いかけ、人間とはこういうものかと仮りに答えを出す作業だろう。作家にとって、人間は善と悪、高貴と下劣、美と醜をあわせもつ小箱だ。作家は魔に憑(つ)かれた人種というしかない。つくられた小説世界の中で、作者もいっときの虚構の楽しみを読者と共有する。
藤沢周平の世界をたっぷり堪能した思いのする本でした。
(2025年3月刊。2640円)
2025年8月 3日
私が決める、私の幸せ
フランス
(霧山昴)
著者 大畑 典子 、 出版 ワニブックス
29歳のとき、一級建築士の女性が思いたって単身フランスに渡り、フランスで「結婚」し、2人の子どもを育てている生活を振り返っています。
結論として、「キラキラしたフランス生活ではないけれど、夢見ていた平凡で温かな暮らし」を実現しているとのこと。写真の笑顔でそれを実感できます。なにより、2人の子と一緒に過ごしているパートナーの写真がホッコリさせてくれます。
肩の力を抜いて、自分の夢に向かって軽やかに生きていくことを著者は大切にしているのです
東京では建築士として、がむしゃらに働いていて、ふと思ったのでした。こんな生活をし続けていて、本当に幸せな未来が待っているのか。何か大切なことを見失いかけていないか...。まあ、それにしてもフランス語も話せないのに、よくもフランスに行こうという気になったものですね。いえ、フランスに観光に行くというのではないのです。何日、何ヶ月間の観光旅行なら、フランス語が話せなくてもなんとかなりますよね、きっと。著者は英語は話せるのですが、それではフランスでは生活できません。
日本の建築士の資格はフランスでは通用しません。そこで、著者はナントにある建築大学の大学院に応募して、無事合格したのです。やはり、ただ者ではありませんね。
そして、フランスでパートナーの男性と出会って、2人の子どもをもうけて、現在も子育て中です。
先ほど「結婚」と書きましたが、正確にはPACSというフランス独特の制度を利用していて、結婚したのではありません。今は、フランス国籍の子どもの母親としてフランスに滞在する権利があります。
著者が住んでいるのは、ナントという地方都市。フランス史では「ナントの勅令」が有名です。私も名前は知っていますが、残念ながら行ったことはありません。
フランス人の食生活は、ともかく日常的に大量の乳製品を摂取する。それにあわせるのは日本人にはきついので、和食中心に切り替え、子どもが生まれてからも週に半分ほど和食の日にしているそうです。
著者は自分にとって心地よくないという人間関係は手放すことにしたと思います。大賛成です。先日も、この依頼者とはうまくやれそうもないな、いつ、どうやって縁を切ろうかと思っていると、先方から解任の話が出て、心底からほっとしました。これは、お金には代えられません。
フランスでは、婚姻届出が23万7千に対して、PACSの届出も19万2千あります。結婚よりほんの少しだけ少ないのです。連想ゲーム的にいうと、日本でまだ実現できていない選択的夫婦別姓なんて、なんで反対する人がいるのか、まったく理解できません。頑迷固陋な右翼は、戦前(明治)の家族(江戸時代までは日本も夫婦別姓でした)に無理矢理に戻したいというのです。日本の伝統を無視した、愚かな人たちとしか言いようがありません。
著者は「国際結婚」をしたことになりますが、その難しさを実感しています。わが家にも国際結婚した娘がいますので、よく分かります。その点からも、参院選のとき、「日本人ファースト」なんて叫んだ政党を許すことができませんでした。
外国在住経験のない人が国際結婚すると、「モラハラ関係」になりやすい。そうなんですよね。はやり、誰だって自分が体験していないことは、なかなか理解できないのです。それを日頃から口に出してはっきり言える関係をつくり出す必要があるのです。でも、これって、案外むずかしいことなんです。
大切なことは、国際カップルは、お互いに経済的自立しておく必要があるということ。依存関係では、破綻したときにたちまち困るのです。
フランスには離婚保障手当なるものがあるそうです。初めて知りました。離婚したあと、収入の少ない配偶者の生活レベルが下がってしまわないよう、収入の多い側が少ない側に支払うものです。ただし、ずっとではないようです。
フランスの家庭に客を招いたとき、靴を脱がせるのは失礼にあたる。これは、まったく生活習慣の違いですね。
フランスには家事代行を利用している家庭が多いが、その費用の半分を国が負担してくれる。それは、共働き夫婦を支援する制度。いやあ、これはいいですね。
フランスでは在宅保育制度についても、国が費用を半分負担する。これまた、国の少子化対策のひとつだと思います。日本でもやったら、どうでしょうか。
排外主義がはびこっているのはフランスも同じのようですが、この本を読むと、ますます、みんな同じ人間なんだから、どこかで折りあいをつけて共生していこうという気になります。
(2025年3月刊。1760円)
2025年8月 4日
動物たちの江戸時代
日本史(江戸)
(霧山昴)
著者 井奥 成彦 、 出版 慶應義塾大学出版会
江戸時代、人々は今より以上に動物とともに生きていた。
犬は、江戸初期は「食べられる動物」だったのが、中期の元禄期の「生類憐みの令」によって保護される存在となり、後期には、愛玩動物(ペット)としての特色が強くなった。日本も昔は、中国や韓国と同じように、犬を食べていた。将軍綱吉の「生類憐みの令」がそれを禁止した。四谷に1万9千坪、大久保に2万5千坪、中野に16万坪の犬小屋をつくって、中野だけでも10万頭の犬が収容された。当時の犬の寿命は10年もなく、大量の犬を飼育するのは難しくて、病死する犬も多かった。この「生類憐みの令」によって、日本人は犬を食べなくなった。
そして、何頭もの犬が単独で伊勢参宮を果たした。もちろん、これは人々が伊勢参りに行っていたので、その同伴者(犬)としてのこと。新潟市から伊勢神宮まで参宮に出かけ犬が記録されている。犬は、首に巻きつけた袋に、自宅に戻ったときは銭1貫700文も入っていた。吉原遊郭(ゆうかく)では、狆(ちん)という犬種に人気があった。犬の墓のなかには、戒名の彫られた犬の墓石が発掘されている。
江戸後期には、犬や猫はペットとして愛されていて、死んだら墓がつくられていた。
江戸城の大奥では、猫が飼育されていった。猫(ミチ姫、サト姫などと呼ばれていた...)は、餌代が年に25両もかかっていた。
東日本と九州では、牛より馬のほうが多く、西日本では牛の比率が高かった。日本の馬は小柄で、サラブレッドのような高さはなかった。江戸時代の馬は、およそポニーと呼ばれる中・小型馬。体高130センチに満たない馬がほとんどだった。牛は、使役の役割を果たすと、供養塔を建ててもらっていた。
ペットの供養源となっていたのは「鳥屋」。鳥屋にはブリーダーとしての一面がある。
江戸時代の人々は「薬食い」と称して、猪や鹿などの獣肉を食べていた。
象が日本にやって来たのは15世紀のこと。それ以来、何度も日本にやって来て、記録が残っている。
江戸時代、「接待・饗応」の場として、鶴しかも黒鶴が珍重された。
江戸時代には芝居小屋があって、芝居が演じられた。曲馬芝居というのは、衣裳を着けたプロが馬上で芝居をするという馬上芝居だった。
江戸時代が決して暗黒の時代ではなかったことが分かります。
(2025年4月刊。2640円)
2025年8月 5日
検証・安保法制10年目の真相
司法
(霧山昴)
著者 長谷部 恭男 ・棚橋 桂介 ・豊 秀一 、 出版 朝日新書
安保法制は憲法違反だ。このことを司法の場ではっきりさせようという裁判が全国各地で提起されました。私も福岡訴訟に少しばかり関わりました。
全国で25件の裁判が起こされ、原告は7700人、弁護士も1700人が代理人となった大型訴訟です。その中心的役割を担ったのは長崎出身の寺井一弘弁護士(故人)でした。日弁連事務総長、法テラス理事長もつとめています。
安保法制が憲法違反だということは、憲法学者、元法制局長官そして、元最高裁長官まで声をそろえて一致しています。山口繁、元最高裁長官は、朝日新聞のインタビューにこたえて、「少なくとも、集団的自衛権の行使を認める立法は違憲と言わねばならない」と明快に語りました。「違憲の疑いがある」という、あいまいな表現ではなかったのです。
国会審議のなかで、呼ばれた3人の憲法学者が、全員、安保法制は憲法違反だと断言しました。早稲田大学の長谷部恭男・笹田栄司、慶応大学の小林節名誉教授の3人です。内閣法制局の元長官として、宮崎礼壹(れいいち)、ほかに阪田雅裕氏なども違憲だと明確でした。
ほとんどの裁判所が憲法判断を示さなかったなかで、唯一、憲法判断したのが仙台高裁の小林久起(ひさき)裁判長でした。2023年12月5日の判決です。残念なことに、小林判事は定年も間近でしたが、翌2024年4月20日、突然に病死(致死性不整脈)されました。
集団的自衛権の行使を「部分的」に許容したとされる安保法制の合憲性について、中身に踏み込んで判断したのです。ところが、判決が原告の請求(控訴)を棄却するものであったことから、メディアは、安保法制の合憲性を認めたものとして報道されました。
しかし、長谷部教授は、単純にそう読んではいけないと指摘し、その理由を詳しく展開しているのが、この新書です。長谷部教授の詳しい解説の結論は、集団的自衛権を行使するのは、実のところほとんど不可能だということです。
他国が武力攻撃されたとき、それが日本国民の生命・自由・幸福追求に対する権利が根底から覆される場合、この場合だけが、集団的自衛権の行使が認められるものであるとし、その条件が厳格に守られる限り、明白に違憲とまでは言えない、ということ。しかし、実際問題として、この条件は、まず考えられないから、実質的には、集団的自衛権の行使は認められないと判決は言っているということ。そこで、集団的自衛権の行使を可能にする自衛隊法76条1項2号は、法令として意味をなさない、死んでいる、死文だ、使おうと思っても使えない条文だと小林判決は言っている。
したがって、長谷部教授は、小林判決は、原告団が求めたものは得られていると評価します。なので、この仙台高裁判決について、原告団が上告しないと決断したことも長谷部教授は是認し、同調しています。
小林判決の前、長谷部教授が法廷で証言するについては、裁判所のほうから訊きたいという声が上がったというのも異例のことでした。そのうえ、仙台高裁では小林裁判長は長谷部教授に対して、なんと30分間も延々と補充尋問したというのです。それは、先行する棚橋弁護士の尋問が下手で、ポイントを外していたからというものではありません。
長谷部教授を証人として採用する前、小林裁判長は、「この裁判では、司法の領域なのか政治の領域なのかについても争点となっているし...、裁判は原則的に口頭主義であって広く傍聴人も聞いてもらうという意義もあるから」と言明したとのことです。これはすごいですね。
小林裁判長は、我が国の国民が存立の危機に陥って、国民の生命・自由・幸福追求の権利が根底から覆されるという恐れが、他国への攻撃によって起こるということは、どうも考えられないと思ったのではないか...。
棚橋弁護士は、法廷にいて小林裁判長が判決文の要旨を読み上げるのを聞いていた。すると、小林裁判長は、傍聴人に語りかけるような感じで読み上げていったが、なかでも肝心なところは、特にゆっくり声を張り上げていたことを紹介しています。なるほど、小林裁判長は、傍聴人(記者も来ています)を通して、世間にアピールしようとしたんですね...。
そこで、長谷部教授は、この小林判決の全文に目を通したうえで、「裁判官として精一杯の判断をしたという印象だ」と朝日新聞のインタビューに答え、さらに、「政府にクギを刺した判決だ」ともコメントしています。政府に対して、厳格な条件を守りなさいよと言っている判決だというのです。
日本に対して本気で武力攻撃するつもりなら、弾道ミサイルを撃つような効率の悪い真似をするよりも、日本海岸の原発(原子力発電所)を二つ三つ壊してしまえば、それでもう日本はおしまい。これは長谷部教授の指摘ですが、まったく、そのとおりです。
小林判決をまさしく深堀しています。少しばかり難しい展開もありますが、今の司法を取り巻く状況のなかで、小林裁判長はギリギリの線まで考え、考え抜いたのではないか。この悩み事をふっ切って書いた判決だということのようで、私としては、もっと世間に分かりやすく、ズバッと、違憲だと断じてほしかったのですが...。
(2025年7月刊。990円)
2025年8月 6日
日本人拉致
朝鮮
(霧山昴)
著者 蓮池 薫 、 出版 岩波新書
なぜ北朝鮮が日本人を拉致(らち)したのか?
なぜ、北朝鮮は、日本人を拉致したことを認めたのか?
