法律相談センター検索 弁護士検索
2020年2月 の投稿

一粒の麦、死して

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 田中 伸尚 、 出版  岩波書店
『史談裁判』の著者として有名な森長英三郎弁護士の「大逆事件」との関わりに焦点をあてた本です。不思議なことに、森長弁護士は先輩弁護士の小伝をたくさん書いていながら、自分については「伝記拒否」を遺書に書いていたというのです。信じられません・・・。
「大逆事件」の仮出獄者には公民権がないだけでなく、釈放してからも常に警察に見張られ、その居場所を明らかにしなければいけなかった。
「大逆事件」では、死刑者12人。死刑判決のあと無期に減刑された12人のうちの8人は獄中で病死、自殺で死亡した。つまり20人が命を失った。戦後1947年の時点では、4人だけ生き残っていた。
「大逆事件」で起訴された26人の被告人の弁護をした弁護士には、国選(官選)、私選もあるが、磯部四郎、花井卓蔵、今村力三郎、鵜沢総明。いったん引き受けながら辞退したのは江木衷(まこと)弁護士。
検察側は検事総長の松室致(いたる)や、司法省民刑局長の平沼騏一郎(きいちろう)。
「大逆事件」の被告人となった26人の被害者を記憶する記念碑が全国に12基ある。東京監獄、市ヶ谷刑務所は、今の新宿区余丁町88番地にあった。ここで「大逆事件」の死刑が執行された。
1964年7月15日、死刑者慰霊塔がたてられた。
石川啄木は、「大逆事件」のころ東京朝日新聞社の校閲記者だった。啄木は、平出修弁護人や社内で得た情報から、かなり正確に「大逆事件」の真相をつかんでいた。
「それは、単に話しあっただけ、意思の発動だけにとどまっていて、まだ予備行為にも入っていなかった・・・」
森長英三郎が弁護士になったのは、弁護士の大量増員による弁護士窮乏化が喧伝(けんでん)されていたころだった。弁護士が1912年ころの2000人が3倍以上の7000人になっていた。昭和恐慌による弁護士の窮乏化が始まっていた。加えて、戦時体制が強化されるなかで、弁護士会も全体として戦争に協力する方向になっていた。
したがって、弁護士全体がときの政府や非常時に迎合していた。治安維持法は悪法であり、被告人の行為は正当だとまでは言えなくても、もっと穀然とした態度で弁論できる方法があったのではないか・・・。
「大逆事件」で刑死した一人の和歌山の医師・大石城之助はアメリカに留学して、アメリカで医師免許をとっている。そして、この大石は医師業のかたわら情歌作者としても活動していた。大石は、1899年1月に日本を出てシンガポールに滞在した。さらにインドで伝染病を研究し、社会主義も学んで1901年1月に日本へ帰国した。
「團珍」が1901年10月に情歌大懸賞として情歌を募集したところ、全国から3万6000首もの広募があった。
大石が茶飲み話として語ったアメリカ視察の話が天皇暗殺の謀議とされたのだ。
1911年、与謝野鉄幹がつくった詩の一部は次のようになっている。
「ほんにまあ、皆さんいい気味な
その城之助は死にました
城之助と城之助の一味が死んだので、
忠良な日本人は之から気楽に寝られます。
おめでとう」
「大逆事件」の関係者・遺族をずっとずっと掘り起こす旅を続けていたというから、たいしたものです。驚嘆しました。
(2019年12月刊。2700円+税)
 日曜日の午後、久しぶりに庭に出ました。
 チューリップ畑が雑草だらけでしたので、一生けん命引き抜きました。チューリップの芽があちこち隠れていました。今年は温かくて紅梅も白梅も咲いています。鮮やかな黄色の黄水仙そして淡い黄色のロウバイも咲き誇っています。
 ヒヨドリが群れを出して飛びまわっています。今年の冬はなぜかジョウビタキの姿をあまり見かけません。
 ジャガイモを植える準備としてウネづくりもしました。朝からノドが痛くて、風邪の前ぶれかもしれません。コロナウイルスにやられないよう免疫力をつけるつもりです。

