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2020年11月 の投稿

ナポレオン戦争

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 マイク・ラポート 、 出版 白水社
皇帝ナポレオンの偉大さを究明するというより、ナポレオンの戦争遂行の実際を科学的に実証しようとした本です。なるほど、そういうことだったのかと、何度もうなってしまいました。著者はイギリスの歴史家(グラスゴー大学の准教授)です。
ナポレオンは横暴な両親による粗野な教育や兄弟たちとの激しい競争の下で育った。
ナポレオンは、怨恨と不満の塊でもあり、それがサディズムのような暴力への衝動につながった。
ナポレオンは、コルシカに育ち、氏族主義を抱き、生涯を通じて自分の家族の利益を増進させた。ただし、ナポレオンは王朝を望んだのではなく、むしろ権力の充足を目ざした。だから、家族であっても逆らったり、期待にそえなかったら、その人物は排除された。
フランス革命のナショナリズムは、正統な政府はフランス国民からのみ生じるという考えにもとづいている。だからこそ、ナポレオンは、「フランスの皇帝」ではなく、「フランス人の皇帝」として自分を戴冠した。
ナポレオンは、すべての兵士が将校へ昇給できるようにし、実際にも、在任中、それを実施した。すなわち、老練な兵士が下士官から将校できるようにした。たとえば、フランス軍の将軍2248人のうち、67%が貴族以外の出身だった。1804年のナポレオンの元帥18人のうち貴族出身と自称できたのは5人だけだった。ナポレオンは、フランスの軍隊に対して、垂範、プロパガンダ、顕彰、懲罰を用いて兵士に意欲を起こさせた。
ナポレオンの他国の領土支配の目的は、兵卒、資金、物的資源を戦争戦術に供出させることにあった。
ナポレオンのもとに、フランスの全人口の7%(これは適格者の36%)が徴兵された。この当時のフランスの人口は3000万人、ロシア4000万人、そしてイギリスは1500万人だった。
ナポレオン軍はロシア(モスクワ)までに全軍兵士の3分の1を脱走で、また、性病、チフスという病気によって失った。
(2020年7月刊。2300円+税)

蓼食う人々

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 遠藤 ケイ 、 出版 山と渓谷社
蓼(たで)食う虫も好き好き、とはよく言ったものです。
カラスを食べていたというには驚きました。フクロウを囮(おとり)にしてカラスを捕り、肉団子にして食べたというのです。カラスは赤肉で、歯応えがあって味わい深いそうです。カラスって不気味な真っ黒ですから、私なんかとても食べたいとは思いません…。
サンショウウオは、皮膚から分泌する液が山椒(さんしょう)の香りがするとのこと。知りませんでした。
野兎(のうさぎ)は、各家庭でつぶした。肉だけでなく、内臓から骨、毛皮まで無駄なく利用できる。野兎は、「兎の一匹食い」と言われるほど、捨てるところなく食べられる。なので、野兎のつぶしは、山国の人間の必須技術だった。野兎は鍋に入れる。味は味噌仕立て。白菜・大根・ネギに、スギヒラタケやマイタケを入れる。そして、別に野兎の骨団子をつくって、子どものおやつにした。肉が鶏肉に似ていて、昔からキジやヤマドリの肉に匹敵するほど美味なので、日本では野兎を一羽、二羽と数える。
岩茸(イワタケ)は、標高800メートルほどの非石英岩層の岩壁に付く。山奥の比類なき珍味だ。ただし、岩茸は、素人には見つけるのが難しい。1年に数ミリしか成長しない苔(こけ)の一種で、キロ1万円以上もする。
鮎(アユ)は、苦味のあるハラワタを一緒に食べるのが常道。なので、腹はさかない。頭から一匹丸ごといただくのが、せめてもの鮎に対する供養になる。
オオサンショウウオは、200年以上も生きると言われてきた。実際には野生だと80年、飼育下でも50年は生きる。
ヒグマは、もともと北方系で、寒冷な環境や草原を好み、森林化には適応できなかった。
敗戦直前の1944年に新潟県に生まれ育った著者は、子どものころ、野生の原っぱで、ポケットに肥後守(ヒゴノカミ。小刀)をしのばせて、カエルやヘビ、スズメや野バトを捕まえて解剖して食った。そうして、人間は何でも食ってきた雑食性の生き物だということを痛感した。
よくぞ腹と健康をこわさなかったものだと驚嘆してしまいました。
(2020年5月刊。1500円+税)