この2つの問いに、拉致された当事者が明らかにしています。とても説得的です。
若い日本人女性を長期にわたる「教育」のすえに北朝鮮のために活動する工作員にする目的だった。しかし、拉致された日本人に対する「思想改造」は思うような成果をあげなかった。この思想改造には、「よど号」グループ(日航機「よど号」をハイジャックして北朝鮮にわたった、田宮高麿らのグループ)を含めて「教育」したが、うまくいかなかった。
2002年9月、平壌で日朝首脳会談が開かれたとき、金正日総書記は、小泉首相に対して、「拉致」だった。「特殊機関内の一部の人間たちが英雄主義に陥って、つい...。率直に謝罪します」と表明した。なぜか。
北朝鮮は、当時、極度の経済困難事態にあり、日本からの賠償金を手に入れるためには拉致を認めるしかないと判断した。
北朝鮮から日本に密入国するだけなら、工作船によって「99%安全」に可能だった。
「拉致」については、まずは「拉致」し、その後のことは、そのあと考えて決めるという傾向があった。つまり、計画的ではあったけれど、考え抜かれていたわけではなかったのです。
日本人と同じように拉致されたレバノン人が4人いたそうです。ところが、そのうち2人が「従順」なふりをしているうちに脱出に成功しました。そこで、外国人は「従順」なふりをしていても信用ならないと北朝鮮は考えたのでした。だったら、国内で工作員を養成しようと方針転換したということです。
そもそも、思想的に北朝鮮はおろか、社会主義にも同情的な傾向のない日本人を拉致してきて、自分の祖国を裏切らせて、北朝鮮のために働く工作員として活動させるというのは、どだい乱暴な発想だし、無理がある。まったくもって、私もそう思います。
戦前のスパイとして有名なゾルゲには高度の使命感があったと思いますが、戦後の日本社会に育った日本人を心底から金正成思想を信じ込ませるなんて、およそありえないことだと私も思います。ご冗談でしょう...という気がします。
金賢姫は、「革命的信念が強い」と思われていたのに、なぜ、あっさり「変節」したのか。
北朝鮮は、敵のありのままを教えなかったことにあると考えた。韓国は、「非常に立ち遅れた貧しい国」だと思い込んでいたのに、現実は商品があふれて、華やかな生活をしている現実を目の当たりにして衝撃を受け、心が折れてしまったという。そこで、韓国の真実も可能なかぎりに工作員には伝えるように転換した。なーるほど、ですね。
著者は日本で中央大学法学部のとき拉致され、北朝鮮で24年間生活しました。
日本人を拉致した北朝鮮の組織は二つ。党の対外情報調査部と対外連絡部。そして、著者は2002年10月25日に日本に帰国しました。それから既に23年になります。
当初は子どものいる北朝鮮に戻るつもりだったのです。でも、「党」の意思に逆らったのでした。北朝鮮での長きにわたるマインドコントロールから抜け出し、本来の自分を取り戻すための第一歩を踏み出したのです。帰国して9日目、10月24日でした。
月刊誌『世界』に連載したものを著者が加筆・修正しています。北朝鮮に対する「日本人拉致」とは何だったのかが、よく分かる新書です。一読をおすすめします。
(2025年6月刊。940円+税)
2025年8月 7日
防衛省追及
社会
(霧山昴)
著者 石井 暁 、 出版 地平社
今回の参議院議員選挙では、本当は日本の大軍拡予算を認めてよいのか、日本を守るためには軍事一辺倒でよいのか、真剣に議論すべきでした。ところが、明日の日本にとっての最重要な争点はすっかり置き去りにされて、外国人犯罪は少なく、外国人が日本人より優遇されている事実なんか全然ないのに、「日本人ファースト」と称して、排外主義を唱える政党が莫大な国民の「支持」を得ました。本当に残念な結果でした。
この本は、今の日本で起きていること。大軍拡が日本を守るものではないことなどを、ズバリ明らかにしています。日本政府はごまかしのネーミングに長(た)けています。武器輸出は長く禁じられてきたのに、今では「防衛装備移転」と言い換えて、本質(実体)から国民の眼をそらそうとしています。航空母艦は「多用途運用護衛艦」と呼んでいます。なにが何だか分からないようにしているのです。航空母艦には、攻撃型も防衛型もないのに「護衛艦」なのです。
沖縄の辺野古周辺に新基地建設が着々と進められています。といっても水深90メートルもあり、しかも豆腐のように柔らかい地盤の上に軍事基地なんか造れるはずもありません。それでもいいのです。「新基地建設」名目でゼネコンなどはウハウハです。巨額の税金がジャブジャブと費消されています。急いで新基地をつくる必要なんてないのです。ゼネコンがもうかり、与党の政治家にバックマージンが入ってくればいいんです。とんでもない「税金泥棒」の面々です。
この本によると、辺野古新基地に陸上自衛隊の「水陸機動団」を常駐させるという日米間の密約(極秘合意)があるというのです。しかも、この密約は防衛省全体の決定を経ていない、つまり、文民統制シビリアンコントロール)を逸脱しているのです。
水陸機動団は、団全体で2400人、3つの連隊(650人ずつ)を基幹とし、オスプレイや水陸両用車などを有している、アメリカの海兵隊の日本版です。この水陸機動団が、アメリカの海兵隊が沖縄から撤退したあとは、辺野古が陸上自衛隊の基地になるという計画なのです。これでは、日本政府が辺野古新基地建設を簡単に断念するはずがありません。
「台湾有事」が声高に呼ばれています。もしも、台湾有事が現実に起きたとしたら、安保法制のもとで日本は戦争に巻き込まれるのは必至です。
それは、こんなカラクリです。中国と台湾とのあいだで戦闘が発生し、アメリカが軍介入を視野に展開を決断した場合は「重要影響事態」に相当する。事態がさらにエスカレートして、中国と台湾の戦闘にアメリカが軍事介入し、アメリカと中国との戦闘が始まれば、「存立危機事態」と認定可能になる。最終段階は、沖縄本島の在日米基地や日米共同作戦計画にもとづいて、南西諸島を臨時拠点化したアメリカ軍部隊に攻撃があれば、「武力攻撃事態」になる。台湾有事のとき、日本が参戦できるように安保法制を安倍政権は制定したということ。
「台湾有事は日本有事であり、日米同盟の有事でもある」
安倍元首相の言明は、まさしく日本を戦争に巻き込もうとするもので、あまりにも危険です。
日本の自衛隊はアメリカ軍との共同演習を重ねています。台湾有事のとき、アメリカ海兵隊は南西諸島に、陸軍をフィリピンに展開させてミサイル網を構築することになっている。南西諸島から住民11万人を九州・山口に避難させる計画はあっても、沖縄本島の住民160万人を避難させる計画はありません。建物内に退避しろというだけです。
いったい、中国と台湾・アメリカで戦争が勃発したとき、アメリカ軍の基地のある九州そして本土が中国から攻撃されないという保障がどこにありますか。まっ先に、九州そして日本海沿岸にたくさん立地している原子力発電所(原発)がミサイル攻撃されるでしょう。そのとき、日本はたちまち壊滅してしまいます。だって、むき出しの放射能を誰が、どうやって抑えつけるのですか。まったく不可能なことです。福島第一原発のデブリ取り出しは、今から12年先の2037年に始まると報道されています。私は、それすら難しいと思います。
日本は戦争なんか出来ない国なのです。
先日、玄海原発の上空を大型ドローンが2機飛んでいたことが後日発覚しました。原発は上空から攻撃されたら防ぎようがないのです。
「日本も核武装すべきだ」とか、「バリアーを張ったらいい」なんて、参政党の議員たちが能天気なこと、無責任な放言をしていますが、私は絶対に許せません。核兵器をまるでオモチャかのように、もてあそんではいけないのです。
それはともかく、大変勉強になりました。
(2025年5月刊。1980円)
2025年8月 8日
三池炭鉱の社会史
社会
(霧山昴)
著者 猪飼 隆明 、 出版 岩波書店
私は一度だけ炭鉱の中に入り、最前線の石炭を掘り出す切羽(きりは)まで行ったことがあります。坑口から、まず炭鉱電車に乗って地底におりて行きます。昭和天皇も炭鉱電車には乗ったようです。それを降りてからが大変なのです。そこから歩いたり、マンベルトに乗ったりして真っ暗闇の中を、頭につけたキャップランプだけを頼りにして、前の人について進みます。マンベルトというのは、ベルトコンベアーに人間が腰かけておりていくものです。なにしろ有明海の海底より更に200メートル以上も深いところに切羽はあります。坑口から切羽までは1時間以上かかったと思います。
坑内は真っ暗です。作業員(坑夫)は昼食とるのも地底で適当にとります。トイレなんてありません。すべては真っ暗闇の中なので、「必要ない」のです。暗闇に慣れるのは決して容易ではありません。正直言って怖かったです。落盤をふくめて坑内で死傷事故は頻発していました。炭坑の経営者は、いつだって出炭成績しか頭になく、安全管理はあと回しなのです。少しくらい給料が良くても、毎日、こんな地底で働くなんて考えられません。身内から相談を受けたら、やめとくように言います。
オーストラリアの炭鉱は露天堀だと聞きました。すると、そんな暗闇の恐怖は無縁です。でも、イギリスもドイツも地下深く石炭を掘っていましたので、やはり事故は起きていました。
今でも有明海の海底の地下には炭層があるようです。でも、今の技術ではとても安全に石炭を掘り出すのは難しいと思います。国内の石炭産業を復活させようという声が起きないのは幸いだと私は考えています。
さて、三池炭鉱です。三井鉱山が国から競争入札に勝って、安く手に入れました。そして、安価な囚人労働を活用して三井資本はボロもうけしたのです。それを推進したのが、暗殺された団琢磨です。今、新幹線の新大牟田駅前に大きな像が建っています。
三井鉱山が直面したのは坑内から湧き上がってくる大量の水の処理問題。これを団琢磨はイギリスから最新式のデービーポンプを購入して設置して解決したのです。そして、石炭積み出しのために港を整備しました。そして囚人労働の活用です。囚人労働の労賃は一般鉱夫の1割ほどだったというのですから、三井はもうかるはずで、やめられません。
坑内で出火したとき、坑内に鉱夫がいるのを承知のうえで坑口を閉鎖したこともあります。3年後に、水没していた遺体を発見したのでした。
三井が三池炭鉱を引き継いだとき、鉱夫の7割が囚人だった。いやはや、なんということでしょう...。囚人を使役すると、三井資本は年に5千円以上の利益の差がうまれる。団琢磨は、こう指摘した。
囚人は真っ赤な獄衣で、素足。そして、出役するときは足に鎖(くさり)でつながっていた。囚人処遇のひどさ、劣悪さを監獄医(菊池常喜医師)が告発するほどだった。
いまの三池工業高校は、当時、集治監で、1200人前後を収容していた。
ところが、炭鉱内の機械化が進むと、意欲も能力もない囚人ではまかなえなくなった。
港湾荷役の人夫は、深刻な台風被害を受けて生活できなくなった与論島の島民を連れてきた。
三池争議のころ、私は小学生でした。自宅のすぐ近くにあった若草幼稚園が全国から駆り出された警官隊の宿泊所と化していました。各地からやって来たオルグ・応援する人々が大牟田市内にあふれました。
指名解雇して労組の活動家を根こそぎ排除しようという三井資本のあこぎな手口に炭鉱労働者が反発したのは当然です。でも、中労委の斡旋案は、まさしく労組側に屈服させるものでした。
争議終了後、会社は第一組合といを旧労と呼び、新労組を露骨にエコひいきしました。差別と分断のなか、第一組合員はみるみるうちに脱落していったのです。
三池炭鉱について、頭を整理するのに、とても役に立ちます。資料価値の高い、貴重な労作です。
著者は2024年5月14日、80歳で亡くなりました。
(2025年6月刊。3700円+税)
2025年8月 9日
文芸編集者、作家と闘う
人間
(霧山昴)
著者 山田 裕樹 、 出版 光文社
私も小学生のときから今まで、それなりに本を読んできたと思っていますが、この本を読むと、さすがに上には上がいるものだと痛感させられます。世界的に有名な古典文学では読んだ本はごくわずかですし、SFや推理小説も、それほど読んではいません。
編集者は、最初は量を読むことが不可欠。読む量が多ければ、ダメ本と良書の違いが分かってくる。そして、ダメ本の中に、どこがダメの理由であり、そこを変えれば面白くなるという本も混じっていることを発見する。
預かった原稿は、すぐに読む習慣を身につけること。そうしないと、たちまち机の周辺が原稿の山になる。
「筆が止まってしまったときには、自分の潜在能力が代わりに書いてくれる」(北方謙三)。
