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2023年9月 の投稿

山本周五郎・ユーモア小説集

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 山本 周五郎 、 出版 本の泉社
 私が山本周五郎を読むようになったのは、司法試験に合格したあと、司法修習生として横浜で実務修習していたとき、仲間の修習生(石巻市の庄司捷彦氏)から勧められたからです。読みはじめて、たちまちトリコになって、たて続けに周五郎ワールドに浸りました。今でも、書庫には「ちいさこべ」「五弁の椿」「つゆのひぬま」など10冊ほどが並んでいます。なぜか「さぶ」が見あたりません。もちろん映画にもなった「赤ひげ診療譚(たん)」もあります。貧乏な病人はタダで診てやった医者の話です。
 次に、弁護士になってから藤沢周平を読みました。これもしっとり味わい深かいものがありました。山田洋二監督の映画や「たそがれ清兵衛」は良かったですよね。そして、葉室麟と続きます。
 山本周五郎の時代小説は、重厚感があり、人情の細やかなぎびんに触れて、その江戸情緒たっぷりのワールドについつい惹かれ、ひきずり込まれていきます。ところが、この本は、ユーモアをテーマとして集めたものです。ユーモアといっても、なかなか味わい深いものがあります。
 「堪忍(かんにん)袋」の話は、重苦しく始まります。乱暴者の主人公が、ともかく堪忍袋を胸中に沈め、あらゆる扱いにひたすら我慢する。ところが、ある日、水面にうつった顔は、まるで自分のものとは思えないものだった。自分が自分でなくなったのだ。それに気がついたとき、堪忍袋のひもが切れた音を聞いた。そして、それまで馬鹿にしていた男たち皆に対して、翌朝、出てくるように申し入れて歩いた。ところが、翌朝、その場所に誰も来なかった・・・。堪忍袋のひもが切れた音を聞いただなんて、よくぞ思いついたものです・・・。
 解説を読むと、これは戦前に書かれ、戦後に発表されたもの。戦前は厳しい言論統制があり、戦後もマッカーサー指令の下、自由な言論は保障されていなかった。そんな状況を踏まえて、この堪忍袋の話を読むと、どうなるか・・・。深読みできる話の展開なのです。
 「ひとごろし」は、臆病者という評判がすっかり定着している男(独身の下級武士)が、手だれの武芸者を上意討ちするのに名乗りをあげ、武芸者を追いかける。でも、尋常に勝負を挑んだら、それこそ返り討ちにあってしまうのは確実。そこで「臆病者」は考えた。武芸者の行く先々につきまとい、少し離れた、安全なところから武芸者に向かって「人殺し」と呼び続ける。すると、そのため武芸者は食事がとれず、宿をとるのも難しくなった。ついに疲労困憊した武芸者は根負けして、切腹すると言い出す。「臆病者」は、そのとき、何と答えたか・・・。
 弱いことは恥ずかしいことではない。知力を働かせれば、強敵を打ち負かすことはできる。恥ずかしいのは、それをせずに自分を大きく強く見せることばかりに腐心することだ。
 「核抑止論」とか「敵基地攻撃能力の保有必要」とかいうのが、この恥ずかしいことにぴったりあてはまります。そこにはユーモアのかけらもありません。残念です。
 お盆休みのお昼に、美味しいランチをいただきながら、読了して心豊かな気分でした。
(2023年3月刊。1300円+税)

大津絵

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 クリストフ・マルケ 、 出版 角川ソフィア文庫
 大津絵って、聞いたことがありませんでした。江戸時代の庶民に人気があった絵です。そのころ、浮世絵ほどの人気があったのに、今やすっかり忘れられてしまいました。でも、今でも滋賀県には大津絵を扱う店があるそうです。いかにも素朴な絵です。鬼まで可愛らしく描かれています。
 東海道最大の宿場であった大津、その西端の追分や大谷で旅人に対して大津絵は土産品として売られていた。
 大津絵は、神仏画、世俗画、戯画など、画題は120種以上。量産するため略画化され、型紙で彩色もされた。
 大津絵は土産品として、浮世絵と同じく手軽に買い求められ、庶民の日常生活に浸透していた。また、護符としても身近なものだった。
 大津絵は江戸時代の初期、寛永年間に始まった。大津絵の普及には、江戸時代に盛んだった伊勢参りも背景としてあげられている。
 大津絵に登場してくる鬼は悪い怪物ではなく、人間の善行に触発され、罪をあがなおうとしている。
 著者は、浮世絵ファンは世界中に多いが、同じ江戸時代の代表的な庶民絵画である大津絵について、ほとんど知られていないことを残念に思っています。カラー図版をみたら、なるほど、その思いがよく理解できます。
(2016年7月刊。1400円+税)

