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2024年1月 の投稿

隋、「流星王朝」の光芒

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 平田 陽一郎 、 出版 中公新書
 中国の統一王朝、隋。わずか37年間しか続かなかった隋帝国の内情を明らかにした新書です。
 隋の初代は文帝楊堅で、二代目の煬帝(ようだい)は、大運河を築き、帝国を拡大しました。ところが高句麗遠征に失敗して、唐に滅ぼされてしまったのでした。
 隋の母胎となった西魏・北周は、いわゆる漢族ではなく、鮮卑(せんぴ)を中心とする北族(ほくぞく。北方の騎馬遊牧民の流れをくむ人々)がヘゲモニーを握る遊牧系政権としての側面を有し、鮮卑よりの政治を実行した。
秦(しん)は十数年しかもたず、漢は400年続いたものの、その崩壊後は、三国時代として対抗・抗争する大分裂時代として400年も続いた。これに終止符を打ったのが隋。
北魏を支えた一番の柱は、優秀な騎馬軍事力。騎馬遊牧民は高度な騎射技術を身につけていた。
突厥(とっけつ)とは、もとアルタイ山脈方面で活動していたトルロ(テュルク)系の遊牧勢力のこと。
 遊牧社会における女性の社会的地位は、南の農耕社会に比べて相対的に高かった。
 隋の文帝は、「開西(かいせい)の菩薩(ぼさつ)天子」と尊称された。
 インド伝来の仏教を、異国の教えとして排除しようとする動きがあった。
二代目の煬帝は、604年7月、36歳で即位した。水路を利用して食料を首都等に運んだ。
 高句麗遠征のとき全軍30万のうち、損耗率8~9割という隋の大敗だった。
 煬帝期の政府は、さながら「移動宮廷」の様相を呈していた。煬帝は、その最後は、頭を押さえて、跪かされた。そして、自ら解いて渡した白い絹のスカーフで縊(くび)り殺された。50歳だった。
 唐の前の隋王朝について、少し知ることができました。
(2023年9月刊。1100円)

赤き心を

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 古川 智映子 、 出版 潮文庫
 幕末の京都で活躍した、おんな勤王志士として高名な松尾多勢子の生涯を紹介した小説(フィクション)です。
 それでも、作者が小説の中の大きな事件は、できるだけ史実に忠実に書くようにしたとしているだけあって、いかにもリアリティが感じられます。
 松尾多勢子が信州・下伊那(長野)から幕末・騒乱の京都にのぼったのは数え年52歳のときのこと。そして幕末の世を生きのび、明治27年に84歳の天寿を全うしています。
 10人の子を産み、うち子ども3人を死なせたものの、残る7人を育て上げ、家業もやり遂げたうえ、夫と家族の了解を得て、天誅(てんちゅう。暗殺)の相次ぐ騒乱状態の京都に入り、単独で隠密の行動を展開しました。
 没後には正五位の勲章が送られていますが、それは、孝明天皇暗殺という幕府方の密謀を探り出したこと、また岩倉具視(とのみ)の命を助けたことによります。
 多勢子は信州で歌詠(よ)みの一人でもあった。その技量を生かして、公家社会にも入り込み、勤王志士との間の連絡役をつとめ、「肝っ玉母さん」のような役割を果たした。
 京都から故郷の下伊那に帰ってからも、勤王派のために力を尽くした。つまり幕府の追及を逃れて都落ちしてきた志士たちを匿(かくま)い、その生活を支えた。
 明治に入ると、かつての同志の多くたちが明治政府の要職に就いた。品川弥二郎、そして岩倉具視など・・・。
 1990年に刊行されたものに加筆修正のうえ、文庫化したというものです。読ませました。
 50歳になった日本の女性のなかに、幕末のころ、こんなに元気に活躍していた人がいるのを知って、改めて敬意を表したいと思いました。
(2023年6月刊。1100円)

