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2022年3月 の投稿

半夏生

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 佐田 暢子 、 出版 本の泉社
古希の誕生日は遅滞なくやって来た。
この本の書き出しの文章です。本当にそうなんです。まだ10年早いよ、出直しておいでと言いたいのに、カレンダーをめくるまでもなく私も古希を迎えました。
尻をつつかれて、しぶしぶ階段を上ったような気分だと著者は書いています。これは私にはちょっとピンときませんでした。階段を上ったというより、なんだか知らない世界が近づいてきているという感じです。なので、今のうちに、身の回りの世界をもっと見つめ直しておきたいという気になります。
65歳を過ぎると、思ってもみないことが起こるんだと生命保険の外交員が保険を勧誘するときに言った。それからは、なんでこうなるの、ということばかり。著者は、まったくそのとおりだと肯定しています。私も同じです。突然、駅のホームをフツーに歩けなくなるなんて、若いころには予想したこともありませんでした。
著者の夫はスライムのような人だと書かれています。えっ、何、このスライムって何のこと…。夫は、本質は変わらず、器に合わせ形を変えることができる。年をとって疲れやすくはなったものの、愚痴をこぼすこともなく、うたた寝などして適当に調節している。何より気持ちの切り替えがうまい。見ず知らずの妻の郷里に来ても、情緒の水位も生活の質も変えずにいられるのは、何か強いものをもっているからだろう。
私も疲れたら早目に布団に入って、ぐっすり眠ることにしています。そして、じたばたすることなく、毎日の生活パターンを変えず、下手にテレビなんかを見て心がかき乱されないようにしています。ささくれだった気分のままでは安眠もできませんし、疲れを翌日に持ち込します。
小学1年生の授業をリモートでやっている小学校があると聞いて、腰を抜かしてしまいました。1年生が画面を見て本当に分かるのでしょうか。親の付き添いが必要で、親が付き添えない子は、何人か集めて、まとまって授業を受けさせるというのです。いやはや、これでは子どもは本当に可哀想です。学校は友だちがいて学校なんです。先生との一対一の画面上のつながりは、テレビのお笑い番組と同じで、あとに頭の中に残るものがあるはずがありません。ゲームを買って遊んでいるうちにはネットは便利だけれど、それより明らかに時機早尚という声も強かった…。人間的触れあいの場をいかに保障するか、それを考えるのが、国であり政府の責任でしょう。
インターネットがますます社会の隅々にまで普及し、デジタルの変革が生活の隅々にまで急速に広がっている。そうすると、インターネットが十分に使えない人間は、社会と関わる手だてがますます少なくなっていく。これは、単に技術を習得すれば解決する問題ではなく、人間が機械に管理される社会を開拓しているように思えてならない。本当にそのとおりですね。
半夏生というのは珍しい草。白い小花が密生していて、そのすぐ舌の葉だけが緑と白の二色に分かれている。対照的な色合いが、互いを際だたせる。匂いはどくだみに似ている。
半夏生って、何と読んだらいいのでしょうか…。はんげしょう、ですよね、きっと。
東京で公立学校の小学校の教員をしていた著者が郷里に戻ってきてからの日々が見事に切り取られた短編小説が並んでいる本です。
(2022年1月刊。税込2400円)

さばの缶づめ、宇宙へ行く

カテゴリー:宇宙

(霧山昴)
著者 小坂 康之、林 公代 、 出版 イースト・プレス
福井の高校生がつくったさばの缶詰が宇宙食として採用され、日本人飛行士が愛好しているという、うれしい話です。テレビでもやったようですが、私は知りませんでした。
2020年11月27日、野口聡一郎宇宙飛行士がISS(国際宇宙ステーション)で、「さば缶」をおいしい、おいしいと言いながら食べました。「福井県の若狭(わかさ)高校の皆さんがつくってくれた『さば缶』です」と紹介したのです。
この「さば缶」は、缶を開けても、プシュッと汁が出てきて困るということはありません。
「大変美味しいです。美味しーい!!」
「お魚はジューシーで、しょうゆの味がしっかりしみてます」
いやあ、感激しますよね。高校生が作った「さば缶」が宇宙ステーションで美味しい、美味しいと言って宇宙飛行士から映像で紹介されるなんて、超すごいことです。
「さば缶」を宇宙食にという願いで、14年かけ、のべ300人もの高校生が関わったプロジェクトでした。本当に高校生がつくったの…、という疑問をもつ人がいるかもしれませんが、ちゃんと宇宙食の安全基準を満たした製品なんです。もちろん、しっかりした教師の指導の下ではありますが…。
無重力状態の宇宙船内で汁が飛び散らないよう、「さば缶」の汁をどのくらいの粘度にするか、とろみをどうやってつけるのか、工夫した。結局、くず粉を使って味もしみて、とろみが出ることを突きとめた。
「鯖(さば)街道をISSへ!」
これが高校生チームの合言葉だった。
当初は、小浜水産高校、そして今は若狭高校に吸収され、その海洋学科の高校生たちが担っている。小浜水産高校でつくっていた「さば缶」は、「蒸煮」をする手間をかけるので、生臭さがなくなり、汁も濁りがなく、澄んでいる。地元民に大好評で、いつもたちまち売り切れになっていた。
NASAが有人月面着陸をめざすアポロ計画のために衛星管理手法として「HACCP」をあみ出した。今では、日本でも2021年6月から、すべての食品事業者にこのHACCPによる衛生管理が義務づけられている。これは工程管理を徹底し、記録を残すことに尽きる。
1億円かかるといわれた費用を、30分の1の300万円で小浜水産高校は実現した。そして次は宇宙食への挑戦。
宇宙では味覚が鈍くなるから、味は濃いめにする必要がある。
ISSには冷蔵庫がないので、賞味期限は常温で1年以上が必要。
若狭高校海洋学科に入ると、1年生のときにHACCP基本技術検定の資格試験に挑む。そして、3年生になったら宇宙食「さば缶」をレシピどおりに缶づめを製造する。
読んでいるうちにワクワクしてくる楽しい本でした。高校生の皆さん、ぜひひき続き、いろんな味の宇宙食「さば缶」を開発してくださいね。
(2022年1月刊。税込1650円)

