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2019年1月 の投稿

薬物依存症

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 松本 俊彦 、 出版  ちくま新書
人が薬物に手を出すのは、多くの場合、「つながり」を得るため。
薬物使用が本人にもたらす最初の報酬は、快感のような薬理学的効果ではなく、関係性という社会的効果だ。「自分はどこにも居場所がない」、「誰からも必要とされていない」という痛みをともなう感覚にさいなまれていたり、人との「つながり」から孤立している人が「人とつながる」ために薬物を使用している。心に痛みをかかえ、孤立している人ほど、薬物のもつ依存症に対して脆弱(ぜいじゃく)だ。
薬物の再使用によって、もっとも失望しているのは、周囲の誰よりも薬物依存者自身である。「また使ってしまった」という自己嫌悪と恥辱感をもつ。
覚せい剤取締法事犯者は、日本の刑務所の収容者の3割を占めている。そのうち65%は再犯者。覚せい剤依存症患者の再使用は刑務所から出所した直後にもっとも多い。どこかに閉じこめられて物理的に依存性薬物と切り離していても、いつかはそこから解放される。その自由を奪われたあとの解放感こそが、薬物依存症患者の薬物欲求をもっとも刺激する。
「薬物中毒」という言葉は、不正確な表現なので、今では使われない。薬物依存症とは、薬物が体内に存在することが問題なのではなく、薬物をくり返して使ったことで、その人の体質に何らかの変化が生じてしまった状態である。
身体依存とは、中枢神経作用薬をくりかえし投与された生体にみられる、正常な反応にすぎない。そして、身体依存は原則として可逆的なものであり、薬物を断った状態を続けていれば、中枢神経系は再び薬物なしの状態に適元するようになり、離脱や耐性は消失する。したがって、もしも薬物依存症イコール身体依存だとすれば、薬物依存症の治療など、実に簡単になるはずだ。しかし、現実にはそうはなっていない。身体依存は薬物依存症の本質ではない。精神依存こそが薬物依存症の本質なのだ。
薬物を使っていないときでも、薬物のことばかり考えているという状態をさす。
依存症者は、たとえ尊大そうに見えても、その内実は自己評価の低い人が少なくない。それだけ人から承認されることに飢えている。
この5年とか6年のあいだ、シンナーを吸っていたという少年は、ほとんどいない。首都圏では暴走族はほとんど見かけなくなった。
2016年の調査で、覚せい剤が第1位で、第2位は睡眠薬、抗不安薬である。
日本人ほど、薬物に関して、「脱法」であることを尊び、高い価値を置く国民は他にいない。日本人の高い遵法精神が「脱法」的な薬物の市場価値を高めている。
危険ドラッグの経験者は、決して売り物の薬物を自分には使わない。「こんなクスリをつかう奴はバカだ」とさえ思っている。
刑務所内の治療プログラムにはそれほどの効果はない。
刑務所は、人を嘘つきにしてしまう。すっかり嘘をつくのが習性として染みついている。
刑務所に行くのは時間の無駄だ。再犯防止は、施設内よりも社会内で訓練を受けたほうが効果的。薬物の自己使用罪や所持罪で逮捕された者を刑務所内で処遇することは、再犯防止の観点からは、実は意味がない。
薬物依存症は、治らないが、回復できる、そんな病気だ。特効薬や根治的治療法はない。依存症の治療において、「欲求に負けない強い自分をつくる」という発想はとても危険だ。
そもそも依存症患者は「強さ」に憧れている。
薬物依存症の人は多くの嘘をつく。もっとも多くの嘘をついているが、もっとも多いのは、何と言っても自分自身に対してである。
この本を読んだとき、被疑者国選弁護事件で連日のように被疑者に面会しに警察署に行っていました。しかも初めての大麻取締法違反事件でした。
なるほど、そうなのか、そうだったのかと、一人合点で、膝を叩きながら読み通しました。私にとっては画期的に面白い本でした。ご一読をおすすめします。
(2018年9月刊。980円+税)