特捜検察の正体

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 弘中 惇一郎 、 出版 講談社現代新書
 無罪請負人として名高い著者が東京地検特捜部を厳しく鋭く批判している新書です。
 なにしろ著者は、特捜部が扱った有名な事件、村本厚子、小沢一郎、カルロス・ゴーン、ホリエモン、鈴木宗男、角川歴彦の弁護人となり、その多くで、無罪を勝ち取っています。すごいです。すごすぎます。
 序文で、東京オリンピックの贈収賄があれだけ騒がれたのに、竹田恒和JOC会長(当時)とか森喜朗元首相には強制捜査すら着手していないのはどういうことか、と厳しく指摘しています。まったく同感です。
 全国にいる検察官は2千人足らずで、東京地検特捜部には40人ほど。今回の自民党パーティー券裏金事件では全国から50人を応援委員として動員したそうですから、100人に近くの体制を組んでいるのでしょう。私は、秘書ではなく大物政治家こそ、ぜひ摘発・起訴してほしいと思います。安倍元首相の重しがとれた今こそ、自民党の暗部に遠慮せず鋭いメスを入れてほしいものです。ここまで書いたら、安倍派幹部(5人衆)は刑事立件しないとのニュース。残念です。おかしいでしょ。怒ります。
 特捜事件は、一般の刑事事件と異なり警察による捜査を経ておらず、事件の発掘から捜査・証拠集めなどをすべてやるところに特徴がある。
 特捜事件における供述調書は、基本的にすべてが検察官の作文。すでに出来上がっている供述調書にサインするよう求められるというのが珍しくない。そうなんですよね。
 取り調べのなかで「可能性の存在」をまず認めさせ、それが調書では「明確な記憶」のようになっている(すり替え)のに、無理矢理サインさせる。この対抗策は、検察に呼ばれた時点で弁護士に相談すること。その弁護士も検察・警察の推薦する弁護士とか、検察とたたかえないような弁護士では役に立たない。
 この本を読んで、驚いたのは、私には体験がありませんが、低額の保釈金で足りるとする意見書を検察が裁判所に提出することがあるということです。恩を売っておいて保釈されたあとも検察の手の平の上から被告人を逃がさない手法だそうです。低額というのは100万円です。裁判所では、お金の価値が下がっていて、ちょっとした傷害事件でも保釈保証金が100万円を下回るなんてことはまずありません。
 カルロス・ゴーンの保釈を申請したとき、裁判官が「なぜ、奥さんにまた会いたいのですか?何を話したいのですか?」と質問したそうです。信じられません。でも、この質問は今の日本の裁判官の多くのホンネそのものをあらわしていると思います。要するに、日本の裁判官は世界の常識とは別の世界に住んでいるのです。ただし、本人たちは、まったくそのことを自覚していませんが…。
 先進諸国のなかで、刑事事件の取り調べに弁護人の立ち会いが認められていないのは、日本くらい。お隣の韓国でも、とっくに弁護人立会が認められていて、それで何も問題は起きていないと聞いています。
 任意の取り調べに応じるとき、ボイスレコーダーでこっそり録音するというのは決して違法ではありません。うまく身体検査をくぐり抜けて、どんどん録音して、実態を暴露してほしいです。
 メディアとどう向きあうかは、刑事弁護にとって大きな課題。世論を味方につける努力はやはり必要で、そのためには、被告人の言い分をメディアに理解してもらい、正確に報道してもらう必要がある。
 しかし、これは口で言うのは簡単ですが、実際にはいろんなことの配慮が求められ、簡単なことではありません。弁護人の自宅まで「夜討ち朝駆け」なんかされたら大変です。
 検察は検察側証人には証人テストを繰り返し、検察がつくったシナリオの丸暗記し、それを法廷で再現させられます。このような検察側のシナリオ尋問に応じた証人が偽証罪で起訴されたことはありませんし、されることもありえません。それが日本の司法の現実です。
 この本のほとんどは私もまったく同感ですが、現在進行中の自民党パー券裏金問題では、東京地検特捜部が自民党中枢にまでぜひ強制捜査をして徹底的にウミを出し切ってほしいと心より願っています。安倍元首相の下でのモリ・カケ、サクラ事件についてのみじめな特捜部敗退の雪辱を果たしてほしいものです。
(2023年7月刊。税込み1100円)

憲法を変えて「戦争のボタン」を押しますか?

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 清水 雅彦 、 出版 高文研
 戦前、「日の丸」を国旗に、「君が代」を国家にするという法律はなかった。事実上、国旗、国歌としていただけ。
 元号制度は、中国のまねをして導入したもので、日本独自の制度ではない。また、一世一元制(1人の天皇に1つの元号)は明治になってからのもの。それまでは同じ天皇のもとで、何度も元号の変更があった。
 自民党の憲法改正草案には、「国防軍」を保持する目的として「国民の安全を確保するため」が入っている。「国」だけではなく、「国民の安全」を新たに入れているのは、在外邦人の保護のために国防軍が国外展開することを可能とするため。
 なーるほど、そうなんですね。日本人は海外にいくらでもいますから、その海外在住の日本人を保護するためなら、どんな外国であっても自衛隊を派遣することができるというわけです。これって、いかにも悪知恵が働いているってことですよね…。
 また、同じ改正草案には「国防軍に審判所を置く」としています。しかし、現行の日本国憲法は、「特別裁判所はこれを設置することができない」と明文で定めています(76条2項)。にもかかわらず、自民党は戦前の軍法会議に相当する軍事審判所を設置しようというのです。とんでもないことです。
 改正草案には「新しい権利」を盛り込んだと自民党は説明しています。しかし、それらの規定はすべて主体の規定ではなく、客体の責務を規定したにすぎません。したがって、行政の場でも裁判の場でも使える権利にはなっていない。そうなんですよね、これもゴマカシなんです。
 安倍首相が殺害されて1年半たちましたが、岸田首相は評判悪いなかでも、アメリカ軍の高価な兵器等(たとえばトマホーク)を次々に買いあさっています。まるで、日本はアメリカの属国のようです。そして、その総仕上げが、まさしく憲法改正です。
自民党の考えている憲法改正案がいかにひどいものか、この本を読んで、改めて再認識させられました。
(2018年4月刊。1200円+税)

