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2022年1月 の投稿

室町は今日もハードボイルド

カテゴリー:日本史(室町)

(霧山昴)
著者 清水 克行 、 出版 新潮社
「日本人は温和」なんて、大嘘。これが本のオビに書かれています。むしろ、日本人は昔から好戦民族だったのです。
戦後76年間、一度も日本人が戦争していないなんて、過去の歴史からすると、泰平の江戸時代に匹敵するほどの大事件なのです。
室町時代の日本なんて、それこそ武力=暴力をもっている人間がまかり通っていたのでした。
「士農工商」は、中国の古典に由来する言葉で、あらゆる職業の人とか全国民という意味。その順番には、何の上下関係もない。江戸幕府が成立する前からある言葉であって、江戸幕府の政策スローガンというものでもない。私も、このことはごく最近になって知りました。
鎌倉時代150年間のうちに、年号は、なんと48回も変わった。ほぼ3年に1回の割合で改元された。甲子園球場の「甲子」は、1924年に出来たということ。
天皇の在位と年号を一体化させた近代(明治以降)は、決して一般的なものではない。年号には、「時間のものさし」としては期待されず、むしろ世の中がリセットされたことを世間に示す「厄払い」の意味でしかなかった。
世の中、知らないことが多いものです。とりわけ、明治以降の日本を江戸時代より前と同じものだと考えると、まったく間違ってしまいます。その勘違いをしている最大集団の代表が自民党の国会議員団です。江戸時代まで、女性は嫁に入っても自分の姓を変えることはなく、死んだあとに入る墓も実家のそれだったのです。知らないということは恐ろしいことです。
(2021年7月刊。税込1540円)

彭明敏

カテゴリー:アジア

(霧山昴)
著者 近藤 伸二 、 出版 白水社
蒋介石と闘った台湾人というサブタイトルがついています。
失礼ながら、私は、彭明敏という人を知りませんでした。台湾政府のトップになった李登輝と同じ年に生まれ、彭は東京帝国大学、李は京都帝国大学に学び、いずれも日本敗戦後に台湾に戻って台湾大学に編入します。
彭は国際的に名の知れた法学者となったが、李が国民党政権の内部に入って出世し、ついにトップにのぼりつめたのとは対照的に、彭のほうは国民党の独裁体制を厳しく批判し、ついに反乱罪容疑で逮捕された。特赦を受けて自宅に戻ってからも軟禁生活が続いたが、厳重な監視の目をかいくぐって1970年に海外へ脱出し、長くアメリカで台湾の民主化を独立運動にうち込んだ。
そして、ようやく1992年に、22年ぶりに台湾に帰国し、4年後、初めての総統直接選挙で民進党の候補者として国民党現職の李登輝とたたかい、一敗地にまみれた。
この本は、彭への膨大なインタビューをもとにしたもので、1970年の海外脱出の実情が語られていて興味をひきます。
自宅軟禁のとき、24時間体制の監視は三交代制だったが、深夜から早朝にかけては監視員が現場を離れることが多かった。共同通信の横堀洋一記者は、特務にチェックされることなく彭宅に入り込みインタビューした。脱出計画の資金200万円は、東京で病院を開設していた台湾人医師がカンパした。
当時のパスポートは、顔写真が直接印画されているものではなく、紙の写真を張りつけて上から割印を押すものなので、割印さえ偽造できれば、写真を貼り変えて完成する。彭の体型に近い日本人Aを見つけ、彭の変装した顔写真に似せたパスポートを取得する。
日本人A役の日本人を探すのに難航するかと心配していると、ちょうど、南米から帰国した日本人(阿部賢一)が事情を知って引き受けてくれた。海外旅行に慣れていて、勇気があって口が堅い人物にぴったりだった。
自宅にいる彭は、特務の目をくらますため、ひげを伸ばし放題にしたり、坊主頭にしたりと、次々に外見を変えた。
また、1ヶ月間は、日中は外出せず、家にこもった。
どうやって日本人Aが日本からもちこんだパスポートを彭に渡すのか、連絡のための暗号も12種類も用意した。
アメリカのアグニュー副大統領が台湾に来る日程にあわせたので、警備はそちらに関心が向いていた。左腕がない彭は、三角巾で左腕をつっているように見せかけた。
そして、香港行きの飛行機についに乗り込むことに成功した。失敗したときには闇に葬られる危険があったので、目撃者も同じ飛行機に乗っていた。
成功率は50%。失敗したら生命はないと彭は覚悟していた。
結局、彭の向かった先はスウェーデンでした。ベトナム反戦運動のなかで「べ平連」の人たちが脱走したアメリカ兵を贈り届けたのもスウェーデンでしたよね。
台湾当局は、彭が脱走してから3週間もそれを知らずに自宅の監視を続けていた。彭の脱出成功は国際的にビッグニュースとなり、台湾の国民政権は面目を失ってしまった。
彭の脱出については、アメリカのCIAが関与したという説が有力だったようですが、実際にはCIAの関与はなく、日本人をふくめてごく少数の有志による計画と実行だったのです。すごいことです。
それでも、彭は22年間のアメリカ滞在中、台湾当局によって暗殺される心配をしていたそうです。もちろん、これは現実的な危険でした。
台湾民主化運動において彭の果たした大きな役割の紹介は、申し訳ありませんが、割愛します。
(2021年5月刊。税込2750円)

