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2021年11月 の投稿

沖縄戦の子どもたち

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 川満 彰 、 出版 吉川弘文館
沖縄では、師範学校・中学校・高等女学校・専門学校の全21校に通っていた10代の少年少女たちが学徒隊として招集され、戦場に立たされた。その人数は教員も含めて2016人。うち戦死者は1017人で、半数以上。学徒隊とは別に、北部(やんばる)では青年学校に通っていた少年1000人が遊撃隊(護郷隊)として招集され、160人の隊員が犠牲になった。
沖縄に第32軍が創設されたのは1944年3月。この年に兵役法が次々に改正され、徴兵検査が20歳から19歳に繰り下がった。志願でしか招集できない17歳と18歳にも兵籍を与え、徴兵検査を義務づけた。
沖縄の第32軍は、南西諸島を守り抜く戦争ではなく、捨て石部隊となって、日本本土決戦に向けて時間を稼ぐための戦争だった。沖縄の9校の鉄血勤皇隊、通信隊、そして6校の女子看護隊は、第32軍の持久戦の作戦計画にもとづいて配属された。動員されたのは1493人。そのうち犠牲となったのは学徒隊792人、教員24人、計816人。戦死率は47%、半数近くが犠牲となった。
6月18日に解散命令が出されたことで、鉄血勤皇隊や女子看護隊は戦場をさまようことになり、犠牲者はさらに急増した。
軍による解散命令って、やっぱり無責任ですよね。投降してよいとか、自分たちの身の安全を図れる具体的指示が必要だったのではないでしょうか。
6月18日に、米軍の地上部隊を指揮していた米第10軍司令官のバックナー中将が日本軍の攻撃で戦死した。
日本軍の牛島満司令官は、最後まで、「捨て石」となる持久戦を意識していた。
宮古島では、3万人もの第28師団の兵士が入ってきたので食糧不足となり、住民もふくめて飢餓状態に陥った。宮古島の戦没者2569人のうちの90%近くが栄養失調とマラリアで亡くなっている。
沖縄での少年兵たちは、遊撃戦どころではなく、常に米軍との戦場で正面から対峙させられ、米軍の標的となっていた。
うひゃあ、こ、これはひどい、ひどすぎる…。
そして、日本の少年兵のなかにはスパイ容疑で日本兵から射殺された人もいるというのです。むごい話です。
九州に疎開した沖縄の子どもたちは、ヤーサン(お腹が空いた)、ヒーサン(寒い)、シカラーサン(寂しい)状況に置かれた。
沖縄の日本平は中国戦線帰りの兵士がいて、自らが中国で犯した残虐行為を「武勇伝」として語っていたことから、アメリカ軍に捕まったら、男は八つ裂きにされ、女は強姦されて殺されると、自分たちが中国でしたことを米軍もすると言って恐怖心をあおった。
そして、戦後まで生きのびた子どもたちのうちの戦争孤児が多く生まれた。しかし、それが何人いたか、当局はつかみきれていない。3千人から4千人はいただろうというだけ。
そんな悲しい実情を掘り起こした大変な労作です。戦争にならないようにするのは、私たち大人の責任です。どんなすごい最新兵器を開発したり、所持していてもダメなのです。
(2021年6月刊。税込1870円)