脱ダム、ここに始まる

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 森 武徳 、 出版 くまもと地域自治体研究所
 筑後川の最上流に松原・下筌(しもうけ)ダムがあります。建設省(今の国交省)がダム建設を決定したのは1957(昭和32)年で、完成したのは1969(昭和44)年のこと。完成まで12年の歳月を要しました。この12年の歳月は、何事もなく過ぎたのではなく、全国からも注目される「蜂之巣城」攻防戦という13年に及ぶ歴史的大闘争があったのでした。
 ダムが完成した1969年というのは、私が東京で大学2年生のころですから、九州が地元といっても、遠く東京のほうから大変な闘争があっているようだなと、他人事(ひとごと)のように眺めていたのでした。
 ダム建設反対運動の中心人物は室原知幸。早稲田大学で政治学・法学を学び、戦前・戦後、町会議員や町公安委員をつとめるなど、名望家であり、知識人でした。
 1960年というと、東京では安保条約反対運動が盛り上がっていましたし、大牟田の三池炭鉱の炭鉱合理化をめぐって、総資本対総労働の闘いと言われるほど、三池争議が全国的な支援を受けて激しく展開されていました。私が小学6年生のころのことで、市内は全国から駆けつけた支援の労働者そして2万人と言われる警官隊でぎっしり埋まっていました。
 室原知幸は、ダム建設反対闘争の拠点として、1959年5月、監視小屋、集会所、炊事場、便所など常駐施設を構築し、これに「蜂之巣城」の看板を揚げたのです。
 当時の土地収用法14条では、「蜂之巣城」のような建築物は排除が許されませんでした。しかし、熊本県土地収用委員会は1964年3月、「蜂之巣城」の収容採決を下し、熊本県知事は同年6月23日から「蜂之巣城」の物件移転の代執行を強行したのです。
 代執行に抵抗する側は1300人以上の応援者とともに座り込みで対抗しましたが、職員等600人が警察官700人の支援を受けて、反対派をゴボウ抜きして排除し、建築物も撤去したのでした。
 中心人物の室原知幸は1970年6月に死去し、同年10月にダム闘争は終結しました。
 著者は、1960年当時、熊本の庄司進一郎弁護士の下で事務員であり、また司法試験の勉強中でもありました。
 土地収用法を適用しようとするとき、建物は「試掘の障害物」にあたらないので、同法14条によって撤去できないことを室原知幸に進言したのは著者だということです。これはまさしく卓見でした。これによってダム反対は闘争の拠点ができ、闘いを可視化することによって全国的に闘争の意義を訴えることが容易になったのです。
 ちなみに、「蜂之巣城」というのは、有名な黒沢明監督の映画「蜘蛛(くも)巣城」のパロディ(パクリ)であることは言うまでもありません。
 この本を読むと、現地での実力阻止闘争とあわせて法廷闘争もたくさん提起され、闘われていたことが分かります。また、民事だけでなく、公務執行妨害・威力業務妨害などで室原知幸ほかが起訴されるなど刑事処分とも闘っています。
 民事訴訟は80件、そのうち地元住民が提起したのは50件ほどだということです。
 これらの裁判闘争を担った弁護士(弁護団)については、福岡第一法律事務所と青木幸男弁護士が紹介されていますが、室原知幸は、この関係ではあまりに渋かったようです。
 熊本(地元)の坂本・庄司弁護士への着手金すら当初の仮処分事件で支払われたのみだったということも、著者はこの本で明らかにしています。
 長期・困難訴訟の壊合、弁護団費用をどうやって確保し捻出するかは、いつも大きな問題となりますが、このダム建設反対では、その点がきちんとクリアーできなかったようです。
 それはともかくとして、本書は「蜂之巣城」をめぐる下筌・松原ダム建設反対運動を振り返ることのできる大変意義のある本になっています。
 著者はその後、司法書士になり、熊本県司法書士会の会長、さらには日本司法書士会連合会の副会長をつとめ、旭日小綬章を受賞しています。また、熊本で活躍中の森徳和弁護士の尊父でもあります。そんなわけで、森弁護士より全文コピーを恵贈していただき、通読しました。ありがとうございます。
(2010年4月刊。絶版)

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