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2021年7月 の投稿

明治14年の政変

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 久保田 哲 、 出版 インターナショナル新書
1877(明治10)年の西南戦争は、近代日本における最大かつ最後の内戦だった。4年後の1881(明治14)年10月、近代日本を方向づける政変が起きた。
明治10年代、議会開設要求が高まり、政府内部でも将来的な議会開設に肯定的になっていった。そして、明治14年3月、参議の大隈重信が即時の議会開設を求める意見書を提出した。
同年7月、北海道開拓使の官有物を破格の安値で五代友厚(黒田清隆と同郷)へ破格の安値で払い下げられるとスクープ報道がなされた。これは肥前出身の大隈重信が情報をメディアにリークした、大隈は薩長政府の打倒を企てているという陰謀論が広まった。
そして、同年10月、御前会議が開かれて、大隈を政府から追放すること、開拓使による官有物の払い下げが中止となった。また、国会開設の勅諭が出され、9年後の議会開設が宣言された。
明治維新の三傑とは、西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通。木戸孝允は明治10年5月、43歳で病死した。西郷隆盛は同年9月、城山で死んだ。大久保利通は明治11年5月、暗殺された。
大隈重信は、明治14年に43歳だった。伊藤博文は、同じく40歳。井上馨は45歳。黒田清隆は40歳。岩倉具視は56歳。井上毅は政変のフィクサーと評されるが、37歳だった。福沢諭吉は46歳。
私は、最近、歴史を語るとき、その人が、そのときに何歳だったか絶えず注意しておくべきだと考えるようになりました。年齢は、発想とか行動力に深くかかわるものだからです。
明治14年ころ、天皇親政の実現を企図する宮中グループなるものが存在していたのですね…。もちろん、薩摩グループがあることは、初歩的知識として知っています。それでも、そのなかで、どれほどの力をもっているかについてまで詳しくは知りませんでした。
明治14年5月、政変の前の参議は、薩摩4人で、長州と肥前が各2人だった。
伊藤博文の最大の関心は薩長の連携による政府の基盤強化だった。宮中グループが政治に関与しようと画策しており、在野では自由民権グループが言論による政府打倒を目ざしていた。
明治11年8月、竹橋事件が勃発した。近衛砲兵大隊の兵士が反乱を起こしたのだ。その日のうちに鎮圧され、翌年までに55人が処刑された。
福沢諭吉は政治に無関心ではなく、政府内の人間と積極的に交流していた、そして慶應義塾は、明治11、12年ころ、学生数の減少により深刻な経営危機に陥っていた。明治12年7月、福沢が国会開設を求める本を刊行すると、すさまじい反響があった。福沢の想像以上に、「大騒ぎ」となってしまった。
開拓使官有物の払い下げ批判は薩長藩閥政府批判となり、議会開設・憲法制定要求へと展開していった。
三菱という資金面での後ろ盾、福沢という理論面での後ろ盾を得た大隈が、自由民権グループと連携して薩長藩閥を打倒し、イギリス流議会を開設することで政府の実権を握ろうとしているという陰謀論が流布していった。このとき明治天皇は、それまでの大隈の努力に同情する気持ちがあり、罷免の強行ではなく、辞任するという形をとって、大隈の名誉を守ろうと配慮した。
明治14年の政変によって、政府を去ったのは、大隈重信だけでなく、大勢いた。ただし、政府にとどまった人も少なくはなかった。
明治時代の政府部内の微妙な力関係の変化は理解するのが、なかなか困難ですね…。
(2021年2月刊。税込1012円)