ヒロシマを暴いた男

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者 レスリー・M・M・ブルーム 、 出版 集英社
アメリカの雑誌「ニューヨーカー」は、1946年8月31日号の誌面全頁を広島に落とされた原爆被害の実相を伝える記事に充てた。書いたのはジョン・ハーシー記者。
この「ニューヨーカー」の特集によって、原爆に対する世界の考え方が一変した。それまで、アメリカ政府は、原子爆弾投下と直後に広島で起きたことの深刻さを隠し、長期にわたる致命的な放射線の影響を隠蔽していた。
アメリカの原爆製造のマンハッタン計画の指導者であるグローヴス中将はこう言ってのけた。
「とても痛快な死に方」
「死んだ日本人の人数はとても少ないだろう」
「被爆して死んだ日本人はほとんどおらず、広島は基本的に放射能に侵されてはいない」
「ニューヨーカー」の記事のあとに言ったのは、「原子爆弾の放射能の影響による死というのは、純然たるプロパガンダ(宣伝活動)だ」
「われわれの戦争を終わらせた方法が気に入らないのなら、誰が戦争を始めたのかを思い出せと言いたい」
日本軍による真珠湾攻撃のあと、アメリカ国内には、日本に対する憎悪と猜疑心(さいぎしん)が深く根づいていた。日本人は、人間以下の「黄色い危険物」とみられていた。野蛮で恐ろしいモノということ。
グローヴス中将は、原子爆弾を「情け深い兵器」だというイメージをアメリカ国民に植えつけようと必死だった。
日本占領軍のマッカーサー元帥は、原爆に対して「嫉妬」を感じていた。4年にわたる日本との戦争は自分が指揮してきたのに、自分の知らないところで開発され、自分に無断で原爆が落とされたことに良い気持ちではなかった。
これがハーシー記者が広島入りできた背景の一つになっている。
広島に入ったハーシーは、原爆による惨状に大いなる衝撃を受けた。これを、どうやってアメリカ国民に知らせるか…。
ハーシーは、視線の高さを、神から人間へと下ろした。読者に登場人物そのものになってもらって、いくらかでも原爆の痛みを感じさせること、これがハーシーの願いだった。
ハーシーは、たくさんの人を現地で取材し、ついに6人の主人公にしぼることにした。
ハーシーの記事の目的は、読者を登場人物の心の中に入らせ、その人物になりきらせ、ともに苦しませること。恐ろしくも興味を引かれるスリラーのように読まれることを目ざした。
だから、わざと静かな口調にすることを選んだ。文章から余計なものをはぎ落し、なるべく事実を客観的に述べるだけにする。たとえば、6人は誰も爆音を聞いていなかったので、「無音の閃光(せんこう)」というタイトルにした。
「ニューヨーカー」の編集部内では刊行されるまで、最高機密扱いとされ、ダミー号までつくられた。ただし、グローヴス中将の承認は取りつけた。これが不思議ですよね…、よくぞ承認されたものです。
この「ニューヨーカー」誌は爆発的な反響を呼び、またたくまに、全世界に広がりました。
ところが、ソ連は、この「ニューヨーカー」を大ウソだと決めつけ、また日本ではすぐに出版が認められなかったのです。原爆の恐ろしさが世間に広く知れわたることに強い抵抗がありました。
歴史的なスクープなのですが、実は、「丸見えの状態で隠されていたスクープ記事」だと評されています。これは、先日の「桜を見る会」の「しんぶん赤旗」のスクープ記事と同じですね…。
ともかく、「ニューヨーカー」誌は、1年前に広島の人々に起きたことが、次にどこで起きてもおかしくないという警告として大きな意義がありました。
この「ニューヨーカー」は11ヶ国語に訳され、イギリスのペンギン・ブックスは何週間かで25万部の初版を売り切り、100万部の増刷を用意した。原爆の恐ろしさは何度強調しても強調しすぎるということはありません。「核抑止力論」なんて、本当にインチキな考えです。
とても勉強になり、改めて原爆の恐ろしさを考えさせられました。
(2021年9月刊。税込1980円)

都鄙(とひ)大乱

カテゴリー:日本史(中世)

