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2025年4月 の投稿

キーウで見た、ロシア・ウクライナ戦争

カテゴリー:ロシア

(霧山昴)
著者 平野 高志 、 出版 星海社新書
 著者は2008年から今もウクライナに暮らしている日本人です。
 ウクライナへのロシアの侵略戦争は始まってから3年以上になるが、ウクライナの多くの地域では戦争下であっても市民生活は「フツー」に営まれている。大半の地域では、モノ不足は生じていない。日本からの郵便物も1カ月未満でキーウに届く。 日本のアニメや漫画などの日本文化も、ウクライナの一部の層では引き続き高い人気を誇っている。
 電力不足なので、計画停電が実施されている。
 ウクライナは世界でも有数の農業大国であり、国内流通分の食料品には不自由していない。
「壁2枚ルール」がある。シェルターに行かず、自宅の窓から壁2枚だけ離れた場所へ避難しようとするもの。
コンサートも開かれている。ウクライナ全土で夜12時から朝5時までの夜間外出禁止令が適用されているが、飲食店は夜10時までは開いている。
ウクライナ上空には、民間の飛行機は飛んでいない。ミサイルやドローンの攻撃の対象になるから。
 ウクライナの18~60歳の男性は原則として出国禁止。
 戦争の影響は、目に見える要素よりも、人の頭と心の中をむしばんでいる。国の未来への不安、子どもの安全への不安が強い。これから数カ月先、数年先の人生が全く見通せないという悩みを抱えている。
 徴兵逃れを恥だと思わない人が回答したウクライナの市民の半数近くもいた。
ゼレンスキー大統領を個人崇拝するような現象はない。ウクライナでは、政治家はののしられたり、嫌われたりすることはあっても、あがめられる対象ではない。
 ウクライナはIT大国。2022年夏に始まったウクライナ側の反転攻勢が期待はずれに終わったので、人々に会った完全勝利への期待が徐々にしぼんでいる。
 被侵略国であるウクライナだけが戦争を止めたいと思っても、容易に止められるものではない。ロシアがウクライナに対して核兵器を使う可能性はあるが、決して大きくはない。
 もしロシアが核兵器を使ったとしたら、結果としてロシアは戦争に勝利するチャンスも決定的に失うだろう。
ウクライナに住む人で、エスニック的にはロシア人であっても、自分のアイデンティティはウクライナ人だという人は実に多い。
 ほとんどの人は、ロシア語もウクライナ語も必要に応じて使い分けられる。
 ウクライナ軍人の死傷者数は国家機密扱いとなっているため、報道機関はニュースとして報道することが許されていない。
 ロシアが侵略戦争を正当化するために流してきた嘘をファクトチェックして、戦争の実態を知ってほしい。私も本当にそう思います。
 もう3年も戦争が続いているなんて、本当に信じられません。一刻も早く停戦し、殺し合いをやめてほしいです。それにしてもプーチンの嘘は許せません。
(2024年11月刊。1320円)
 朝、雨戸を開けると、華やかな春がそこにあります。花、黄、色そして橙色のチューリップが満開で出迎えてくれるのです。庭のあちこちにスズランのような白い花をつけたスノードロップも咲いています。
 庭に植えたジャガイモの芽が霜でやられましたが、もちろん大丈夫です。昨年植え替えたアスパラガスは残念ながら、まだ少しだけで、細いものしかありません。
 ジャーマンアイリスが増えたのを庭のあちこちに植えたところ、みんな元気よく伸びています。5月から咲いてくれるでしょう。楽しみです。
 今年は3月末から少し寒さが戻りましたので、桜の花の満開は1週間以上も続いて入学式に間に合ったようです。
 庭のそばに昔の里道があり、散歩の人が通っていくのですが、団地住民の高齢化によって、本当に少なくなりました。子どもたちが通るのも珍しくなって寂しい限りです。
 花粉症にはまだ泣いていますが、少しはましになりました。

