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2022年4月 の投稿

「男はつらいよ」50年をたどる

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 都築 政昭 、 出版 ポプラ社
この世は欲望に満ちた世界であり、人間はそんな世の中であくせく働き生きている。そうした殺伐とした風景の中で、「寅さん」の世界は一種のオアシスである。まったく同感です。
「寅さん」映画には、家庭の団らんがあり、明るい会話と笑いがある。現代日本では失われた風景かもしれない。観客は憧れに似た郷愁に浸り、人間性を取り戻す。
いやあ、ホントそうなんですよね。笑いながら、ホロっとしながら、胸に熱いものを感じて、心に安らぎが得られて、映画館を出るとき、ほんわり温かくて心地がいいのです。
東京の下宿と寮で生活しながら司法試験の受験勉強に打ち込んでいたとき、最大の息抜きが「寅さん」映画でした。本当に安らぎが得られ、帰ったら心を新たにして再び猛然と法律書と取り組むことができました。感謝・感謝です。
渥美清は映画第一作の台本を読んでゾーッとした。その中に生き生きと自分が息づいていたからだ。笑いというのは、どこか残酷なもの。渥美清は、あるとき、山田洋次監督にしみじみ語った。自分の欠点や弱点を笑いの材料にし、その愚かさを観客が笑う。
渥美清は、勉強が大嫌いで、ワンパク三羽烏(ガラス)のひとり。小学生のころ、クラスに知的発達の遅れた子がいたので、渥美清は、いつもビリから2番目だった。
渥美清の父は地方新聞の記者で、母は代用教員。父は陽気な男だったが、母親はバカに朗らかだった。
山田洋次の父は柳川出身で、九大工学部を出て満鉄で蒸気機関車の開発に従事していた。ハルピンではロシア風の木造の家に住み、ロシア人の運転手やボーイを雇った。料理人は中国人、家庭教師はフランス人。土・日に父と母は馬車に乗って舞踏会に出かける。馬丁はロシア人。
母は満州・旅順に生まれ、女学校を卒業するまで内地(日本)を知らない。戦時中も頑としてモンペをはかず、禁止されていたパーマを平気でかけていた。父兄参観日には明るい洒落た着物を着てきて、洋次少年を恥ずかしがらせた。母は楽天的で明るかった。
日本に引き揚げてきて、山田が東大に入った年に両親は離婚。性格の不一致。そのあと、母は英語教師になろうと大学に入った。いやあ、これってすごいですよね。40代半ばですからね…。
無心の顔で観客を元気づける寅さんは、地面から足を少し離した風の精なのだ。寅さんが大地に根を張り、土臭い匂いを放って、所帯染みては困るのだ…。
観客は寅さんを通じて日常の憂いを忘れ、一緒に夢を見て元気になりたい。
「男はつらいよ」は失恋の物語なので、悲しく終わるはずだが、山田監督は、パッと明るく弾んだ気持ちで終わらせる。失恋した寅さんが、どこかの縁日(えんにち)の場で真っ青な空のもと、啖呵売(たんかばい)に声を張りあげている様子に観客は救われるのです。
「寅さん」映画を製作する山田組のスタッフは、第1作から不動のメンバーだった。定年退職と死亡以外は変わっていない。いやあ、これってすごいことですよね…。
山田監督は、信頼する同じスタッフで通した。これを知ったアメリカの映画人は「夢のように美しい話だ」と羨望(せんぼう)した。観客の感情に訴えかけて楽しませ、感動させるような製品をつくっているのだから、その生産に従事する人たちの気持ちが製品に正確に反映する。つまり、撮影所で働く人間は、他人の気持ちがよく分かる優しい人たちでなくてはならないのだ。
うむむ、なーるほど、そうなんですよね…。楽しんでつくった作品は、自ら気品が生まれてくる。チーム全体が楽しい雰囲気に包まれていることは、いい作品、楽しい映画をつくるうえで絶対に必要なことだ。
心にしみる、いい映画評でした。また、映画館のリバイバル上映で楽しみたいです。
(2019年12月刊。税込1650円)