書いているうちに、登場人物が勝手に書き出してしまって制御が難しくなり、自分の初めに予定していたテーマとプロットが大幅に変わりそうになった。その瞬間、「これはいけるかも」と思ってしまう。これはモノカキのはしくれとして、私も実感します。
本が出来るまでの編集者と、本が出来てからの批評家とは、立場が違う。立場が違うと、正義も違う。
作家は、自分といるときは、楽しく遊んでくれる編集者を欲するが、会社(出版社)に戻ったら自分の作品に正当な評価を会社にさせる編集者を欲するものだ。
文章が実にうまい。というのは、読んでいてリズミカルで快(こころよ)い。肝心なことは、優れた文章が練られたプロットを効果的に読者に提示する手段になっていること。優れた文章を書くだけが目的の作品には感動しない。私もリズミカルで快い文章を書いてみたいと思いました。
作家と喧嘩ばかりしている編集者は使いものにならない。しかし、ここというときに作家と喧嘩ひとつできない編集者もダメ。原稿を書くだけなら、作家には紙とペンがあればいい。それを本にするには、編集者が必要だ。そして、それをベストセラーにするには、販売部のプロが必要になる。
そうなんですよね、きっと...。私も一度くらい、「〇万部、売れた」と言いたいのですが...。今や誰でも知っている作家たちが、世に出るまでの、生みの苦しみを編集者は作家と共働作業してつくり出していくものだということがよく分かる本でもあります。
北方謙三、椎名誠、逢坂剛、夢枕獏、東野圭吾、高野秀行あたりは私もよく読みましたが、私の読んだことのない本の作家が何人も登場します。そして、編集者というのは、作家と夜を徹して、飲み、食べ、語り明かすのですね、そのタフさ加減には、とてもついていけません。
それにしても、本のタイトルにあるとおり、文芸編集者は、文字どおり作家とガップリ四つに組んでたたかうことがよく分かりました。すごい本です。
(2024年12月刊。2750円)
2025年8月10日
不便なコンビニ②
韓国
(霧山昴)
著者 キム・ホヨン 、 出版 小学館
私の事務所のすぐ前にコンビニがあります。事務所の場所を電話で教えるときにも、「分からないときはコンビニの広い駐車場に車をいったん停めてから電話して下さい」と説明することがあります(事務所専用の駐車場もありますが、コンビニのほうが目立っているし、分かりやすいのです)。
私も昔はコンビニなんか利用しないと高言していたのですが、今は愛用しています。だって、他に選択肢はないのです。小売商店はすっかり消え去ってしまいました。商店街のほとんどはシャッター通りになっています。
この本の舞台は大手コンビニのチェーン店ではなく、中小系列のようです。日本では大手コンビニのチェーン店ばかりになってしまいましたが、韓国では、まだ中小系列のコンビニが生き残っているようです。そして、日本の都会のコンビニの定員の多くは東南アジア系です。「日本人ファースト」を唱えて「躍進」した参政党は外国人排斥の差別主義を広めていますが、現実を無視していますし、怖いです。900万人以上の日本人が参政党に投票したという現実に身の震える思いです。
この本のコンビニには外国人労働者は登場しません。しかし、韓国内で、差別され、落ちこぼれた人たちの救いの場にコンビニという職場がなっていますし、客層も、家庭と職場に安住できる居所のない人たちが寄り集まってきます。ここらの社会の現実と登場人物の心理描写が見事で、いかにもありそうな展開です。
韓国式の表現に驚かされます。お尻の穴が裂ける。貧しいとき、代用植物として木の皮を食べていると便秘に苦しまされることから来たもの。カラスの肉でも食べたの?忘れっぽい人を皮肉る慣用句。韓国式の語感が似ているコトバによるもの。
コンビニという場所は、店長のような人だけでなく、何か訳ありな人が出入りするところ。
彼らは皆、不愉快な顔で、むっつりと何かに耐えているようだったが、クンベ(店員)が一言かけると、風船が割れたように口から言葉が飛び出してきた。
本書は『不便なコンビニ』の続編です。前書は120万部も売れる超ベストセラーになりましたが、続編も初版だけで10万部で、たちまち重版となり、正続あわせて170万部といいます。いずれ劣らぬ個性的なキャラクターが章ごとに登場するのですが、彼らがうまい調子に結びついていく趣向は前作と同じで、ともかく読ませます。
人生につまづいた人たちへの温かい眼差(まなざ)しと激励は、著者自身の苦労を反映したものだという訳者の解説があります。だからこそ人々に広く読まれるのだと思います。
(2025年3月刊。1980円)
2025年8月11日
淀川長治
人間
(霧山昴)
著者 北村 洋 、 出版 名古屋大学出版会
「では、また来週お会いしましょうね。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」
「日曜洋画劇場」(東芝)の最後に登場する、白髪のおじさんとして、淀川長治はすっかり全国の茶の間でおなじみでした。このテレビ番組は、なんと32年間も続いたそうです。信じられない、とんでもない長寿番組です。
淀川長治は1909年4月の生まれで、89歳で亡くなりました。映画会社の宣伝員、雑誌編集者、著述家、批評家、ラジオのパーソナリティと、マルチ人間でした。
小学生のときから、一人で映画館に行っていたというのですから、恐れ入ります。
本人は、13際のとき映画を本気で愛し、16歳のときは映画で生きようと決意したと言うのです。本当に、そんなことがあるんですね。
淀川長治は、来日したチャップリンにも面会している。1936年の2度目の来日のときのこと。
淀川長治は1933年、アメリカの映画会社(ユナイト社大阪支社)に入社し、3年後には宣伝部長になっている。そして、東京に転勤して、日本支部の宣伝部長となった。そして、アメリカの西部劇「駅馬車」の宣伝を担当。前宣伝には小津安二郎(日本一有名な映画監督)をも巻き込んで、大評判をとった。戦前最後のヒット作品だった。
日本敗戦後、淀川長治は再びアメリカ映画を扱った。ところが、一般には好評だった「カサブランカ」を「ちっともいいとは思えない凡作」だとみた。「社会性」の見えない映画に淀川は不満だった。
淀川は映画批評家として、誰にも分かる読みやすさを重視した。平易なコトバを多用し、文に流れをつける努力をした。そして、一般の映画ファンの立場から映画を批評した。淀川の映画評はリズムのある文章だった。
日曜日の夜9時、「日曜洋画劇場」が始まると、白髪のちらつく丸顔の男性が登場する。リハーサルは1度だけ。その後、すぐ本番。毎回の収録はピタリ4分30秒。NGが出たことはない。いやあ、これはスゴイことです。まさしく神業(かみわざ)ですね。
家族とともテレビで映画をみて楽しむ。そのため、前説(1分)、後説(1分半)、予告(1分)を淀川は担当した。
「ハイ、みなさん今晩は」(前説の冒頭)、「それでは、あとでまたお会いしましょう」(前説の末尾)、「ハイ、いかがでしたか」(後説の冒頭)。そして、最後は「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」。
親しみやすい語り手。しかし、猛烈な早口で、内容を盛り込んだ。もう、映画が好きで好きでタマラナイっていうのが分かるのがいいというファンが大勢いた。
淀川長治は日本映画を観ていないわけではない。たとえば、『二十四の瞳』は絶賛している。そして、山田洋次の「男はつらいよ」シリーズにも好感を持っている。さらには、「砂の器」も惚れ込んだ。
偉大な映画狂(フランス語ではシネフィルと呼びます)の一生を駆け足でのぞいてみた気分になりました。
(2024年12月刊。4950円)
2025年8月12日
日本被団協と出会う
社会
(霧山昴)
著者 大塚 茂 、 出版 旬報社
2024年12月10日、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)はノーベル平和賞を受賞し、代表社員の田中照巳(てるみ)氏がスピーチをしました。とても92歳という高齢者とは思えない、しっかりした足取りで演壇に立ち、明瞭な訴えそのものでした。
田中氏は長崎で、13歳のときに被爆しましたが、奇跡的に無傷でした。爆心地から3キロしか離れていない自宅にいたのです。このとき、田中氏は、被爆直後の長崎市内を歩いて、惨状を目の当たりにしました。
「そのときに目にした人々の死にざまは、人間の死とはとても言えないありさまでした。...たとえ戦争といえども、こんな殺し方、こんな傷つけ方をしてはいけない。そのとき強く感じたのです」
広島市民35万人のうちの14万人、長崎市民24万人のうちの7万人が年末までに亡くなりました。今、日本全国にいる被爆者は10万人を下まわり、平均年齢は86歳をこえる。なので、全国にあった被爆者組織が今では35団体にまで減っている。
原爆を落としたアメリカ軍の将軍は、被爆の真相を覆い隠した。「死ぬべき者は死んでしまい、9月上旬現在、原爆放射能のために苦しんでいるものはいない」と言い放った。許し難い暴言であり、嘘八百です。
日本人が原爆被爆の悲惨な真相を知ったのは、1952年8月に「アサヒグラフ」が原爆被爆の特集号を出したから。この特集号は、なんと70万部も発行された。被害の惨状を知った日本人は大変ショックを受けたのでした。それから原水爆禁止運動が始まりました。
しかし、被爆者が自らの被爆体験を語るのは、容易なことではなかった。たとえば、家の下敷きになって動けなくなった母親に火の手が迫っているのを「見捨て」て逃げ出した子どもは、とてもそんな体験を語れるはずがない...。被爆体験はとてもデリケートな問題であって、何年、何十年たっても気持ちの整理のつかない人は少なくなかった。
そして、体験者が高齢化して人数が減るなか、継承者をつくっていこうという取り組みが進められています。この本のサブタイトルは、「私たちは継承者になれるか」なのです。被爆を自らは体験していなくても、原爆被爆の悲惨な状況を語り伝えることは出来る。私も、そう思います。
「原爆は、人間として死ぬことも、人間らしく生きることも許さない悪魔の兵器である」
先日の参院選のとき、参政党の候補者(当選したので、今は国会議員)が、「日本も核兵器を持つべきだ。安上がりの兵器なんだから」と主張しました。原爆被爆の恐ろしさを知らない、いかにも軽薄な主張です。参政党という得体のしれない極右政党が国会のなかで大きな顔をしていくのかと思うと、身の震える、凍える思いがします。
日本政府は、今なお核兵器禁止条約に加盟していません。アメリカの核の傘に入っていたほうがいいと考えているのです。でも、アメリカが日本を守ってくれるなんて、単なる幻想でしかありません。トランプ大統領の嘘の多いハッタリばかりの発言が何より証明してくれています。それより、9条をもつ平和憲法を世界中に広めましょう。
著者から贈呈していただきました。とてもいい本をありがとうございます。
(2025年8月刊。1870円)
2025年8月13日
わたしがナチスに首をはねられるまで
ヨーロッパ
(霧山昴)
著者 ミリアム・ルロワ 、 出版 新潮クレストブック
ベルギーをナチスが占領していた時代、ロシア系移民の若い女性、ただし2人の子をもつ母親がナチスの将校に背後からナイフを突き立てて殺そうとしたことで処刑された。しかも、絞首刑でも銃殺でもなく、斧(おの)で斬首された。
今、そんな女性がいたことはベルギーではすっかり忘れ去られている。女性の名前はマリーナ・シャフロフ・マルタ―エフ。ロシア系移民だけど、ベルギーに移り住んでいるので、フランス語を話す。
ナチス占領下のブリュッセルで、ひそかにモスクワ放送を聞き、スターリンの呼びかけに呼応したいと思って、反戦ビラを通りに貼ったり、ちょっとしたレジスタンスを試みたりしていた。
そして、ナチスの将校が刺され、犯人は逃走したまま捕まらない。そこでナチスは、期限までに犯人が検挙されないときは、ベルギー市民60人を処刑すると発表した。
マリーナは、この期限の前日、路上のナチスの将校を背後から襲って直ちに逮捕された。別の説では、マリーナは、ナチスの警察本部に自首した。前の説によると、マリーナはナチス将校を2回刺したことになる。後説では、1回目のナチス将校を刺したのはマリーナの夫のユーリとその仲間。いずれにしても、マリーナは犯人として捕らえられた。
ヒットラーは処刑せよと指示したが、ベルギーのナチスの大将はマリーナに2回も面会して、助命・嘆願まで勧めた。しかし、マリーナは決断と断った。
最初の事件発生は、1941年12月7日の日曜日の夜7時30分のこと。16日正午までに犯人が発見されないときには、「重大な報復措置が講じられることになる」と布告された。