「敦煌」と日本人

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 榎本 泰子 、 出版 中央公論新社
私は幸いにも敦煌に行ったことがあります。莫高窟(ばっこうくつ)にも中に入って見学しました。すごいところです。井上靖の『敦煌』は読みました。残念なことに映画『敦煌』は見ていません。そのうちDVDを借りてみてみたいものです。
井上靖は戦前の1932年に京都帝大に入学し、哲学科で美学を専攻していた。そして30歳のとき日中戦争にも駆り出されている(病気のため、すぐに帰国)。知りませんでした。戦争の愚かさも身をもって体験していたのですね…。
敦煌は、中国の西端にあるオアシス都市で、漢代より漢民族が西方に進出する際の拠点として栄えた。遠くローマに至るシルクロードにはいくつかのパートがあるが、それらが交差する交通の要衝(ようしょう)が敦煌。中国の絹はここを通って西方へ運ばれ、西方からは、玉や宝石やガラス製品がもたらされた。敦煌は東西の文化の行きかう場所だった。
敦煌の南東20キロの砂漠の中に4世紀の僧によって開闢(かいびゃく)された莫高窟がある。鳴沙(めいさ)山の断崖に穿(うが)たれた500あまりの石窟には、千年以上の長きにわたって各時代の人々によって製作された仏教壁画や仏像が遺されている。
1900年、ここで暮らしていた道士(道教の僧侶)が、偶然、大量の古文書を発見した。その後、日本からは西本願寺の大谷光瑞の主宰する探検隊が活躍した。
砂漠のなか、大谷探検隊のラクダ隊が収集品を運んでいる写真があります。私も鳴沙山でラクダに乗りましたが、意外に高くて、怖さのあまり顔がひきつってしまいました。
井上靖の『敦煌』は、行ったこともないのに、同世代の学者だった藤枝晃から資料をもらい、教わりながら、5年かけて執筆されたもの。歴史学と文学の幸福な出会いのなかに生まれた小説だ。すごい想像力ですね。戦後、井上靖は、亡くなるまで26回も中国を訪問した。これまた、とてもすごいことですよね…。
NHKテレビが1980年4月から「シルクロード」を月1回、12回にわたって放送したのが大反響を呼びました。毎回20%もの視聴率を記録するという大ヒット作品でした。石坂浩二のナレーション、喜多郎のシンセサイザーの前奏も印象に残ります。井上靖も案内人として登場します。さらに平山郁夫の絵がまたすばらしい。
この本では、日本人のあいだにシルクロードのイメージを広め、ブームを定着させた最大の功労者は平山郁夫としています。なるほど、そうかもしれないと思います。やはり、絵の訴求力は偉大です。
西安の兵馬俑と敦煌は、コロナ禍が収束したら、ぜひ再訪してみたいところです。もし、あなたが行っていなかったとしたら、ぜひ行ってみてください。現地に行って実物を見たときの感動は何とも言えないものが、きっとあります。
(2021年3月刊。税込2090円)

