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2020年5月 の投稿

はたらく浮世絵

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 橋爪 節也・曽田 めぐみ 、 出版  青幻舎
浮世絵師の三代歌川広重が描いた大日本物産図会です。
なるほど、写真でなくても、こんなに当時の職業の実際が生き生きと描けるのかと驚嘆しました。なにしろ驚くほど写実的なのです。まるで、目の前で本当にたくさんの人々が、それぞれの職業を営んでいるかのようです。
大日本物産図会は、明治10年(1877年)の第1回四国勧業博覧会に出品された各地の名産品を描いた錦絵のそろいもの。
明治10年というと、西南戦争があった年です。ですから、薩摩の名産品はありません。
描いた三代歌川広重は天保13年(1842年)に船大工に生まれた、本名は後藤寅吉という。三代広重が浮世絵師としてデビューした翌年、明治となり文明開化がすすんだ。当時は写真が普及していないことも幸いして、三代広重は浮世絵師として順風満帆だった。
団扇(うちわ)をつくって売る店の内部が描かれています。それも、団扇づくりにみんなで励んでいる店の奥のほう(バックヤード)を前景とし、店先に客がむらがっているのを後景にするという珍しい配置図です。なので、そうか、こうやって明治の初めに団扇をつくっていたのか、その製造工程がよく分かります。
菅笠(すげがさ)をつくっている店の店内を描きつつ、店先を洋鞄(カバン)を手にもち、洋傘を差し、洋靴をはき、洋帽をかぶった和服の男性が歩いていく絵もあります。まったく奇妙な絵です。ザンギリ頭をたたいてみれば、文明開化の音がする…より、少しだけあとの世相をあらわしています。
駿河国(静岡)では、ミツマタの皮を原料とする「駿河半紙」をつくっていた。全体に赤褐色を帯び、裂けやすいという欠点があったが、安価なため重宝されていた。
生糸をつくるための蚕の養殖の絵もあります。当時、ヨーロッパでは微粒子病が流行していて、日本産の蚕紙(さんし)に対する国際的な需要が高まっていた。
当時の日本は、ジャパン・ブルー(藍染の青)であふれていた。日本に藍染の衣類が多いことが分かる。
土佐の浜辺で、漁師とその妻たちが集合し、カツオをさばいて商品化している。
対馬でとれるなまこは古くから珍重されていたということで、海上でのなまことりの状況も描かれています。このなまこは清(中国)へ輸出されていました。
北海道では、ラッコの猟も描かれています。このころ、ラッコの毛皮に対する需要は高く、ロシア帝国の南下政策を支えた一因でもあった。
熊の胆(い)をとるため、雪深い加賀の山中で猟師が斧で冬ごもり中の熊をおびき寄せて殺す絵もあります。
カラフルな浮世絵のオンパレードです。当時の世相を楽しく学ぶことができました。明治初めではありますが、江戸時代の人々の生活が描かれている気がしました。
(2019年12月刊。2300円+税)

トキワ荘の時代

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者  梶井 純 、 出版  ちくま文庫
 私が小学生のころ、『少年サンデー』が週刊誌として発売されました。1959年(昭和34年)のことです。しがない小売り酒屋の三男坊だった私は、そんなマンガ週刊誌なんて親に買ってもらえませんでした。でも、同じクラスに医者の息子がいて、彼から借りて読むことができたのです。
そのなかに「スポーツマン金太郎」というのがありました。作者は寺田ヒロオです。スポ根ものというより、ほのぼのタッチに近いというイメージが残っています。トキワ荘では「テラさん」として登場したのでした。
テラさんは、仲間たちから愛され、信頼される人柄でした。トキワ荘アパートがあったのは豊島区で、このころ木造賃貸アパートが東京一密集していたうちの一つだったのです。
トキワ荘アパートが建ったのは1953年(昭和28年)初めのこと。ここに手塚治虫が入居し、その年の暮れに寺田ヒロオも住むようになった。一部屋の家賃は月3千円。寺田ヒロオのマンガは、なんかふんわりした、笑いだとしても微笑するくらいのマンガ、それが一番好きな世界だった。
手塚治虫は、けっして見下した態度をみせず、誰に対しても励ましの言葉を忘れなかった。これは、才能というより、生来の気質だった。
寺田ヒロオは、他からは落ち着いているようにみえたが、本人に言わせると、動作ものろいうえ、うまく口もきけないので、無口になるしかなかったからだということになる。
安孫子は、かしこく、陽気さと筋道だった思考による積極的な対話を得意としていた。安孫子は、マルクス『資本論』も読んでいたとのこと。さすがです。
そして、若いマンガ家たちは、よく映画をみていたようです。赤塚不二夫も石森章太郎も映画キチガイだったとのこと。
トキワ荘にいた若いマンガ家たちにとって、寺田ヒロオは常におとなびたまなざしで仲間を見守る存在だった。寺田ヒロオへの信頼感は、無限にやさしい家父長に対するもののように、ほとんど絶対的なものだった。
赤塚不二夫は、従業員わずか6人の零細工場で働く中卒の工員だった。それで偉大なマンガ家になったのですから、すごいことですね。
1957年ころ、池袋の居酒屋で寺田や安孫子が飲んでいる写真があります。なんだか、ほのぼのしてくる雰囲気の写真です。
トキワ荘によって立つ若いマンガ家たちの息吹のなかで苦闘する寺田ヒロオの足どりを知り、なんだかほっとする思いでした。読後感のすがすがしい文庫本です。
(2020年2月刊。880円+税)

