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2019年12月 の投稿

人体、なんでそうなった

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 ネイサン・レンツ 、 出版  化学同人
人間の身体についての貴重な指摘、知らなかった驚くべき事実が満載の本です。
人体の解剖学的構造は、適応と不適応とが不格好に入りまじっている。
欠点があるからこそ、人間には人間らしさが表れる。
進化は絶え間なく続く交換ゲームだ。進化の大半には犠牲がともなう。
私は本年(2019年)3月、椎間板ヘルニアで苦しみました。なにしろ、駅のホームでまっすぐ歩けず、しばらく立ち止まって休んでいたほどです。この本は、なぜ椎間板ヘルニアが起きるのかについても解説しています。
人間の椎間板は、直立歩行者ではなく、ゴリラのようなナックル歩行者に最適の状態に調整されている。時間の経過とともに、アンバランスな圧力のせいで、軟骨の一部がはみ出てくる。この椎間板ヘルニアは、ヒト以外の霊長類には、ほとんどみられない。
ヒトの身体は、体内で必要な栄養素をつくり出すことができないので、食事としてとる必要がある。人間は、必要な栄養素をすべて取り入れるためには、やたら変化に富んだ食事をとらなければならない。
ビタミンCがなければ、コラーゲンがつくれない。犬は自分でビタミンCをつくることができる。地球上のほとんどの動物は必要なビタミンCを自分の肝臓でたっぷりつくっているので、食べ物からとる必要がない。
飢饉のときの最大の死亡原因は、カロリー不足ではなく、タンパク質と必須アミノ酸の不足にある。
ヒトがカルシウムを吸収するには、ビタミンDが必要。乳児は摂取したカルシウムの60%を吸収できる。成人はせいぜい20%ほど、引退する年代だと10%未満となる。
絶えずカルシウムとビタミンDを補充していないと、骨粗鬆症になって、骨がもろくなる。
野生では肥満した動物が見あたらないのは、大半の野生動物は、いつだって餓死の一歩手前にいるからだ・・・。
犬や猫がテレビにあまり興味を示さないのは、その網膜のニューロンは、人間よりずっとすばやく働くので、断片的な写真として見えていて、人間のように動画としてみれないからだ。
人間の身体の不思議さは尽きないところがあります。それをとても分かりやすく解説してくれています。
(2019年10月刊。2400円+税)

刑務所しか居場所がない人たち

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 山本 譲司 、 出版  大月書店
日本の刑務所が福祉施設と化しているという点は、私も事件を通して大いに推測できるところです。ところが、逆に今日の日本では福祉施設が刑務所化しているとの指摘があり、ドキッとしてしまいました。
著者は元国会議員で実刑判決を受けて刑務所生活をしたことがあります。そのとき、刑務所内の福祉施設化を自ら体験したのでした。
2016年に新しく刑務所に入った受刑者2万500人のうち、4200人は、知能指数が69以下だった。つまり、受刑者10人のうち、2人は知的障害をもっている可能性がある。
同じく、2016年の「新人」2万500人のうち、殺人犯は218人。少年犯罪は激減していて、10年前の4分の1。全国の少年鑑別所はガラガラの状態。
殺人事件で被害にあった人は、1955年(昭和30年)に年2119人だったのが、1985年に年1017人、そして2016年には289人にまで減った。
犯罪の認知件数は、2002年に日本に285万件だったが、2017年には91万件となり、この15年間で、3分の1以下に減った。
2016年に刑法犯として検挙された人のうち65歳以上の人は4万7000人。これは全体の2割をこえている。20年前の5倍以上。
高齢受刑者は何度も犯罪を繰り返すことが多く、70%が累犯者。高齢者の犯罪は、窃盗が7割(女性だけだと9割)。
刑務所が1年間に使う医療費は7万人の受刑者で32億円(2006年)だったのが、今では5万人いないのに2倍近い60億円となっている。・
日本の障害者福祉予算は年1兆円。これはスウェーデンの9分の1、ドイツの5分の1、フランスやイギリスの4分の1。アメリカと比べても2分の1以下。
福祉の刑務所化とは、お金が目当ての福祉施設では、効率よく入所者を管理すべく、刑務所並みの厳しいルールで利用者の勝手な行動を止めさせているということ。
府中刑務所への1800人の収容者の内訳をみると、日本人受刑者の700人以上が精神か知的障害のある人で、600人が身体に障害をもっていた。
著者の本は、いま日本の刑務所がどんな実情にあるのかを知ることができて、その役割の尊さをふくめて頭が下がります。
(2018年5月刊。1500円+税)