日清戦争論

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 原田 敬一 、 出版 本の泉社
日本の戦前を司馬遼太郎の史観で語ることを厳しくいさめる学者の本です。
1894年6月に、朝鮮への出兵が閣議決定されると、日本各地で義勇軍を派遣する動きが起きた。旧士族層を中心とし、国権派そして民権派まで加わった。
ええっ、そんな動きがあっただなんて…、ちっとも知りませんでした。
そして、義勇軍運動が中止に追い込まれたあとは、軍夫志願となった。岩手県では、兵士も軍夫も区別せず同じ扱いで送り出した。
日清戦争を契機として、日本国民の思想状況は大きく変化した。戦争の大義名分は、福沢諭吉が「文明と野蛮の戦争」と設定し、「宣戦の詔勅」も、「文明戦争」の枠で国民を説得した。そして、挙国一致が実態化していった。戦争こそが日本国民を創った。
日清戦争は4種類の戦争の複合戦争である。一つは、朝鮮王宮の景福宮における朝鮮軍との戦闘、狭義の日清戦争、東学党の旗の下に結集した朝鮮民衆との戦争、そして、台湾征服戦争。このとき、日本は、軍事的勝利、外交的敗北、そして民衆的敗北をした。
日清戦争に参加した軍隊と軍夫は合計して40万人。そのあとの日露戦争のときには100万人。対外戦争の勝利という見せかけに日本国民は酔っていた。
日清戦争のとき、日本の敵は清(中国)だけでなく、朝鮮国もあげられていた。
日清戦争の直前に朝鮮との戦争があり(7月23日戦争)、それにより日本は朝鮮政府の依頼(書面はない)によって清国軍を駆逐するという大義名分を得たと陸奥宋光外務大臣は発表した。
日清戦争により、日本は軍夫7000人をふくむ2万人の、清(中国)は2万4000人の、朝鮮は3~5万人の戦没者を出した。
勝海舟は、このころ枢密顧問官だったが、日清戦争の開戦後、この戦争には大義名分がないとする漢詩をつくった。つまり、日本政府の指導層にも、伊藤首相らのすすめる日清戦争を批判する人たちがいた。
日清戦争で派兵された軍隊は17万4017人、これに対して限りなく軍隊に近い軍夫は15万3974人。あわせて32万8000人。清国軍は、35万人なので、ほぼ匹敵していた。
日清戦争の実態に一歩踏み込もうという意欲の感じられる本でした。
(2020年4月刊。2500円+税)

当世出会い事情

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者 アジズ・アンサリ 、 出版 亜紀書房
スマホ時代の恋愛社会学というサブタイトルのついた本です。
スマホ時代になって、不倫の立証はかなり容易になってきました。だって、不倫相手とのやりとりが残っている(写しとられる)ことが多いからです。しかも、その会話は性的に露骨ですし、写真のやりとりも多いからです。
セクスティングというコトバを本書で初めて知りましたが、このコトバを知る前にその理由は見聞していました。
セクスティングとは、デジタルメディアを通じて、露骨に性的な画像を共有すること。
なぜ人々はセクスティングをするのか?
パートナーと親密さを共有するため、性的な魅力をアピールするため、パートナーの求めに応じるため、遠距離をこえて愛情を保つため…。
ところが、親密な時を分かちあう贅沢とプライバシーを与えてくれるテクノロジーが、その一方で、悲しいことに、パートナーの信頼を大きく裏切る行為も可能にしてしまう。
世間には、性的に健全で、まともな人間はセクスティングなんかしないと考えている人も多いが、実際には、そうではないという証拠が山ほどある。
大人たちがセクスティングの危険をどう考えようと、若者たちのあいだでは、それがどんどん普通のことになりつつある。
スマホによって浮気も簡単に可能になった。アメリカで恐ろしいほど人気のある出会い系サイトは会員数1100万人だ。3年前に850万人だったのが急増している。ここのモットーは、「人生一度。不倫をしましょう」だ。
SNSが浮気を簡単にできるようにした半面、そのためにはいっそう発覚しやすくもなった。
ちなみにフランスでは、政治的リーダーが少なくとも愛人をもち、そしてしばしば第二の家庭まで築くものだと、国民の多くが理解している。フランソワ・ミッテランが大統領だったとき、愛人と娘がエリゼ宮にしばしばやってきていた。エリゼ宮には正妻と子どもたちがいることを承知のうえで…。そして、ミッテランの葬儀のとき、第一家族の横に第二家族が並んで座った。
うひゃあ、そこまですすんでいるのですか…、知りませんでした。
出会い系サイトにアップする写真についてのコメントもあります。
女性の場合には、カメラに向かって誘いかける感じのほうが成功率が高い。ところが、男性のほうは笑わずに視線をそらしているほうが、ずっと効果をあげる。女性にとってもっとも効果的な撮影アングルは、正面からの自撮りで、ちょっとはにかんだ表情を浮かべ高い角度から撮るのがいい。男性では、動物といっしょの写真がよく、もっとも効果が薄いのは、アウトドア、飲酒、旅行の写真。
世の中、スマホですっかり変わってしまいました。
(2016年9月刊。1900円+税)