奇妙な瓦版の世界

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 森田 健司 、 出版 青幻舎
瓦版(かわらばん)とは、江戸時代に大変な人気を博していたマスメディア。明治に入ってからも20年以上は存続していた。ただし、もっとも勢いのあったのは、江戸時代の中期から末期にかけてのこと。
和紙に記事と絵が摺(す)られていた木版画で、簡易な新聞のようなもの。
江戸時代には瓦版とは呼ばれず、読売(よみうり)、一枚摺(いちまいずり)、絵草子などと呼ばれていた。
瓦版は基本的に違法出版物であり、幕府は瓦版によって庶民に情報が流通することに危機感をもち、早くも1684年(貞享元年)には瓦版の禁令を出している。それでも、瓦版は庶民のなかでしぶとく生き続けた。
瓦版は店舗販売ではなく、町中で読売という売子が売っていた。売子は深い編笠で顔を隠して売っていた。瓦版は墨摺1枚4文、100円ほどで、多色摺だと倍以上した。
瓦版は商売のため、もうかるためのもので、作成者に社会的使命はなかった。
黒船に関する瓦版の絵は大変迫力がありますが、これは長崎版画のオランダ船図を模倣したものという解説に、なるほどそうだろうなと納得しました。単なる遠くからの目撃で、これほど細密に黒船を描けるとは、とうてい思われません。
九隻の黒船について、八隻が瓦版で紹介されていますが、船や乗組員の名前に正解に近いものが多い。例えば、船名のレキスンタンはレシントン、ホウハワタンはポーハタン。通訳のホツテメンは、ポートマン、五番船の大将「フカナン」はブキャナンなど…。
ペリー一行に対して日本の高級料亭として名高い「百川」(ももがわ)の料理を提供した。その費用は1500両(今の1億5千万円)。ただ、魚介類中心の料理だったので、ペリーたちの評価はあまり高くなかった。瓦版は、その食事風景を描いています。当時の庶民の好奇心を満たしたことでしょう。
幕末には写真が登場しますが、その前には絵しかなかったわけですので、瓦版の絵とそれを紹介する文章は大変貴重なものだと思います。楽しく眺めることのできる瓦版の世界でした。
(2019年12月刊。2500円+税)