幕末の漂流者・庄蔵

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 岩岡 中正 、 出版 弦書房
幕末のころ、開国・通商を求めるアメリカ船モリソン号が幕府の「打払令」によって浦賀沖と薩摩で砲撃されて上陸を断念したというのは私も知っていました。天保8(1837)年のことです。
この本によると、このモリソン号には熊本・川尻出身の原田庄蔵が乗っていたのでした。庄蔵は26歳のとき大嵐で遭難してフィリピンに流れつき、そこから中国マカオに送られ、日本へ帰国しようとして砲撃されて断念したのでした。
このモリソン号には、尾張の音吉らをふくめて日本人が7人乗っていました。
日本に帰国できなかった庄蔵はマカオに戻り、あとでペリー提督の日本語公式通訳をつとめるアメリカ人宣教師S.W.ウィリアムズに日本語を教えた。さらに、聖書「マタイ伝」の初めての邦訳に協力している。
庄蔵が故郷の父宛に書いた手紙は、2年半後に家族に届いて、この本でも紹介されている。その後、庄蔵は香港に移住し、アメリカから来た女性と結婚し、洗濯屋・仕立屋として成功し、ゴールドラッシュにわくカリフォルニア州に苦力(クーリー)10人を連れていっている。
尾張の山本音吉の活躍については、『にっぽん音吉漂流記』(春名徹)がある。
庄蔵に知性教養と指導力があったことは間違いない。過酷な運命との出会いで、現実に身を処す合理主義的思考をもった人だと著者はみている。
宣教師ウィリアムズは庄蔵や音吉たちについて、次のように書いている。
「彼らは扱いにくい人たち。母国を深く愛していて、思いがけず国外追放者の立場になった事態をどうにも受け入れようとしない。でも、今では、この立場を最善にいかそうとしている。もはや日本に帰国する一切のチャンスがなくなってしまったという現状を理解し、自分たちなりに有用な人間になりたい一心でいる」
庄蔵自身は日本に帰国することができなかったが、写本の「マタイ伝」は誰かの手を経て、ついに日本に帰国した。
庄蔵は香港で仕立屋として成功し、3階建ての家を建て、アメリカ人の妻と男の子が1人いた。そして、日本人漂流者を日本に帰すことに尽力した。
庄蔵が聖書の翻訳に協力したということは、それだけの知的レベルにあったということ。
幕末の川尻には寺子屋が多くあったことも紹介されています。
幕末のころの日本人の知的レベルの高さを、証明する一つだと思いながら、漂流民の果たした役割の大きさに思い至りました。
著者は私と同じ団塊世代の学者であり、俳人です。早くロシアの侵略戦争とコロナ禍がおさまってほしいものですよね。
(2022年1月刊。税込1650円)