新興大国インドの行動原理

カテゴリー:アジア

(霧山昴)
著者 伊藤 融 、 出版 慶応義塾大学出版会
 インドという国は、私にとって理解しがたい、不思議な国です。
 ハマトマ・ガンジーは、今もインドで尊敬されていると思うのですが、かといってその非暴力主義をインドが今も実践しているかというと、とてもそんな感じではありません。中国ともパキスタンとも武力衝突し、スリランカにも軍隊を送ったりしています。
それでも、インドという国が急成長をとげていること自体は間違いありません。2018年のGDPは、2兆7千億ドルを超え、世界経済の3.2%を占めている。これは、イギリスやフランスと肩を並べるほどの経済力があることを意味している。
 インドへ渡航する人も急増していて、年間1056万人(2018年)だ。日本人もインドに出かけている。1980年に3万人だったのが、2018年には23万6千人と8倍近くになった。私は申し訳ありませんが、行く気はありません。
 インドに在住する日本人は、1980年に1千人に届かなかったのに2018年には1万人近く、という状況になっている。自動車のスズキは、昔からインドで大変人気があるそうですね。インドに進出した日系企業は1441社、5102拠点。
 インドは自主性の確保についての強いこだわりがある。自主独立にこだわる外交を推進している。これ自体はとてもいいことですよね。日本はいつだって、アメリカの顔色をうかがうばかりですから…。
 インディラ・ガンジーは、印ソ条約が抑止効果をもつことを期待すると言い切った。そのうえ、同盟ではなく、従来の非同盟政策と矛盾することはほとんどないと宣言した。これは、どうなんでしょうか…。
 インドは、ソ連依存をあらゆる面で深めた。
 インドのモディ首相などに、ネルーやガンジーが築き上げてきた、「非同盟」に対するノスタルジーは、いっさい感じられない。
 「ダルマ」は、通常「法」と訳されているが、正義にかなった生き方、善行、それぞれの分に応じた責任という広い意味をもつ。
 スリランカで内戦が始まったのは1983年のこと。支配集団は仏教徒のシンハラ人。ヒンドゥー教徒のタミル人が疎外感から反乱を起こした。スリランカの分離主義勢力が力をもち、それを支援すれば、インド連邦制国家の民主主義そのものの否定につながる。スリランカ内戦は、2009年にいちおう終結した。
 インドはバングラデシュとも抗争した。インドの人口は13億人。しかも若年層が多い。購買力のある中間層が台頭しつづけるインド市場は実に無限の市場可能性がある。
 中国はインドにとって、自らのグローバルな舞台への飛躍への大きな障害になっている。しかし、インドのさらなる発展のためには、中国との協調が欠かせない。この矛盾のなかにインドはある。
インドとロシアの緊密な関係がとくに目立つのは、兵器とエネルギー分野。インドにとって、防衛装備品についてロシアは最大の供給地先。
 日本は、インドに対して、非軍事的な手法で貢献できる余地が十分にある。でも、それを生かそうとしませんよね、日本政府は…。
 今のインド首相のモディは、チャイ売りの少年から身を起こした。
粘り腰の外交攻勢というのを日本はインドに学んだら良さそうです。いつまでもアメリカべったりでは救いようがありません。世界のなかの日本に存在感がない、このようにしか考えられません。自主独立の気概をもつ日本人がもっと増えてほしいものです。
(2020年9月刊。2400円+税)

