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2024年11月 の投稿

従属の代償

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 布施 祐仁 、 出版 講談社現代新書
 先の衆議院選挙では大軍拡の是非が争点となりませんでした。残念です。5年間で43兆円もの大軍拡予算が着々と現在進行形です。石破首相は日本の防衛力を強化する必要があるといって、これまでの安倍-岸田路線をそのまま踏襲しています。公明党はもちろん与党として、それを推進し、維新も国民民主党(玉木)も同じく、軍事予算は聖域扱いで、縮小なんて一言もいいません。本当にそれでいいのでしょうか?
 安保三文書を批判的に検討する討議資料を日弁連は作成中ですが、安保三文書には実は国民を守るための施策は何ひとつありません。たとえば、私たちの毎日の生活は水と電気が不可欠ですし、ガソリンと食料品がなければ行動できませんし、生きていけません。ところが、このようなインフラ・システムを守る手だては何も講じられていません。上下水道施設、火力発電所そして港湾がミサイルで攻撃されたら、多くの日本人は、その時点から生活できなくなります。船舶が動かなくなったら、食料自給率が4割もない日本ではたちまち食べ物がなくなります。車だってガス欠になります。
 そして、主として日本海沿いに50基以上も原子力発電所(原発)があります。地上から「デモ隊」が押し寄せてきたら対抗・排除できる体制はあるようですが、問題はミサイル攻撃です。これには対策の打ちようがありません。放射能がダダ洩れはじめたら、「決死隊」を送り込んでも、止めようがないのです。日本列島のどこにも逃げ場はなく、住むところがありません。
いま、自衛隊はミサイルの放射距離を200キロから1000キロにのばしました。中国内陸部へミサイルを撃ち込もうというわけです。そんなミサイル収納庫(大型弾薬庫)が大分に新増設されようとしています。防衛省は、2032年までに全国で130棟もの弾薬庫を増設するというのです。日本列島はミサイル列島になりつつあります。
 こんなミサイル基地が身近にあったら、あなたは安心ですか…。いえいえ、ミサイル基地は、「敵」から真っ先に狙われるのですよ。周辺の民家は爆発の巻き添えを喰うことでしょう。   
南西諸島にミサイル部隊を配置して「南西の壁」がつくられようとしています。台湾有事に備えてのことです。では、「敵」の反撃を受けたら、この南西諸島の住民はどうしますか…。船や飛行機で戦火の島から脱出できると思いますか…。出来るはずがありません。戦前の「対馬丸」の悲劇を繰り返すことになるでしょう。
中距離ミサイルを中国本土に届かせるためには、日本かフィリピンのミサイル基地を九州に置くしかない。これがアメリカの考えです。日本を捨て石にしようというのです。
 いざというときに、アメリカから見捨てられたら、どうしようと悩む若者が少なくないとのこと。そんな奴隷のような心情は一刻も早く、きっぱり脱ぎ捨てましょう。
 巡航ミサイルや極超音速滑空兵器はステルス性があり、発見されにくい。
本当に「台湾有事」が現実化したとき、先島(さきしま)諸島や南西地域だけの「局地戦」にとどまる保証はどこにもない。そうなんです。
 ミサイルが、核弾頭でないというだけで安心してはいけません。核弾頭が使われたら終りという前に、日本は破滅してしまうのです。
 安保三文書にもとづく大軍拡は、実のところ日本国民を死に追いやってしまう、危険きわまりないシロモノなのです。国を本当に守るのなら、軍備増強ではなく、話し合いしかありません。
(2024年10月刊。980円+税)

