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2021年5月 の投稿

沙林、偽りの王国

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 帚木 蓬生 、 出版 新潮社
オウム真理教の犯罪を医学者の立場から詳しく追跡していった労作です。もちろん著者も作家であると同時に著名な医師です。
残念であり、不思議なことにオウム真理教という、いわばインチキ宗教、人を救うのではなく、平気で何十人もの罪なき人々を殺害した集団に日本の最高学府を経た人々が多かったという事実です。東大理Ⅲ、医学部卒も2人いるそうですし、青山某は京大法学部出身の弁護士でした。
この本は、歴史的事実をもとに、小説として構成したフィクションだと著者が初めに断りを書いています。それにしても歴史的事実のほうは全部が実名ですので、オウム真理教とはいかなる集団だったのか、よくよく理解できる構成・ストーリー展開です。
私は、麻原以下の死刑執行に反対でしたし、今でも処刑すべきではなかったと考えています。処刑してしまえば、みんな過去の歴史になってしまいます。でも、オウム真理教は今も名を変えて存在しています(盲腸のように役立たない存在とみられてきた公安調査庁を起死回生させ、今やその存在意義となっています)し、問題を風化させて(忘却の彼方へ追いやって)はいけないと考えるからです。
オウム真理教は熊本でも大きな問題を引きおこしました。1990年から波野村で5万坪の土地を取得して教団の建物をつくり、信者が住みはじめたのです。そして、村民は追放運動をはじめ、裁判にまでなりました。1994年8月、オウム真理教は波野村から9億2000万円をもらって出ていきました(和解成立)。びっくりするほどの巨額です。
1995年1月17日、阪神・淡路大震災が起きた。そして、3月20日(月)朝、東京の地下鉄でサリン事件が起きた。さらに3月30日(木)朝、警察庁の国松長官が自宅を出たところを狙撃され、瀕死の重傷を負った。この犯人はプロの狙撃手としか考えられなかった。オウム真理教の信者にそんな人間がいるのか…。
警察はオウム真理教の信者であった警察官を取り調べていましたが、ついに起訴することができませんでした。犯人はオウム真理教の信者ではないという本があり、かなりの説得力があります。
林郁夫は慶応大学医学部を卒業し、その父も兄夫婦も医師。
教団ナンバー2の村井秀夫が教団総本部前で衆人環視の中で右翼・暴力団の男から牛刀で刺殺されたのも不可解な事件だった。
坂本堤弁護士一家を殺害したオウム真理教の犯人は6人(村井秀夫、早川紀代秀、新実智光、中川智正、岡崎一明、端本悟)。中川は、背広のポケットに塩化カリウム溶液の入った注射器3本を入れていた。岡崎が坂本弁護士の首を絞め、中川が本人の都子(さとこ)さんの首を絞めた。都子さんは、「子どもだけでも助けて」と叫んだのに、中川が子どもの鼻口を押さえ、新実がけいれんした子どもにとどめをさした。いやはや、本当にむごいことをする連中です。涙が出てきます。
都子さんは、1985年4月28日に大牟田であった全国クレサラ交流集会に参加して、受付を手伝ってくれました。10月20日、坂本一家の葬儀が横浜アリーナで行われ、弔問客は2万6千人に達した。私も行きたかったです。
麻原智津夫は金の亡者だった。修行の名目で在家信者から、数十万、数百万円単位でお金を吸い上げた。教祖の血を飲ませるとひとり百万円、教祖が入浴したあとの湯も高額で売りつけた。電極付きのヘッドギアは在家信者には1千万円で買わせた。
教祖・麻原の妻・松本和子に子どもがいるほか、石井久子は公然たる愛人であり、3人の子を産ませている。そのほか、少なくとも2人の愛人がいて、女性信者にはひとりずつ、2時間の「説法」に及んでいる。
化けの皮をはがされた麻原の反応は、まずは怒号。次は支離滅裂の弁明。そして最後は、何やら自分流の呪文らしいブツブツ。これら一連の反応は、すべて生きのびるためのあがきであり、窮余の一策としてのブツブツは、あわよくば精神異常の診断をかちとるための詐病だった。
2018年7月6日、7人に死刑執行された。新実54歳、井上嘉浩48歳、中川55歳、早川68歳、麻原63歳、遠藤誠一58歳、土谷正実53歳。20日後の7月26日、6人の死刑が執行された。林泰男60歳、岡崎一明57歳、横山真人54歳、広瀬健一54歳、端本51歳、豊田亨50歳。
麻原と遠藤は最期まで反省せず、林泰男は不明、あとの10人は罪を悔いた。
上川陽子法務大臣による死刑執行は政治的意向が働いた。この人の頭のなかは、残念ながら、それだけのようです。社会に責任を果たしているとは思えません。
大変な労作です。著者に敬意を表します。
(2021年3月刊。税込2310円)

