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2020年11月 の投稿

マンモスの帰還と蘇る絶滅動物たち

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 トーリル・コーンフェルト 、 出版 A&F
19世紀半ば、アメリカ東部には30億から50億弱のリョコウバトがいた。ところが、人間の乱獲によって絶滅してしまった。安い肉として食べ尽くされてしまったのだ。
そして、1980年にヨーロッパの鳥100羽をニューヨークのセントラルパークに放したところ、今や2億羽も生息して、自然と農業の両方に脅威となっている。ヨーロッパホシムクドリだ。うひゃあ、そんなことが起きるのですね、信じられません。
シベリアの凍土に眠っていたマンモスの牙がどんどん掘られ、中国人バイヤーに高く売られている。毎年60トンものマンモスの牙が中国に売られている。
ある中国の企業は、15キロ以上にはならない遺伝子組換えミニブタを販売している。ブタにどんな斑模様がほしいかを前もって顧客に決めさせ、すべての赤ん坊ブタを注文どおりに組み換えようと計画している。
1876年に、アメリカは日本からクリの木を輸入した。日本のクリはアメリカのクリより小さく、樹木の美しさとその実のためだ。ところが、一緒にクリ胴粘病菌も日本から入ってきた。そのためアメリカの野生のクリは破滅した。日本のクリの菌に耐性がなかったからだ。アメリカでは50年間に300万本ものクリの木が枯れてしまった。
アメリカのイエローストーンにオオカミが放たれたことが自然生態系の保護にいいというのも最近では疑問符がついている。
人間に慣れすぎ、その行動を人間に合わせるようにならないように捕食動物を育てて、放つというのはとても難しいこと。
絶滅したマンモスをよみがえらせるというのは、実にむずかしいこと。マンモスだろうが蚊だろうが、動物が死ぬとその身体はすぐに分解しはじめる。長いDNA分子は、最初に壊れるものの一つだ。DNAは、タンパク質やほかの細胞構造に比べて、弱く不安定なのだ。
恐竜のゲノムを研究するには、DNAに6500万年間も残っていてもらわなければいけないということ。この道のりは遠い。とてもよく保尊された恐竜の化石を対象にして、なんとかほんの少しのタンパク質の固定はできた。コラーゲン、ケラチンなど。しかし、DNAはかけらさえ見つかっていない。
絶滅してしまった種を再び復元することがいかに至難のことなのかが、チョッピリ理解できました。スウェーデンの女性科学ジャーナリストによって書かれた専門的な本です。
(2020年7月刊。2200円+税)

団塊ボーイの東京

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 矢野 寛治 、 出版 弦書房
団塊ボーイって誰のことだろうと思って本を手にとると、私とまったく同世代の人でした。
私も福岡から1967年に東京に行って生活をはじめました。決定的に違うのは、著者は朝夕2食付き(月1万円)の下宿生活をしていたのですが、私は寮費月1千円の6人部屋の寮生活をはじめたということです。1年生が5人で、1人だけ2年生でした。みんなで真面目に岩波新書の読書会をやったりしていました。そして、5月からは学生セツルメント活動に没入していましたので、語学のクラスでは垢抜けたシティボーイたちに気遅れはしましたが、寮では田舎者ばかりだし、セツラーは大学も学科もさまざまな人がいて、しかも生きのいい女子学生がわんさかいましたので、寂しいなんて感じるヒマもないほど、毎日忙しく身体を動かしていました。
東京が両手を広げて自分を待っていてくれている、と思っていた。すぐにガールフレンドができて、楽しい日々が展開するものと思っていた。
この点は、私もまったく同じでした。
世の中は甘くない。ただ、井の頭公園の池面の水を眺めているだけの日々だった。
ここが私と違うところです。
著者は実家から毎月3万円が送金されてきたとのこと。そして、その見返りに、毎週、実家に手紙を書いた。これが約束(条件)だった。そして、息子の異変を手紙で察知すると、大分から直ちに両親は上京してきた。
私には、それはありませんでした。東大闘争に突入して以降、親は息子のことを心配していたと思いますが、私が年に1回帰省するくらいで、親が上京してきたことは一度もありません。私が司法修習生のころ結婚するとき、その前に上京してきて、はとバスで東京遊覧したくらいです。
著者の親のおみやげは、いつも自然薯だったとのこと。大分の名物なのでしょうね。
著者は麻雀に入れこみ、かなり強いようです。それでも、ヤクザ者との麻雀ではまき上げられてしまっています。
東京で生活すると、とんでもない上流階級の身分の連中に身近に接することがある。
なるほど、それは私にもありました。なにしろ、大学に自家用車でやってくる学生がいたのです。それも大学入学祝いに買ってもらった…、なんていう学生がいたのです。私のほうは、寮にこもり切りで生活すると、最低月1万3千円で生活できることを実践的に証明していました。
著者はコピーライターとして活躍してこられたようですね。そう言えば、中洲次郎というペンネームには見覚えがあります。50年以上も前の東京での日々が描き出されていて、身につまされるところが多々ありました。挿絵がよくよく雰囲気をかもし出しています。
(2020年5月刊。1800円+税)