子育てがおもしろくなる話②

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 土佐 いく子 、 出版  日本機関紙出版センター
私と同じ団塊世代の著者は長く小学校で教員をしていました。その体験にもとづく話ですから読ませます。私は電車の中で一気に読みあげました。
学校は、子どもたちに生きていく希望を届けるところであってほしい。学校へ行けば賢くなれる。そして、「よく来たね」と声をかけてくれる教師がいて、「遊ぼう」と誘ってくれる友だちがいる。やっぱり人間って、あったかいなと人への信頼を届ける所であってほしい。
学校は安心の場、自分の居場所のあるところでありたいもの。ところが、現実にはピカピカの1年生ですら、笑わない子、目を合わさない子、抱かれない子、そして、「どうせ、オレ、アホやもん」、「生まれてこなかったら良かった」と吐き捨てるように言う子がいる。
子どもは、親の失敗談を聞くのが大好き。ほっとするからだ。明日もがんばってがんばって立派にしなければと追い込まれないから。ほっとすることで、今の自分でいいんだという安心感が生まれる。その安心が自分づくりを支えてくれる。そして、明日も生きていけるという元気や意欲をはぐくんでくれる。
子どもたちの友だちづきあいがうまくいかなくなったと言われているが、実は、大人たちの人間づきあいが下手になっている。
私の依頼者には中高年の一人暮らしの人がたくさんいます。それは男性も女性もです。その一人は新聞配達を仕事としています。「大変ですね、何時から仕事ですか?」と尋ねると、なんと夜中の1時半から5時まで配達しているそうです。頭が下がります。「睡眠時間は大丈夫ですか、ちゃんと休めてますか?」と重ねて問いかけると、そちらはどうやら大丈夫のようです。夜、人が寝ているときに働いて、昼間は寝ているという、昼と夜が逆転した生活を何年もしているとのこと。「なぜ、ですか?」その人は、人とあまり接したくないからだと答えました。60歳代の男性です。大きなモノづくりの工場で働いたこともあるそうですが、そんなところにいると息が詰まりそうで、早々に逃げ出したと語りました。
人づきあいを苦手とする人が前より増えた気がしてなりません。そして、スマホ万能社会は、ますます人を孤立化させるのではないでしょうか。
人が人とぶつかりあい、励ましあい、支えあってこそ人間です。この本を読みながら、その基礎づくりを子どものころにちゃんとしてほしいと思ったことでした。
(2015年11月刊。1524円+税)

カテゴリー:人間

才能の正体
(霧山昴)
著者 坪田 信貴 、 出版  幻冬舎
私は、つくづく語学の才能がないと痛感します。毎日毎朝、フランス語の書き取りをして、毎週土曜日にフランス人と話して、年に2回は仏検(テスト)を受けて、いまもってペラペラ話せるにはほど遠いありさまです。我ながら、嫌になってしまいます。
この本は、才能の正体を探っています。
才能がある人とは、結果を出せる人。結果は、どういう人が出せるのか・・・。それは洞察力がある人だ。洞察力とは、物事を深く鋭く観察し、その本質や奥底にあるものを見抜くことであり、観察しただけでは見えないものを直感的に見抜いて判断する能力のこと。
子どもが夢を語って努力をはじめようとしたとき、親は、「そんなの無理だ」、「できるわけがない」と否定せず、信念をもって守る。愛情を与える。そして、子どもの言葉を信じて、温かく見守る。
自分を出せなくなると、能力は伸びない。
ほめられると、子どもはもっとがんばろうと思うものだ。
万人にとって効率のいい勉強法なんて存在しない。
能力を高めるには、とにかくその子にあったやり方で、コツコツと続けていくしかない。
大学受験に才能なんか関係ない。大学受験までの学問は、しょせん答えがある問題集にすぎない。その解き方のパターンを覚えさえすれば、必ずできるようになる。
人の脳は、接触回数を増やせば、記憶に定着しやすくなり、仲間だと思いやすくなる。
才能は気分が9割。才能はあると信じること。才能は素晴らしいものだと信じること。そうすれば、世界の見え方が変わってくる。
私たちの世界を、この先もっとすばらしいものにしてくれるのが、才能だ。
坪田塾の塾長として、1300人以上の子どもを「個別指導」してきた実績のある人ですから、説得力があります。私にも語学の才能はある、そう信じて、明日からもがんばって続けることにしましょう。
(2018年10月刊。1500円+税)