(霧山昴)
著者 髙橋 昌明 、 出版 岩波書店
この本は、平安時代末期の源平合戦のころの日本を対象としています。とても勉強になりました。知らないことが次々に出てきて、朝からずっと裁判のあいまに読みふけって、夕方までに完読しました。
本書は、治承4(1180)年5月の以仁王(もちひとおう)の乱から元暦2(1185)年3月の壇ノ浦合戦での平氏滅亡までの、足かけ6年にわたって続いた、鎌倉時代成立に至るまでの戦乱の時代を扱っている。
そのなかで、義経のひよどりごえの戦いも、軍紀物語の話だとされています。
治承・寿永の内乱と呼ばれるのは、この戦乱が単なる源平の戦いに解消されない、激動と創造の時代であったことによる。貴族化し、腰ぬけ武士になったために負け続ける平家(へいけ)と、質実剛健で死をも恐れ東国の武士という、紋切り型の対比は必ずしも正しいと言えないこと。このことが、この本を読むと、よく分かりました。
まずは、平清盛など平家が権力を独占的に握ったことが戦乱を招いて、ついには平家滅亡に至ったという分析・指摘に驚かされました。
クーデターで権力を独占した結果、支配層内部での平家の孤立は深刻なものになった。
また、知行国や荘園を大量に集積し、自らの政治的・経済的基盤としたことは、全国の公領・荘園が生みだし、当時、深刻化しつつあった、中央と地方間の社会的・政治的な対立を、支配層内部で平家がまったく孤立したまま、一手に引っかぶることを意味していた。つまり、本来なら王家や摂関家などに向けられるべき当然の怨(うら)みが、相手を変えて平家に向けられるという皮肉な結果になった。
だからこそ、以仁王が平家打倒を呼びかけたとき、反乱は燎原の火のごとく日本全国に広がった。この内乱は源氏と平家の争覇という次元にとどまらず、広く社会矛盾の激発という本質をもっていた。
平清盛には福原に遷都する強い意欲があったが、以仁王の乱の衝撃から、準備不十分のまま急いで遷都が実行に移された。これが結果として平家を自ら孤立に追い込み、反平家の気運をさらに高めた。
このころ、日本は、西日本を中心として大旱魃(かんばつ)に襲われていて、深刻さが増していた。平家は兵糧米の調達に苦しみ、大軍を動かすことができなかった。
源氏と平氏という氏(うじ)の違いは、この内乱での敵と味方を分ける原因とはなっていない。たとえば、頼朝のもとに結集した関東の家人たちのほとんどは桓武平氏の末流であって、坂東八平氏と、平姓を名乗っていた。
このころ、「駆(かけ)武者(むしゃ)」という言葉があった。平家と日常的な主従関係を結んでいる武士ではなく、国衙(こくが)の力によって駆り集められた地方の武者たち。かれらにとって、戦(いく)さは、稼ぎの機会でしかなかった。これは、平家の軍隊の特色ではなく、平安時代には普通に行われた兵力動員方式だった。
平家軍の侍大将は、大将軍のもとで、その兵を預かり、実戦の指揮をする武将たちをさす。平家軍が大軍化するとき、一門を構成する名家とその御家人集団を単位としながらの連合という形をとる(とらざるをえない)。しかも、全軍を統率する真の意味での最高司令官は存在しない。大将軍と呼ばれていても、他家に所属する御家人への直接指揮は原則として、ありえなかった。
源義経の有名な「ヒヨドリ越えの逆落し」は、実は多田行綱をリーダーとする摂津武士たちによるもの。義経は平家討滅には大功があった。しかし、三種の神器のうち宝剣を回収することができず、安徳天皇を死なせてしまった…。
義経の、あざやかな指揮の連続は、範頼に率いられて、半年ものあいだ、山陽道や九州で戦った人にとって義経は怨嗟(えんさ)の対象ともなった。そこで、義経の進退は、今や、鎌倉勢力と後白河院とのあいだの政治的な綱引きの焦点になった。
源平合戦について、歴史上の豊富な史料にもとづく、目を見張る解説のオンパレードでした。
(2021年9月刊。税込3080円)