七人の侍、ロケ地の謎を探る

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 高田 雅彦 、 出版 アルファベータブックス
日本屈指の傑作時代劇映画『七人の侍』は何年も前に映画館「中州大洋」でみたように思います。やはり映画館の大スクリーンは迫力が違いました。
映画が公開されたのは1954年4月。上映時間は3時間27分。観客700万人、2億9千万円の配給収益。撮影期間は10ヶ月間。製作費は2億Ⅰ千万円。これは通常の3~4千万円の5~7倍。
黒澤明監督43歳、志村喬(島田勘兵衛)48歳、三船敏郎(菊千代)33歳。いやあ、みんな若いですね…。
通俗アクション映画にして、アート(芸術)映画。人間の業(ごう。わざ)、つまり本質を描いた悲劇であり、喜劇。動と静、熟練と未熟、理想と現実、正と死が隣り合わせ、観念性とテーマ性が見事に融合した奇跡的な映画。
『七人の侍』は、世界中で「映画の教科書の一本」、あるいは「映画のなかの映画」として評価されている。あの『スター・ウォーズ』も『七人の侍』の影響を受けているとのこと。
この本は、『七人の侍』が撮影されたロケ地を探し求めて、ついに特定したという苦労話のオンパレードなのですが、撮影している光景の写真がたくさんあって、撮影当時の苦労がしのばれ、とても興味深いのです。
伊豆長岡、御殿場、箱根仙石原、そして、世田谷区大蔵の東宝撮影所でした。世田谷区大蔵は、当時は見渡すかぎり畑のみで、キツネや狸が横行する土地だったのです。
『七人の侍』のラストの野武士たちに対して侍と百姓連合軍による雨中の決戦シーンの大迫力は、思い出すだけでも身震いしてしまうほどの物すごさでした。これは、西部劇で雨が降ることのないことに対比させて、「雨で勝負しよう」という黒澤明のアイデアだったとのこと。そして、この映画で降らした雨の量は半端ではなかった。消防団のポンプ7台(8台か?)をつかって近くの仙川から汲み上げた水をたっぷりまき散らしたのです。
ところが、撮影直後の1月24日、東京は大雪が降った。30センチもの積雪となり、この雪を水で溶かすと、オープンセットの地面は、もとが田園だったため、セットはたちまち泥田に変貌した。
雨中の決戦シーンは9分間。4台のカメラを使って、一発勝負の撮影だった。さすがの三船敏郎も、このあと1週間も大学病院に入院したとのこと。
ロケ地を探る過程で現地を訪ねて歩いているうちに、映画に群集の子役で出演したという人に出会います。なんと1947年うまれ。私と同じ団塊世代です。出演料としてキャラメル1箱をもらったそうです(親は、お金をもらったのでしょうが…)。
御殿場ロケのときには、富士山が写り込まないように苦労したという。それは、映画の舞台が、日本のどこだか分からないという設定なので、富士山が見えたら興醒めだから…。なーるほど、ですね。
それにしても撮影終了(クランクアップ)して、1ヶ月後に公開するなんて、信じられませんよね…。黒澤明監督は、10ヶ月の撮影期間中に、ずっと編集もしていたということなのですが、それにしても、スゴすぎます。43歳にして1954年に2億Ⅰ千万円をつかう映画をまかされるなんて信じられません。
『七人の侍』を映画史上最高傑作と考えている人には、ぜひ読んでほしい本です。
(2020年7月刊。2500円+税)