拘束されている60人のなかには街の名士たち、司祭・医師・市の元助役も含まれていた。マリーナの母親がベルギー王妃に手紙を書いて恩赦を願い、王妃は同情してナチスに恩赦を求めた。そこで、ナチスの将軍はマリーナに会って、恩赦を与えるつもりなので、嘆願書を書くように促した。すると、マリーナは断った。
「自分は、もう生涯の仕事を終えてしまった。悲しんだり、怒ったりするには及ばない。死ぬのを恐れてはいない。死刑になって当然のことをしたのだから...」
占領下のベルギーのドイツ軍司令官、フォン・ファルケンハウゼン将軍も、できたらマリーナの処刑は避けたいと考えていた。ヒトラーの指示に逆らってもいい。それより、マリーナの処刑を知ったときのベルギー市民の心情を恐れていた。
マリーナはいよいよ処刑されることになり、別の刑務所に移された。そこから夫へ手紙を書いている。当然、子どものことをとても心配している。
「神様が子どもたちをお守りくださいますように。子どものただひとつの楽しみ、読書をさせてやってください。子どもたちには優しくしてあげてください。もう母親がいないのだということを忘れないように」
下の子は、まだ3歳だった。処刑前に、教誨(きょうかい)師がやってきて、まもなく処刑されることを告げた。それを聞いて、マリーナはこう言った。
「それほどうれしいことはない」
教誨師は驚いた。ふつうなら自分は無実だと泣き叫ぶのに...。マリーナは落ち着いて死んでいこうとしており、しかも幸せそうだった。
マリーナは、鈴をつけた天使たちが自分を待っている。天国での生活がどんなに素敵なものか、しゃべり続けた。そして、マリーナは、最後の料理、大きな茶色いケーキ、果物とミルクチョコレートとリキュールが混じりあったものを、最後まで美味しそうに平らげた。それから夫と息子たちへの最後のひと言を書き残し、鼻唄をうたい、お祈りをして、神父の両手にキスしたりした。
「今から8時後に私は死にますが、怖くはないし、少しも後悔はしていません。私の心は穏やかで、お行儀よく死んでいくつもりです。刑務所では泣いたこともありませんでした。ほとんどいつも心のなかに安らぎがあり、キリスト様がいたからです。私は天国で待っています。天国に行けるとすれば、ですが...」
処刑台でマリーナは、頭を処刑人に向けて、笑みを浮かべた。ジタバタすることはなかった。1942年1月31日朝5時5分すぎ。マリーナは斬首された。市民の反応を恐れて、この処刑は公表されなかった。
ベルギーに住むロシア系移民女性がナチス将校を殺害しようとした事件で斬首された事実を丹念に掘り起こした本です。その勇気ある行為、信念にもとづいて最後までぶれなかったことに、心の震える思いがしました。
(2025年5月刊。2530円)
2025年8月14日
カナダ
アメリカ
(霧山昴)
著者 山野内 勘二 、 出版 中公新書
カナダには、かなり前のことですが、2回行っています。2回とも、ナイアガラの滝を見物しました。滝の内側にも見学路があって、レインコートを着ての見物でした。
トランプ大統領がカナダを見下した態度をとっていますが、カナダはアメリカと違って、とても治安が良く、安心して暮らせる街だと実感しました。
カナダは現代AI開発では世界最先端を行っている。
カナダは移民・難民に対して寛容で、人口増加率はG7の国では最大。カナダの人口4100万人(2024年)だが、今世紀末には1億人を突破する見込み。
カナダの食料自給率は230%。フライドポテト生産で世界最大は、カナダのマッケイン・フーズ社。世界の4分の1のシェアを誇っている。カナダは、キャノーラ(採種。なたね)油の生産量で世界最大。日本もカナダからナタネの80%を輸入している。
カナダは豚肉と豚肉製品を輸出する世界第3位の国。日本は輸出額で、トップ。
カナダの、とりわけアルバータ州は恐竜の化石の最大の発見(発掘)地。私も、ぜひ行ってみたいところです。
カナダは、ソ連、アメリカに次いで世界で3番目に人工衛星を設計・製造して、軌道に乗せた。
カナダは、AI開発でトップを行き、この分野でノーベル賞も受賞している。
カナダは量子技術の分野でも世界の最先進地。同じく光量子コンピューターも世界最先端にある。先に冷却は不要。光の周波数は高いので大量の情報を乗せて、高速処理ができる。
糖尿病治療薬のインスリンを発見したのは、トロント大学医学部の教授。
カナダのサーカス「シルク・ドゥ・ソレイユ」(太陽のサーカス)は世界的に有名だ。
カナダ人の4人に1人は、外国生まれ。カナダにいる留学生は105万人(2023年)。日本にいる留学生は、その4分の1の24万人。カナダ国内には、インド系カナダ人が180万人もいる。
日本とカナダは、もっと親密な関係になっていいものだと強く思いました。著者は、元駐カナダ大使です。
(2024年12月刊。960円+税)
2025年8月15日
幕末維新史への招待
日本史(江戸)
(霧山昴)
著者 町田 明広 、 出版 山川出版社
幕末の日本にやってきたアメリカのペリー艦隊と、その結果としての日米条約は、アメリカ国内での南北戦争(1861~65年)の直前のことだった。浦賀沖にペリー艦隊が来たのは1853(嘉永6)年6月のこと。翌1854年3月に日米和親条約が締結され、安政3(1856)年7月、総領事ハリスが来日した。ハリスとの交渉で安政5(1858)年6月、日米修好通商条約が締結された。
アメリカにとって、日本と関係を結ぶことは、太平洋横断航路における石炭補給地の確保、および捕鯨船員の救助という一石二鳥の策であった。日本は、まずは航路上の寄港地であって、日本との通商自体の優先順位は低かった。
ペリーがアメリカを出航(1852年11月)したときの大統領はホイッグ党のフィルモア。しかし、1853年3月、民主党のピアースが大統領になった。そして、1860年5月、幕府の使節たちがワシントンで会った大統領は民主党のブキャナンであり、同年11月には共和党のリンカンが大統領となっている。
文久3(1863)年6月の下関戦争のとき、アメリカの軍艦ワイオミング号は、南部連合軍の軍艦を追撃するために東アジア地域に派遣されていた軍艦であり、日本自体は赴任地ではなかった。
慶応3(1868)年1月、南北戦争が終了していたので、兵庫の開港にあわせて、アメリカのアジア艦隊に属する軍艦が日本近海に終結した。
ロシアのプチャーチンはアメリカのペリーに対抗するために派遣されたというのは間違い。そうではなく、ペリーが日本と結んだ条約と同じものをロシアにも得ることが目的だった。
文久1(1861)年2月、ロシアの軍艦ポサドニック号が対馬に軍事哨所を建設した。それは対馬の全島を獲得するまでの意図はなかった。対馬の良港に海軍の拠点を設置するのが目的だった。
明治政府にとって、千島列島の統治は、予想をはるかにこえる困難なものだった。千島列島に残留したアイヌはロシア語を母語とし、日本語はまったく分からない。しかも、彼らはロシア正教の信者だった。
この本を読んで最大の驚きは、幕府末期に、すでに欧米は海底にケーブルを敷設していたということです。ただし、まだ太平洋の海底には敷設されてはいませんでしたが...。それにしても、早くも大陸間で電話が通じていたのですね...。
もう一つの驚きは、沖縄です。もちろん、当時は、琉球です。琉球に王様がいたことは知っていますが、江戸時代の人々は、琉球人を「異国人」とみていて、日本人だとは思っていなかったし、琉球人も、自分たちは琉球人も、自分たちは琉球人であって日本人とは思っていなかったというのです。なるほど、そう言われたら、そうでしょうね。ただ、琉球人と日本人が全然別の民族だというのは、私はそうは思いません。
また、ペリーが、日本より先に琉球に寄港していたこと、ペリーは那覇に合計して5回も寄港していたというのは初めて知りました。
しかも、ペリーは、太平洋を渡って日本に来たのではなく、大西洋からアフリカのケープタウンを回って、シンガポール、次いで香港・上海を経由して琉球にやって来たのです。
面白いこと、知らないことが満載の本でした。
(2025年5月刊。1980円)
2025年8月16日
本ができるまで(増補版)
社会
(霧山昴)
著者 岩波書店編集部 、 出版 岩波ジュニア新書
私は地下鉄の電車の中で携帯電話で通話ができることが不思議でなりません。電波って、コンクリートも鉄も瞬時に通過するようですが、理解できないのです。同じように、カラー印刷ができるのも不思議です。いったい、絵の具を誰が、どこで、どうやって混ぜて多彩な色彩を再現できるのでしょうか...。
黒一色の印刷なら分かります。極小の点々に分けてしまえば、印刷できるというのは理解できます。でも、カラー印刷となると、色を混ぜあわせるわけですが、その仕方がとても理解できないのです。多色刷りの版画なら、きちっと紙をおさえて何回も重ね塗りすれば出来あがるというのをテレビで見ましたし、理解できました。
この本は、色再現には加法混色(かほうこんしょく)と、減法混色(げんぽうこんしょく)の二つの方法があるとしています。これは絵の具を混ぜるというのとは、根本的に違うもの。CMYK(Cはシアン、Mはマゼンタ、Yはイエロー、Kは黒)の各色について、網点(あみてん)と呼ばれる小さな点のパターンを生成し、それらを重ね合わせることで、色調を再現する。
ということは、木版画と同じように何回も上から塗っているということなのでしょうか...。誰か教えてください。
ルネサンスの三大発明は、火薬、羅針盤、活版印刷。このどれもが中国または朝鮮半島に起源がある。なるほど、1300年代に高麗で金属活字を使って印刷された本が今も残っている。すごいことですよね。
活字に用いた金属は鉛。この鉛には、炉から出た瞬間に固まるという特性があり、この性質を生かしている。
溶けやすく、固まりやすく、かつ硬い金属。グーテンベルクは鉛にいくつかの金属を混ぜあわせて金属活字をつくり出した。そして、油性インキもつくり上げた。
現代日本では、1年間に32万トンものインキを消費している。
近代日本で、大量印刷物として出回ったのが、大正14(1925)年に創刊された『キング』。これは創刊号75万部、最盛期100万部というのですから、すごいものです。
オフセット印刷は、多色グラビア輪転機がつくられて始まった。
インキの厚盛りが可能となり、豊富な色調再現が可能となった。塗り重ねているということでしょうか...。
かつて印刷所には、金属の活字がたくさんありました。私も見たことがあります。それを取り出して、組み込むのです。その仕事をする人を文選(ぶんせん)工といいました。そして、植字(「しょくじ」と一般には読みますが、印刷業界では「ちょくじ」と読むそうです。初めて知りました)します。
今では、みんなインターネット(パソコン)にとって代わられています。
さて、本にするなら、背に接着剤を注入して、すぐに熱風で乾燥させなければなりません。雑誌は針金で閉じこみます。
今や電子ブックの時代です。私の書いた本もいくつか電子ブックになっています。この電子ブックも進歩していて、「Eペーパー」というのは、液晶画面のように光を発するのではなく、紙に印刷された文字と同じように反射式で人間の目に入ってくるそうです。
私が電子ブックを読まないのは、赤エンピツで傍線を引けないし、フセンを立てることができない、一覧性がないからです。
入院でもしたら、オーディオブックで落語か古典文学を聴くつもりです。でも、やっぱり紙の本が読みたいです。
紙製の本がなくなることはない。私の絶対的な確信でもありますが、この本でも再三強調されていて、意を強くしました。
(2025年4月刊。1320円)
2025年8月17日
高所綱渡り師たち
人間
(霧山昴)
著者 石井 達朗 、 出版 青弓社
30年以上も前のことですが、ナイアガラの滝を、アメリカ側とカナダ側のそれぞれから2回、訪れたことがあります。大変なスケールの滝で、圧倒されました。この滝にロープを渡して綱渡りをした人が何人もいるようです。
一番最初は、1859年6月30日で、フランス人のブロンディン。
峡谷の幅は335メートルあり、そこに396メートルのロープが設置された。ロープは直径8.3センチの麻綱。ロープの巻き上げ機などない時代なので、人力で張ったので、ロープの中央部分は陸地に固定された箇所より15メートルも低かった。つまり、ブロンディンは、水面から53メートルの高さからロープを歩き始め、38メートルの高さまで、ロープを下っていく。そして、そのあと、再び53メートルの高さまで昇る。