チョンキンマンション

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 ゴードン・マシューズ 、 出版 青土社
中国は香港にある17階建ての雑居ビル。重慶大厦(チョンキンマンション)には、毎日、100ヶ国以上の人々が行きかう。そこには世界中から商人が集まり、バックパッカーが来訪するところでもある。『チョンキンマンションのボスは知っている』(小川さやか、春秋社)を読んで、その存在は知っていましたので、その過去と現在を知りたいと思って読みすすめました。
チョンキンマンションも、今では、かなり変わっているようです。多くのアフリカ人貿易業者にとって、夢あふれる器としてのチョンキンマンションは、中国大陸にとって代わられた。そして、中国大陸を拠点にしているアフリカ人貿易業者の一部にとって、チョンキンマンションは、発展途上世界版の紳士クラブになった。
チョンキンマンションは、数年前より、さらにこぎれいになった。チョンキンマンションは、もはや怖いところではなく、家族を食事に連れて行くのに適した場所である。
チョンキンマンションは、酒を飲んだり、セックスワーカーを買ったり、他のさまざまな悪法行為に従事するムスリムも多くいる。すべてがイスラム教の道法的秩序にしたがってなされているわけではない。
チョンキンマンションでは、とても狭い範囲内に、非常に多くの国籍と宗教が存在しているので、不寛容でいることは不可能も同然だ。チョンキンマンションが平和なのは、新自由主義のイデオロギーだけではなく、チョンキンマンションにいるほとんど誰もが、彼がその建物の中にいるというその事実によって、人生における比較的な成功者であるということからもきている。彼らはセックスワーカーや麻薬中毒者であってさえ、多かれ少なかれ人生の勝ち組だ。
チョンキンマンションは、香港の残りの部分とは民族的に異質であり、ほとんどの香港系中国人に軽蔑され、あるいは恐れられていることによって、ゲットーであり続けている。このことに、チョンキンマンションのほとんどの人々は痛いほど気がついている。しかし、それは明らかに中産階級のゲットーであり、さらには国際的なゲットーなのだ。
そこでは、誰もが、いつの日か成功して金持ちになることを望み、信じている。客観的には疑わしいが、これが彼らの信念だ。
チョンキンマンションは、すでに17階建てであり、取りこわしても売却できる空間の大きな増加にはつながらない。この建物は、いくぶんぼろぼろの状態でありながら、驚くほどの収益を生んできた。この建物は所有者にとっては「金山」なのだ。
チョンキンマンションでは、かつてケータイ電話が主要な取扱商品だった。サハラ砂漠以南のアフリカで使われているケータイ電話の2割はチョンキンマンション経由だと推測できた。しかし、今では1%未満に低下しているだろう。
いまチョンキンマンション内にいるアフリカ人貿易業者はケータイではなく、宝石か中古自動車の部品を扱っている。宝石は密輸が簡単だし、香港の人々が比較的短期間で新車に乗り換えるため、貴重な中古部品が多く入手できるから。
今日、チョンキンマンションでコピーのケータイ電話を買うのは簡単ではない。
チョンキンマンションは、九龍半島の先端、香港の主な観光地区(ツィムシャツィ)にある。
チョンキンマンションでは驚くほど物価が安い。食事も宿も、ほんのわずかな費用しかかからない。かつて、チョンキンマンションの1階には120軒のうちケータイ電話を売る店が15軒、洋服を売る店が30軒あった。
宿泊所は90軒あり、合計すると1000をこえるベッドが用意されている。
アフリカ人が美味しいと感じる食事を出すチョンキンマンション内のほとんどのレストランが無免許で、したがって非合法だった。
チョンキンマンション内には暴力団組織が、かつては存在していたが、今はいない。
チョンキンマンションには、現に単独の所有者が存在しない。チョンキンマンションの所有権をもっている人は920人いて、その7割は中国人で、残る3割は南アジア人。つまり、アフリカ人所有者はいない。
チョンキンマンションは、一般的には、礼儀正しく、平和で、道徳的な場所だ。ここでの争いごとの多くで警察は蚊帳(かや)の外に置かれ、役に立たない。チョンキンマンションは、独自の警備隊をもっている。警備員は武器をもっていない。その主たる役目はエレベータ―付近の秩序維持にある。
チョンキンマンションを通りすぎる1万人のうち、2000人は亡命希望者、4000人は違法に働いている人々、残る4000人は貿易業者や合法的な労働者。
香港の警察に賄賂は通じない。ええっ、本当なんですか…。
興味深い学術研究書でした。2冊あわせて読むと面白いですよ。
(2021年3月刊。税込3080円)