土、地球最後のナゾ

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 藤井 一至 、 出版  光文社新書
土って、生物と切っても切り離せない存在なのだということを、この本を読んで初めて認識しました。
土は地球にしか存在せず、月や火星にはない。
土壌とは、岩の分解したものと死んだ動植物が混ざったものを指す。したがって、動植物の存在を確認できない月や火星に土壌はない。あるのは、岩や砂だけ。
地球の岩石は、水と酸素、そして生物の働きによって分解する。風化という。
粘土は、水の惑星が流した”血と汗”の結晶だ。
月でも岩は風化する。しかし、水や酸素や生物の働きがないと、岩石は粘土にはなれない。月には粘土はない。粘土の有無が地球の土壌と砂を分かつ。
火星には粘土がある。しかし、腐植はない。火星には粘土が存在する点では、月の砂よりも地球の土に近い。しかし、火星には腐植がない。
腐葉土には、高度に発達した現代の科学技術を結集してもなお、複雑すぎて化学構造も部分的にしか分かっていない驚異の物質である。土の機能を工場で再現できない理由もここにある。
500年前、レオナルド・ダ・ヴィンチは次のように言った。
「我々は天体の動きについてのほうが分かっている。足元にある土よりも・・・」
ええっ、本当にそんなことを言ったのでしょうか・・・。
ミミズの粘液のネバネバがバラバラだった土壌粒子を団結させる。これによって、土壌は単なる粉末の堆積物ではなく、無数の生物のすむ、通気性、排水性のよい土となる。これが地球の土だ。
世界の土は、実はたったの12種類しかない。ええっ、ウソでしょ、そんなに少ないはずないでしょ、そう叫びたくなりますよね。
日本中どこを掘っても、土は酸性だ。
泥炭土は、地中深く数千万年も眠れば石炭に化ける。それはジーンズを染めるインディゴの原料にもなっている。
日本では、山の土を通過した水はケイ素を多く含み、稲を病気に強くする。稲だけでなく、ケイ素の有無でニワトリの成長が大きく変わることも報告されている。
ケイ素は必須養分ではないが、骨をつくる活動を促進する働きがある。
インドネシアのボルネオ島ではケイ素がないため稲が実らない。
足元の土というもののありがたさを初めて認識することができました。
(2018年12月刊。920円+税)

除染と国家

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 日野 行介 、 出版  集英社新書
除染作業はだいたい終了したそうです。ええっ、本当ですか、それで安全になったと言えるんですか・・・。思わず問い返したくなります。
除染とは、放射性物質が付着した庭や田畑の表土をはぎ取って集め、フレコンバッグと呼ばれる大きな袋に詰めこむ作業のこと。
除染作業は、巨額の費用と膨大な人手をかけた壮大な国家プロジェクトだ。2016年度末までに、のべ3000万人の作業員が従事し、2兆6250億円もの国費が投じられている。
フクイチ(原発)から飛んできた放射能のほとんどが山林に降り注いだ。樹木を切り取り、表土をことごとくはぎとるなんて、とうてい不可能だと、除染を始める前から、誰もが分かっていた。結局、山林では放射能が滅衰するのを待つしか手はない。その期間は数百年に及ぶ。
除染で集めた汚染土の保管は短期間で終わる前提で制度はつくられている。しかし、現実には事故から5年たっているのに現場保管が続いていて、搬出のめどはたっていない。
だいたい、日本全国のどこにフレコンバックを積み上げて、保管できる場所があるというのでしょうか。こんな狭い国に地震があり、火山があるところで原発をつくったこと自体がまちがいなのです。
莫大な除染費用は本来、東京電力が負担するはずなのですが、本当に東電が負担するのか不透明だといいます。とんでもないことです。きわめてタイムリーな新書です。
(2018年11月刊。860円+税)

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