バランス棒は長さ11.6メートルある。ブロンディンは身長163センチ、体重は63キロ。安全対策など何もなく、命綱はない。バランス棒だけが命の綱。行きは15分、帰りは7分で渡り終えた。見物人は8千人ほど。収入は250ドルであり、ロープ代だけで350ドルかかったので、完全な赤字。それでもナイアガラの滝で綱渡りした男として高く評価された。世間は、ブロンディンが単なる奇人・変人ではなく、畏怖すべき曲芸師だと認めた。
女性もナイアガラの滝の綱渡りに成功している。イタリア生まれのマリア・スペルテリーは1876年7月、23歳の若さだった。ロープの上を後ろ向きに歩いたり、目隠しをしたまま歩いたり、また桃を入れるバスケットを足に固定させたり、いろいろな技も見せている。
バランス棒はロープが揺れたときに身体のバランスを保つために必須のアイテム。バランス棒なしの、素手で渡るのは不可能ではないが、相当に難易度が上がる。日本の曲芸師は、棒をもって渡るのを「カンスイ」といい、手に何も持たないで渡るのは「素渡り」という。
曲芸師が、ロープからわざと落ちて、とっさに片腕でロープをつかみ、ロープにぶら下がる。そして、やおらロープの上に体を持ち上げ、ロープに座る。
野外の高所での綱渡りする者にとって、予期せぬ突風は最大の敵となる。ワイヤーの質、その設置方法、バランス棒、綱渡り師の体調など、すべてが完璧であったとしても、予期せぬ突風に突然襲われたら、大変危険。うむむ、こればっかりは自然の脅威ですからね...。
「七人のピラミッド」を演じている様子の写真がありますが、見るだけでハラハラさせます。
七人は文字どおり運命共同体。ワイヤーの上に四人、その上に二人、その上に一人。
三層で、「四一二一一」という体勢をつくる。一本のワイヤー線の上に全員が乗っているので、一見すると平面的。しかし、生で見ると、いかにも立体的。七人全員が長く両端がしなっているポールを持っている。七人のバランス棒は、七本が同じように動くのではない。各自が自分の体のバランスと自分の位置でのバランスを微妙に調整し、かすかに波打つようにポールを揺らしながら進行する。いちばん上の女性は、椅子の上に座ったままポールでバランスをとっている。
この芸を17日間に38回もやり遂げた。すごいですね。1997年のことのようです。
2001年、倉敷チボリ公園では、「八人のピラミッド」を成功させたのでした。いやあ、信じられません。私は、現地で、観たくなんかありません。だって、生(なま)だと、失敗したのを目撃しかねないじゃありませんか。目の前で人が死んだり、大ケガしたりするのを見るなんて、私には耐えられません。
9.11でテロ対象となった世界貿易センターも高所綱渡りの場になったようです。いやはや、なんと恐ろしい...。よくぞ調べあげたものだと感心しました。
(2025年4月刊。3740円)
2025年8月18日
虫・全史
生物
(霧山昴)
著者 スティーブ・ニコルズ 、 出版 日経ナショナルジオグラフィック
昆虫は、種の数と個体数のいずれでも、これまで地球上に存在した動物のなかで、もっとも繁栄しているグループ。今までに110万種が確認されていて、それ以外に未発見の種が世界中には500万種いるとみられている。そして、個体数は1000京匹という。つまり、地球上に生息する動物の4分の1が甲虫で、10分の1がチョウかガという計算になる。
昆虫は節足動物。つまり、節足動物門に属している。クモやムカデなども節足動物。動物には32の門がある。節足動物門はずば抜けて大きい。
体長2メートルもの節足動物の化石が発見されている。アノマロカリス類だ。
オルドビス紀の海には、奇妙な生き物の集団であふれていて、その多くが節足動物だった。節足動物は、今から5億年ほど前のカンブリア紀の初期か、その始まる直前の海で進化した。頑丈な外骨格とさまざまな用途をもつ脚のおかげで、節足動物はすぐに優位な立場を確保した。
昆虫のもっとも古い祖先は海洋生物だったに違いない。オルドビス期(4億8千万年前のころ)の初期に水生の昆虫が陸地に上がって生活するようになった。
昆虫は、その多様性に対応するために、27の「目(もく)」に分けられている。
昆虫のなかでは、完全変態する種類がもっとも多い。完全変態とは、成虫とは全然異なる幼虫段階のある昆虫のこと。
ネムリユスリカは、幼虫期が完了するまで、何度でも必要なだけ乾燥と蘇生を繰り返すことができる。ネムリユスリカは、幼虫のときには、身体の水分の95%を失っても死なない。幼虫は、マイナス270度から102度までの温度変化に耐えたあと、水を吸収すると生き返る。
アフリカのウガンダでは、1本のアカシアの木に、37種もの昆虫が共存している。
もっとも重い昆虫は、ニュージーランドに生息する、飛べないコオロギ、オオウェタで、重さは71グラムもある。もっとも長い昆虫は、ナナフシで、ボルネオ島で発見された個体(メス)は、体長40センチもある。
酸素濃度が節足動物の体の大きさに実際に影響しうることが判明した。酸素がカンブリア爆発の火種(ひだね)になった。
昆虫は人間の食べ物にもなる。世界中で、2000種の昆虫を人間が食べている。
昭和天皇は、蜂の子ごはんを大好物にしていた。
昆虫の脚は、6本。6本もの機態的な脚があることが、昆虫の多様性に役立った。飛翔能力の進化は、昆虫の成功の大きな要因になった。
チョウの幼虫は、葉をむしゃむしゃ食べるが、成虫は蜜(みつ)を吸う。カマキリは魚を捕らえて食べる。
シロアリは、世界に2500種いて、生態系は他のほとんどの昆虫よりはるかに大きい。シロアリは土壌に酸素を運び、大量の糞を取り除き、地下深くから無機物を運び上げる。
600頁もの部厚さで、昆虫に関する全容を教えてくれる、百科全書のような本です。
(2024年8月刊。3960円)
2025年8月19日
統一教会との格闘、22年
社会
(霧山昴)
著者 鈴木 エイト 、 出版 角川新書
安倍晋三元首相が奈良県で白昼、手製銃で殺害されたのは今から3年前の2022年7月8日のことでした。ようやく、この秋から裁判が始まります。
銃撃して1人の人間を殺害したことを許すつもりはまったくありませんが、山上被告が統一協会(決して教会ではありません)の被害者であることは間違いありません。
報道によると、山上被告の母親は今でも統一協会の信者だそうです。自分たち一家が経済的に丸裸にされ、生活保護を受けざるをえないほど追い詰められてもなお信者だというのです。まことに洗脳というのは恐ろしいものだと思います。
統一協会の教祖であった文鮮明はとっくに死んでいます。今から13年前の2012年9月3日、風邪をこじらせ肺炎から意識不明となって病死しました。92歳でした。今、その妻が教祖を引き継いでいるようですが、そのナンバー2だった信者は前大統領の妻に高級バッグ等を贈ったとして、つい先日、韓国で逮捕されています。
文鮮明の息子たちの多くはアメリカにいるようですが、利権をめぐって醜い争いをしていると報道されています。
安倍殺害事件のころから急に全国的に有名になった著者は、実に22年前から、街頭やビデオセンターでの統一協会への勧誘行為への妨害行動をしてきました。驚嘆します。
実は私も、統一協会のビデオセンターに押しかけて妨害行動をしたことがあります。
そのとき、ビデオセンターの責任者の女性(当時30代と思います)はすぐに110番しましたので、パトカー2台、警察官が6人ほどやってきました。私はバッジもつけていて弁護士だと名乗って、被害回復のための交渉に来ていると自己紹介しました。すると、警察官は、110番した女性責任者のほうに事情を聴きはじめたのでした。結局、私は騙しとられていた300万円の全額を取り戻すのに成功しました。
統一協会は駅頭などで「手相を見ています」「自分の運勢を知りたくないですか」などと、宗教色を見せずに声をかけてビデオセンターに誘い込もうとします。そこで著者は、いや、これは宗教団体の勧誘行為だと対象とされた人々に教えてやるのです。たいした度胸です。
それにしても、統一協会からガッポリ献金と票をもらい、お互いに持ちつ持たれつの関係にある自民党の国会議員がなんと多いことでしょうか。その典型が萩生田光一議員です。今でも、しれっとして国会議員なのですから、呆れてしまいます。
統一教会の信者は、お金だけでなく、秘書にもなって国会議員を取り込んでいます。本当に怖いです。自民党のほうは利用しているだけ、のつもりでしょうが、客観的にみれば、統一協会のほうが自民党議員をしっかり利用している関係にあります。今、タカ派の若手ホープとして売り出し中の小林鷹之議員も統一協会とは密接なつながりがあるようです。
統一協会の教義によると、日本は韓国に罪滅(ほろ)ぼしのため仕えるべき国なので、献金をするのは当然だというのです。ということは、「日本人ファースト」なんていうものではありません。どうして、超タカ派の自民党議員が「韓国ファースト」の宗教と結びつくのか、不思議でしかたありません。
それにしても、著者が地道な活動を22年間も続けているというのには頭が下がります。
(2025年3月刊。1040円+税)
2025年8月20日
概説・日本法制史
司法
(霧山昴)
著者 出口 雄一・神野潔 ほか 、 出版 弘文堂
改めて日本法制史を読むと、知らないことがたくさんありました。
鎌倉時代の執権は、政所別当と侍所別当を兼ねる役職からなる。
鎌倉時代の訴訟は三問三答式。訴人(原告)が問注所(裁判所)に訴状と証拠書類の写し(具書案)を提出し、また訴人は論人(被告)に訴状を届ける。論人は、反論(陳状)を提出する。このやりとりは3度まで。そして両者の対決がある。訴人と論人が担当の奉行からの質問に答える。そして、裁許状(判決文)が作成される。現代日本の労働審判は3回期日で終わりですので、発想は似ている気がします。
戦国時代の刀狩令では、槍・弓・鉄砲は没収されず、刀、脇差ばかりが没収された。これは帯刀する権利を武士、奉公人で独占し、他の身分には許可制とする、身分政策だった。
江戸時代、村の百姓も脇差は差すことができ、村には野獣狩りのための鉄砲はたくさんあった。一揆のとき、百姓たちは鉄砲を使わないという暗黙のルールがあった。
江戸時代、三代将軍家老のときまで六人衆がいて、老中・若年寄制はまだなかった。六人衆が亡くなったとき、補充されず、老中と若年寄が制度として確立した。
幕末のころ、隠れ切支丹を幕府は取り締ったが、明治政府は開港・開国のなかで、キリスト教禁令を解除せざるをえなかった。ただし、明治政府がキリスト教の信仰を制限つきでありながら認めたのは、明治22(1889)年の大日本帝国憲法だった。それまで隠れ切支丹だった人々が大挙して長崎で出現したのです。同じことが久留米の先にも起きました。浮羽の先の今村地区です。明治になってから立派な教会堂が建設されました。改築されて、今も堂々とした教会堂として現存しています。
帝国憲法(明治憲法)は君主主権をうたっています。国民主権ではありません。先日の参院選で「躍進」した参政党の新日本憲法草案は、国民主権ではなく天皇主権に戻すというものです。今どき信じられない発想です。参政党の草案には、憲法が権力を縛るものだという発想がまったくありません。そして、日本国憲法で保障している、表現・言論の自由などの基本的人権の保障がほとんど抜け落ちています。恐ろしい内容です。そんなことを知らないで、ムードに流されて参政党に投票した国民が少なくなかったように思われます。
日本を名実ともに法治国家にして、人権がきちんと保障されるようにしたいものです。そのための不断の努力が求められています。
(2023年10月刊。3960円)
2025年8月21日
虚構の日米安保
社会
(霧山昴)
著者 古関 彰一 、 出版 筑摩選書
日本の現状に対する鋭い指摘がオンパレードの本です。剣山の針が膚に突き刺さってくるような痛みすら覚えました。
日米安保条約の危険な本質、それを日本政府が今日に至るまで嘘で塗めてきたこと、多くの日本人が易々と騙されたまま、怒りをもって異議を唱えようとしないこと...、著者は、これらすべてに対して、本当にそんなことでよいのか、そう厳しく告発しています。
日本敗戦後、日本を支配したアメリカは、憲法を制定させたあと、朝鮮戦争が勃発すると、すぐに自衛隊を発足させて日本の再装備を進めていったし、日本政府もそれを受け入れた。ところが、日米両政府の思惑はまったく異なるものだった。アメリカは、冷戦下、ソ連などの共産勢力の誇張政策を阻止し、アジア・太平洋諸国の安定のために、米軍の指揮下で行動する日本軍を再興しようと考えた。これに対して日本政府は、まさしく戦前の日本軍をアメリカが興してくれるものと考えた。
日本政府は憲法9条と自衛隊の矛盾を真剣に考えてはいなかった。憲法9条を「棚上げ」しておけばいいくらいの考えだった。もちろん、それは立憲主義の考えではない。アメリカ政府は立憲主義を当然視するので、このような日本政府の「見解」を疑問視した。しかし、日本政府は「協議」すればいいと言ってはぐらかし続けた。