明智光秀の乱

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 小林 正信 、 出版  里文出版
あの有名な本能寺の変は1582年(天正10年)6月2日、明智光秀が織田信長を襲って自殺させた事件です。著者は、この用語は歴史用語として不正確で、明智光秀の乱と呼ぶべきだとしています。
明智光秀は、1万3千の軍勢を動員して織田政権の転覆を企図したのだから、大規模な軍事的反乱なのだから、明智光秀の乱と呼ぶべきだとするのです。
著者は、当時の織田信長の強大な権力は、次の三つの大きな柱によって成り立っているといいます。一つは信長自身の権力。これは尾張・美濃・伊勢などの基盤を中核として京都を中心とする畿内・北信越そして西国は備中にまで及んだ。その二は、徳川家康との同盟によるもの。その三は、明智光秀が統括する足利幕府の統治機構の協力。
つまり、著者は、足利幕府の統治機構はそれなりに存続していて、明智光秀はそれなりの軍事力を体現していたとするのです。
信長は、京都での宿舎として、明智光秀の屋敷を少なくとも二度にわたって使用した。
明智光秀は、はじめ信長の家臣というより足利義昭の側近の「御部屋衆」格の奉公衆だった。明智光秀は、「御部屋衆」格の一人にすぎなかったが、信長は、「政所執事」の職責を担わせ、畿内を統括する責任者に昇格させた。
光秀は明智氏に改姓する前は、進士(しんし)だった。進士氏は、鎌倉以来の足利家の家臣(被官)として、武家故実の「儀礼・式法」を伝承している家として知られていた。
明智光秀は、安土城に次いで有名だった坂本城や亀山城を築城している。この坂本城は、安土城がつくられる前は、織田政権下で最大の城郭だった。
熊本の細川藩は、明智光秀の家臣団の相当数を受け継いでいた。
明智光秀の真の主君は信長ではなく、あくまで亡君の足利義輝だった。
信長は、「上様」と言われることはあったが、「大樹」という将軍を指す言葉で呼ばれたことはない。信長は、武家階級の代表とはみなされていなかった。したがって武家の棟梁としての征夷大将軍にもならなかった。
著者は長年の家臣である佐久間信盛を信長が追放したのは、信長の本意ではなかった。家康が妻と子を敵の武田方と内意したとして処刑した以上、自らの部下についても厳しく対応せざるをえなかった。処刑は免れなかった。佐久間信盛は、信長の苦しい青年時代から一度も裏切ったことがなかったことから、その追放は信長の本意ではなかった。そうしないと家康との同盟がもたないと家康が判断したからだった。なるほど、そういうことだったのですか・・・。改めて考えさせられました。
果たして、明智光秀は本当は進士姓だったのか・・・。
本書は5年前の2014年7月に初版が出て、この5年間の研究の成果も踏まえています。学界の反応も知りたいところです。文献は大変よく調べてあると驚嘆しているのですが・・・。
(2019年11月刊。2700円+税)

三条実美

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 内藤 一成 、 出版  中公新書
三条実美(さんじょう・さねとみ)は公家出身でありながら、明治維新のあと18年間も政権の頂点にあった。なぜ、そんなことは可能だったのか・・・。
ひ弱で、定見のない公家(くげ)のお坊ちゃんだという偏見をもって三条実美をみていましたが、本書を読んで私は少し考えを改めました。
三条実美が亡くなったのは1891年2月、55歳だった。生前に正一位を明治天皇が直接、病床の三条に叙した。生前に正一位に叙せられたのは、男性だと、奈良時代以来、1121年ぶりのこと。
三条実美は、安政の大獄により無念の死を遂げた父(三条実萬)の後継者として幕末の京都政局に登場し、攘夷を唱え、朝廷権威の確立を目ざした。その後、公武合体を志向し、やがて倒幕を辞さない王政復古論者となった。七郷落ちで京都を離れて、長州、ついで大宰府で辛酸の日々を過ごした。
明治維新のあと、三条は明治新政府の指導者に推された。これは公家出身であると同時に、王政復古の象徴的存在として評価されたからだった。
三条は、政治的手腕でいえば、岩倉具視や木戸孝允・大久保利通・大隈重信・伊藤博文らに遠く及ばない。しかし、三条は徳望をもって彼ら群臣の上に立つという能力をもっていた。
三条が輔相・右大臣・太政大臣をつとめた18年間は苦難の連続だった。
明治8年の政変は、皇族・華族・民権派など、応範な不平層を背景に、島津久光・板垣退助らが政府の主導権をにぎろうとした脱権闘争だった。三条実美は反対派の圧力に屈することなく、断固たる態度をとって明治政府の一大脅威だった島津久光を完全に除去した。島津久光は左大臣に就任したあと、太政大臣の惨状を弾劾する上奏分を天皇に提出した。
島津久光が明治政府を牛耳ろうとしていたというのは、初耳でした。知らないことは多いものですね…。
三条は、1873年1月、海外視察に出かけている岩倉具視に宛てて、留守政府の当面の問題として4つを指摘していた。一は島津久光の問題。二は大蔵省問題。三は台湾問題。そして、最後の四が朝鮮問題だった。朝鮮進出をどうするかは最後であり、その前に台湾問題があって、当時もっとも大きかったのは島津久光問題だった。これも知りませんでした・・・。
明治維新のころ、明治天皇はまだ満15歳の少年だった。
1869年、明治新政府は、官吏公選によって人事を刷新した。3等官以上の上級官吏によって公選が行われた。三条は49票を獲得して、輔相に任じられ、議定には岩倉具視、徳大寺実則・鍋島直正が、参与には大久保利通・木戸孝允・副島種臣・東久世通禧・後藤象二郎・板垣退助がそれぞれ当選した。
小さな選挙だったでしょうが、官吏公選というのがあったというのも初耳でした。まことに世の中、知らないことばかりです。とても面白く、最後まで読み通しました。
(2019年2月刊。840円+税)