歴史戦と思想戦

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 山崎 雅弘 、 出版 集英社新書
いま、広く読まれるべき本だと思いました。残念ながら…。
読みはじめる前は、なんだか大ゲサなタイトルだな、と思っていました。ところが、サンケイ新聞は2014年から「歴史戦」と名付けた「戦い」をすすめてきたというのです。驚きました。
戦後70年たって、日本は本来の歴史を取り戻す「歴史戦」にうって出るべきだとサンケイ新聞編集委員が叫んでいるというのです。いったい日本の「本来の歴史」とは何を指しているのか…。
著者は、それは戦前の大日本帝国を指していて、そこに戻ろうということだと明快に指摘しています。つまり、とんでもない呼びかけなのです。
そして、「歴史戦」を呼びかけるとき、それは歴史研究の分野に日本対韓国の「戦い」という国家間の対立、すなわち政治を持ち込んでいるのです。
桜井よし子は、「主敵は中国、戦場はアメリカ」と本に書いている。つまり、日本の「敵」は中国と韓国だというのです。なんという偏狭さでしょうか、時代錯誤もいいところで、とても正気とは思えません。
ところで、この本には、サンケイ新聞社長だった鹿内(しかない)信隆が、戦前に日本陸軍の将校として、経理学校で慰安所の運営規則が教えられていたこと、つまり軍が慰安所の運営に関わっていたことをサンケイ出版の本で明らかにしていることを紹介しています。まさしく慰安婦は陸軍のよる性奴隷だったのです。
南京虐殺について、「歴史戦」を主張する人は、「人数の問題」にすり替える論法をつかって、虐殺自体がなかったとする。これは、「誤った二分法」と呼ばれる詭弁(きべん)論法のパターン。受け手を錯覚させる心理誘導のテクニックだ。要するに、ごく一部の人の「見てない」という体験をもとに、全体の大虐殺はなかったとしてしまうのです。その論法が不合理なことは明らかです。30万人でなく、たとえ3万人であっても、大虐殺であったことには変わりありません。
シンガポールでも日本軍は現地の市民を5万人も虐殺したとされています。ここでは「歴史戦」を主張する人たちは、虐殺が「なかった」とまでは言わず、言葉を濁してはぐらかすか、はじめから無視するだけ。あまりに無責任です。
「歴史戦」を主張する人にとって、勝ち負けを競う論争ゲームであって、将来の人々に対して何の知的成果ももたらさない。これでは困ります。きちんと祖父や父が何をしたのか子や孫に伝えるべきです。
自虐史観というときの「自」とは、大日本帝国の臣民としか考えられない。なーるほど、そういうことだったんですね。時代錯誤もはなはだしく、とてもついていけません。
著者は、この本の最後に「歴史戦」の人々に対して、戦前・戦中の「大日本帝国」の名誉を回復することではなく、戦後の「日本国」の名誉や国際的信用を高めるような方向への路線を転換し、基本的な戦略を練り直したらどうか、と熱く呼びかけています。まったくそのとおりです。というわけで、ご一読をおすすめします。
(2019年11月刊。920円+税)

従軍看護婦

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 平松 伴子 、 出版 コールサック社
従軍看護婦は、戦後、兵士とちがって「軍人恩給」は支給されなかった。なぜか…。
問題が表面化して、1978年から支給されるようになったが、それは恩給ではなく、慰労給付金。これは国庫補助による日本赤十字社から支給された。そして、支給対象者は、従軍した日本赤十字社の看護婦の5%にもみたなかった。うひゃあ、それはひどい、ひどすぎますよね。
恩給を出せない理由を厚生省(当時)は、次のように説明した。
従軍看護婦の勤務実態がよく分からない。何人がどこに従軍したのか、どこで何人死んだのか、それは本当に戦死だったのか…。厚生省には詳しい記録がないから…。
いやはや、なんということでしょう。しかも、厚生省は、従軍看護婦には招集令状ではなく、招集状が出ていただけ、つまり天皇の命令ではなかった、断ることもできた、つまり、自分の意思で戦場に行った、自ら進んで、戦地に赴いたのだ…。それは、なるほど、一面の真理だった。
男は兵士に、女は従軍看護婦に行って、お国のために戦う。若い人の多くがそう考えていた。なので、親が止めるのを振りきって女性たちは戦場へ出ていった。しかし、それでも兵士とちがうと、差別するだなんて…。
戦場に行くのは男も女も当然だし、それはまた大きな「名誉」でもあるという心情がつくりあげられていたのだ…。もし従軍看護婦がいなかったら、傷病兵の治療や世話は誰がしたのか。従軍看護婦の名簿がつくられず、その勤務状況を把握しなかったというのは国の怠慢ではないのか。日本赤十字社は、国の命令で看護婦を戦場に送り出したはず。だったら国が責任をとらないのは、おかしい…。
そして、敗戦後、中国大陸に残っていた従軍看護婦のなかからソ連兵の慰安婦として供出されていった。それは病院長(陸軍中尉)と事務長(陸軍少尉)が、自分たちの命を守るための命令だった。そして、慰安婦とされた女性の多くは病死し、自死した。ところが、陸軍中尉と少尉は無事に日本に帰国し、やがて警察予備隊に入り、そして自衛隊の幹部に出世していた。
戦後、従軍看護婦のなかに慰安婦になることを拒否して集団自決した人たちがいたなんて、初めて知りました。小説という形をとって、その状況が詳しく再現されています。真実をもっともっと知るべき、知らされるべきだと痛感しました。
(2020年8月刊。1500円+税)

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