法律相談センター検索 弁護士検索
2019年1月 の投稿

大名絵師、写楽

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 野口 卓 、 出版  新潮社
東洲斎写楽の役者絵は、いつ見てもすごいです。圧倒されます。目が生きています。見事な人物描写です。
写楽絵が登場したのは寛政6年(1794年)のこと。フランス革命(1789年)の直後になります。この皐月興行で役者の黒雲母(くろきら)摺(ず)り大判大首絵を28枚、続く盆興行、顔見世興行と多量に出し、翌年の初春興行では少し出しただけで、それきり跡形もなく消えてしまった。だから、今なお、写楽とは誰なのか、その正体を究めようという人々がいる・・・。
いえいえ、写楽は、阿波つまり徳島の能役者で斎藤十郎兵衛だと決まっているじゃないか。私も、実はそう考えていました。
ところが、この本は、いやいやそうじゃないんだ、実は写楽は徳島藩主になった佐竹重喜(しげよし)なのだ、その正体を隠すために二重三重のトリックを使ったという展開の本です。
小説なので、どれほど史実にもとづいているのか私には分かりませんが、その展開はとても面白いものがありました。
写楽こと重喜は、徳島藩主になってからあれこれ藩政を改革しようとし、家臣内の猛反発を受けて失脚してしまうのです。藩政よろしからずと幕府に隠居を命じられたのでした。32歳で徳島藩の江戸屋敷、そして徳島の大谷別邸で暮らすようになった。
重喜は狩野派に学んだうえ、平賀源内から蘭画の手ほどきを受けた。
喜多川歌麿、葛飾北斎、司馬江漢、円山広挙、谷文晁そして山東京伝など、そうそうたる絵師がいるころのこと。
大谷公蜂須賀公重喜候を連想させない名前として東洲斎写楽が考案された。
そして、役者の錦絵を描かせて売り出すのは、蔦屋(つたや)重三郎だった。重三郎は耕書堂という屋号で版元を営んでいた。徳島藩の現藩主は重喜の息子。前藩主が徳島を出て勝手に江戸に移り住んでいることが発覚すると幕府当局から厳しくとがめられる危険がある。したがって、すべては隠密に事を運ばなければいけなかった。
絵師の世界、そのすごさが活写され、よくよく伝わってきます。電車の往復で読了し、幸せな気分になりました。
(2018年9月刊。1900円+税)

パール・ハーバー(上)

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 クレイグ・ネルソン 、 出版  白水社
真珠湾攻撃について、アメリカ側は日本側の動きを知っていながら日本軍の攻撃を許したという説が今なお一部にくすぶっていますが、本書は、アメリカ軍が文字どおり馬鹿にしていた日本軍から不意打ちをくらった状況をあますところなく明らかにしています。
その根底には、日本軍なんて言葉だけ勇ましがっているだけの恐れるに足りる存在なんかではないという蔑視観がありました。しかし、それは、日本軍にとっても同じでした。アメリカ軍なんて、ちょっと攻撃したら、たちまち尻尾を巻いて逃げだすに決まっているという尊大な考えに取りつかれていたのです。
もちろん、どちらも誤りでした。双方とも死力を尽くして戦い、結局、圧倒的な物量の差で帝国日本軍はみじめな敗退を重ねていったのです。
開戦当時ハワイにいたアメリカ艦隊は戦争に向けて完璧な状態とは言えなかった。給油艦も不足していたし、兵士も上官も自覚が足りず、早く家に帰りたい、家族に会いたいとばかり考えていた。ハワイには十分な燃料保管施設がなく、偵察機も足りなかった。ハワイのアメリカ軍は午前中だけ働き、午後はゆったり過ごしていた。
当時のアメリカ人の日本人に対する評価は、きわめて低かった。
日本人は、頭の回転が鈍く、合理的な発想ができず、幼稚で、非現実的で、脅迫観念にとらわれ、内耳の欠陥、極度の近視、そして出っ歯、すなわち劣等人種だ。そんな日本に、アメリカ攻撃がうまくやれるわけがない。臆病な日本人がアメリカを攻撃してくるなんて、金輪際ない。
日本人のほうは、映画によって、アメリカ人をギャングであり、浮浪者であり、売春婦であるとみていた。また、アメリカは金持ちの、金持ちによる、金持ちのための国家だとみていた。アメリカ人は商人であり、ゆえに利益を生まない戦争はそう長くは続けないとみていた。
長年におよぶ経済的苦境と党利党略政治の結果、アメリカの防衛力は相当に劣化していた。司令部の最上層部を占めるのは、1898年の米西戦争の生き残りばかりだった。
徴集兵は1940年時点で、わずか24万3500人のみ。兵士が手にする銃は1903年設計の年代物のスプリング・フィールド銃だった。1941年1月から2月にかけて、日本軍が真珠湾に大規模な奇襲攻撃を敢行することを計画しているという情報がアメリカ当局に寄せられていた。しかし、これについて、「にわかに信じがたい」とか、「この噂については何ら信頼していない」というコメントがついていた。
2月末、アメリカのスターク海軍作戦司令は、日本には十分な人員と戦艦がないため、インドシナ・フィリピンなどへの同時侵攻は不可能だと断定していた。
日本軍も、1936年以降、アメリカの外交電報の多くを解読していた。
しかし、ワシントンも東京も、互いの軍事暗号だけは解読できていなかった。
アメリカ側がレーダーと暗号解読という秘密兵器を有していたのに対して、日本はハワイにスパイを置いていた。
1941年時点でのハワイ在住民間人のうち、4割の15万8千人は日本人を祖先にもっていた。ハワイのレストラン、食料雑貨店の半分、建設労働者の大半、自動車工の大半、商店の売り子のほぼ全員、そして農民の100%は日本人か日系人だった。
上巻のみで380頁もある大作です。じっくり読みたいという人におすすめの本でした。
(2018年8月刊。3800円+税)