満州事変、ある日本人兵士の日記

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 森下 明有 ・ 笠原 十九司 、 出版 新日本出版社
 著者の森下明有(あきあり)は、明治43(1910)年生まれですので、私の亡父(明治42年生)と同世代です。著者は(森下)は北海道に開拓農民の四男として生まれました。召集され、戦前の満州事変に従軍し、中国で負傷して日本に護送され、命は助かり、2001年に91歳で亡くなったのでした。
 森下は1933(昭和8)年4月12日、戦場で左胸部貫通銃創を受け、野戦病院を転々としたあと、日本に護送された。要するに敵兵(中国兵)から左胸を撃ち抜かれたけれど、生命だけは助かったということです。それでも北海道で農作業に従事できるほどの体力に戻らなかったようです。
森下の日記は1932(昭和7)年9月18日から、翌1933(昭和8)年5月31日までのものですが、ともかく戦闘状況をふくめて、びっくりするほど詳細です。
 ただし、原本は雨や雪で文字がにじんだ部分も多く、解読にあたったスタッフはかなり苦労したようです。それでも、こうやって、きちんと文章化して、戦場の様子を生々しく知ることができるのですから、ありがたいことです。
 森下は20歳で徴兵検査を受け、甲種合格となり、翌1931年9月に志願兵として入営した。一等兵への進級は部隊で11番目、上等兵へは6番目で進級した。真面目に「寸暇を惜しんで勉強した」ようです。
 1932年10月7日の日記に森下は、こう書いた。
 「自分は兵士である。戦争するのが最大の目的である。けれども、私は彼ら無知の匪賊を殺すに忍びない。あまりにも堪えられない。彼らとの戦闘においては、その戦力をそぐということは、彼らを殺すよりほかに道がない。ああ、やるときには断然やるのだ。けれど、無知なる彼らをあわれむ情において、ただ涙あるのみ。彼らの冥福を祈ろう」
 10月19日。「支那人の農家たちの生活の一端をみると、実際、単調そのものである。何の娯楽も趣味もないらしい。このような単調の境遇にある彼ら支那農民の若者らが馬賊のごとき気合のかかる仕事に加わるのは、あるいは自然の勢いではなかろうか。満州の匪賊をなくすには、彼らに働き甲斐あらしむのが一番早道だろう」
 1933(昭和8)年3月18日。「支那兵の戦死しているのを見る。彼らは敗戦だから、屍(しかばね)を収容する者もいない。いたずらに屍を野辺にさらしている。その死に方も無惨だ。彼らの死顔を見ていると、憎らしいという感じはなく、哀れみの感情が起きて来る。彼にも肉親の者はいるのだろう。だのに、彼はこうして、何処(いずこ)とも知らぬ野辺(のべ)の巣に屍となって犬や豚や鳥などに食われてしまうのだ。哀れといえば、まことに哀れな彼らである」
 森下らが対峙した「敵」は国民政府軍でもある張学良軍で、機関銃や砲兵など近代的な武器を展開した。高地など有利な地形に兵士が身を隠せる1メートル前後の塹壕(ざんごう)を掘り、陣地を攻撃してくる日本軍を狙い撃ちする戦闘だった。そのため、昼間の戦闘では、堅固な陣地を攻撃する日本軍には圧倒的に不利で、犠牲者も出るから日本軍は夜襲攻撃作戦、つまり夜間に敵陣地を包囲し、夜明け、それもまだ薄暗いときに総攻撃をかけて敵陣地に躍に込んでいくという戦法をとった。
 森下は機関銃兵であり、ある日の戦闘で使用した弾数は3月10日は39連(1170発)、11日は15連(450発)、12日は38連(1140発)、13日は52連(1560発)というほど撃ち込んだ。ついに日本軍は銃弾の補給が困難となり、銃剣で敵の陣中に突撃して陣地を占領した。
 森下は、中国兵を「匪賊」とはみなしてはいなかった。中国人を差別、蔑視していなかった。しかし、これは日本兵の中では例外的であったと解説されています。
戦後も、森下は、差別しない、理不尽な言動はしない、子どもたちへの心配もさりげなく見守るという人間性をみせていたということです。
 ともかく、よくもこんなに詳細な日記を書いていたということに驚嘆しました。いかにも貴重な資料です。
(2024年7月刊。3500円+税)

