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2022年8月 の投稿

特捜部Q

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ユッシ・エーズラ・オールスン 、 出版 早川書房
 デンマークの警察小説。過去の未解決の事件を扱うという警察小説は、前にも読んだことがあります。迷宮入りしていた事件を、刑事部の「お荷物刑事」が助手の力を借りながら、少しずつ謎を解き明かして、ようやく犯人にたどり着くというストーリーです。
 ネタバレはしたくありませんが、ストーリー展開は復讐小説という体裁をとっています。
 どこの国の警察にも「ハグレ刑事」のような一匹狼的な刑事がいて、上司はもてあましたあげく、「一人部署」を創設までして、そこに閉じ込めようとしたのでした。
 ところが敵もさるもの、ひっかくものということで、デンマーク語もろくに話せないような、シリア系の変人が、謎解きで、奇抜なアイデアの持ち主だったという突拍子もないアイデアが生き生きと語られます。それで、また話がふくらみ、次回作品への期待が高らむのでした。
 警察小説は、あくまで殺人事件が重要なファクターであり、その登場人物の性格や部署の設置、脇役(人種的)配置、事件捜査、物語の構成、脇筋のからませ方などについて、細かい配慮を工夫、創造に解説者(池上冬樹)は感心していますが、まったく同感です。
 570頁もの文庫本の警察小説なので、いったい次はどういう展開になるのか、目が離せない思いで一気に読みすすめました。この「特捜部Q」は少なくとも5冊シリーズになっています。その想像力と描写力に驚嘆してしまいます。
(2018年9月刊。税込1210円)

新中国に貢献した日本人たち

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 中国中日関係史学会 、 出版 日本僑報社
ただいま、叔父(父の弟)が応召して満州に渡り、戦後も8年のあいだ八路軍(パーロ。
 中国共産党の軍隊)の要請にこたえて紡績工場の技術者として働いていたという手記の 裏付けをとろうとしています。その関係で大阪の石川元也弁護士の推薦で読み始めた本です。
 中国の周恩来首相は1954年に「多くの日本軍人が、日本終戦後武器を捨てたのち日本へ帰国することなく、中国人民解放軍に参加した。病院の医師と看護婦、工場の技師、学校の教官。・・・立派に働いて我々を助けてくれた。我々は深く感謝している。これが友情であり、これこそが真の友情である」との感謝の意を表明した。
 叔父は紡績工場の技師として、新工場の立ち上げに関わり、その運営が軌道に乗るように8年ものあいだ頑張ったわけです。そのころ叔父が日本の実家に送った手紙が残っていますが、千人の工場に日本人は叔父ただ一人だったそうです。いやぁ、よくぞがんばりました。 それでも、悪いことばかりではありません。同じように静岡から満州に夢をもってやってきた若き日本人女性と知り合い、結婚することになりました。同じ紡績工場で働いていたのです。
 この本を読むと、そんな日本人の青年男女が大変多かったことを知ることができます。
 私がもっとも驚いたのは、日本軍航空部隊の隊長だった人が中国空軍のパイロット養成の重責を担い、見事やり遂げていたという事実です。なにしろ、まともに飛べる飛行機もないなかで、残っていた部品を寄せ集めて、なんとか飛べる飛行機にして、それでパイロットを実地養成していたというのです。飛行中に故障が起きても脱出する落下傘もないのに空を飛んでいたというのですから、その勇気には呆れ、かつ圧倒されます。なんと、空では無事故だったというから、信じられません。
 医療分野でも、日本人は医師として、看護師として、大いに貢献したようです。負傷した中国人患者のためには、同じ血液型だと分かれば、すすんで献血もしていたというのです。本当に頭が下がります。
 北部の炭鉱でも大勢の日本人が労働者として働き、石炭増産の先頭に立っていたといいます。いやぁ、すごいですよね・・・。
 このような新生中国の誕生を助けた日本人の歩みはもっともっと広く今の私たちも知っていていいことだと思いました。三光作戦とか、帝国主義日本は中国大陸でさんざん悪業の限りをつくしたわけですが、もう一方では、こんなに良いことをした日本人もいたことを、両方とも、しっかり認識しておきたいものです。
(2006年10月刊。税込3080円)