アメリカの特使をつとめて来日したジョン・ドーダレスは、「日米政府間で協議していれば憲法9条は改正されるのか?」と嫌味を言ってのけた。
日米間で、安保共同宣言(1996年)はあるが、それは政府間のものに過ぎず、国家同士の合意ではない。この状態が今に至るまで65年間も続いている。
幣原喜重郎首相(当時)がマッカーサーと会談して、「戦争の放棄」を発案・提起したという「説」を、著者は否定しています。当時の幣原はGHQ案の9条に反対していたし、マッカーサーに対しても「戦争の放棄などと言っても誰もついてこない」と言って、たしなめられたりしたというのです。
たしかに、マッカーサーはいつだって長広舌を振るい、他人の進言をとり入れるような性格の人間ではなかったという指摘がされています(他の本で)。アメリカにとって、日本が再軍備して憲法を改正するというのは、アメリカ政府の決定に全面的に従属するための再軍備であり、そのための憲法改正である。自衛隊の司令官は日本人ではなく、アメリカ人がなるということ。こんなことを日本政府が受け入れて日本国民に対して説明できるはずもありません。そこで、日本政府はどうしたか...。
文書に残さない。口頭という奥の手を使った。ところが、電文という公文書で、アメリカ側には文書が残る。日本側に文書はないので、国民に説明しなくてもよい。これが吉田茂首相(当時)のとった高等戦術だったのです。そうはいっても、アメリカ側には不安が残ったので、日米合意を何度も持ちかけた。
米軍基地の管理権は米軍にあり、日本政府は指一本も出せない。これが日米地位協定第3条。オスプレイが配備され、墜落し、有毒ガスが発生し、PFASが検出されても、米軍人が凶悪犯罪を犯しても、まさに日本は植民地同然の治外法権がまかり通っています。米軍にとって、「基地の自由な使用」こそが日米安保なのである。
アメリカ人将兵は、日本の運転免許証がなくても日本全国、どこでも自由に運転できるとのこと。呆れを通りこして、怒りを覚えます。「日本人ファースト」を唱え、外国人排斥を叫ぶ参政党には目を光らせてほしいところですよね。
著者は問いかけます。なぜ日本政府は、ここまで恥も外聞もなく卑屈なのであろうか...。同感です。この本でも砂川事件の最高裁判決について、田中耕太郎最高裁長官が米国大使・マッカーサー2世と密談を重ねていて、その指示を受けていたことを特記しています。本当にひどい話です。私も、それを知って以来、田中耕太郎を史上最低の下衆野郎(げすやろう)として呼び捨てにしています。ところが、現代日本の裁判官は、こんなひどい事実を知っても田中耕太郎を庇(かば)うのです。まさしく自分は田中耕太郎と同類だと自認しているわけです。
岸信介首相とハーター米国務長官の交換公文(1960年)は、核を搭載した米軍機が日本に飛来した際、また米艦船が日本の港湾に侵入した際、日米の事前協議の対象とはしないとした。このことは秘密にされていた。大平首相は、外務大臣のときに知らされたが、沈黙を守った。
非核三原則を提唱したとして佐藤栄作首相はノーベル平和賞を受賞したが、実は、当時沖縄には1300発の核兵器が配備されていて、それは知悉していながら不問に付していた。
また、事前協議については、米軍に「重要な配備の変更」がなければ行わないとされていた。要するに、核兵器の日本への持ち込みは黙認するという密約があった。
「非核三原則」の一つ、「核を持ち込ませない」は空文化していた。
沖縄の返還にあたって、「核抜き、本土並み」となったと表向きされていたが、実のところアメリカ(当時はニクソン大統領)が核兵器を外から持ち込むのについて、日本(当時は佐藤栄作首相)は、事前協議において遅滞なく承認するという合意議事録を作成していた(1969年11月19日)のようです。そして、日本国民に知らせることはありませんでした。佐藤首相が持ち帰った文書は、佐藤栄作の死後、自宅の机の中から発見された。これほど重要な公文書がきちんと保管されていなかったというのも驚かされます。
ライシャワー元駐日大使は、「日本政府は日本国民にウソをついている」と断言した(1981年5月18日)。
この本では、日本政府が日本国民に向かってごまかし用語を多用していることも指摘しています。たとえば、PKOについては「平和維持作戦」と訳すべきところ、「平和維持活動」とし、軍事作戦とは違うと印象づけようとしている。また、国際法上の「難民」なのに、より一般的な「避難民」という用語を用いている。これは、避難民として保護はするけれど、国際法上の難民の権利は認めないことを意味している。
安全後生関連の言葉が、国民に受け入れられるように、いかに数多くの表現が書き換えられ、改記されてきたのか。調べるほどに、その多さに驚かされた。政治用語の改案が大きく変わり始めたのはこの30年、有事法制になってからのこと。武器を「防衛装備品」に、「敵基地反撃能力」を「反撃能力」としている。「敵」を「攻撃する能力」は、「敵」から「攻撃された際に反撃する能力」に変わった。
330頁もの長編力作です。盆休みの半日で必死に読みふけり、大変勉強になりました。
(2025年3月刊。2090円)
2025年8月22日
3つの戦争
アメリカ
(霧山昴)
著者 ボブ・ウッドワード 、 出版 日本経済新聞出版
トランプは絶え間なく演技をしている。トランプは勇ましくて、強い人間に見られることだけを気にしている。トランプは、自分がつきあうのは、ビジネス関連の人たちだけと高言する。トランプは忠誠心をものすごく重んじる。
トランプの性格は、勝つこと、戦うこと、生き延びることに集中している。弱そうだと見られたら、付け狙われる。すべてがプレゼンテーションなのだ。自分の見せ方になる。
トランプが大統領選挙に敗北した2021年1月6日に、アメリカの国会議事堂に突入した人間は2千人を超える。そのうち5人が亡くなり、警官172人が負傷し、500人以上が逮捕された。トランプが支持者に対して「うちに帰れ」とツイートしたのは、3時間たってから。
ロシアのプーチン大統領の主な性格は、怒りっぽい、不安感が極めて強い、サディスティックであること。
ロシアは4400発以上の核弾頭を備えている、世界最大の核兵器保有国。
トランプはプーチンを偶像視していて、そのせいで、プーチンから極度に操られやすくなっている。アメリカの大統領として、これは致命的な欠陥だ。
2020年のアメリカの大統領選挙において、トランプは7400万票を得た。これに対してバイデンは8100万票を獲得して当選した。
プーチンのロシアがウクライナに侵攻したとき、ウクライナ全土を支配下に置き、ゼレンスキー大統領を抹殺し、首都キーウを占領するというのが、ロシアの戦争計画だった。
ウクライナはアメリカのテキサス州とほぼ同じ面積で、ヨーロッパではロシアに次ぐ広さの国。人口は4400万人で、テキサスより1400万人も多い。
プーチンは不安感と自信とが、コインの表と裏の関係にある。
トランプは記者に対して、「プーチンは私を尊敬している。私もプーチンを尊敬している。プーチンは私を好きだと思う。私もたぶんプーチンが好きだ」。
ロシア軍の部隊は、ベラルーシの国境地帯をまっすぐ通過してキーウの奪取を図り、ゼレンスキー大統領の政権を打ち倒して、親ロシア政府を樹立するだろう。
ウクライナに侵攻してきたロシア軍の車輌部隊は食料と飲料水を3日分しか積んでいなかった。しかも、勝利を祝うパレード用の軍服を持参していた。
ロシア軍将兵は、ウクライナに侵攻したら、すぐに勝敗がついて、勝利のパレードをする計画だったというのです。ええっ、ま、まさか...。
ロシア軍はトップダウンで、動く仕組みになっている。佐官級の現場指揮官には自発的に行動する権限がない。ロシア軍は、戦場に順応して即興で行動することはなかった。
2022年当時、ロシアは戦術核兵器をアメリカの10倍、2000発も保有していた。現在の核兵器には、ひとりで使用できるような小型の弾頭もあれば、潜水艦、爆撃機、ICBMで投入しなければならないような大型のものまできわめて種類が多い。
ウクライナは、1ヶ月間に10万発前後の砲弾を消費した。1日3000発になる。それをまかなうだけの在庫は、さすがのアメリカでも持っていない。2023年6月、ウクライナ軍は、1日に最大1万発の155ミリ砲弾をつかっていた。
トランプほど、どこの国にとっても危険な人物は、いまだかつていなかった。ホント、まったくそのとおりです。
10月7日のハマスによるイスラエルへの攻撃は驚きだった。
アメリカはイスラエルに対して、毎年30億ドル以上の軍事支援をし、国防総省はイスラエルの周辺5.6ヶ所に兵器と弾薬を備蓄している。
ハマスは概念だ。概念を滅ぼすことはできない。
トランプは、アメリカを何度も戦争の瀬戸際に押しやった。トランプの主張は、例によってとんでもない誇張、誤った考え、ウソを混ぜあわせたものだった。さかんに相手方を攻撃したが、それは活気があり、堂々としているという印象(イメージ)を与えた。トランプは大統領として不適切な人物であるだけでなく、国を率いるのに適していない。トランプは犯罪者だったニクソン大統領よりもずっとひどい。
トランプは恐怖と怒りによって統治する。そのうえ、大衆と国益に無関心。トランプはアメリカ史上最悪の無謀で衝撃的な大統領である。
ああ、それなのに、トランプはアメリカの大統領なんですよね...。
(2025年2月刊。2750円)
2025年8月23日
新プロジェクトX④
社会
(霧山昴)
著者 NHK新プロジェクトX制作班 、 出版 NHK出版新書
電動アシスト自転車には、日頃から大変お世話になっています。私の事務所の下に自転車屋があったとき、その店主から「これはいいですよ。一度、乗ってみんですか」と誘われました。でも、たかが自転車、しかも何十万円もするのが気になって試乗はしませんでした。それから時期がたち、中古の電動アシスト自転車を安く譲ってくれるというので、その好意に甘えてもらい受け、乗ってみました。びっくりしました。裁判所までの坂道を、なんとすいすい軽々と登っていくではありませんか...。一回で気に入りました。なにより自転車なのがいいです。免許が必要ありません(自動車の免許は持っている私ですが、免許の有無を気にしなくていいのはやはり気軽です)。そして、自分でもペダルをこいでいますので、間違いなく自転車です。それに加勢してくれる心地良さが、うれしい。
今や電動アシスト自転車は、一般の自転車を上回る年間80万台が販売されている。
この電動アシスト自転車を開発したのはオートバイで有名な浜松本社のヤマハ発動機。ちなみに、ライバルのホンダも創業の地は同じ浜松市。なぜ、なんでしょうか...。ヤマハは1位のホンダに続く、いつも2番目。
ヤマハが秘密のうちに電動アシスト自転車を開発するとき、テスト走行したのは、茶畑の私道だった。ここなら、人目を気にせず自由にテスト走行ができる。しかし、問題がある。原付自転車なら既に存在している。しかし、それは免許が必要なので、誰でも気軽に乗って走行はできない。原付自転車なのか、自転車なのか...。
人の力とモーターの力が1対1ならどうか...。モーターが先で人力が後ではダメ。人が先。人が力を加えると、モーターも一緒になって動いてお手伝いする。人力がなければモーターは回らない。あくまでも人が主役。
では、国(運輸省と警察)がそれを認めてくれるのか...。テストがあったのは、1991年6月28日のこと。結果は...。
「電動アシスト自転車は、自転車ではある」。ヤッターですね。
ヤマハは特許を独占しないと決めた。これまた、すごいことですよね。
1993年7月、ヤマハが売り出し、当初1000台を売りだしたら、たちまち3000台が売れた。そして、ヤマハは再び「2位」の座にある。でもでも、いいことをしましたよね、ヤマハって...。
ほかにも紹介したいプロジェクトがありますが、私が実際利用している電動アシスト自転車の便利さが生まれる過程を紹介してくる話を優先しました。
(2025年3月刊。1155円)
2025年8月24日
チェ・ゲバラ
キューバ
(霧山昴)
著者 ジョン・リー・アンダーソン 、 出版 みすず書房
チェ・ゲバラは1967年10月8日、ボリビア陸軍の大軍に追い詰められ、負傷して捕虜となった。翌日、CIAの立ち会いのもと射殺された。遺体は両手を切り落とされた。本物であることを証明するための指紋が保存され、ホルマリン漬けにして隠された。チェ・ゲバラと6人の同志たちは、滑走路の下に埋められた。1997年7月に遺体が発見され、10月にキューバに運ばれた。30年間、チェ・ゲバラの遺体は行方不明だったのです。キューバでは25万人もの人々がチェ・ゲバラの追悼式に参列したとのこと。