太平洋法律事務所30年の歩み

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 太平洋法律事務所 、 出版 太平洋法律事務所
1990年に設立された太平洋法律事務所は消費者問題で日本最先端を走ってきたし、今も走っているとして高く評価されています。この記念誌のなかで、30年間の取り組みを50頁にわたる座談会で詳しく明らかにしていて、大変勉強になりました。
その座談会を紹介する前に、太平洋法律事務所には、伝統芸能部なるものがあり、文楽公演を楽しんでいるというのです。これには驚かされました。「仮名手本忠臣蔵」は私も知っていますが、「傾城(けいせい)反魂香」土佐将監閑居の段の意義をめぐって激論がたたかわされたらしいのには、思わずほっこりしてしまいました。
太平洋法律事務所で2年ほどイソ弁した笹谷弁護士は、朝から夜中まで事務所で仕事をしていたので、自宅の電気代が、なんと毎月1000円以下だったというのです。ホンマかいな、こりゃブラック事務所じゃなかろうか、ついそう思ってしまいました。
さて、本題の座談会です。太平洋法律事務所創立の前年に「消費者法ニュース」がスタートしています。三木俊博弁護士は、訪問販売法の改正問題そして商品先物取引被害に取組んだ。私も九州一円の先物取引被害に取り組みました。さらに、豊田商事国賠請求事件の弁護団事務局長を三木弁護士はつとめました。
PL法の関係でアメリカに視察に行き、悪名高い猫の電子レンジ事件が、実はPL法の事件ではなく、動物愛護法違反の事件で、被告人側から、そんな抗弁が出たにすぎないことが分かったということが紹介されています。なーんだ、そうだったのか…、と思いました。通産省は、PL法を制定してほしくないために、嘘と誇張の調査報告書までつくって逃げ切ろうとしていたのでした。ところが、日本の製品を海外に輸出するとき、PL法がないと日本に信用がないとメーカーが考えて、通産省も次第に押されて考えを改めたとのこと。
茶のしずく石鹸事件では、解決まで8年8ヶ月もかかった。福岡と大阪では原告勝訴となったが、東京と京都の裁判所では科学論争にひきずりこまれて裁判所が惑わされてしまった。そのとき元裁判官で政府の担当者だった升田純弁護士が裁判所を惑わす議論を仕掛けた…。升田弁護士は当会の研修会の講師をずっとつとめていますよね。
信楽高原鉄道事故(1991年5月14日。43人死亡、600人の負傷者)についてJR西日本との裁判では、裁判を通じて、原告弁護団は、ついに政府に事故調査委員会をつくらせた。いやあ、これはすごい成果ですよね。
たとえば欠陥住宅を扱う弁護士がネットワークをつくり、お互いに切磋琢磨して実務のレベルを上げ、良い判決をとって法令等の改正にもつなげていく。三木弁護士は、先物取引被害・証券取引被害の分野で、その中心となってやってきたのが自分の誇りだと述懐していますが、まさしくそのとおりです。
国府泰道弁護士は国会で何度も参考人として発言し、質疑に応答したようです。それが、いろんな立法につながっていったのですから、本当にたいしたものです。たとえば、訪問販売法の改正、PL法の制定、公益通報者保護法…。いやはや、大変な成果をあげた法律事務所ですね。
三木弁護士を中心として紹介してしまいましたが、私は三木弁護士とは大学以来のつきあいで、三木弁護士が最高裁判事になってくれたらいいなと思っていました。
「消費者事件の太平洋法律事務所」という看板にまったく偽りがないことを明々白々にしている貴重な冊子です。
(2021年12月刊。非売品)