社交する人間

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 山崎 正和 、 出版 中公文庫
社交とは、単なる暇つぶしや贅沢ではなく、人間が人間らしくあるために不可欠の営みである。
これって、なんとなく分かりますよね。なので、「山中にポツンと一軒家」みたいな、人里はなれて孤絶した生活は、とても人間らしいものとは私には思えません。そんな仙人生活で、いったい何が楽しみなのか、私の想像は及ばないということです。そんな生き方を選択した人に、ケチをつけるつもりはありません。
ただし、私は、自宅に他人を招いて、飲食をともにしようとしたことは絶えて久しくありませんし、これからもないでしょう。実は、幼い子どもたちが一緒に生活していたことは、そんなことは何でもなく、フツーにやっていました。というのも、子どもたちは、そんなに夜遅くまで起きていませんので、早々にみんな帰っていくからです。大人を招いたら、とてもそんなわけにはいきません。私は、さっさと切り上げて、好きな本でも一人静かに読んでいたいのです。
この本を、このコーナーでぜひ紹介したいと思ったのは、ポトラッチの本質なるものが解説されているからです。久しぶりにポトラッチというコトバにめぐりあいました。
ポトラッチとは、アメリカやカナダ、そしてメラネシアにある贈り物の文化のことです。
ポトラッチは、きわめて緊張に満ちた儀礼であって、その基盤は、対抗と競争である。富の戦い、贈答の競争、すなわち贈り物とそれに対するお返しの応酬。客に対して贈り物を惜しむ主人は侮りを受けるし、それに対抗して充分なお返しをしない客も名誉を失う。 誇り高い主人は、御返しを期待していないとの態度を示し、贈答の応酬に最終的な決着をつけようとして、一方的に自分の財産を捨ててみせてしまう。ええっ、信じられませんよね、これって…。
17世紀フランスのサロンは身分的に平等であった。それは、サロンの女主人と並んで、高級娼婦出身であることを隠さなかった女性がいたことでも明らかである。ええっ、本当なんでしょうか…。この本によると、そのサロンにはスウェーデンの女王までもが参加していたといいます。信じられません。
人間の感情は、理性に比べて疲れやすい能力であって、おりおりに新しい刺激によって賦活しなければ、麻痺してしまう性質を持っている。
人間が社交を求めるのは、単に楽しみのためではなく、ましてや孤独を恐れるからでもない。それは、社交が人間の意識を生み、自律的な個人を育てるのと同じ原理によって、個人化とまさに同じ過程のなかから発生していくからだ。
人間が文化的に生きるということは、一人の個人として生きるということ。
共感の能力によって、人は怒りや憎しみや、嫉妬や復讐の念などあらゆる悪しき感情をやわらげることができる。
人間(ひと)と社会の関係をじっくり考察した本でした。私には難しすぎるところが多々ありましたので、そこは読みとばしてしまいました。
(2021年11月刊。税込1100円)