チェ・ゲバラは、アルゼンチン人で、母はスペイン貴族の血をひき、その父親は法学教授、下院議員、大使だった。チェ・ゲバラの父は母の家族から結婚に反対され、駆け落ちを演出した。
チェ・ゲバラは幼いときから、ぜん息の持病をもっていたが、それは母親譲りのものだ。ぜん息のため、9歳になるまで学校に通えず、母親が家庭教師のように読み書きを教えた。
小学校時代は、手に負えない、目立ちたがり屋だった。学校での成績は全体として優良。ブエノスアイレス大学医学部に入学した。
1950年元旦、22歳のチェ・ゲバラはオートバイで一人旅に出かけた。
1952年7月、アルゼンチンで、エビータ・ペロンが死んだ。
1953年7月、医師で筋金入りの放浪者であるチェ・ゲバラは再び旅に出た。ボリビアから中央アメリカ、グアテマラ、ニカラグア...。そして、グアテマラで後に妻となるイルダと出会った。さらに、メキシコに入った。
1955年7月、チェ・ゲバラはフィデル・カストロと出会った。28歳のカストロは熟練の政治人間で、自信にみちあふれていた。
チェ・ゲバラは、自己の血筋の自覚からくる社会的自信と特権感覚をもって育った。上流階級の異端ではあるが、その一員だった。フィデル・カストロと共通するところは、大家族で可愛がられ、ひどく甘やかされ、自分の容姿に無頓着で、性的に貪欲。ともに鉄の意思と、思い上がった目的意識をもっていた。二人とも、革命の遂行を望んでいた。
当初、多くのキューバ人の反感を買ったのは、チェ・ゲバラの独善性だった。
1956年12月、キューバでカストロたちの反乱軍は蜂起したが、たちまち鎮圧された。82人のうち、再結集したのは、わずか15人で、残された武器は9丁のみ。
チェ・ゲバラは山中で恐れ知らずで向こう見ずでさえあるゲリラ兵として頭角を現していた。
山脈にいる武装戦闘員と平原の都会にいる同志との間で亀裂が生じていた。
「ニューヨーク・タイムズ」の記者によるフィデル・カストロの会見記事が爆発的な反響を招いた。フィデル・カストロについて、キューバの支配者バティスタが共産主義者だと主張しても、CIAも政策担当者も、それを信用していなかった。
1957年12月、フィデル・カストロは戦争をマエストラ山脈から下界に拡大した。
チェ・ゲバラが最優先したのは、メディア作戦。機関紙を印刷し、ラジオ放送を始めた。
世界のマスコミがフィデル・カストロの前に行列をなした。
フィデル・カストロはチェ・ゲバラ以外のあらゆる部下の判断や意思決定を信用しなかった。チェ・ゲバラは主な相談相手であり、実質的な参謀長であった。
山中の革命軍(反乱軍)のなかの矛盾をどう処理したのか、考えさせられる状況も紹介されています。チェ・ゲバラの半生をよく知ることの出来る本だと思いました。
(2024年10月刊。5600円+税)
2025年8月25日
昆虫はもっとすごい
生物
(霧山昴)
著者 丸山 宗利・養老 孟司・中瀬 悠太 、 出版 光文社未来ライブラリー
ミツバチの大量死の有力な原因は、農薬、ネオニコチノイド。EUでは使用禁止になったのに、日本ではまだ。カメムシ対策だったはずが、ミツバチの大量死をもたらしている。
同じくアキアカネ、いわゆる赤トンボも激減している。たしかにお盆過ぎると、どこからともなくやってきて、我が家の庭をよく飛んでいましたが、すっかり姿を消してしまいました。
モンシロチョウも減りましたね。三浦半島のキャベツ畑と大根畑でも見ないのは、農薬を徹底させているからだろうとあります。
失って初めて、その価値に気がつくのが人間。たとえばミツバチは、はちミツをとるだけの存在ではなくて、いろんな農作物の受(送)粉業者なので、いないとたくさんの人が困る。受粉するのをいちいち人の手でやっていたら、とてもじゃないけど、間尺にあわない。
鳥と同じように、魚もあっという間に性転換する。
アリは生まれてから時間のたっているアリは、危ない仕事を担う。後世を育てる仕事は、若い衆が担う。スズメバチも同じで、若いうちは巣の中で幼虫の育成などを担って働いているか、年歳(とし)をとるとだんだん外に出ていき、攻撃性も強くなっていく。
鳥は死んだ昆虫を食べない。だから昆虫はじっと動かず、死んだふりをする。スズメは、冬、越冬するため、日本からインドネシアまで飛んでいって、越冬する。
同じく、アサギマダラ(蝶)も、日本から台湾まで飛んで往復している。
アフリカのある地域では、プライド保持のために牛を飼っていて、牛は食べない。実用を求めて「ウシを何頭持っているか」こそが、人間の存在価値の何よりの証明。なので、飢饉になっても、決して牛を殺すことはない。食用にするために飼っているのではない。
森の中にすむヨロイモグラゴキブリは、地中にトンネルをつくって、夫婦で生活している。子どもが生まれたら、自分たちでエサをあげて育てる。地上から落ち葉を引きずってきて、巣穴で一緒に食べる。10年ほど生きる個体もいる。
集団で暮らすゴキブリが進化したのが、集団で巣をつくるシロアリ。オーストラリアには、マルゴキブリの一種に、子どもにお乳を飲ませるものがいる。
シロアリの女王には、20年とか30年も生きるのがいる。そして何十年ものあいだ生殖のみに精を出す。
トンボの翅(はね)は、100分の3ミリの薄さなので、どんなに弱い風でもとらえて静止するように飛ぶことができる。
ハネカクシの翅は、何十回も細かく折りたたんだものを一瞬でパッと開くことが出来る。その収納効率は昆虫界でもっとも高く、仕組はもっとも精微。これを人工衛星のソーラー電池パネルのような、宇宙工学や機械工学の展開構造のデザインに生かしている。
小さな昆虫、果たして脳があるのかと思える昆虫なのに、こんなにしっかり生きているのですよね...。
(2023年8月刊。1100円)
2025年8月26日
韓国・国家情報院
韓国
(霧山昴)
著者 佐藤 大介 、 出版 幻冬舎新書
韓国にとって、国家情報機関の歴史は、「暗黒の歴史」でもある。国情院の前身は、KCIAと安企部だ。いずれも大統領直属の情報機関であり、秘密警察でもある。
この本のなかに韓国の国情院が裁判官志願者に対して面接し、国家に対する忠誠心、誠実性及び信頼性について思想調査していることが問題になったことが紹介されています。日本では、司法試験の合格者に対して公安調査庁が身辺調査をしていました。私が司法試験に合格したとき、下宿先のおばさんから調査に来た人がいて、「いい人だと言ってやったわよ」と言われたことを思い出しました。市役所に勤めていた人から、市役所で訊いてまわっていたと後で教えられた、と聞きました。
今でもやっているのか、いつまでやったのか、私は知りませんが、その調査結果は秘密のルートで最高裁に届けられ、また司法研修所の教官の一部に届けられていました。これは私も体験した、間違いのない事実です。
KCIAは「ミリムチーム」を活用していた。これは、高級ホテルのバーや料亭などを拠点として、そこに働く女性の経営者や従業員を監視員として活用して政治家などの「生」の情報を収集していた。
今でいうと、国民民主の玉木とか、参政党ナンバー2の議員の不倫などを探知して、「ゆすりたがり」のネタとして活用していたということでしょうね。でも、今や「不倫」くらいでは国民の「支持」は減殺されなくなってしまいました。これって、本当に喜んでいい現象なのか、私としては悩ましいところです。
ところが、高度の情報収集能力をもつはずの安全部も国情院も、全日成の死も金正日の死も、いずれも北朝鮮政府の公式発表まで気づいていなかった。いやいや、内部情報で気づいていたのだけれど、気がついていなかったふりをしただけ、なのかもしれませんね。
KCIAを創設した朴正熙は結局、KCIAの部長から私的飲み会の場で至近距離で射殺されてしまいましたよね。
KCIAの歴代部長のほとんどが軍出身者。つまり、軍が支配していた。
KCIAの部長は、ほかの大臣よりも地位が高く、実質的な権限は首相よりも強かった。これって、まさに異常ですね。
朴正熙がKCIA部長から射殺されたのは1979(昭和54)年10月26日のこと。このKCIA部長は、翌1980年5月に絞首刑が執行された。
KCIAが安企部に名称を変更したのは全斗煥大統領のとき。映画「ソウルの春」で、そのあたりの状況が再現されています。ちょうど、光州事件が起きたころのことで、全斗煥は民主化へ進むのを必死で巻き返そうとしたのです。そのおかげで、たくさんの罪なき市民が死傷してしまいました。軍人に政治をまかせたら大変なことになるという典型的な出来事です。
日本でも、自衛隊出身の国会議員や県知事が前から大きな顔をしてモノを言っていますが、私は本当に心配です。もちろん、自衛隊出身だからダメだというのではありません。俺たちだけが国を守っているかのような言い方が許せないのです。
盧武鉉(ノムヒョン)大統領は叩き上げの弁護士として、私も大いに期待していたのですが、残念なことに汚職事件の渦中に自死してしまいました。この盧武鉉大統領は、国情院の院長に民弁(民主社会のための弁護士会)の初代会長を起用したのでした。
これまた、すごいことです。日本でいうと、自由法曹団の岩田研二郎団長を公安調査庁の長官に任命したということに匹敵します。
国情院の予算は1000億円(1兆ウォン)。それに対して、日本は1500億円と推計されている。ところが、この1000億円の使途は、すべて秘匿されている。日本も同じです。
韓国のKCIA、安企部そして国情院のことを少しばかり知って再確認しました。
(2025年5月刊。96円+税)
2025年8月27日
雫の街、家裁調査官・庵原かのん
司法
(霧山昴)
著者 乃南 アサ 、 出版 新潮社
先日、司法修習生と話していたら、弁護士になっても人間関係のドロドロした家事事件は扱いたくないと言い出して驚きました。だって、弁護士が扱うものは、家事だけでなく、民事も刑事もドロドロした人間関係の真只中に置かれて、より良き解決を目ざすものばかりだからです。私は企業法務を扱ったことはありませんが、そこでも多かれ少なかれ人間関係の泥沼と無縁のはずはありません。恐らく、その司法修習生の頭にあったのは「理論で勝負するビジネス・ローヤー」の姿だったことでしょう。でも、そんなのは幻想に過ぎません。
それはともかく今の若い人の多くは高給取りで安定したビジネス・ローヤー志向であることは間違いありません。初任給が1200万円の弁護士を一つの法律事務所だけで50人も80人も採用しているという現実があります。日本の超大企業にとって、法的サービスへの多少の出費は何ともないほど、超高収益を上げているのです。さらに、テレビやSNSを活用した大手法律事務所(カタカナ名です)が「躍進」しています。
今では官僚の供給資源としての法学部よりも高収入の保障されるコンサルタントへの早道である経済学部のほうが人気だと聞くと、なんだか寂しい限りです。
本書の主人公は家裁調査官。最近は、調査官の志望者も減っていると聞きます。まさしくドロドロした人間関係そのもののなかに首を、あるいは全身を突っこむ大変な職業だと知って、若い人から敬遠されているようです。私は、人間とはいかなる存在なのかを知ることの出来る面白くてやり甲斐のある仕事だと思うのですが...。
親権を父と母のどちらがとるか、親と子の面会交流はしたほうがいいのか、そのときの方法そして回数はどうするか、調査官が面接して裁判官に報告します。裁判官は、およそ調査官報告の内容どおりに判断します。
子どもの父親は誰か...。私が弁護士になったころは、顔写真を見て、どちらに似ているか、というのも重要な判断要素になっていました。DNA鑑定なんかなかった時代です。今ではほぼ100%の確率で判定されますし、費用も10万円以内になっています。それでも、昔も、顔を見ただけで、こりゃあ、親子だというケースがありました。なにしろ、顔がそっくりなのです。
私にも孫がいますが、孫の顔はどんどん変わっていくのを実感させられました。親の顔だけでなく、祖父母の顔までそっくりになることがあるのです。面白いものです。誰だって、自分の顔に似た子どもは可愛いものですからね...。
子どもの親権者をめぐる争いで、一番嫌な、困ったケースは、父と母が自分は引き取らない、引き取れないといって、相手に押しつけようとするものです。何回も体験しました。結局、両親がいるのに、施設に入れられます。もちろん、面会にも行きません。そんな施設を卒業した人の話を何人からも聞きました。やはり世間並みに親が欲しかったというのです。それはそうですよね、やっぱり...。