紛争地の看護師

カテゴリー:アフリカ

(霧山昴)
著者 白川 優子 、 出版  小学館
「国境なき医師団」というものがあり、世界各地の紛争地で人道的見地から地道な活動を展開していることは知識として知っていましたが、日本人の女性看護師が活躍していたことは知りませんでした。シリア、イラク、イエメン、南スーダンほかに8年間で17回も派遣されたというのです。砲弾が頭上を飛び交うなかの医療活動です。その勇気と心意気に心から拍手を送ります。
小心者で臆病な私には、とてもできません。せめて、ささやかなカンパを捧げたいと思います。アフガニスタンでがんばっている中村哲医師をつい思い出しました。こういう人たちによって平和憲法をもつニッポンが高く評価されているのですよね、本当にありがたいことだと思います。
行けば自分も危険にさらされるかもしれない。活動中の生活環境は厳しく、戦時下での医療がスムースにおこなえるとも限らない。苦しんでいる人たちがたくさんいるのに、医療すら自由に施せない戦争とは、本当に残酷なものだ。
「何もあなたが行くことはない」
「日本でだって救える命はある」
では、誰が彼らの命を救うのだろう。彼らの悲しみと怒りに、誰が注目するのだろう。
医療に国境はない。国、国籍、人種をこえた、同じ、人間としての思い、報道にもならない場所で、医療を求めて、また医療が届かずに泣いている人との痛みや苦しみを見過ごすことはできない・・・。
外国人の女の子が患者として運ばれてきた。モスルで外国人の子どもといえば、身元は明らか。ISの戦闘員の子どもだ。両親は自爆テロで亡くなり、その女の子だけが残された。
モスルを3年間も恐怖に陥れたIS戦闘員の子どもに、スタッフたちは心から優しく接した。
戒律を課し、ときに残酷な処刑も辞さない。市民の多くが、自分の家族や親戚の誰かを殺されていた。生活から自由を奪われ、みなが傷ついていた。当然、モスル市民にとってIS戦闘員は憎い相手であるに違いない。その憎き相手であろうISの子どもの世話に、モスル市民が一生懸命になっている。
そうなんですが、そういうこともあるんですよね、大変な仕事ですね。でも、必要なんですよね、こういうことって・・・。
ラッカで収容する患者の地雷被害には、いくつかの特徴がある。
一度に運ばれてくる患者は、みな同じ一族だ。脱出するときは、家族、親戚ぐるみで決行するから。亡くなるのは、先頭を歩く一家の主(あるじ)。そのうしろを行く2人目も亡くなるか、四肢切断などの重傷を負う。列の後方になるにしたがって、傷が浅くなっていく。うひゃあ、地雷原の脱出行って、そんな痛ましい状況に陥るのですね・・・。
ラッカの外気温は50度。ところが、宿舎には冷房がない。不眠不休で仕事をしていても、猛暑が眠りにつかせてくれない。夜になると、蚊やダニに刺された箇所が気が遠くなるほど痒くなる。身体中、200ヶ所は刺されていた。47キロあった体重が41キロになった。
著者は7歳のとき「国境なき医師団」の存在を知り、あこがれたとのこと。それを30年かかって実現したのです。すごいですね、偉いです。
銃創のときには爆傷とちがって、手術にならない可能性がある。ところが、空爆や砲撃などの爆弾による患者だと、問答無用で手術が必要になる、しかも、負傷箇所は銃創とちがって多数のことが多く、損傷も激しい。無数の破片物が身体中に突き刺さっていることも多い。
紛争地では、酸素ボンベを決して保持してはいけないという鉄則がある。万が一の攻撃によって酸素に引火したら爆発するからだ。
規則正しい連続した銃声だと祝砲だ。不規則に続く銃声は争いの可能性がある。
MSFが支援する医療施設では、一切の武器の持ち込みを禁止している。しかし、銃は、イエメン社会では男性の象徴とされている。
いやはや、本当に頭の下がる大変な活動です。生き甲斐を見失っている日本の若者に、もっと広めたいものです。
(2018年10月刊。1400円+税)