帝国大学の朝鮮人

カテゴリー:朝鮮・韓国

(霧山昴)
著者 鄭 鍾賢 、 出版 慶應義塾大学出版界会
植民地朝鮮から日本の帝国大学に留学した青年たちのその後をたどった本です。人数にして1000人もいた彼らの多くは、日本の植民地支配機構にエリートとして組み込まれていったようです。
彼らは長い日本における留学生活を通して、日本式の近代化の理念を内面化して帰国し、植民地朝鮮と戦後の南北朝鮮で社会の中枢となった。
帝国大学の教授陣のなかにも、朝鮮留学生に厚意を示した良心的な知識人もいた。たとえば、吉野作造、河合栄治郎、河上肇、そして藤波鑑(私は、この人を知りません。すみません)。
植民地朝鮮にも1926年に開校した京城帝国大学があった。ところが、この京城帝大には日本人学生が多数であり、朝鮮人入学者が半数をこえたことはなかった。そもそも、この京城帝大は、当時の朝鮮人たちが自力で民立大学を建てようとするのを阻止する手段でもあった。
玄界灘を渡って日本へ行った青年たちは、「志士か、出世か?」の問いが投げかけられた。そして、帝国大学の卒業生は結果として、多数が「出世」を選択した。多くの学生が、日本での留学期間に、帝国日本が先に成し遂げた文明に圧倒されてしまった。
しかし、帝大出身のなかには、反日運動を展開し、労働運動を指導した青年たちも少なからずいた。その青年たちは検挙され、拷問を受け、そして獄死する人がいた。
京城帝大を卒業した朝鮮人青年は629人だったのに対して、日本内地の7つの帝国大学を卒業した朝鮮人留学生は784人、途中放棄などをふくめると1000人をはるかにこえる青年が帝国大学で教育を受けた。
これらの帝国大学の留学生は、朝鮮総督府の植民地統治を維持する官僚となり、官立・公立・私立の教育機関、植民地の言論、出版、そして経済界で中心的に活動した主要人物だった。そして、解放後には、南北朝鮮の国家建設の重要な人的資源となった。このように、帝国大学は、日本本土だけでなく、植民地および南北朝鮮においても国家のエリート育成装置だった。
東京帝大の朝鮮人留学生のなかには、日本帝国の民間有力者たちが設立した「自彊(じきょう)会」から奨学金をもらった人たちがいた。いわば「アカの正体を隠して」奨学金を「タダ乗り」でもらっていた。
帝国の奨学生のなかの少なからぬ人々が、解放後の南北朝鮮で、自らが習得した知識で各自の共同体に貢献する生涯を生きた。
河上肇は、自宅で毎週木曜日、雑誌「社会問題研究」を中心とするセミナーを行ったが、これには、日本人8人と韓国人学生3人が参加していた。
藤波鑑教授は京都帝大医学部の教授であり、朝鮮人留学生(尹 日善)の授業料を出してやったりした。藤波教授は、毎週水曜日の昼は、学生と一緒に昼食をとって歓談した。
うむむ、これはすごい教授ですね・・・。
ニックネームが「熊」だった朴英出は京都帝大経済学部で学ぶなかで反日運動の闘士となり、警察に逮捕された。知力も体力も強かったのに、激しい拷問にあって、その後遺症として4年の刑期を待たずして獄死した。
大変な労作です。少なくない前途有為な、志の高い青年たちが日本の特高警察による残忍な拷問で殺されてしまったことを知ると、同じ日本人の一人として大変申し訳なく思います。これらの人々が解放後に平和裡に個性を発揮したらどんなに素晴らしかったことでしょう…。もっとも、本人が一番残念だったでしょうね。
(2021年4月刊。税込3740円)

一度きりの大泉の話

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 萩尾 望都 、 出版 河出書房新社
1970年から2年間ほど、東京都練馬区大泉の2階家で竹宮恵子と共同生活していたころのことを振り返った本です。
大泉の共同生活を解散したあと、著者は竹宮恵子とはまったく没交渉となり、その作品も全然よんでいないとのこと。なぜか…。
「あなたは、私の作品を盗作したのではないのか?」
「あなたは男子寄宿舎ものを描いているが、少年愛を知らないあなたの作品は偽物(ニセモノ)だ。偽物を見せられると、気分が悪くてザワザワするの」
「書棚の本を読んでほしくない」
「スケッチブックを見てほしくない」
そして、3日後…。
「このあいだの話はすべて忘れてほしい。全部、何も、なかったことにしてほしい」
なるほど、こう言われてしまったら、もう竹宮恵子の作品は読まないという著者の決断は理解できますよね。
この話は、前提として、竹宮恵子は少年愛、つまり少年同士の同性愛に関心があり、それを題材にしたマンガを描いていたことにありますが、これに対して、著者は、少年愛は理解できず、テーマとしていないのです。
著者は、両親とのあいだで激しい葛藤をかかえていました。
「あんたは買い物もできないの」
「あんたはダメ」
これは母親のコトバ。父親は「女には学問はいらない。生意気になるから」と言った。
大牟田で三井の社員だったようです。両親は、マンガを描く仕事をくだらない、恥ずかしいものと思っていた。著者が親と一緒に生活していたときは、親の機嫌をうかがいながら、ビクビクしてマンガを描いていた。何かで親の機嫌を損ねると、親は怒りに血相を変えてすぐにマンガ禁止を言い出した。
著者は大牟田出身。三川鉱大災害が起きた1963(昭和38)年11月9日は、船津中学(「舟」ではありません。14頁)校の2年生で文化祭の準備をしていた。私は、隣の延命中学校3年生でした。土曜日の午後でしたが、何かテストを受けていた記憶があります。ドーンという大音響がしたので3階から外を見ると校舎の遠くに黒煙が見えました。
実は、私の母と著者の母親は福岡女専の同窓生で、著者の母親は我が家によく顔を出していました。私が小学生のころだと思います。なんので、よく顔を覚えていました。大人になった著者の顔写真を見て、「あれっ、お母さん、そっくりだ…」と、つい叫んでしまったほどでした。
竹宮恵子は1950年生まれ、著者は1949年生まれ。同じ学年です。でも、竹宮恵子は先にマンガ家として活躍していました。
著者は竹宮恵子の才能を認めていて、高く評価しています。
青空のような明るさ、いつも前向き、心が伸びやか。
竹宮恵子は著者に嫉妬したのではないか…。そこには排他的独占愛があったのでは…。
著者は無自覚に、無神経に竹宮恵子を苦しめていた…。なので、思い出したくない、忘れて封印しておきたい。
いやあ、才能ある人々の人間関係というのも大変なんですよね…。思わず引き込まれた本でした。
(2021年5月刊。税込1980円)