「新しい外交」を切り拓く

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 猿田 佐世、巌谷 陽次郎 、 出版 かもがわ出版
 「手取りを増やす」と称して支持を急増させている政党は、自民党の大軍拡予算にはもろ手をあげて賛成しています。そして、消費税の税率引き下げも要求することはありません。つまり、戦争に備えて軍備を拡張せよ、そのためには生活の切り下げは我慢せよと言っているのです。
 「手取りを増やす」どころではありません。ところが、マスコミ操作がうまいので、若者の支持を集めています。いずれは化けの皮がはがれるでしょうが、怖いのは、こんな与党支持勢力もあって、どんどん戦争が間近に迫っていることです。
 「新しい外交」は外交・安保政策のシンクタンクである「新外交イニシアティブ(ND)」のかかげているものです。
平和と民主主義、そして人々の多様性、人権、人としての尊厳に何の関心も持たないトランプがアメリカ大統領として、我が物顔で振る舞っているなか、戦争には戦争、武力には武力ということではなく、いろんなパイプを通じての外交努力が今、本当に大切だと思います。
トランプ大統領のアメリカは、今、国際秩序を目茶苦茶に破壊しつつある。日本は、そのようなアメリカに対して、これまでのように、ひらすら追従するのではなく、積極的に対話を求め、助言し、説得していかなければならない。
 これが、この本の主張です。まことに、そのとおりです。アメリカの国益と日本の国益は違います。アメリカが日本を守ってくれるなどという幻想を日本人は一刻も早く捨て去るべきです。
「アメリカ・ファースト」にこり固まっているトランプが捨て身になって日本を助けてくれるなんて、そんなことを信じるほうがどうかしています。振り込み詐欺(特殊詐欺)にひっかかって泣いている人が、いやあの人はきっとお金を返してくれるはずだ、信じたいと言っているのと同じです。ありえないことは、ありえないのです。
日本は今や「平和国家」という看板をおろして、「世界3位の軍事大国」になりつつあります。軍事予算が単年度で8兆円をこすなんて、信じられません。少し前まで5兆円をこすかどうかで大騒ぎしていたのがウソのようです。そして、この軍事予算の増大はオスプレイなど、アメリカの軍需産業がうみ出した老朽品、欠陥機をひたすら買い支えるために費消されるのです。嫌になります。
 また、武器輸出を「防衛装備移転」と言い換え、国民の目をごまかしています。
フィリピンにも、かつては広大なアメリカ軍の基地がいくつもありました。しかし、1992年に、すべ手のアメリカ軍基地を撤退させ、そこは民生用の工場とショッピングセンターになって繁栄しています。日本だって、同じことが出来るはずです。
この本でNDは、制度化されたマルチトラック(重層的な)外交を強力に提言しています。
 外交の制度化とは、国と国との関係を継続的に、定例化された関係にするということ。制度化すると、各国が省庁横断的に担当者を置いて、相互にメールなどでの日常的なやりとりをして、顔の見える関係になる。それによって情報公開も進み、危機対応も容易になっていく。そうして深い相互協力が実践されていき、戦争への機会費用が高くなって、国同士の衝突を避けるようになっていく。
 重層的(マルチトラック)な外交は、国の政府に限らず、知識人、議員、地方自治体、市民社会、ビジネス経済界など、各層で定例化され、恒常的で密な関係を構築していくこと。
 なるほど、ですね。弁護士会のレベルでの定期的な交流だって必要というわけです。日本人が弱いところを大胆に課題として提起した本です。広く読まれてほしいと思いました。
(2025年1月刊。1980円)