旧統一教会元広報部長懺悔禄

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 桶田 毅 、 出版 光文社新書
 1992年に統一協会(私は「統一教会」とは書きません)の広報担当になり、1999年まで7年間、広報部長をつとめた大江益夫に取材した新書です。
大江益夫は私とほとんど同じ団塊世代です(私の1学年下)。福知山高校の1年生のとき民青同盟に加盟し、生徒会の副会長にもなっています。ところが高校2年生のとき統一協会(当時は原理研究会)に出会って「論破」され、信者になります。大学は私より2年遅く早稲田大学教育学部に入ります。
 当時、早稲田大学は民青系ですが、あとは革マル派が支配していました。ノンポリ学生(川口大三郎君)が中核派のメンバーと誤認されて革マル派から虐殺されるという事件も起きています。
大江と一緒に早大原理研の有力メンバーとなった河西徹夫は、元革マル派でした。大江は今なお文鮮明を再臨のメシヤだと信じているようです。それは、「文先生」と呼び、文鮮明と呼び捨てしないことで分かります。
 大江は統一協会の霊感商法には批判的です。1975年から1984年までの10年間で、日本から韓国の統一協会本部へ2000億円という莫大なお金が送金されました。日本の罪なき、善良な人々を脅迫し、騙しとったお金が文鮮明一家の不正蓄財にまわったのです。
 統一協会の信者は最大60万人、今でも8万人ほどいる。離れていった人々は、信仰の夢が破れ、生きるすべなく経済的に困窮している人が多い。実に悲惨な状況にある。かの山上容疑者の母親もその一人ですよね。
統一協会(国際勝共連合)は、公安調査庁とも連絡をとっていて、「関係はきわめて良好」だった。
 大江が広報部長をつとめた7年間、統一協会の会長は、1年1人の割合で、7人が交代した。ストレスがたまって精神的におかしくなって辞めた人間もいる。ひどい組織です。
 大江は統一協会の広報部長を辞めたあと、疑問をまとめた『統一教会の検証』という本を刊行した。すると、待っていたのは、ブラジルのアマゾン川の上流の奥地(パンタナール)への左遷。3年間、大江はそこにいた。いやあ、大変ですね…。
 朝日新聞阪神支局が襲撃され、記者1人が亡くなり、もう1人の記者も重傷を負った赤報隊事件(1987年5月3日)にも統一協会がからんでいるという話は初耳でした。被害者の記者に対する脅迫状は統一協会(国際勝共連合)を取材したことによるものと解されるものだったそうです。これまた知りませんでした。
国際勝共連合には諜報部隊があり、その武闘派グループは400人もいて、散弾銃をもって、クレー射撃などの訓練もしていたとのこと。
 犯行を指揮したリーダーは武闘派を中心とした末端の信者である可能性があり、散弾銃で射殺した実行犯は、闇社会のヤクザ組織の人間ではないか…。
 いやあ、世の中、ホント、知らないことだらけです。怖いし、また、それを知るのが面白くもあります。
(2024年9月刊。990円)

ネクスト・クエスチョン

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者 ステファニー・グリシャム 、 出版 論創社
 トランプほど虚像の大きい男はいないのではないのでしょうか…。アメリカで有権者の半分ほどがトランプに投票したなんて、まったく信じられません。著者は6年間も、トランプ一家のすぐ近くにいて、すべてを余すところなく目撃した女性です。
2021年1月6日、トランプ政権から著者はようやく脱出できた。ええっ、いったい著者の職業は何、なんなの…???
 著者はファーストレディ(メラニア夫人)の広報部長、そして、大統領の報道官なのでした。
トランプは、わざと常軌を逸し、道化を演じる。テレビショーで長年にわたって人気を博したのには、それなりの理由がある。
トランプは、自分が注目の中心、政治の中心、政治の中心、そして世界の中心にいるという栄誉に浸っていた。
 トランプの食習慣は16歳のそれである。トランプの食事のメニューは、どこにいようと、ほぼ変わらない。ウェルダンのステーキ、チーズバーガーとポテトフライ、スパゲティとミートボール。デザートはバニラアイス2個。複雑で繊細な外国料理は好みにあわない。
 トランプは、自分の指示に相手がどこまで従うのか、いつも見ている。それが、忠誠心を測るトランプ流の方法だ。
周囲の人間にとって、トランプを満足させ続けることが何より大事なこと。
 トランプのボキャブラリーに、「強硬」「どう猛」「殺し屋」以上のほめ言葉はない。
トランプのもっとも貴重な所持品は、ツイッター(X)のアカウント。
 トランプは、頭髪をあの形に整えるべく、毎日耐えている苦労はすごいものがある。大量のヘアスプレーを使っている。トランプの見た目は毎朝、顔に塗るメイクによって作られている。トランプは、夕食後には映画をみて過ごす。
 トランプにとって女性との不倫は日常茶飯事にすぎない。
 トランプはダイエットコークを次から次に飲み干すという癖がある。
 トランプは、自分自身に関する報道しか気にかけていない。
トランプは一瞬のうちに激怒する。その怒りは一時的であっても、非常に激しい。
 トランプは人の弱点を見つける能力があり、信じられないほど下劣で、粗野で、そのうえ効果的なやり方で怒りを向ける。
 人は負け犬や弱虫と言われるのがもっとも嫌いだとトランプは考えているので、そんな単語を無数に発する。
 トランプはフランスのマクロン大統領について、「あいつは臆病者だ」とけなした。
トランプは細菌恐怖症だ。プーチンは、それを知っているので、わざと咳払いを繰り返した。他の人なら怒鳴りつけるところ、トランプは黙って耐えた。
 トランプは娘イヴァンカの夫・ジャレッドに事実上無制限の権力を与えていた。それは愛娘(イヴァンカ)のご機嫌を損ねたくないから。
 ジャレッド・クシュナーの機嫌が悪い。トランプのホワイトハウスでは、絶対に聞きたくないニュースだった。著者はジャレッドの愚かな発言に辟易(へきえき)させられていた。
 トランプのホワイトハウスでは、トランプに都合の悪い事実がニュースとして流れると、その情報漏洩者捜しが始める。しかし、これは気に入らない人間を排除する口実として用いられることが多かった。
トランプ一家の大半の人間は、人々をいともあっさり解任し、自分たちの生活から切り離していく。
完全なる忠誠心を求めるものの、誰に対しても忠実ではない。彼らはビジネス界の人間であって、ビジネスに私情を差しはさむことは許されない。
トランプのやったことで良いことは共和党の政策だからであって、トランプの政策が良かったからではない。
 分裂を引き起こし、スキャンダルまみれのトランプ時代のドラマと決別すべきだ。
 6年間もすぐそばにいた女性から、これほどまで「下劣」だと決めつけられるような人間がアメリカの大統領になるなんて、ホント信じられません。
(2024年6月刊。2400円+税)