三河吉田藩・お国入り道中記

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 久住 祐一郎 、 出版  集英社インターナショナル新書
江戸時代の参勤交代の実情を知ることのできる興味深い新書です。
参勤交代には、人材派遣会社(人宿)から臨時雇いの人夫が加わっていたことも知りました。そして、参勤交代とは関係ありませんが、三河吉田藩は島原の乱(原城一揆)に際して松平伊豆守(「知恵伊豆」)とともに従軍していて、その子孫はずっとあとまで藩内で優遇されていたということまで知りました。つい先日、原城跡を現地見学した身として、これまた興味深い話でした。
参勤交代は時期が定められていた。外様大名は4月、譜代大名は6月か8月。
近隣の大名同士の癒着を防ぐためもあって、ある大名が江戸へ出仕(参勤)したら、その近隣の大名が交代で国元へ戻った。経路も幕府によって決められており、許可なく他のコースを通行してはいけなかったし、寄り道もできなかった。
東海道は、150家の大名の経路に指定されていたため、参勤交代シーズンには、多くの大名行列でにぎわった。そのため、宿舎の確保に責任者は苦労していた。
参勤交代は、幕府が大名財力を削るための制度だと言われているが、それは結果としてそうなっただけのこと。大名同士が行列人数の多さや道具の華やかさを競いあっていたが、街道の混雑や藩財政の圧迫を招いたことから、幕府は人数を規制するお触れを出すなど、むしろ歯止めをかけていた。
本書は、1841年(天保12年)に江戸から吉田(愛知県豊橋市)までお国入りしたときの参勤交代について、当時35歳の吉田藩士・大嶋左源太豊陣(とよつら)の書いた文書の紹介をもとにしています。
「知恵伊豆」と呼ばれた吉田藩の始祖・松平信綱(初代)は、「才あれとも徳なし」と評されていた。うひゃあ、そ、そうだったんですか・・・。ちっとも知りませんでした。だから原城総攻撃のとき、3万人みな殺しを指揮したのですね・・・。
松平信綱は、この島原の乱に1500人の軍勢を(正規の家臣は100人)を率いていて、3人の武士と陪審(又者)3人の計6人が討死し、103人が負傷した。
「島原」とは、信綱を初代とする松平伊豆守における唯一の武功を指し示す言葉であり、後代の当主や家臣団にとってきわめて重要な意味をもった。大嶋左源太豊陣の祖先である豊長も島原へ出陣した。元禄4年(1691年)当時、島原扈従100人のうち、家が断絶しているのか半数の50人。生存者わずか10人だった。
参勤交代の実務を担うのは、宿割・宿払・船割の三役。
宿割(やどわり)は、宿舎を確保する。
宿払(やどばらい)は、宿泊代や食料費・燃料費などの支払いをする。
船割(ふなわり)は、行列が何川を渡る手筈を整える。
中間(ちゅうげん)は、総人数345人のうち2459人もいた。そのほかは士分53人、足軽33人。この中間は、非武士の武家奉公人で、その多くは人材派遣業者である人宿(ひとやど)の三河屋から派遣されていた。三河屋は、いくつもの大名家の参勤交代を請け負っていた。
大名行列の75%は中間であり、派遣労働者で成り立っていた。
人宿は、委託先である大名に対して、通日雇の給金として高額な代理を請求していた。行列の人数を確保しなければならない大名側は、言われるがまま払った。
人宿などは、通日雇の給金をピンハネして、莫大な利益を得ていた。
お供する家中(士分)には、道中計(どうちゅうばかり)という、吉田へ着いたら、すぐに江戸に戻る人間と、詰切(つめきり)という、吉田に着いたら次の江戸参府まで滞在する。この二つがあった。
交通費・宿泊費・食事代など、旅をするのに必要最低限の部分が公費負担だった。
映画に出てくる、「下に~、下に~」という掛け声とともに庶民は道ばたで土下座するというのは、徳川御三家などに限られていて、それ以外の大名行列は「脇寄れ」というくらいで、庶民は行列の進行を妨げないよう道の脇に寄るだけでよかった。
『道中心得』という15ヶ条のこの吉田藩は他藩から借りてきたマニュアルを活用していた。
いやあ勉強になりました。さすが学者です。
(2019年5月刊。840円+税)

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