アウシュヴィッツ生還者からあなたへ

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 リリアナ・セグレ 、 出版 岩波ブックレット
13歳のとき、ユダヤ人少女としてアウシュヴィッツ強制収容所に送られ、そこで父と死別し、死の行進もなんとか生きのびたというあまりにも苛酷な体験を90歳になって最後に語った内容が小冊子になっています。わずか50頁ほどのブックレットですが、これまで私が読んできた多くのアウシュヴィッツ強制収容所の実情を紹介する本にまさるとも劣らない強烈な内容です。
著者は映画『ライフ・イズ・ビューティフル』を批判しています。強制収容所に夢なんてないし、家族のドラマもない。小さな子どもは働けないから、収容所に着いたら、すぐ殺された。子どもが母親と再会するのもありえないし、おとぎ話にすぎない。あり得たことは、ただひとつ、「死」だけ。まあ、そうなんでしょうね。でも、映画としては、やっぱり救いがほしいわけです。
収容所では眠った。眠りにつきたかった。外の音なんて聞きたくなかった。何も感じたくなかったし、何も知りたくなかった。日に日に心を閉ざし、自らの感情を殺した。焼かれる死体の山など見たくなかった。理由もなく罰を受け、ガス室に送られる人たちの姿など見たくなかった。知りたくもなかった。こんなところにいたくなかった。自らの中に閉じこもり、考えるのをやめた。
女性は誰も生理がなくなり、下着もはいていなかった。女性としての尊厳を奪われ、人間性を否定された。そんな状況では、自ら感覚をまひさせ、考えることをやめ、生きのびることだけを欲するしかなかった。
私たちはみな、友だちを失うことを恐れていた。友情を求めることをやめた。その友だちをいずれ失うことが怖かった。だから、ひとりでいることを選んだ。ただ怖かった。すべてを失ったあと、また何かを失うのが怖かった。
収容所の中で、助け合いや友情というものは、残念ながら、なかった。あんな状況で友情を築くなんて、とても難しいこと。
誰もが死の恐怖をかかえていた。「はい」と言っても、「いいえ」と答えても殺された。冷酷な支配者が望むような、もはや「人」とは呼べない、卑劣なエゴイストに変わっていった。
収容所で自ら死を選んだ人はごくわずかだった。誰もが生きようとした。生きること、ここを出て生きのびることを選んだ。
外の世界のことを思い浮かべた。遊びに夢中になってはしゃぐ子どもの声、子猫のこと、緑の野原と白い雲、そして美しい何かを思いうかべた。
収容所という恐ろしい場所には、人を自己中心的にさせ、人間性をうしなわせるよう仕向けるものだった。その瞬間だけを考えて生きていた。
「死の行進」で、誰も手を貸す人はいないし、誰かにすがろうともしなかった。途中で死んだ馬を見つけると、爪を立て、歯を使い、そこらに落ちていたものを手にして、死んだ馬の肉を生のまま食べた。食べられそうな部分を見つけ、少しずつ飲み込み、なんとか胃の中にのみ下した。そのとき、人間性は死んでいた。そうしてでも生きのびたかった。
「死の行進」のとき、道のわきに茂る木に手をのばし、葉をむしりとって口に入れた。栄養失調のため歯ぐきがうんで歯はぐらぐらしていた。葉っぱをかむのも大変なので、葉っぱの成分をすするようにして飲みこんだ。
ドイツの敗戦が明らかになり、収容所の所長が制服を脱いで下着ひとつになって拳銃を投げ捨てた。拾って所長を殺すこともできる瞬間だったが、彼女はしなかった。愛しか知らずに生きてきた彼女は、自分が人に対してひどい振る舞いをする人間ではないことを思い出し、所長を殺すことはしなかった。これが生まれ変わる瞬間だった。
そして、15歳のとき解放され、18歳で夫となるべき彼と知りあい、20歳で結婚し、90歳までの30年間、自らの体験を語った。無関心と無知を今の若い人々に克服してほしいと訴えていますが、これにはまったく同感です。
いやあ、すばらしいスピーチです。2020年10月9日の彼女のスピーチはイタリアのコンテ首相、外務・文部各大臣、上院議長なども会場にいて耳を傾けていて、イタリア国営放送は生中継したというのです。これまたすばらしいことです。日本のNHKに、こんなことができるでしょうか…。ぜひ、やってほしいものです。ぜひ、あなたも手にとってご一読ください。わずか63頁、ワンコインほどで買える冊子ですから…。
(2022年11月刊。税込572円)