平安のステキな!女性作家たち

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者 川村 裕子 ・ 早川 圭子 、 出版 岩波ジュニア新書
 まずは平安時代のライフ・スタイル。
朝の合図は太鼓の音。夜が明ける合図なので、午前4時半から6時半。2回目の太鼓は出勤の合図で、午前5時半(夏)から7時50分(冬)ころ。食事は1日2回。朝と晩の2回。朝の食事は午前10時ころから12時ころ。晩の食事は午後4時ころ。ただし、朝の出勤前に少し軽食をとることもあった。朝食は午前中の勤務が終わったころなので、自宅に帰って食べる人も多かった。夕食も基本は自宅でとる。
 母親の出産は危険で、5人に1人は亡くなった。平安のころの出産は命がけだった。
 上流家庭の娘は、習字と和歌、そして琴(こと)。和歌は古今和歌集を丸暗記する。
男子が女子の家に3日連続で通うと結婚成立。
 離婚するときは、妻は実家に戻る。実家に引きとる力がなかったら、女子はそのまま没落する。
貴族の女子が外に出て働くといえば、宮仕えのこと。宮中や貴人に仕える。
宮中には後宮(こうきゅう)があって、そこに天皇の奥さまたちがいた。そこで仕えるのも宮仕え。
公務員としておつとめする女性を女官(にょかん)と呼ぶ。女官は多かった。
後宮には12もの役所があった(後宮十二司)。
 上達部(かんだちめ)、殿上人(てんじょうびと)はVIP。貴人の世話をする女性を女房と呼び、3階級に分かれていた。上臈(じょうろう)、中臈(ちゅうろう)、下臈(げろう)。
 紫式部や清少納言は中臈ぐらいとみられている。
 上臈はセレブな特権階級で、禁色(きんじき。特別な人以外は使用が禁止されていた色)や織(おり)が許されていた。
 「更級(さらしな)日記」の作者である菅原孝標(たかすえ)女(むすめ)の本名は不明。父親はかの菅原道真の五代目。「蜻蛉(かげろう)日記」の作者である道綱母の異母妹という関係。
 清少納言が定子(ていし)に仕えた993年から1000年までの7年間のうち、本当に穏やかだった時代は993年から995年までの2年弱。あとは不幸な出来事が続いた。
 この不幸な状況のなかで清少納言は定子たちとの華やかな生活を描き出した。
平安時代の女性も現代日本の女性と同じように強く、たくましく生き抜いていたのです。もちろん、全員がそうだということではありませんが…。
(2023年10月刊。990円+税)

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