百姿繚乱

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 嵐 圭史 、 出版 本の泉社
前進座で活動していきた嵐圭史の舞台生活70年の雄姿を紹介する写真集です。そのすごさに思わず息を呑みます。
嵐圭史の初舞台は、なんと1948年。私の生まれた年です。8歳で初舞台とは…。そして80歳の今も、前進座こそ離れましたが現役の役者です。すごいものです。並の根性ではありません。残念なことに、私が前進座の舞台を観劇したのは2回か3回ほどしかありませんし、何をみたのかも覚えていません。
ながらく前進座を支える柱である幹事長をつとめていて、70歳のときに後進に託したとのこと。いさぎよい身の退き方です。たくさんの舞台が見事な写真で紹介されています。1972年の「子午線の祀り」の嵐圭史は凛々しい若武者です。
1991年には「国定忠治」を演じ、唐丸籠(とうまるかご)に入れられています。
1997年に新しい国立劇場がオープンしたときには「夜明け前」を加藤剛とともに演じています。
嵐圭史が佐倉宗五郎を演じた「佐倉義民伝」はみた気がしますが、定かではありません。
嵐圭史が太閣秀吉をコミカルに演じた「大いに笑う淀君」という舞台があるそうです。
時代劇も嵐圭史の雰囲気にぴったりですよね。「瞼(まぶた)の女」の忠太郎は、いなせな浪人姿で決めています。
私は、ひところ山本周五郎にしびれていました。嵐圭史も「さぶ」を演じています。ぜひ、みたかったです…。
私の敬愛する井上ひさしの「たいこどんどん」では、アホな若旦那役を嵐圭史は見事に演じました。楽しい舞台だったと思います。
ちょっと変わったところでは、嵐圭史は親鸞になったり、日蓮になったり、また蓮如にも、と大忙しです。また、鑑真にもなっています。プロは本当になんにでもなれるのですね。さすがです。100頁足らずの濃密な写真に圧倒されました。
(2020年8月刊。2700円+税)
 
 歩いて5分の小川にホタルが乱舞しています。孫たちと一緒に見に行きました。ちょうど目の前に飛んできたので、両手でそっと包みこみ、孫の手のひらに移してやりました。小学1年生の孫は、つまんでみようとしますので、「見るだけ、見るだけ」と注意します。2歳の孫のほうは初めてのホタルに、少しおっかなびっくりで、こわごわ兄の手のひらのホタルをのぞきこみました。上の孫が、そっと手を開いてやると、ホタルはフワフワと飛び去ります。いつ見てもホタルはいいですよ。童心に返ることができます。

古代ローマ帝国軍マニュアル

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 フィリップ・マティザック 、 出版 ちくま学芸文庫
強大なローマ帝国の軍隊の実際を知ることのできる文庫本です。図解と再現写真があって、古代ローマ帝国軍の具体的なイメージをつかむことができました。
残念なことに、私は古代ローマ帝国軍に入隊できないことも分かりました。身長173センチ以上だというのです。もう少しで170センチあると思っていた私なんですが、年齢(とし)をとると身長が縮んでしまうのですね。今では残念ながら165センチを切ってしまいました。いやはや…。
ローマ軍団の最後尾にいるトリアリイというのは「3列めの古参兵」が直訳です。つまり、歴戦の古参兵なんですが、これは前の2段階の戦列が崩れたあと、戦列を維持するための兵集団で、このトリアリイの出番というのは、あとのあい崖っぷちの事態を意味している。なーるほど、ですね…。
古代ローマ帝国軍の1軍団の定員は6000人だけど、これは最大人数であって、実際には4800人ほど。それでも多いですよね。
ローマ帝国軍における騎兵は予備戦力であり、歩兵隊の両側を固めていた。馬は人間より分別があるので、敵の歩兵や騎兵が密に並んでいるところには突っ込んでいこうとはしない。敵の部隊が敗走をはじめたようなときに騎兵隊が出動する。騎兵隊は、およそ控えの戦力として待機している。馬は疲れやすい。敵を追撃するとき、また退却する味方を援護するために必要となる。
1個軍団に、百人隊長が60人ほどいる。
ローマ帝国軍の敵であるゲルマン人による猛攻は4分で終わる。なので、5分後まで生きのびるのがコツ。なるべく長く戦闘を避けていると、ゲルマン人は内輪もめを始める。
ユダヤ人は誇り高く、頑固だ。独自の長い歴史と伝統があるため、なかなか友好関係にならない。問題なのは、味方のユダヤ人と敵のユダヤ人との区別がつかないことにある。
ダキア人は恐ろしく人数が多く、強暴だ。
パルティア軍の貴族戦士はずばぬけた乗馬技術をもった。パルティア軍と戦ってみても、それはムダな努力でしかない。
古代ローマ帝国の旅行ガイドブック本の翻訳もした訳者が、分かりやすいコトバで訳文を刊行してくれました。なんとありがたいことでしょう。
(2020年12月刊。税込1485円)