でも、毎日いがみあう両親の下で育つと、子どもは大変です。なんでもっと早く離婚しなかったのかと思ってしまいます。たいてい、経済力に自信のない女性(母親)が無理に我慢してしまうのです。そして、我慢しているのは子どものためだといいます。子どもは、それではたまりませんよね...。
考えさせられる人間ドラマのオンパレードでした。
(2023年6月刊。1850円+税)
2025年8月28日
それって大丈夫?スキマバイトQ&A
社会
(霧山昴)
著者 非正規労働者の権利実現全国会議 、 出版 旬報社
スキマバイトって、要するに一日単位の日雇い派遣じゃないの。しかし、日雇い派遣は原則禁止とされ、改正された派遣法は例外的に対象者と対象業務を限定して認めているだけなのに...。
この冊子を読んで初めて知ったのですが、スキマバイトのアプリに登録している人はなんと3400万人もいるといいます。7年前の2018年には330万人でしたが、10倍に急増しているのです。驚きました。
履歴書を書いたり、採用面接を受けるために出かける必要がない。給与は即日振込でもらえる。いやあ、なんだっか、いいことずくめですよね、これって...。
でもでも、この本を読むと、スキマバイトの怖さが分かります。出退勤(通勤)時に事故にあったとき、労災保険の適用がないことがあります。そして、企業が安易にドタキャンしてくることもあります。また、行った先で、契約以外の仕事をさせられ、嫌な顔を見せると、低評価されるなど仕返しされる危険があります。下手すると、「出禁」となって、その企業関連では仕事がもらえなくなってしまいます。
職場では、名前ではなく、「タイミーおじさん」などと呼ばれ、人格が無視されるのです。
スキマバイトの契約が成立するのは、アプリ上の労働契約に応募したときです。ところが、「QRコードを読みとった時点」だと主張する企業がいます。これは間違いなのです。そして、前日や3日前のキャンセルだったら、10割、少なくとも6割の賃金を請求できます。
でも、現実には、スキマバイトで働く人に労働者としての基本的権利を主張しようとする人は少ない。なぜなら、ともかく仕事をしていて賃金を得るのが先決だと、切羽詰まった生活をしている人が多いから。スキマバイトでトラブルを経験した人が半数近くもいるのに、ひどい状況がなかなか改善されないのは、そのためなのです。
でもでも、著者たちが厚労省に出かけヒアリングのなかでスキマバイトの問題点を具体的に指摘すると、少しは改善されたところもありました。
この本は、よくある21問に対する懇切丁寧な回答が紹介されていますので、問題点とあわせて解決法も知ることができます。とても実践的な、100頁ほどの冊子ですから、大いに活躍されることを願います。
堺市(大阪府)の村田浩治弁護士より贈呈を受けました。ありがとうございます。引き続きのご健闘を大いに期待します。
(2025年7月刊。1320円)
2025年8月29日
NHK「かんぽ不正」報道への介入を許さない
社会
(霧山昴)
著者 NHK文書開示等請求訴訟原告団 、 出版 あけび書房
この冊子のタイトルは「介入・隠蔽を許さない」です。また、原告団と弁護団の共同編集に成ります。この裁判が求めていたのは、NHK経営委員会の議事録の公表、そして議事録を隠蔽した森下俊三・経営委員長(当時)の責任追及です。
なんと、東京高裁の和解において、この二つとも勝ちとることが出来たのです。画期的な勝訴的和解です。
議事録は作成していないと被告側は当初主張していました。しかし、議事録は作成すべきものです。和解では「録音粗(あら)起こし」を議事録としてNHKのホームページに掲載して公表することになりました。議事録は「ない」のではなく、あったわけです。「ない」なんて裁判所までNHK側は騙そうとしたのです。
もう一つの責任追及については、森下経営委員長(当時)は原告1人につき各1万円の合計98万円を支払うことになりました。わずか100万円ほどではありますが、いい加減なことは許されないという貴重な前例をつくったと評価できます。
この冊子によると、歴代のNHK経営委員長は、安倍晋三首相(当時)を応援する財界人の集まり「四季の会」のメンバーか、それに連なる人々が6期にわたって占めているそうです。彼らは、NHKが財界の意に反するような番組を放映しないように目を光らせているわけです。そう言えば、選挙報道もNHKの報道は、明らかに政権与党寄りですよね。ひどいものです。
私は「ダーウィンが来た」は録画して欠かさず観るようにしていますし、朝ドラを含めてなかなか意欲的な番組づくりがNHKの現場ではされていると考えています。でも、全体としては政権の提灯持ちの傾向は明らかだと言わざるをえません。
NHKの経営委員長の候補者として前川喜平氏は自ら名乗りをあげましたが、まったく無視されてしまいました。現に経営委員になっているメンバーの顔ぶれは、残念ながらNHKのあるべき姿なんか考えたこともないような人ばかりです。
経営委員になった石原進(JR九州出身)そして古賀信行委員長(野村証券出身)の2人は、どちらも福岡に関わりがありますが、まさしく財界代表でしかありません。
この問題は、かんぽ生命保険の不正販売をNHKが報道したことから、郵政3社が反発してNHKに申し入れをしたことに端を発しています。つまり、財界側として「不正」を隠蔽しようとしてNHKの経営委員長がNHK会長に「厳重注意」したというのです。経営サイドが番組編成に介入したという、とんでもないことなのです。ただし、こんなことはNHK内部では日常茶飯事になっていることなのかもしれません。
でも、そんな介入・隠蔽を許しておくわけにはいきません。それで心ある市民が訴訟を提起して、実質勝訴したという流れです。わずか116頁の冊子ですが、NHKを国民の側に引き寄せようという不断の努力の一つとして紹介します。
奈良の佐藤真理(まさみち)弁護士より贈呈を受けました。ありがとうございます。引き続きのご健闘を心より祈念します。
(2025年3月刊。1320円)
2025年8月30日
岩波書店取材日記
社会
(霧山昴)
著者 中野 慶 、 出版 かもがわ出版
リアルすぎる、ユーモア小説だと本のオビにありますが、読んでいて、これはフィクションなのかノンフィクションなのか、よく分からない気分になっていきました。とてもユーモア小説だとは思えません。岩波書店内部のことなので、まったく知らない身からすると、「リアルすぎる」というのは、恐らくそうなんだろうな、という気はしています。とくに、岩波書店の労働組合の実際は、内情を知らない、外部にいた人しか書けないものだと思います。そして、日本で一番有名な岩波書店の編集部の内幕話は、それこそ全部がノンフィクションではないかと思わせます。
本書は小さなコンサルタント会社になんとか入社できた女性が岩波書店を取材するというストーリー展開です。今やコンサルタント会社が大学生の人気ナンバーワンだというのですが、私は、実社会経験の乏しいコンサルタントから、現実の実践ではなく本によって得られた「理論」にもとづく指導なんて、危くて仕方がありません。そして、コンサルタント・フィー(費用)は、成功か失敗かにかかわらず、馬鹿げたほど高額なのです(私は、いずれ今よりは低額化するとみています)。
岩波書店は、1980年代に、派遣社員ゼロ、アルバイトも少数で、ほぼ正社員のみ。出産・育児のための条件が整備されていて、両性とも定年まで勤務するのが当然という労働条件だった。労働組合が健在だった。今は、どうなんでしょうか...。
吉野源三郎は岩波書店の労働組合の初代委員長として活躍した。
編集者になるためには、多くのテーマにアンテナを張り巡らして勉強を続けること、勉強熱心であり、謙虚であると同時に生意気であることも必要。本になる原稿を書く著者に敬意がもてない人は編集者にはなれない。ときには、鋭い疑問も求められる。
岩波書店は、ベストセラー志向ではなく、少部数でも文化財として後世に残る本の出版を会社の使命とした。
岩波書店は、戦後まもなくから女性差別を否定し、世間的な学歴差別を全否定してきた。
社内にいたらダメ。外で多くの人に会うこと。
労働組合内部の「思想的対立」の話になると、ちょっと専門的すぎて、内情をまったく知らない外部の人間には分かりにくい問答が続きました。
著者は岩波書店に27年間つとめています。編集部にも長くいて、労働組合の執行委員の経歴もあるそうです。定年前に退職し、現在は著述に専念しています。
若者、とりわけ大学生が昔ほど本を読まなくなったというのは事実だと私も考えていますが、それでも電子ブックではなく、紙の本を読む人もまだまだ多くいるわけです。
なので、編集者としての大変さ、苦しみ、そして喜びを生き生きと若者を対象として語り伝えるような本を書いてほしいと思いました。ほんの少し前に、新潮社の作家と闘った編集者の本を読んで感銘を受けたところでしたので、その関連からのお願いです。
(2021年12月刊。2200円)
2025年8月31日
暦のしずく
日本史(江戸)
(霧山昴)
著者 沢木 耕太郎 、 出版 朝日新聞出版
江戸時代の中期に活躍した講釈師・馬場文耕が講談のなかで、時の幕府中枢を批判したら、なんと斬首・獄門となったという史実が物語になっています。江戸時代に深く関心のある身として、これは読まずばなるまい、そう思って読みはじめたのです。朝日新聞に連載されていたそうで、堂々550頁を超す大作となっています。
講釈師とは、今の講談師のこと。今日の日本でも人間国宝に指定される講談師がいます。一龍斎貞水、神田松鯉など。残念ながら話を聴いたことはありませんが、女性講談師がいま何人も活躍していますよね。
講談のなかで、時の政府をチクリチクリと批判するのは当然のことです。時の政府を持ち上げるばかりの講談だと、歯が根元から浮いてしまって、最後まで聴こうとも思わないでしょう。でも、聴衆が聞きたいのは政治演説ではありませんので、適当な批判にとどめます。そこらあたりのサジ加減がとても難しいとは私も思います。
馬場文耕を死刑(獄門)にする判決文が残っている。
「かねてより古い軍記物などを講釈して生活していたが、貧しさのあまり衣服の手当てもままならず、聴衆に援助してもらうべく、極秘の物語を講釈すると喧伝(けんでん)し、現在、公儀で吟味中の事件を文章にし、実際にそれを講釈した」
当時の出版物(書物)には、版木を掘って印刷したものを束ねる刊本と、筆で書き写したものをまとめて本にする写本の二つがあった。刊本は、幕府の許可が必要のため、あまり過激な内容のものは出すことができなかったが、原稿を書き写すだけの写真は、簡単に世の中に出すことが出来たため、政治的に過激なものが出されていた。馬場文耕の作品は、すべて写本であった。
江戸時代の読者には、写本は、書かれているのは事実に違いないという思いがあった。
えっ、待って...。もしかして、これって、現代SNSのフェイクニュースを真実と思い込む人と似ていませんかね...。うむむ、難しいところですよね。とんでもないインチキ政党(参政党)の言っていること(外国人は犯罪が多い...)を真実だと思い込んだ日本人が何百万人いたという事実に、私は身の凍る思いがしています。
美濃(みの)郡上(ぐじょう)の金森家の苛政を馬場文耕は取りあげました。まさしく、公儀が内密に問題として取りあげたテーマです。ここの百姓一揆は、結局のところ、劇的な勝利を遂げるのです(首謀者は獄死したとしも...)。
ときは徳川九代将軍家重、そして田沼意次(おきつぐ)の時代です。
田沼家は、将軍吉宗のときに紀州から江戸入りしたのですね...。江戸時代も中期になると、公事宿(くじやど)が反映していました。江戸の人々は不正そして権力の横暴に対して黙っていなかったのです。それは自分の生命を賭けての抗議でもありました。
金森騒動については、五手掛の裁判となった。寺社奉行、北町奉行、勘定奉行そして大目付と目付の五人が裁判体を組んだ。この評定所で吟味中の金森騒動を講釈師が取り上げて、あれこれあげつらうなど、幕府にとって許せるものではなかった。その結果は、老中や若年寄、勘定奉行が改易やら重追放、「永預け」「逼塞」など、いかにも厳しい処断がなされた。江戸時代の処分としては空前絶後の厳しさだった。そして、百姓一揆の側も、牢内で次々に死んでいった。そして判決は獄門が4人、死罪10人だった。
文耕に対しては、「不届き至極(しごく)につき、見凝(みこ)らしのため、町中引き廻し、浅草において獄門を申し付ける」となった。
いやあ、すごく重たい内容の本でした。それにしても、同時にその心意気を大いに買いたい気持ちで一杯になりました。いい本です。
(2025年6月刊。2420円)