長篠合戦の史料学

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 金子 拓 、 出版  勉誠出版
1575年(天正3年)というと1600年の関ヶ原の戦いの25年前です。織田・徳川連合軍と武田軍が激突し、武田軍が惨敗しました。武田軍は織田信長の3千挺の鉄砲の3段撃ちの前に次々に騎馬の将兵が戦死していったとされています。つまり、武田勝頼は強がりだけの若(馬鹿)武者だったという評価が定着している気がします。
ところが、織田軍が本当に3千挺もの鉄砲をもっていたのか、火縄銃の3段撃ちなんて現実に可能だったのかという疑問が出され、一時は全否定されていました。ところが、最近では、3千挺というのはありうるという説もあるようですし、3段撃ちは可能なんだという反論もそれなりに説得力があります。
また、武田軍にしても、鉄砲隊はそこそこ備えていた、また勝頼は決して若(馬鹿)殿ではなく、信長は敵として高く評価していたことも明らかにされています。本書は、いくつもある「長篠合戦図屏風」などの史料もふまえて真相解明に迫っています。
長篠合戦は、織田信長が当面の敵と考えていた浄土真宗本願寺とのたたかい(石上合戦)の過程で副次的に生じた出来事だった。信長は勝頼と戦う状況は想定していなかった。
長篠の戦いにおいて、織田・徳川の連合軍のうち、いくさの中心はあくまで徳川軍であり、織田軍は援軍の立場にあった。そして、本願寺との戦いのため、できるかぎり自軍の損害を抑えたいと信長は考えていた。そこで、織田軍は窪地に隠れるように配置され、前に馬防柵を構え、大勢が決するまで、柵の外でできるだけ戦わないようにした。
決戦場となった設楽原(しだらがはら)は、ぬかるんだ水田であり、腰のあたりまで水に浸かったため、武田軍の機動が大きく封じ込められた。東西400メートル、南北2キロの、非常に南北に長い地域で決戦が行われた。
織田・徳川の連合軍は3万8千人。火縄銃3500挺を用意した。
火縄銃の有効射程距離は50メートル。
長篠合戦の実際を、さらに一歩ふかく知ることができました。
長篠・長久手の合戦を画題とする合戦図屏風は現在17件が見つかっているとのことです。すごい迫力のある画面です。
(2018年10月刊。5000円+税)

安倍官邸vs.NHK

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 相澤 冬樹 、 出版  文芸春秋
森友事件をスクープしたNHKの記者が、なぜNHKを辞めたのか、その事情が本人の口から語られています。NHKは、著者に対して「事実無根」だとか、反撃しようとしているようです。言論の自由を拡大する方向での食い違い(論争)であってほしいものです。
著者はラ・サール高から東大に入り、法学部を卒業してNHKに入って31年間の記者生活を送っています。森友事件と出会ったのは、大阪司法担当キャップになったことから。
森友学園の土地払下げ問題の核心は、開設される新しい小学校の名誉校長に安倍昭恵総理夫人が就任していること。要するに、安倍首相が公私ともに国有地の不当払い下げに直接かどうかを問わず関わっている疑いはきわめて濃厚なのです。
したがって、安倍首相は国会で再三明言したとおり首相を辞めるだけでなく、国会議員も辞めなければいけません。それなのに今日なお、首地の地位に恋々としがみついているのです。醜状をさらすもほどがあります。こんな首相をトップに据えておいて、子どもたちに道徳教育の押し付けを強化しようとしているのですから、開いた口がふさがりません。
著者は安倍首相夫人とのかかわりを記事の冒頭においた原稿をつくった。しかし、デスクが削ってしまった。あたりさわりのない原稿にデスクは書き換えたのです。
NHKの小池報道局長は、安倍首相と近く、安倍政権に不都合なネタを歓迎するはずがない。部下は、当然のように上司たちの意向を機敏に察知する。
忖度(そんたく)しない記事を電波にのせたとき、NHKの上層部から言われる言葉は次のようなもの。
「あなたの将来はないと思え」
いやあ、これって恐ろしい言葉ですよね・・・。
なぜ、国有地が格安で販売されたのか。国と大阪府は、なぜ無理に認可してまで、この小学校をつくろうとしたのか。
森友事件とは、実は森友学園の事件ではない。国と大阪府の事件だ。責任があるのは、国と大阪府なのだ。この謎を解明しないと、森友事件は終わったことにはならない。
NHKが報道機関としていったいどうなっているのか、その内実を知りたい人には超おすすめの本です。
(2018年12月刊。1500円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.