感染症と差別

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 徳田 靖之 、 出版 かもがわ出版
感染者を社会にとって危険ないし迷惑な存在であるとする捉え方を除去することなしに、感染症に対する差別はなくならない。
これが著者が本書で結論として述べていることです。この本を読むと、なるほどと実感します。感染者は被害者であり、社会をあげて守り支えるべき対象だ。隔離や排除の対象ではなく、治療の対象であり、感染者に対する最善の治療の提供こそが最善の感染拡大防止策である。言われてみれば、まことにもっともですよね。
ところが、これまで、国はいったい何をしてきたのかと、著者は厳しく問いかけます。
実のところ、国は率先して感染者を「病毒を伝播する危険な存在」と規定し、社会から排除する政策をとり続け、国民にそんな認識を植えつけてきた。
これまた、まったく異論ありません。国は、いつだって弱者の味方ではなく、強者、つまり財界や製薬業界の味方であり続けてきました。何か問題があると、形として少しばかり謝罪して、やり過ごし、結局、本質を変えることは全然しないのです。
著者は、本書の最後に、改めて読者に問いかけます。
社会にとって迷惑な存在であれば、差別したり、排除しても構わないのか…。この問いは、優先思想の問題につながる。なるほど、そういうことなんですよね…。
380頁もの大著ですが、内容の重さに比べて、文章自体は私もよく知る著者の温かい人柄を反映していて、とても読みやすく、すいすい読みすすめることができました。
著者の父親が応召して陸軍の兵卒となり、シンガポール戦線に駆り出され、結核のため帰国したあと戦病死したこと、著者自身も結核にかかって死線をさまよい、今も肺に結核の傷痕が残っていることなど、初めて知りました。ちなみに、著者の娘さんは弁護士になって、当会にも所属していました。
菊池事件とは、熊本の山村で起きた殺人事件。被告人は全面否認したが、1953年8月29日に死刑判決が出て、確定した。そして3度目の再審請求が棄却された翌日、死刑は執行された。
被告人は、ハンセン病患者であるF氏で、菊池恵楓園内の仮設法廷で審理された。
この裁判で、裁判官たちは、証拠物を扱うとき、手にゴム手袋をはめ、あるいはハシを扱った。このような法廷のあり方に、最高裁判所は、次のような謝罪文を書いた。
「違法な扱いをしたことを反省する。誤った、開廷場所の指定についての誤った差別的な姿勢は、基本的人権と裁判のあり方について、国民の基本的人権と裁判というものの在り方をゆるがす性格のものだった」
最高裁は書面で、この菊池事件の審理について、このように謝罪した。しかし、著者は、この謝罪では不十分だと厳しく指摘しています。なぜ、自浄能力の欠如が生じたのか、その原因の解明がなされていない。また、これから、被害回復のため、どのような対策を講じる必要があるのかの検討もまったくなされていない。なるほど、そうですよね。これから、謝罪をどうやって生かすのか、ということこそが求められているのです。
著者は、エイズ患者宿泊拒否事件が起きてから、「一般市民」による誹謗中傷文書、すなわち「豚のクソ以下の人間ども」、「お前たちのようなぶざまな奴らは人間ではない」などという文書について、どうして自分と同じ人間に対して、こんな決めつけをしたうえ、そんな罵詈雑言としかいいようのない誹謗中傷文書を、その当事者に対して送りつける行動をする人間が少なからず存在することに衝撃を受け、その社会的な原因について考察をめぐらしています。本当に、いったいどういうことなんでしょうか…。
人間は、状況次第では、すさまじいほどの兇徒と化しうる存在だ。虐殺するときの民衆は、決して「善意」ではない。増悪とか侮蔑といった感情が虐殺を導き出している。そして、そんな蛮行は、精力によって慫慂(しょうよう)されたり、支持されたとき、際限なく拡大する。これらの集団は、より弱い者を迫害することで、その危機感や不安からの解消・回避を図ろうとする。いやあ、そういうことなんですよね。下々の庶民もまた常に正しいわけではなく、間違った行動に走る危険な存在にもなりうるのです。
自らの個人的体験、そして、いくつもの裁判闘争をふまえ、さらにはとても幅広い視点で、感染症と差別を多面的に考えようとする、貴重な労作です。大変勉強になりました。少し高価ですので、ぜひ全国の高校や大学の図書館に一冊備えられ、大勢の人の目にとまることを心から願います。
大分の弁護士である著者は、大学生のころ、私と同じようにセツルメント活動をしていたと聞いています。私の心から尊敬する先輩弁護士です。
(2022年3月刊。税込4180円)