ちひろ、らいてう、戦没画学生の命を受け継ぐ

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 小森 陽一 ・ 松本 猛 ・ 窪島 誠一郎、  出版 かもがわ出版
2020年の秋、「信州安曇野・上田、文学美術紀行」というツアー旅行が企画され、そのときの対談が本になっています。
私は日本全国、すべての県に行ったことが自慢の一つなのですが、まだ信州・安曇野にある「ちひろ美術館」をはじめとする美術館めぐりをしていません。実は昨秋、行くつもりだったのですが、コロナ禍によって流されてしまいました。そこで、今回はツアーの記録を読んで追体験しようと思ったのです。
この本で語られているのは、予想以上に深いものがありました。びっくりしました。
まずは、ちひろの絵です。「枯葉のなかの少年」で、男の子の服装が白いのは、秋の空気の色合いを見せるため。そして、足元に赤がないと絵が締まらないので、靴下は赤。なーるほど、ですね…。
ちひろが丹下左膳など剣豪を描くのが好きだという話には腰を抜かしてしまいました。ちひろのかれんな絵と剣豪の絵のイメージとのミスマッチからです。ところが、剣豪が瞬間的にピッと斬るときの気合がちひろには分かったという。いわさきちひろの絵は気合の勝負の絵なのです。
ちひろは、画用紙に向かって描き始めるまでの時間が長い。しかし、筆をおろしてからは早い。多くの場は、いっきに描いてしまう。そして、締め切りが必要だった。
ちひろは、「見せない」、「隠す」ところがあって、みる人の創造力をかきたてる。ふむふむ、すべては書き尽くさないのですね…。
少女の微妙な心理を連続した絵で描いたり(「あめのひのおるすばん」)、男の子の悲しみを表現するために、紙がむけるほど消しゴムで消しては描いている(「たたずむ少年」)。いやあ、こんな解説を聞かされると、ちひろの絵の深さにしびれてしまいますよね…。
らいてうの本名は平塚明子(はるこ)。夏目漱石の教え子だった森田草平と駆け落ちし、心中未遂事件を起こした。そして、漱石は森田草平をひきとって、自宅に2週間かくまった。さらに、漱石はらいてうの親に対して、草平が小説を書くことを了承しろと迫ったというのです。教え子の草平の苦境を救うためでした。
ところで、漱石の「草枕」に出てくる女性(那美)は、らいてうをモデルにしていたというのです。みんな同時代に生きていたのですね…。
この本の最後は、「無言館」の窪島誠一郎と小森陽一の対談です。これがまた読ませます。窪島の実父は水上勉。35年たって実父と面会し、また実母とも再会した。しかし、実母とは2回しか会わなかったというのです。いろいろあるものなんですね…。
窪島誠一郎の実父が水上勉だと分かってまもなく朝日新聞が大スクープとして紙面に紹介したいきさつは、不思議な人間社会の縁を感じさせます。要するに、このとき朝日新聞のデスクをしていた田代という人が、水上勉と同じ東京のアパートの隣室に暮らしていて、窪島のおシメを取り替えたこともあったというのです。こんな偶然も、世の中にはあるのですね…。
コロナ禍のせいで、思うように旅行できませんが、ますます信州の美術館めぐりをゆっくりしたいと思いました。このツアーに参加した元セツラー仲間から贈ってもらった本です。ありがとう。いいツアーでしたね。うらやましい。
(2021年3月刊。税込1870円)

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