長東日誌

カテゴリー:朝鮮・韓国

(霧山昴)
著者 李 哲 、 出版 東方出版
私と同世代で、まったく同じ時期に東京で大学生活を過した著者が韓国の大学で勉強中に「北」のスパイとして捕まり死刑判決を受け、13年間の獄中生活を送った記録です。
この13年間というのは1975年から1988年までのことです。著者の27歳から40歳までですから、私は故郷にUターンして弁護士をしていました。
そして、著者は2015年に無罪判決を受け、さらには2019年6月、来日した文在寅大統領から大阪で国家を代表しての謝罪を受けています。それを受けてこの本にしたとのこと。いやあ、本にしていただいて良かったです。韓国の民主化運動の重たさが実感としてよくよく伝わってきました。
なにしろ、日本でアルバイトの仕事をしていた時期、そのアリバイもはっきりしているのに、北朝鮮に渡って指令を受けて韓国でスパイ活動していたという「自白」をさせられたのです。その「自白」にもとづいて死刑判決を受け、獄中で、処刑の日がいつに来るかビクビクして過ごしていたというのです。
韓国の死刑囚は、24時間、ずっと手錠をかけられているというのを初めて知りました。行動の自由を奪って、自殺を防止するという狙いもあるようです。
著者は1948年10月生まれで、人吉高校から中央大学理工学部に入学。そこで、コリア文研に入った。そのころ、北朝鮮は輝いているように見えた。
映画「キューポラのある街」(吉永小百合が上演)でも、北朝鮮が魅力的な国だという前提で、北朝鮮へ帰国しようという人々の話が出ていました。今のように、貧しい、ひどい独裁専制国家というイメージはなかったのです。
著者は韓国に渡り、高麗大学に留学しました。そして、婚約者となる女性に出会うのです。ところが、結婚式の直前の1975年12月11日、著者はKCIAに捕まります。拷問の始まりです。結局、耐えられず、求められるまま、すべてを「認める」のでした。
それからはドロ沼。北に行ってスパイ教育を受けたとか、調書の上では誰がみても完全な「北のスパイ」になったのです。KCIA(中央情報部)の地下室は、人間を人間ではなくならせる悪魔の空間であり、ある日突然連行された無防備な人は拷問の専門家である彼らには、いとも簡単に料理できる獲物だった。
検事は求刑のとき、こう言った。
「李哲のような人間は社会にとって極めて危険。なので、社会から永遠に抹殺しなければならない。よって死刑を求刑する」
同じく捕まっていた婚約者には懲役10年が求刑された。そして、一審判決は著者に死刑、婚約者に6年の実刑判決。次の二審判決も、著者に日本にいたことのアリバイが証明されても、変わらず死刑判決でした。婚約者のほうは3年6ヶ月の実刑に減軽。1977年に上告棄却で著者の死刑が確定した。その年の12月、著者は洗礼を受けてカトリックの信者になった。
刑務所の中の生活の大変さが、かなり伝わってきます。
著者も次第に元気を取り戻していき、職員の暴力に耐えるようになっていきました。
「あんなに殴られて、痛くないのですか?」
「変なこと言いますね。生身の人間ですから、痛くないわけがありません」
身体の節々が疼(うず)いて動くのも不自由だったが、心の中で大声で叫んだ。
「勝ったぞ!」。初めての勝利の味をかみしめていた。傷だらけの勝利だ。勝利したという思いで、心は爽やかだった。勝利するためには、傷を負うことも実感した。
いやあ、実に痛そうな勝利です。下手に生きようとするから負けるのであって、死のうと思ったら勝てるのだ。貴重な悟りを得た、と言います。大変ですよね…。
大邸七・三一事件は1985年7月31日に起きた。地下室で著者ら18人がひどい暴行を受けた。これに対して、断食闘争を始めた。
刑務所内でたたかう有力な手段・方法に断食するというのがあるのですね。イギリスでもアイルランド独立闘争の闘士が刑務所内で断食闘争を始め、ついに餓死してしまうというのがありましたよね。ただ、これも、外部と連絡をとって、社会に知らせるというフォローがないと容易に勝てるものではないとのこと。
ところが、ここで、著者の婚約者が大きく動くのです。すでに刑務所を出ていたので、著者への面会に来ていて、また、外部の教会も動かしたのでした。韓国では、日本と違って教会の力は大きいようです。婚約者は、まさしく猪突猛進して、世の中を突き動かしました。ついに保安課長が土下座し、次に副所長が泣きを入れ、勝利したのでした。断食闘争が勝利をおさめるという画期的な成果をおさめたのです。
1988年10月に著者は出所に、婚約者と13年遅れの結婚式をあげます。場所は明洞聖堂、結婚ミサは金森煥枢機郷。そして、結婚式のあとは、3000人の参加者による明洞一帯の結婚式デモ行進。横断幕を先頭に、鼓手たちが太鼓を叩きながら進む。新郎新婦と母親と牧師夫妻を乗せた花飾り車が続き、そのうしろから多くの祝賀客が続いて行進する。明洞聖堂の街中を一周して明洞聖堂に戻って解散。
いやはや、こんなすばらしい結婚セレモニーなんて聞いたことがありません。
そして、1989年5月に著者は日本に戻ったのでした。
日本と韓国の深い関わり、そして韓国民主文化闘争の苦労をまざまざと知らせる貴重な良書です。心ある日本人に広く読んでほしいと強く思いました。この本を読んだ翌日、毎日新聞に大きな記事になっていました。
(2021年6月刊。税込3850円)