ある愚直な人道主義者の生涯

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 森 正 、 出版 旬報社
戦前そして戦後まで活躍した民衆の弁護士、布施辰治の一生を紹介した本です。
「生きべくんば民衆とともに、死すべくんば民衆のために」
この言葉を同じ石巻の出身である庄司捷彦弁護士(26期)より教えてもらいました。
布施辰治は、戦前の法律家のなかでは、京都帝大の滝川幸辰教授(滝川事件の当事者です)と並んで、代表的なトルストイアンであった。トルストイは、人生の意義を根本的に問いかけるという意味で、19世紀末から日本の知識人層の精神に鋭くかつ深く切り込んでいった思想家である。
1911(明治44)年1月18日、大審院は大逆事件の判決で、幸徳秋水や大石誠之助ら24人に死刑判決を宣告した(翌日、半分の12人については無期懲役に減刑)。そして、幸徳ら12人に対しては死刑が執行された。これは典型的な冤罪(えんざい)事件でした。
布施辰治は、大逆事件の弁護人ではなかったが、弁護士専用席で特別傍聴を認められ、判決の日も傍聴している。
布施辰治は、被告人について、もともと市井のフツーの人間だと捉え、その尊厳性を重視した。
布施は、被疑者・被告人に対する精神的拷問を詳細に暴露し、鋭く分析した。長時間の取り調べ、うつつ責め、煙管打ち、鉛筆はさみ、手錠状態での首絞めなど…。このほか、漫然と不法拘留して、前途に疑心暗鬼を生んで煩悶を利用する。さらには容疑者の疑心暗鬼を慰めつつ、巧みにスパイを使うといったもの…。
布施は被疑者・被告人に対してこう告げた。
「きみが真の犯人であるか否かにかかわらず、私はきみの友である。力である」と。その精神の奥底にまで語りかけ、厳しくも熱い寄り添いを率直に示した。こんな弁護士は少なかった。今でも少ないでしょう…。
布施は、同情する程度では第三者で、人道主義は、真にその人になりきることであり、そうしてこそ真の弁護ができると考えていた。
いやあ、これは、なかなかできるものではありませんよね…。
布施辰治は、トルストイに「神頼み」した。それは、すべて「人道の戦士」たらん、すなわち「人道の弁護士」であろうとするためだった。
布施は関東大震災が起きた日(1923年9月1日)、事務所兼自宅を避難所とし、ピーク時には100人あまりが避難してきていた。
そして、布施は白い帽子をかぶり、サイドカーで警察署に乗りつけ、「死体を見せろ」と要求した。いやはや、これはとても並みの弁護士が出来るものではありませんね…。
金子文子が刑務所で自死したときには、仮埋葬された文子の遺体を掘り起こし、火葬して、遺骨を夫の朴烈の朝鮮の実家へ送った。
ここまでするとは、もはや何とも言いようがなく、ただただ頭が下がります。
布施辰治が懲戒裁判にかかったときには、200人の弁護士が弁護人届出を出し、第1回公判には65人の弁護士が出廷した。そして、大審院での裁判のときにも、90人の弁護士が弁護人として届出し、26人が法廷に出廷した。いやあ、これって、すごいことですよね…。
布施辰治は、1940年7月に出獄し、1945年8月15日まで、思想犯保護観察下におかれた。それでも、布施を有罪とした大審院判決のなかに、布施について「なが年、人道的戦士として弱者のために奮闘することを貫き、情熱を有する」という文章を書き込ませた。これは、まさしく画期的なことだと思います。
あくなき法廷闘争は、担当裁判官の良心を信じ、その良心に訴えかける闘いでもあった。しかし、それは、ほとんどの場合に裏切られ、自らが裁かれた裁判においても裏切られたのだが、それでも、大審院の裁判官の心のなかに少しばかりの良心を確認できた。いやあ、まったくそのとおりです。思わず襟を正しながら読みすすめました。
布施辰治弁護士を人道主義弁護士として評価すべきことがよく分かる本でした。
(2022年5月刊。税込1980円)

自衛隊海外派遣、隠された「戦地」の現実

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 布施 祐仁 、 出版 集英社新書
自衛隊を国連の平和維持活動(PKO)のために派遣する法律(PKO法)が制定されたのは1992年6月のこと。それから30年たった。これまで、海外15のミッションに自衛隊は派遣され、参加した自衛隊員は1万ン2500人(のべ人員)。今や、その一人は自民党の国会議員になっている。世論は、すっかり受け入れ、定着しているかのように見える。しかし、果たして、その実態を十分に知ったうえで、日本国民は受けいれているのだろうか…。
実際のところ、日本政府は日本国民から批判されるのを恐れ、PKO法にもとづく自衛隊員派遣の現場で起きたことをずっと隠してきた。
政府文書は黒塗りされたものしか公表されてこなかった。
南スーダンに派遣された自衛隊員が書いていた日報は「既に廃棄した」とあからさまな嘘を言っていたが、実は存在していて、あまりにも生々しい現実があったことが国民の目から隠されていたことが発覚した。
イラクのサマーワに自衛隊が派遣されたとき、実はひそかに10個の棺も基地内に運び込んでいた。自衛隊員の戦死者が10人近く出ることを当局は覚悟していたのだ。
自衛隊がサマーワにいた2年半のあいだに、周辺地域には、総額2億ドル超が投下された。要するに、日本政府は安全をお金で買っていたのです。
サマーワでは幸いにして、一人の戦死者も出しませんでした。ところが、なんと、日本に帰国してから、陸上自衛隊で22人、航空自衛隊で8人が自殺しているのです。それほどサマーワでの体験は過酷でした。このように、戦地に出かけて滞在するというのは強烈なストレスをもたらすものなんです。それを知らずして、戦争映画のDVDを自宅のテレビで見ているような感覚でとらえて議論してはいけないと思います。広く読まれるべき、貴重な新書です。
(2022年4月刊。税込1034円)

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