アフガニスタン

カテゴリー:中近東

(霧山昴)
著者 レシャード・カレッド 、 出版 高文研
 日本在住の高名なアフガニスタン人医師による報告と熱い想い・願いが語られています。
 アフガニスタンと言えば、惜しくも理不尽に2019年12月4日、暗殺された中村哲医師の活躍を思い出します。中村哲医師亡きあともペシャワール会はアフガニスタンで活動を続けているようですが、常駐の日本人リーダーが不在というのは、もどかしい限りです。
 この本の著者も「カレーズの会」を主宰して、中村医師と同じようにアフガニスタンで医療等の支援活動を展開してきました。本年(2023年)2月、3年ぶりにアフガニスタン現地へ行き、視察と政府への要請行動をしました。
アフガニスタン政府は、もちろん今ではタリバン政権です。保健大臣は同じ医師として、著者の要請を快く応じたようです。
この本にもタリバンが政権を掌握する過程が紹介されていますが、いったいアメリカ軍の20年間の駐留には、どんな意味があったのでしょうか…。
 いま、アメリカのベトナム侵略戦争時の映像がFBの合い間に流されることがあり、私の大学生のころのことですから、ついのぞいてみます。世界一強大なアメリカ軍もベトナムで勝利できなかったのと同じく、アフガニスタンでもアメリカは勝利できずに、無責任にも一方的に撤退してしまいました。
今、アメリカには、アメリカ軍に協力したアフガニスタン人の通訳や兵士たちが故郷に戻れず(アフガニスタンでは裏切者、売国奴として直ちに処刑される恐れが十分あります)、アメリカ政府の援助を求めているというNHKの報道特集を見ました。
著者は中村哲医師が活動していたガンベリ地区にも足をのばしました。カカムラ記念庭園には、大きなモニュメントがあります。中村医師の穏やかな顔が大きく描かれたモニュメントです。その周囲は、緑豊かな農園になっています。緑と赤のキャベツ畑が広がっている写真がありますが、ここはかつては荒涼として砂漠地帯でした。
 ペシャワール会がつくったトレーニングセンターは中村医師が亡くなってからは使われていないそうです。もったいないですね。ここにも中村医師の存在の大きさを実感しました。
カレーズの会の診療所では、女子の診療部に女性職員が増えて、元気に活躍している様子が紹介されています。うれしいニュースです。
 タリバン政権は、女性が大学で勉強するのを禁止したというニュースが流れました。世の中の流れに逆行する、とんでもない動きです。いったい、タリバン政権の幹部には妻も娘もいないとでもいうのでしょうか…。
 アフガニスタンの識字率は男性62%、女性32%。初等教育の終了率は男子67%、女子40%。中学校レベルは男子49%、女子26%。高校レベルは男子32%、女子14%。
 これが国の発展を阻害することになるということをタリバン政権の幹部たちは自覚すべきですよね。とはいうものの、日本だって、依然として女性の賃金格差はひどいものがあります。出来るところから、声を上げ、ひとつひとつ改善していくしかありません。先日のデパートのストライキは久々のクリーンヒットでした。日本だって、もっとストライキをやって自己主張していいんだ、少しは他人に迷惑をかけてもいいんだという世の中に変わるべきなのです。
(2023年6月刊。2200円)