マグロの最高峰

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 中原 一歩 、 出版  NHK出版新書
本当に旨(うま)いマグロは人生観さえ変えてしまう・・・。
本当でしょうか。私の町にも、昔から美味しいマグロを食べさせてくれる鮨屋があり、大変気に入っていて、年に数回は食べるのですが、本書によると、どうやら大間(おおま)のマグロの旨さは、格段の違いがあるようです。どこが、どう、なぜ違うのでしょうか・・・。それが知りたくて読んでみました。
著者は、マグロにこだわって取材し、人並み以上にマグロを食べたと自負しています。
マグロほど、人間の食指を動かし、前のめりにさせる別格の旨さを秘めた魚はない。しかし、こう言えるのは、マグロ界の頂点に君臨する生の本マグロ(クロマグロ)のなかの一握りの魚でしかない。
本マグロの値段は、平時でも1匹あたり国産車1台分に相当する。
2019年正月には1匹で3億3360万円という史上最高値がついた。この「3億マグロ」事件は、全世界で大々的に報道された。
大間といえば、今はマグロだが、かつては鮑(あわび)だった。大間産の鮑を乾燥させてつくる干し鮑は、高級食材として中国に輸出されていた。
津軽海峡のマグロが好むのはサンマとスルメイカ。海底の地形が起伏に富んでいて、プランクトンが大量発生する温床になっている。
マグロは、とても気まぐれな魚だ。マグロは十数匹から百匹単位の群れをつくって、時速数十キロで移動しているが、その回遊については謎が多く、すべてが明らかになってはいない。
大間にある漁協の組合員のうち200人がマグロ漁に出る。そのうちマグロ専業で生計を立てられているのは20人いるかいないか。マグロ漁だけで食べていける漁師はほとんどいない。
大間漁協では、年間2000本のマグロが水揚げされている。そのほとんどが東京に送られる。大間漁協の年間売上15億円の6割をマグロが占める。つぎは昆布とスルメイカ。
マグロ漁は博打(ばくち)だ。大間のマグロといっても、そのキロ単位は5000円から10万円超まで、いろいろ。平均キロ単位は8000円。ところが、年末には2万円、3万円へと上がる。
マグロ漁のスタイルは、大間では伝統の一本釣り。漁師とマグロがテグスを介して一対一で対峙する。大間では、一本釣りが7割を占める。残り3割は延縄(はえなわ)漁だ。日の出から日没の「日中」は一本釣り、日没から日の出までの「夜間」は延縄漁と区分されている。
一本釣りの餌は、マグロがその日に捕食しているもの。サンマ、アジ、イワシ、スルメイカ、トビウオ、ブリの子(フクラギ)。すべて生き餌(え)だ。一本釣りの場合、少なくとも一日でスルメイカ50杯、サンマ60匹を消費する。漁師の1日の労働時間は15時間をこえる。
一本釣りでは、「守り」ではなく、あらゆる方法をつかってマグロの群れを探し出す「攻め」の釣りをする。マグロの群れはGPSを使って特定する。最新式のソナー(魚群探知機)は1台300万円以上もするので、容易に設置できない。
マグロが釣れたら、電気ショックを与えて瞬時に仮死状態にもちこみ、マグロのこめかみに銛(もり)を打ち込んで、とどめを刺す。そして、すぐに血抜き、神経締めそして「冷やし込み」をする。
マグロ漁は洋上での命がけの漁だ。ときに命にかかわる事故が発生する。
豊洲市場には500軒の仲卸があり、うち200軒がマグロを扱っている。日本近海でとれた生の本マグロだけを扱うのは「石司(いしじ)」など数軒のみ。回転寿司で使われているのは、「ビントロ」とよばれるビンチョウマグロ。
マグロの養殖では近畿大学が有名だ。
マグロは、商品にできるのは7割ほどしかない。実は非常に歩留まりの悪い魚だ。
マグロの良し悪しは、次の4つの要素で決まる。色、香り、食感、値段の4つだ。
大トロは、口の中に入れると、人肌の温度帯でシャリといっしょに融けてなくなる。まさしく別格の味だ・・・。
回転寿司の「すしざんまい」は、年商192億円、本来は51店舗となっているが、その売り上げの3割の占めるのがマグロだ。ところが、高価な大トロは一皿398円。お客様に転嫁はしていない。
東京・銀座の高級寿司店は1人前で1万5000~2万円だったが、今や4万円から6万円ほど。
一度は「銀座・久兵衛」の寿司を食べたいと夢見ているのですが・・・。
(2019年12月刊。900円+税)