西南戦争のリアル、田原坂

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 中原 幹彦 、 出版 新泉社
 1877(明治10)年2月14日、西郷隆盛の率いる薩摩軍8万人が降りしきる雪のなか鹿児島を出発した。それから7カ月後の9月24日、鹿児島城山で西郷隆盛は自刃して西南戦争は終結した。
 政府軍は8万人、両軍あわせて13万人が正面から対決した。
 抜刀隊も活躍したが、小銃や大砲を主とする近代戦であり、1万4千人もの青壮年が命を落とした。使用された小銃は16種類以上、大砲も10種類以上があった。アメリカの南北戦争(シビル・ウォー)が終結したあとなので、あまった銃や大砲が日本に大量に入ってきた。
 おもに使われたスナイドル銃は後発施条銃。大砲は四斤(よんきん)山砲(さんぽう)や一三ドイム臼砲(きゅうほう)、二〇ドイム臼砲がおもに使用された。
 政府軍の使った戦費は4157万円、これは国家予算の7割に匹敵する。
乃木希典少佐の率いる一四連隊が薩摩軍に敗れ、軍旗を奪われてたうえに負傷したのは2月22日、23日の向坂の戦いであって、田原坂の戦いではない。
 田原坂の戦いは3月4日から20日まで17日間に及んだ。薩摩軍は、その前、熊本城を包囲して総攻撃したが、落とせず、持久戦となり、主力を北上させて田原坂で政府軍を迎え撃った。
 政府軍が熊本城にたどり着くコースは3本あった。南関から豊前街道で山鹿に至る山鹿口、高瀬(玉名市)から三池往還を木葉(このは)から田原坂に至る、高瀬から吉次往還で吉次峠に至る。山鹿路は坂があり、難路とされていた。同じく吉次峠も道幅の狭い、険しい難路だった。山鹿道と吉次峠越えは熊本まで数十ヶ所の難所があるのに対し、田原坂は田原坂さえ抜けば熊本城まで向坂の険が一つあるだけなので、政府軍は田原坂を目ざした。
 田原坂の戦いで、政府軍はのべ8万人を動員し、戦死者1700人、死傷者3000人を数えた。これは政府軍の全戦死者6843人の25%を占める。1日あたり、100人の戦死者を出した。対する薩摩軍のほうは記録がなく、配置換えもあって詳細は不明で、数千人規模と考えられている。田原坂が激戦となったのは、第一に地形があり、その二に薩摩軍の将士が一丸となって決死の覚悟で守り抜く気魄(きはく)があったことによる。
 田原坂の地形は、険しい坂道でトンネルのようであり、細く曲がりくねった険しい山道で、兵略上守りやすく攻めがたい地勢。薩摩軍は私学校党の精鋭をここにそろえ、死力を尽くし、堅固な陣地を両崖の十数ヶ所に築いた。
 「薩摩軍は重要地点に陣地を点々とおびただしく連ねて築き、互いに連携して戦い、死を賭して要所を占めている」
 政府軍の第二大隊第四中隊は164人いたのが18人へ激減し、もはや中隊の体をなさなかった。
田原坂の決戦では両軍の陣地がわずか20メートルの近さだった。薩摩軍の抜刀攻撃も効果を上げた。政府軍は射撃の名手35人で別働狙撃隊をつくって戦場に投入したが、1週間でほぼ全滅した。さらに東京警視庁抜刀隊を編成・投入して、ようやく戦況打開の糸口をつかんだ。
 薩摩軍は政府軍の士官を狙って指揮命令系統を遮断した。そこで士官は徽章(きしょう)を隠し、外套(がいとう)も下士のものを用いるようにした。
 このとき薩摩軍が苦手としたのは、一に雨、二に大砲、三に赤帽といわれる。17日間の戦いのうち6日間は雨が降り、最終日の20日は大雨だった。赤帽とは近衛兵のこと。士族出身者も多く、士気は高かった。田原坂の戦いをはじめ、西南戦争で大活躍したのに、戦後、相応の処遇を受けていないという不満が、後日、竹橋事件を起こすことになったのでした。
 私は田原坂に3回は行っています。資料館も見学しました。もちろん高台にあるわけですが、今も森のなかにありますので、現地に行って全貌を実感するのは、少し難しいところです。そこが広々として開けている関ヶ原古戦場と違います。大変リアルな田原坂の戦いの紹介記です。
(2021年12月刊。1760円)

脳の本質

カテゴリー:人間・脳

(霧山昴)
著者 乾 敏郎・門脇 加江子 、 出版 中公新書
 いつ、どこで、何をという情報は、頭頂葉や側頭葉に記憶されていて、海馬にはない。海馬が担うのは、各エピソードを構成している情報をまとめ、出来事の順序を記憶しておき、それらを再生する働き。
 海馬は、ある時間や空間に自己投影する機能を司る。未来の自分を想像し、未来の出来事を予測するという機能も海馬にはある。海馬が損傷すると、新たに体験したことを長期記憶に保持することは出来ない。
 昔の記憶は海馬に存在するのではない。記憶は海馬が単独で担うのではなく、海馬と大脳新皮質の相互作用による。
 海馬には時系列を処理する機能も備わっている。海馬は、昔の体験の回想や、新しいイメージの創造に貢献している。
ヒトは、1秒間に3~4回、眼を動かして異なる対象や異なる場所を見ている。このとき、わずか数十ミリ秒(0.01秒単位)の速さで、その視点間を移動する(視線を稼動させる)。決して見たい場所を通り過ぎることはない。とてつもなく高速で、かつ精度の高い運動なのだ。
 他者の行為を自己の運動に照らしあわせて理解している。
 学習とは、視覚と聴覚、運動と感覚といったような、別々であった二者の事象がシナプス結合でつながること。
 好奇心は、報酬とは異なり、目新しく、不確実で、複雑で、曖昧(あいまい)なものを探求しようとする欲求だ。それなら、私も大いにあります。好奇心とは、随伴性の知識をもたない新規な対象に対して働く。
 自己意識は、自己主体感、自己所有感、自己存在感という三つの感覚から構成される。
 脳の最重要課題は、生命の維持。ヒトは感覚を通じて世界を推論しているのであり、それを直接知ることは出来ない。
 ヒトが知覚している世界は、現実の世界ではなく、予測された世界である。ヒトは、自分がつくり上げた「世界に対するモデル」にもとづいて予測する。脳は予測するための推論エンジンである。
 脳の話は何回読んでも面白く、まさしく好奇心がかきたてられます。
(2024年11月刊。1100円)