戦略爆撃の思想

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 前田 哲男 、 出版 朝日新聞社
日本の敗戦後、アメリカ軍は日本全土に対して焼土作戦を敢行しました。軍需工場を狙うのではなく、都市を狙い、大人も子どもも、女性も老人も戦闘員がどうか関係なく無差別に爆撃の対象としたのです。これって戦争に関する国際法に違反していると思います。ところが勝者のアメリカ軍の蛮行は何ら問題とされませんでした。原爆投下と同じです。
しかしながら、都市を狙って無差別爆弾を世界で最初に始めたのは、なんと日本軍でした。中国の重慶を狙ったのです。もちろん、その目的は都市住民の戦意を喪失させることでした。しかし、結果は逆でした。重慶の市民は戦意喪失どころか、ますます抗日意欲に燃えて立ち上がったのでした。
そして、アメリカ軍から派遣されて日本軍による爆撃を観察していたカーチス・ルメイは、あとで、日本の本土空襲の先頭に立ったのです。なんという歴史の皮肉でしょうか。
1939年5月。日本軍の重慶爆撃は、「戦政略爆撃」なる名称を公式に掲げて実施された。それは、組織的・継続的な軍事作戦だった。ドイツ空軍のゲルニカ(スペイン)攻撃より1年あとだったが、1日限りではなく、3年間、218次の攻撃回数を記録した。
空襲による直接の死者だけで中国側集計によると1万2千人近い。
重慶は、世界どこの首都より早く、また長く、かつ最も回数多く戦略爆撃の標的となった都市である。重慶爆撃は、東京空襲に先立つ無差別都市爆発の先例だった。
重慶爆撃では、加害者の人影は地上にはなかった。一方的な機械化された殺戮の世界だった。1万人以上の人々が、侵略者がどんな顔つきをしているのか、知る機会もなく死んでいった。日本軍は、重慶において、「工業期戦争の虐殺」と形容すべき、機械化された殺戮の戦術に先鞭をつけた。やがて、その悪夢の世界は、東京、大阪、名古屋をはじめ、日本全土主要都市の住民に追体験されることになる。
空からの殺戮につきまとう「目撃の不在」と「感触の消滅」という要素は、同時に、行為者の回心の機会をも閉ざしてしまう作用をもつ。
日本軍は、南京占領のあと武漢を攻略したが、これ以上の地上進攻はありえないという点で、政府も軍中央も現地の派遣軍も、三者の認識は一致していた。
敵の継戦意思を挫折させるという空からの爆撃作戦はヨーロッパ渡りではなく、日本独自のものだった。日本軍は協力を誓わない中国人をすべて潜在的な敵とみなした。
重慶の爆撃目標地点は、市内中心部の中央公園と定められた。
都市に対する爆撃でもっと威力を発揮するのが焼夷爆弾であることは既に証明ずみであったから、3000発の製造命令を出していた。
蒋介石の航空顧問として重慶に滞在していたアメリカ人のシエンノートは、日本軍による重慶爆撃を観察した体験をふまえて、アメリカ政府に対して、対日戦用として焼夷弾の開発をすすめるよう提言した。
日本軍は、5月3日に45機、5月4日に27機、計72機(1機7人、のべ504人)で、わずか2日間のうちに重慶市民5千人を上回る大殺戮を遂行した。
このとき重慶にいた、アメリカ人のエドカー・スノーは、重慶市民が精神的な破壊から免れていて大衆の抗戦意欲はますます強化されていることを理解した。むしろ、病労し、崩壊したのは、侵略者(日本軍)のほうだった。
ところが、日本軍首脳は、重慶の上空を制圧していれば、中国は屈服すると信じきっていた。1939年に海軍が失った機数は26機にのぼった。年間生産機数が38機だったかたら、損害許容率をはるかに超えてきた。
日本軍は1940年に「百一号作戦」を遂行した。井上成美少将が計画立案したもので、112日間、32回の無差別爆撃を遂行した。ところが、爆撃に必要な石油は、その大半がアメリカからの輸入に頼っていた。
ゼロ戦(零戦)が8月19日に護衛任務で同行した。ゼロ戦の航続力は3500キロで、重慶まで往復で960キロだった。9月13日、ゼロ戦と中国機が交戦したが、中国機27機が文字どおり「殲滅」されてしまった。1941年に日本軍は「102号作戦」を発動した。
1988年に発行された古い本ですが、歴史書でもあるので、記述されている内容な古臭くなってはいません。「敵基地攻撃論」に惑わされている人も少なくないようですが、戦略爆撃は罪なき人々を空から大量虐殺しただけで、日本軍にとって何のプラス面もありませんでした。そして、これを注意深く観察していたアメリカ軍将校によって日本は手ひどくしっぺ返しされたのです。大変勉強になりました。
(1988年8刊。税込2750円)

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