女が学者になるとき

カテゴリー:アジア

(霧山昴)
著者 倉沢 愛子 、 出版 岩波現代文庫
スカルノ大統領の第三夫人となったデヴィ夫人は、日本がインドネシアに対する戦争被害賠償金の関係で誕生した。つまり賠償資金でインドネシアですすめられているプロジェクトの利権をめぐって日本企業が激しい受注競争を展開した。そのひとつ、東日貿易という小さな商社がスカルノに取り入ろうとして紹介した日本女性がデヴィ夫人だった。彼女は東日貿易のタイピストという身分でインドネシアに渡った。そして、日陰の愛人生活を経て、ついに正式な第三夫人の座をモノにしたのだ。なるほど、そういうことだったんですか…。
著者は東大闘争のとき全共闘シンパとして行動したとのこと。今なお、東大闘争の主役を「もちろん全共闘派だ」と言ってはばからないところは本当に残念です。民青派に対しては「不毛な争いを全共闘派に対して挑んでいた」と非難していて、全共闘の暴力賛美について反省するところがまったくありません。そして、全共闘が暴力行使とともに唱えていた「東大(大学)解体」にもかかわらず、自らが大学教授になったのです。私のクラスにも東大解体を叫んでいたのに東大教授になった人がいます。「転向した」などという決めつけは決してしませんが、せめて全共闘の本質だった暴力賛美だけは反省してほしいものだと願います。
というわけで、この本の冒頭の記述は、ほとんど同世代の私には強烈な違和感がありましたが、それを乗り越えると、あとは、ひたすら著者の行動力に驚嘆するばかりでした。
著者は学生結婚したあと、1972年春に夫はサイゴン(ベトナム)へ、本人はジャカルタ(インドネシア)へ渡ったのでした。私が司法修習生になったのと同じ時期です。そして、1975年4月にサイゴン陥落、ベトナム戦争終結までの3年間をベトナムとインドネシアを行ったり来たりして暮らしていたのでした。いやあ、まさしく激動の時代に、その現場にいたわけですね。私が弁護士になって2年目の春、メーデーの会場でサイゴン陥落のニュースを聞いて、みんなで喜びました。
著者はジャカルタでは寮に入って生活した。お昼ご飯はインドネシア人にとって一日でいちばんのご馳走。夕食ではないのですね…。夜の食事は、昼の残りを食べるだけ。
350年間にわたるオランダの植民地支配は欧米の食文化を庶民にしみ込ませてはいなかった。いやあ、これも驚きですね。
この寮には、テレビも洗濯機も冷蔵庫も、もちろんクーラーもなかった。いやはや、なんということでしょう…。
1623年に、バタヴィアには159人の日本人が居住していた。日本人が鎖国とキリスト教禁止で日本に戻れなかったのです。
第二次世界大戦中、日本軍は2個師団5万人の兵力をインドネシアに投入したが、太平洋方面の戦場へどんどん放出させていって、1943年には1万人となった。それで、ジャワ郷土防衛義勇軍が日本軍の命令によってジャワ全土で編成された。「ジャワのためのジャワ人の軍隊」というもの。義勇軍は最終的にジャワ全土で66個大団(大隊)、3万3千人を擁する兵団となった。
著者は、この義勇軍に参加していた元将兵に会って話を聞いていったのです。もちろんインドネシア語で…。のちに大統領になったスハルトも、青年のとき義勇団に入り、小団長になり、中団長にまで昇格したのでした。
1969年代には、国軍のリーダーの大多数は義勇軍の出身者で占められていた。しかも、軍人だけでなく、政界や財界の実力者にもなっていた。
日本占領時の「ロームシャ(労務者)」という言葉が残っていた。海外に派遣されたジャワ人労働者のこと。「ハンチョ」は班長のこと。
1943年から1944年にかけて、郡長や村長などの要職にあるものが次々にケンペイタイ(憲兵隊)に逮捕された。県下4郡のすべての郡長、4ヶ村中3ヶ村の村長、そして区長など合計37人が逮捕され、ついには県長自身に及んだ。日本軍が大量虐殺したのだ。
日本側の歴史書には、もちろんそんな事実は書かれていない。著者が現地でつかんだことだった。
著者は風呂もトイレもない民家に泊まりこんで調査していったのですから、本当に頭が下がります。たいした根性です。私には、とてもできません。さらに、東京に住む前、インドネシアで日本人と再婚して2人の子どもを育てたというのですから、頭が下がるどころではありません。その勇気というか、ガンバリにはひたすら拍手するしかありません。
1998年の本の増補版です。いやあ、女性が学者になったら、こんなに大変だし、活躍できるんだということを改めて思い知りました。
(2021年8月刊。税込1694円)