植民地支配下の朝鮮農民

カテゴリー:朝鮮・韓国

(霧山昴)
著者 樋口 雄一 、 出版 社会評論社
日本が戦前、朝鮮半島を植民地として支配していたときの実情を詳しく調査した本です。
日本の植民地下の朝鮮の人口の8割は農民であり、2500万人の2割、500万人もの人々が日本だけでなく、中国東北部(満州)や中国、そして南洋へ移動した。それは16歳から50歳までの稼働労働人口だった。その主たる要因は食の窮迫にあった。
朝鮮総督府のレポート(1941年版)にも、食糧の不足から、人々は食を山野に求めて草根木皮を漁り、かろうじて一家の糊口をしのいでいるとしていた。
当時の朝鮮の乳幼児の死亡率は30%ほどで、2歳か3歳まで生きていて初めて出生届をした。なので、平均寿命を統計的に明らかにすることができなかった。
本書が分析の対象としている江原道は、平均寿命が43歳と低かった。
江原道は高地が多く、冷害の被害を受けやすかった。自作率の高いことが特徴。
江原道は、畑作地帯で、大豆・小豆とも良質の品種がとれた。農家の半数は牛を飼養していて、養蚕も盛んだった。
朝鮮社会の主食は87%が混食で、米や麦も粟などと一緒に炊かれていた。魚も肉もほとんど食べられず、副食はキムチと味噌が大半だった。
トウモロコシとジャガイモだけでは人々の成長は遅く、皮膚病にかかりやすかった。
江原道でも蜂起があり、日本軍と戦った。蜂起には5千人以上が参加し、銃器も3千丁ほど所持していた。しかし、日本軍は砲兵隊や機関銃をもち、最新式の軍隊だった。
蜂起軍は、「暴徒」というレベルをこえ、指揮と戦闘体制がととのっている部隊もあった。日本の支配に反対するという明確な目標をもつ、民衆の自覚的な運動だった。
日本軍は、正規軍と憲兵隊そして警察が一体となって殺戮を行い、蜂起軍を鎮圧した。
朝鮮総督府はケシ栽培とアヘン生産を統制し、推進した。そして、戦前の朝鮮には少なからぬ、麻薬中毒者がいた。そして、日本は今度は、麻薬を朝鮮や中国に輸出した。
朝鮮総督府は軍部をバックとしてケシの生産を割りあてていた。朝鮮における麻薬生産は総督府の指導のもとで、大々的に行われていた。
江原道庁には、日本の敗戦間近なころから不穏な動きがあった。住居などを朝鮮人が日本人から買い取るという申し込みもあっていた。朝鮮人は知識人を中心として、ラジオで世界情勢を知り、日本の敗戦が間近に迫っていることが共通認識となっていた。
日本敗戦時、日本内地に200万人の朝鮮人が居住していたが、満州にも200万人、中国各地に計100万人の朝鮮人が暮らしていた。2500万人の朝鮮人の2割が国外に暮らしていた。
朝鮮半島の中央部にある貧しい江原道の戦前の実態が紹介されている労作です。
(2020年3月刊。2600円+税)

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