スコットランド王国史話

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 森 護 、 出版  大修館書店
私はイギリスに行ったことがありません。ヒースロー空港に立ち寄ったことはありますが、空港の外に出る機会はありませんでした。大英国書館に入って、マルクスが座って勉強していたという場所にも行きたいとは思うのですが・・・。
そして、スコットランドというとスコッチ・ウィスキーというイメージしかありません。
いえ、メアリー女王がイングランドのエリザベス女王に反逆したとして処刑(断頭)されたことは映画にもなって知っていました。それくらいの知識です。
この本でスコットランド王国の歴史を、概略ですが知ることができました。スコットランド王国では、王という存在は徳川幕府の将軍ほどには安泰でなかったようなのです。驚きました。
スコットランドには、ケルト系のピクト人が大陸から移住してきていた。ピクト族は、中央ヨーロッパをルーツとすると言われている。そして、ローマ軍が紀元43年から5世紀初めまでブリタニア島に駐留して支配していた。しかし、ピクト族の居住するブリテン島北部まで支配することはできなかった。
スコットランドの支配層は、タニストリーという王位継承方式をとった。つまり、王家一族のなかから、力量があり、国王にふさわしい人物を、国王の在位中に次王として選んでおいて、王位継承の日に備えておくというもの。優れた国王を実現するのが狙いだ。
ところが、野心満々の人物が選ばれなかったら、その不満が爆発する心配があり、現にそうなっていった。長子継承の制度に変えようとする試みも途中であったが、それもまた、簡単にはいかなかった。この制度では、叔父、従兄弟、甥というように、直系による継承でないため、自然に在位期間が短くなる。そのうえ、継承に不満をもつ者による国王殺害が加わって、さらに在位期間が短くなった。
14世紀初め、スコットランド王国はイングランド軍に占領されていた。スコットランド内部の抵抗するリーダーたちは、それぞれの利害と思惑がからんで、協調も統一もない状況だった。
そして、14世紀半ば、イングランドがフランスとの百年戦争にのめり込んでいるときも、スコットランドは完全な独立を勝ちとることが出来なかった。
百年戦争のとき、フランスでは戦闘によって田畑を荒らすのはお構いなしだった。ところが、イギリスでは、イングランドでもスコットランドでも、農民や市民を困らせるような戦闘はしないという美風が固く守られていた。ばら戦争は30年ものあいだ続いたが、イングランドの民生には、ほとんど実害を与えなかった。イングランドにおける内戦は、互いに相手の町や建物などを破壊せず、一般民衆を殺戮することもなかった。
これって、信じられないことですよね・・・。
スコットランドのメアリー女王は、フランス王妃であり、イングランド女王でもあるという可能性があった。そして、本人は、終生、イングランド女王になる道を確信していた。
メアリー女王は、スコットランド王国から追放され、イングランドに逃げ込み、エリザベス女王の保護を求めた。ところが、メアリーは、自分にイングランド王位の正当な継承権のあることを主張しただけでなく、エリザベスを廃位に追い込む陰謀に何回も関係し、ついに反逆罪で処刑された。44歳だった。
波乱に満ちたスコットランド王国の歴史を駆け足でたどることのできる本でした。これも、正月の人間ドッグのとき滞貸一掃として読んだ本の一つです。
(1998年12月刊。2400円+税)

大江戸史話

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 大石 慎三郎 、 出版  中公文庫
日本史上、間接税を最初に導入したのは田沼意次である。
田沼意次は、小姓組番頭格をふりだしに、小姓組番頭、側衆御用申次、側用人、さらに老中に準ぜられたあと、老中となった。しかも、側用人の役も兼帯した。老中は幕府正規の役職の最高位、側用人は正規ではなかったが、将軍の信任を得れば老中をうわまれる、いわば裏の最高権力者である。この両ポストを握った最初の人物が田沼意次だった。いわば、意次は幕府はじまって以来の権力者なのである。
郡上踊り(ぐじょうおどり)は、一夏を通して行なわれる特異な祭り。これは1754年(宝暦4年)から足かけ5年という長さでたたかわれた郡上一揆でずたずたになった領民を融和するために始められたもの。
九代将軍・家重の時代(1745~1760年)は、「全藩一揆の時代」として知られている。江戸時代でもっとも大がかりな全藩あげての一揆が多発した時代。
郡上一揆は内部に徹底抗戦派の百姓(立百姓)と妥協派(寝百姓)とに分かれての内部抗争もあって、長引いた。結局、幕府の最高機関である評定所にもちこまれ、農民側も多数の犠牲者を出したが、領主(金森頼錦)は改易(かいえき)、幕府のなかでも老中・若年寄・勘定奉行などが、私的に藩を支援したとして改易などの厳罰に処せられるという前代未聞の措置がとられて終結した。
この幕閣処分で、幕府内の直税増徴(年貢増徴)派は幕府の中心部から一掃された。
そして、変わって田沼意次たちの一派が登場して間接税の導入をすすめた。「敵」に一番打撃を与えたという意味では、領主を改易させたうえ、それを支援した幕府権力中枢にも多大の打撃を与えた群上一揆が最右翼である。
20年以上の本ですが、内容的に紹介したい話のオンパレードでした。
(1992年3月刊。460円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.