刀伊の入寇

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者 関 幸彦 、 出版 中公新書
モンゴル軍の襲来(元寇)は鎌倉時代、北条執権のころのことですが、平安時代、藤原道長が栄華の絶頂にあった1019年、対馬をはじめとして九州北部(福岡から佐賀)が、突如として外敵に襲われた。中国東北部の女真族が日本に侵攻した。
この女真族(刀伊と呼ばれた)の入寇の状況を詳しく紹介した新書です。
それこそ、『源氏物語』の紫式部や『枕草子』の清(せい)少納言のころの出来事です。来襲した敵が残した物に書かれていた文字が女真文字であると判明したのは、なんと明治になってからのことだというのに驚きました。
「刀伊」とは、いったい何かというと、女真族について「東夷」というのを「刀伊」としたということです。
芥川龍之介の小説『芋粥(いもがゆ)』は、『今昔物語』を元ネタにしているが、この『今昔物語』に登場する人物のモデルである藤原利仁は、鎮守府将軍そして征新羅将軍になった武人だ。ところが、『今昔物語』によると、利仁将軍は新羅征伐に向かった途中、新羅側の仏法の威下のもとで敗死する。
伊攻した女真族は、九州北部から大勢の日本人の捕虜として連れ去った。死者364人、捕虜となったのが1289人、牛馬の被害が380頭。捕虜となった者が死傷者の3倍をこえているのは、大陸での奴婢(ぬひ)市場へ供給していたから…。
初めは敗退していた日本軍は朝廷からの督励とは別に、なんとか最新式の兵器によって反撃に転じることができるようになった。
九州に上陸した女伊族は、その後、朝鮮半島の元山沖で高麗(こうらい)水軍によって壊滅打撃を受けた。
朝鮮半島の内情の複雑さに乗じて朝廷内にはいろいろ議論があったようです。ノド元過ぎれば熱さを忘れるということです。
鎌倉時代の元寇の100年も前に、同じような異民族が来週した事実は知っていましたが、想像以上に深刻な打撃を受けていたことを初めて知りました。
(2021年8月刊。税込880円)

菌の声を聴け

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 渡辺 格・麻里子 、 出版 ミシマ社
鳥取県の山奥に智頭(ちづ)町があり、そこで「タルマーリー」という店を経営している夫婦の苦闘が語られています。店は保育園を改造した建物で、パンとビールをつくっています。森に囲まれたカラフルな建物で、いかにも楽しそうです。とても美味しそうなパンの写真が載っています。近ければ行ってみたい店です。
パンもビールも、菌による発酵でできる発酵食品。著者は、31歳から東京と横浜の4つのパン屋で4年半修行した。
「タルマーリー」のパンづくりはとても非効率的だし、一つひとつの判断基準もあいまいで、失敗は日常茶飯事。「タルマーリー」では、週に5日、パンを焼く。その5日分のパン生地は月曜日に、すべてまとめてミキシングして作り、焼く日ごとに生地を取り分けて、冷蔵庫に寝かしておく。焼く前日に冷蔵庫から取り出し、ホイロで発酵させて焼く。ビール酵母をつかうと、以前よりも柔らかく、食べやすいパンができた。ビールのおかげで、圧倒的に楽になった。
パンづくりで、とくに気をつかうのが酵母の調整。パン屋は毎日、この緊張感ある作業をしないといけないので、とても疲れる。伝統的なパンの製法は、手間暇かかるし、重労働だ。なので、いつも疲れている。
「タルマーリー」では、グルテンが多くない岡山産と九州産の小麦だけでパンをつくっている。グルテンが多いとパンは膨らみやすいが、歯ごたえが強くなる。グルテンの弱い小麦をつかうことで、結果的に「さくっと歯切れのよいパン」という評価を得た。
種まき小麦、そしてひきたての小麦粉をつかう。
「タルマーリー」って何だろうな…、と思っていると、この夫婦が「イタル」と「マリコ」だということに気がつきました。なーんだ、自分の名前をつけているんだなと納得しました。
ともかく、自分の思うどおりに自分の人生を生きていこう、そして、子どもたちには大自然の恵み触れさせようという意欲的な生き方に溢れています。なかなか出来ることではありませんよね…。
(2021年5月刊。税込1980円)

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