ゾルゲ伝

カテゴリー:ロシア

(霧山昴)
著者 オーウェン・マシューズ 、 出版 みすず書房
 戦前の日本の政府中枢にがっちり食い込んでいたソ連赤軍スパイ組織のリーダー、リヒアルト・ゾルゲについての本格的な伝記です。本文だけで460頁もあります。お盆休みに朝から夕方まで、一心不乱に読みふけりました。後半はかなり飛ばし読みして、なんとか読了ということにしたのです。
 この本の冒頭、グローザ(雷雨)作戦という、聞いたことのないコトバが登場します。1940年9月以降、スターリンはドイツ侵攻のための有事の計画を立てていたのだそうです。
 そのころ、スターリンのソ連はヒトラーのドイツに対して、その戦争準備のための膨大なトウモロコシ、石油、鉄鋼を供給していたのですが、同時にドイツ侵攻も計画していたというのです。知りませんでした。
 リヒアルト・ゾルゲが大変な苦労してソ連本国に情報を届けたのに、スターリンはこう言って、まったく耳を貸しませんでした。それはドイツがソ連に侵攻しようと準備をすすめているという重大な情報です。1941年5月20日のゾルゲの報告に対して…。
 「小さな工場と売春宿で情報を仕入れるクソ」
 自分だけが真実を知っていて、周りは自分を欺いていると信じ込んでいる指導者(スターリン)の非合理的でヒステリックな疑念からくるもの。そして、ソ連諜報機関の長(ゴリコフ)は、ソ連国境での軍備増強は、イギリスの欺情報だというスターリンの確信をさらに強めるばかりだったのです。ですから、ゾルゲの貴重な報告は無視されていました。要するに、スターリンはヒトラーから完全に騙されてしまったのです。
 フィリップ・ゴリコフ将軍が赤軍情報本部長に就任したとき、前任者5人は全員が銃殺刑に処せられていた。NKVD組織(KGBの前身)は、情報部員200人以上を逮捕し、部長を含む全指導部を交代させた。 スターリンの大粛正は、党を崩壊させ、情報部第4部の組織のほとんどを壊滅させた。ソ連邦元帥5人のうち3人、赤軍の将軍の90%、大佐の80%、それ以下のランクの将校3万人が逮捕された。 
 ところが、バルバロッサ作戦が発動され、たちまちソ連領内にヒトラー・ナチス軍が侵入してきて、ソビエト軍の前線は戦わずして総退却していきました。スターリンの犯した重大な間違いによって、緒戦でソ連は大量の戦死傷者と捕虜を出してしまいました。スターリンは、これで自分の首も危ないと一時は思ったようですが、すぐに開き直りました。
 そして、事態がさらに進行していくと、ゾルゲの報告はスターリンのソ連軍に重大な変化をもたらしたのです。
 ソ連へのナチス・ドイツ軍の侵攻によって大変な痛手を受けたあと、ゾルゲの報告に信憑性ありとなり、日本が北進策を完全に中止したことが伝わると、ソ連赤軍は極東軍区から大量の部隊が西部戦線に移動して、ドイツ軍と戦うようになった。
 スターリンはシベリアに置いていたソ連赤軍の半分以上をモスクワ防衛に振り向けた。つまり、ゾルゲの報告によって、極東にあったソ連赤軍をドイツ軍との戦いに投入することによってヒトラー・ナチス軍を敗退させることができたのです。
 ゾルゲは共産党員でありながら、それを秘してナチ党への入党を申請して認められた。そして、在日ドイツ大使館において大使だったオットーとゾルゲは親密な関係を築きあげた。ゾルゲの報告はソ連だけでなくドイツにも送られていて、高く評価されていたようです。ドイツのリッペントロップ外務大臣のゾルゲあての感謝の手紙が残っているとのこと。驚きました。
 オットー大使は、ゾルゲが逮捕されたあと面会に来たときもまだゾルゲをスパイだとは思っていなかった。
 ゾルゲが逮捕されたのは1941年10月のこと。日本にゾルゲが上海からやってきたのは1933年9月なので、8年あまりもスパイ活動をしていたことになります。二・二六事件や西安事件など、激動の時代を過ごしていたわけです。そして、ゾルゲが処刑されたのは、1944年11月6日、ソ連の十月革命記念日だった。
 ゾルゲは、日本がソ連に戦争を仕掛けるのかどうかトップレベルの情報を仕入れて、ソ連に報告していたのです。それは、日本は石油確保のためにも南方へ進出するしかないというものでした。そして、極東ソ連赤軍をナチス・ドイツとの西部戦線に移動させ、ヒトラー・ナチスを敗退させ、結局は戦争終結を早めることができたわけですので、ゾルゲも尾崎秀実も世界平和の実現に多大なる貢献をしたとみることができると私は思います。
 それにしても、8年間ものスパイ生活を送っていたときの精神状態は大変なものがあったと考えられます。アルコールに溺れ、スピード狂で何度も大事故を起こし、また、たくさんの女性遍歴をしているなど、ゾルゲの人間性の描写にも興味深いものがあります。
(2023年5月刊。5700円+税)

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