自由法曹団物語

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 自由法曹団 、 出版 日本評論社
先日、「時の行路」という映画(神山征二郎監督)を福岡・赤坂でみました。2008年9月、リーマンショックを口実に日本の自動車メーカーは一斉に非正規労働者を「派遣切り」しましたが、このとき、トラックメーカーのいすずも栃木工場と藤沢工場で812人の派遣社員全員を首切りしました。いすずは派遣会社との労働者派遣契約を契約期間の途中で解約し、それを受けて派遣会社が派遣社員を解雇したのです。11月14日に解雇して、年末までに寮からの退去も求めました。もちろん、いすずだけではなかった。トヨタは7800人、日産1500人、マツダ1300人、スズキ600人、日野自動車500人という大量の首切りでした。
これに対して、いすずでは労働組合JMIUの支部が4人の派遣社員で結成されていて、会社(いすず)とのたたかいが始まったのです。自由法曹団の弁護士たちが組合を応援しました。
この2008年12月末には、東京・日比谷公園で年越し派遣村が取り組まれ、マスコミも大々的に報道しました。自由法曹団の弁護士たちも派遣村運営の実行委員となって連日泊まり込みをして支えました。この派遣村については大々的に報道されたこともあって、多くの人が関東周辺から歩いて日比谷公園までやってきて救いを求め、また救われたのでした。それでも27歳の男性が所持金2200円となり、JRに飛び込み自殺するという悲しい事件も起きてしまいました。
いすずで結成された労働組合支部は雇い止めの不当性を訴えて裁判に踏み切りました。ところが、東京地裁(渡辺弘裁判長)は、会社側の主張を全面的に認め、雇い止めを有効と判断したのです。もちろん、ただちに控訴しましたが、東京高裁は、社長などの証人申請を全部却下して、控訴棄却。最高裁も上告を受けつけなかったのでした。
映画「時の行路」はハッピーエンドの話ではありません。日本の司法が大企業に有利で、労働者に対してあまりに冷たいという現実をありありと示しています。ところが、負けても主人公の表情は、人としてやるべきことをやったという明るい表情を最後まで崩しませんので、その意味では暗い、悲惨な結末ではありませんから、救われます。
そして、現実にも労働組合JMIUはいすずと交渉して争議を全面解決させ、主人公のモデルは市会議員としての活動に転じたというのです。捨てるカミあれば、拾う神もあるということなのでしょうね。
大企業の自分勝手な使い捨てを許さないという闘いが今もあること、そして、それを自由法曹団の弁護士たちが支えていることが、よく分かる本です。ぜひ、ご一読ください。
(2021年5月刊。税込2530円)

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