松本清張が『砂の器』を書くまで

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 山本 幸正 、 出版 早稲田大学出版部
あまり本を読まない、小説を読まない人でも、日本人なら松本清張の名前を知らない人は、まずいないと思います。
松本清張は1960年ころが最盛期だったのでしょうか。平均で毎月11本もの作品を発表していたのです。驚くべき作家です。
この多作を支えていたのは、松本清張が口述筆記をしていたからで、専属の速記者がいまいした。そして、松本清張は、文語体で話していたのです。これまたすごいことです。
朝9時から仕事にかかり、夜の11時にはどんなことがあっても終わりにした。徹夜は絶対にしない。午後4時ころ、30分間は必ずお昼寝した。
1日に20枚から25枚の原稿を書く。1日10時間、1時間に2枚の割合だ。
週刊誌4本、月刊誌5本の連載をかかえていた。
松本清張は地方紙、ブロック紙、全国紙の夕刊そして朝刊というように一歩一歩ステップアップしていった。
『砂の器』は、その前の1960年5月から翌年4月まで新聞小説として読売新聞の夕刊に連載された。
そして、この『砂の器』は、ミリオン・セラーといっても436万部もの超ベストセラーだ。2位が『点と線』206万部、3位が『わるいやつら』228万部、そして4位は『ゼロの焦点』215万部となっている。
松本清張の作品は今なお、繰り返しテレビでリメイクされて放映されている。今もやってますね。なので、松本清張は、まぎれもなく現役の作家なのである。2019年3月、フジテレビは『新・砂の器』を放映した。死してなお、松本清張はますます健在である。
新聞小説は特殊な小説だ。400字詰め原稿用紙3枚半の原稿を毎日掲載し続ける。読者の興味をつなぐ工夫が必要とされる。新聞小説は、小説を読むことを第一には考えていない購読者を満足させなければならない。こった表現は避け、会話をできるだけ多くして、紙面を文字で覆い尽くさないように心がける。
新聞小説は、読者という他者を、否応なく書き手に意識させてしまう特殊なジャンルの小説なのだ。読者を退屈させないために、筋も境遇も人物も、みんな創作しようとする姿勢は、まさしく松本清張のものだ。
野村芳太郎監督の映画『砂の器』は、橋本忍と山田洋次が脚本を担当している。そして、『砂の器』は、この映画のあとは、すべて原作ではなく、この映画を規範としている。
映画の感動をもとに原作を読むと、「あまりのつまらなさに愕然とする」と酷評する評論家すら存在する。ええっ、そ、それは、いくらなんでも言い過ぎでしょう…。
本書は早稲田大学の博士論文を出版したものですから、やや学術論文としてくどい(難しい)ところもありますが、松本清張が『砂の器』を書くに至った前後を深く掘り下げたものとして、関心のある人には一読をおすすめします。
私はコロナ問題で仕事が暇になったので、喫茶店にこもって半日で読みあげました。
(2020年3月刊。4000円+税)

あやうく一生懸命生きるところだった

カテゴリー:朝鮮・韓国

(霧山昴)
著者 ハ・ワン 、 出版 ダイヤモンド社
韓国で25万部も売れてベスト・セラーになった本です。
イラストレーターになって、しゃかりきにがんばったこともある著者が、ある日、ふと、いったい自分は今、ここで何をしているんだろう…と振り返ってみたのです。すると…。
必死に努力したからといって、必ずしも見返りがあるとは限らない。
必死にやらなかったからといって、見返りがないわけでもない。
人生とは、実に皮肉なものだ。
2000年代の初め、テレビで有名女優がカード会社のCMで、こう叫んだ。
「みなさーん、お金持ちになってくださーい」
私はテレビを見ることはありませんが、日本のテレビでこんなCMが流れるとは、とても思えません…。この「お金持ちになってください」という言葉は、韓国では、またたく間に国民的流行語になった。それ以降、韓国では、「お金持ちになろうフィーバー」が吹き荒れた。そして、韓国は、お金が最高という、物質万能主義社会になった…。そういうものなんでしょうね。
ほかの選択肢はないと妄信(もうしん)してしまうのは、いかに愚かなことか…。
世の中、そして人生は、決して一筋縄ではいかない。世の中のすべてが自分ひとりで解決できるレベルの問題ではないからだ。
理想どおりにならなくても人生は失敗じゃない。人生に失敗なんてものはない。
自分が自分の人生を愛さずして、誰が愛してくれるだろうか。自分の人生だって、なかなか悪くないと認めてからは、不思議とささいなことにも幸せを感じられるようになった。
幸いにも、万人ウケしそうなものをやっても結果は変わらない。
結果なんか分からないのだから、自分の好きなことをやったほうがいい。
「一生懸命がんばります」と言うとき、嫌いなことを我慢してやり遂げるという意味が含まれている。つまり、楽しくないのだ。
だから、一生懸命に生きるのは、つらい。それは我慢の連続だから。同じ人生、どうせなら「一生懸命」より、楽しく、のほうがいい。
天才は努力する者に勝てず、努力する者は楽しむ者に勝てない。
つまるところ、人生は一回こっきり、あまり肩肘張らず、ゆったり気分で、1日を過ごしたい。たしかに、そんな気にさせてくれる本でした。
(2020年3月刊。1450円+税)

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