中国共産党、その百年

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 石川 禎浩 、 出版 筑摩書房
2021年に結党100年を迎えた中国共産党は、今9200万人の党員を擁する超巨大政権党である。結党からわずか30年足らずで中国(中華人民共和国)を建国し、70年以上にわたって中国を統治してきて現在に至っている。
中国共産党については、先日もこのコーナーで紹介しましたが、本書も一般向けの通史とは思えないほど良質であり、また大変読みやすいものです。
1945年8月の時点で、中国戦線は膠着(こうちゃく)状態にあり、日本軍が敗北するとは思えなかった。毛沢東も、この8月上旬の時点で、日本の降伏まであと1年ほどかかるだろうと見ていた。つまり、8月15日の日本降伏の知らせは突然やってきたのだった。そして、毛沢東は国民党軍との内戦を決意して、指令を出していた。ところが、スターリンがそれに待ったをかけた。
スターリンは、ソ連の在東北権益を保証してくれる蒋介石の国民党を選択した。その代わり、中国共産党に対しては、東北部への転進を認め、旧日本軍の武器弾薬を共産党側に引き渡した。このことによって、共産党は東北に広大な地域政権を樹立することができた。これによって、ようやくスターリンのソ連は中国共産党を認めることになった。
人民共和国建国当時の共産党員は450万人。内戦開始期から4倍に急増していた。そして、党員の4分の1は25歳以下という若い世代だった。ちなみに、当時の平均寿命は35歳でしかなかった。戦火のすさまじさですよね、きっと…。
指導者のほうも若い。毛沢東55歳、劉少奇50歳、周恩来51歳、鄧小平45歳だった。
中国(人民共和国)の建国のとき、共産党は旧来の六法全書を廃止し、体系ある法典をもっていなかった。刑事法の分野であるのは「反革命処罰条例」と「汚職処罰条例」の二つのみ。
中国建国(1949年)からまもなく、12月に毛沢東(56歳)は列車でモスクワに向かった。北京に戻ったのは翌年(1950)3月。新しい国家が誕生し、まだ国民党軍との内戦も続いているなかで、国家の最高指導者である毛沢東が3ヶ月も中国を離れたというのは、異例のこと。まったく同感です。
中国は国家運営について、経験豊富なソ連の専門家の派遣を要請しています。
ところが、帰国して3ヶ月後の1950年6月に朝鮮戦争が勃発した。毛沢東の知らないところでスターリンがGoサインを金日成に送って始まった。周恩来らは、このとき参戦に反対したようです。
毛沢東は朝鮮戦争に、中国軍が義勇兵として参戦し、それなりの成果をあげたとして権威をより一層高めた。
毛沢東は、自ら暴君になったというより、暴君となることを支持された。
鄧小平は胡耀邦と趙紫陽の二人を天まで高く持ち上げていたが、あとになって、この二人を権力の舞台から引きずりおろした。
今や、2010年には、中国のGDPは日本を抜いて、「世界2位」になっている。
大変興味深い分析がオンパレードとなっている本です。ご一読ください。
(2022年2月刊。税込1980円)
 日曜日の午後、チューリップが終わりましたので、最後に咲いている1本のみ残して、全部堀りあげました。今はフェンスに色とりどりのクレマチスが咲き誇っています。赤紫色、白色、赤い筋の入った花、いろいろです。
 チューリップを掘りあげたあとには、いつもヒマワリを植えています。今度、昨年のヒマワリのタネをとっていますので、まくつもりです。
 ジャガイモの地上部分が元気よく茂っています。問題は地中なんですが…。
 庭に出ると、もう風薫る季節になったことを実感させてくれます。

リーダーたちの日清戦争

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 佐々木 雄一 、 出版 吉川弘文館
日清戦争について、大変勉強になりました。
その一は、日清戦争で敗北したことから、中国(清)は欧米の列強からたちまち狙われてしまったことです。
その二は、日本の支配層は一枚岩でなく、計画的・意図的に日清戦争を始めたわけではないということです。明治天皇は中国(清)を相手に戦争を始めてしまったことに恐れおののいていました。さらに、明治天皇は陸奥宗光を信用できない男だとして嫌っていたというのです。
その三は、日清戦争では、そのあとの日露戦争とちがって、戦死者よりも戦病死者が圧倒的に多かったということ、日本軍の戦死傷者は千数百人だったのに、戦病死者は1万人をこえた。日露戦争では、総率された近代軍同士の全面衝突があったので大量の戦死傷者が出たが、日清戦争では、それがなかった。日清戦争のときには兵站(へいたん)や衛生への配慮が十分ではなかった。
その一に戻ります。日清戦争を通じて、それまで東洋の大国と考えられていた清の評価は大きく下落し、ヨーロッパ列強は清への進出意欲を高めた。清は東アジアにおいて圧倒的な存在感のある大国だったが、日清戦争の敗北によって、つまりアヘン戦争でもなく、アロー戦争でもなく、地位を大きく低下させた。
その二。かつての学説の通説は、朝鮮進出を早くから日本は目ざしていたので、明治政府と軍は、計画的・必然的に日清戦争を起こしたというものだった。しかし、今や、日清戦争は、日本政府内で長期にわたって計画・決意されたものではないというのが通説的地位を占めている。たとえば、伊藤博文や井上馨は、清との紛争や対立はなるべき避けようとしていた。伊藤博文は、対清協調と朝鮮独立扶持を一貫して主張していた。また、明治天皇は大国の清と戦って勝てるのか不安であり、できることなら戦争を避けたいと考えていた。開戦に前のめりになっている陸奥宗光外相を信用せず疑惑の目を向けていた。天皇は開戦したあと、「今回の戦争は、朕(ちん)、もとより不本意なり」と言っていた。
日清戦争のとき、清は一元的に強力な国家の軍隊を有してはいなかった。人数や外形はともかく、指揮・訓練などの点で問題をかかえていて、本格的な対外戦争を遂行するのに、十分な内実を備えていなかった。すなわち、清軍は、十分に訓練され明確に統率された軍隊ではなかった。
日清戦争とは何だったのか、改めて考え直させてくれる本です。
(2022年2月刊。税込1980円)

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