おもしろいネズミの世界

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 渡部 大介 、 出版 緑書房
私はネズミ年の生まれですし、ミッキーマウスなど、ネズミって可愛いですよね。でも、ドブネズミは大きいし、怖いです。
ネズミ博士がネズミの世界を面白く語っている本です。
世界には5400種の哺乳類がいて、ネズミの仲間(げっし目)はその4割2300種を占め、最大のグループだ。次の1200種のコウモリに大差をつけている。
真のネズミ(ネズミ形亜目)は1500種いる。
ネズミの歯は上下2本ずつの門歯(切歯、前歯)がノミのように生えていて、かじる能力が非常に優れている。
ネズミという名前は、根栖み、根住(棲)み、寝盗み、に由来するようだ。古事記には「禰須美」として登場している。
日本固有のネズミは9種。アカネズミ、ヒメネズミ、セスジネズミなど…。カカネズミは、最小。
モグラは肉食なので野菜は食べない。ただ、モグラのトンネルを利用して、野菜を食べる家ネズミやハタネズミがいる。
ネズミの聴覚は優れていて、人間には聞えない周波数の音で、仲間同士、コミュニケーションをとっている。
ネズミは「寝住み」とも呼ぶように、多くは夜行性。
ネズミの嗅覚は人よりはるかに優れていて、地雷撤去で活躍している。火薬のにおいを探りあてる。オニネズミは体重が1キロしかないので、ネズミが地雷を踏んでも爆発はしない。
ネズミの長いヒゲは、視力の弱いのを補って、重要な役割を果たしている。
ハリネズミはモグラの親戚で、ネズミの仲間ではない。
ネズミは味覚も敏感。ネズミは甘味と塩味を好み、苦味、酸味は苦手。
ネズミの毛は蒔絵(まきえ)の筆として最上級。数十頭のネズミの最上の毛でつくられた本根朱筆(ほんねしゅふで)は、最上級。
ネズミは一晩に週十回の交尾行動を繰り返すので、交尾するとほぼ妊娠する。
マウスやラットは、20日間の妊娠で出産し、そのあとすぐ交尾して妊娠して20日後には出産。1ヶ月弱のサイクルで、一度に多いと10頭の子を産むので、それこそネズミ算式に増えていく。
ヘビを飼うとき、エサとしてネズミを与える。丸飲みにし、そのほとんどを栄養として消化・吸収できるため、ヘビには紫外線すら必要がない。
ネズミは、ダニなどの外部寄生虫の宿主となり、また病原性細菌やウィルスの感染源にもなる。
垂直方向で移動できるのは、家ネズミではクマネズミだけ。ドブネズミにはできない。それでクマネズミが今や日本最大勢力を誇っている。
日本における最初のネズミ飼育記録は江戸時代にある。ネズミを飼い馴(な)らすための教本として『養鼠玉のかけはし』(1775年)や『珍玩鼠育草』(1787年)が出版されている。いやあ、驚きました。江戸時代にすでにネズミの飼い方の本があったとは…。
たくさんのネズミを知ることができる本でした。知れば知るほど、ムチュウになりますよ…。
(2021年7月刊。税込1980円)

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