雪夢往来

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 木内 昇 、 出版 新潮社
 江戸時代、雪深い越後の国に住む鈴木牧之(ぼくし)は郷土のことを江戸の人々に知ってもらおうと、郷土の風景、民話そして雪深い冬の景色を書きつづった。書き上げたからには書物として売り出さなくてはいけない。そこで、江戸の書き物問屋にあたり、作家に頼った。
 本書で出てくるのは、山東京伝、十返舎一九そして滝沢馬琴と、今も高名な作家たち。そんな作家たちは、果たして越後の無名の民(たみ)が書いたものに注目し、それを書物として世に出してくれるだろうか…。
 鈴木牧之の書いた『北越雪譜』は今なお語り継がれる高名な書物です。ところが、刊行されるまで、なんとなんと40年もかかってしまったのでした。これでは刊行するまで著者が生きていたというのが不思議なほどです。私も先日、30年ぶりに亡父の歩みを本にまとめ直しました。30年前は自費出版でしたが、今回は出版社から刊行することが出来ました。やはり、うれしいものです。
 書本(かきほん)にして江戸で配ればそれで十分だったのに、山東京伝に送ったことから、話が大きくなり、板本(はんぽん)という、思ってもみなかった夢が手の届くところに立ち現れた。迷走は、おそらくそこから始まった。
夢というのは、一度見てしまうと、そこから逃れられぬものかもしれぬ。必ず板本にしなければならない。妄念に取りつかれて、ここまで来てしまった。いつしか、書く楽しさや良いものを書きたいという純粋な衝動から大きく逸(そ)れて、ただただ己(おのれ)の筆力を証したい。みなに認めさせたい、名を上げたい、という欲心で、ここまで走ってきた。いやあ、よく分かりますね、この気落ち。田舎(地方都市)に住んでいながらモノカキと称して東京の出版社から本として刊行するというのは、みなに認めてもらいたい、あわよくばモノカキとして名声を得たいという欲心からのことです。間違いありません。
 「雪中の洪水の話、熊捕(くまとり)の話、雪の中で、飛ぶ虫の話、雪崩(なだれ)に巻き込まれた人の話…。気がつけば、ずい分と多くの綺談(きだん)を書いたものにございます。この地のことを書いておるとき、私は心くつろいでおりました」
 天保8年の秋、『北越雪譜』初編3巻が板行された。初めこそ、さして話題にもならなかったが、雪深い国の慣習や綺談は江戸の者に驚きをもって迎え入れられ、ふた月も経(た)つと、摺(す)るのが間に合わぬほどの評判となった。『北越雪譜』二編は初編同様、大きな評判をとり、鈴木牧之の名は江戸のみならず、広く知れ渡ることになった。越後塩沢の名士として村の者にも崇(あが)められ、わざわざ遠方から彼を訪ねてくる者まであった。
皐月(さつき)の、心地よい風が抜ける日の暮れ時に、鈴木牧之は静かに人生を終(しま)った。
一番最初に山東京伝の伝手(つて)で、二代目の蔦重(つたじゅう)のところで刊行しようとすると、50両がかかると言われたので、さすがの鈴木牧之も二の足を踏んだのでした。
 そうなんです。モノカキを自称するくらいで無名そのものが出版社から本を刊行しようとすると、現実には頭金を求められるのです。私も当然、毎回、負担しています。印税収入なんて、残念ながら夢のまた夢なのです。それでも、1回だけ福岡の本屋の店頭で私の本(「税務署なんか怖くない」)が並べられているのを見たときは小さな胸が震えるほど感激しました。
(2024年12月刊。2200円)

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