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2018年8月 の投稿

「日本の伝統」の正体

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 藤井 青銅 、 出版  柏書房
いやあ、本当に思い込みというか、私たちは「伝統」なるものにひどく騙されていることを、よくよく自覚させられる本です。
「初詣」(はつもうで)は、明治30年代に、鉄道会社と新聞社の宣伝・営業努力によって始まったもの。
正月のおせち料理を重箱に詰めるようになったのは、幕末から明治にかけてのことだが、実は、完全に定着したのは戦後のこと。デパートの販売戦略による。
七五三は、関東ローカルな風習だった。一般的になったのは明治30年代に入ってから。
お中元・お歳暮・七五三は、全国のデパートが盛り上げて一般的になった。
ウナギは冬のほうが栄養があり、夏は味が落ちる。夏は暑いのでウナギが売れないので、販売促進策として出来たのが、「土用の丑(うし)の日」という宣伝文句。
神前結婚式は、明治33年の大正天皇の結婚式に始まる。明治25年に最初の仏前結婚式があった。
明治9年の太政官指令は、夫婦別性。明治31年の旧民法ではじめて「夫婦同姓」となった。
卵かけご飯は江戸時代にはない。昭和30年代以降に卵かけご飯が一般的になった。江戸時代には卵を生食しない。当時のニワトリは5日か6日に1個しか卵を産まないので、卵は高級品だった。
一般の日本人が正坐するようになったのは江戸時代の中期以降のこと。その前は、あぐら(胡坐)か立膝だった。韓国と同じですよね。
日本人の喪服は昔から白だった。7世紀は白だと『日本書紀』にある。奈良時代は白だったが、平安時代は黒になった。ところが室町時代に再び白となった。黒い喪服は染料が必要で手間がかかるから。江戸時代は、ずっと喪服は白で、明治に入ってからも変わらなかった。ところが、大正の明治天皇が死んだときから黒になったが、庶民は白だった。昭和にかけて、一般庶民にも黒い喪服が定着していった。
日本の元号はずっと続いているのではない。大化(645年)のころは32年間も空白期間があった。変号は、単純平均すると、1元号で5.5年。最短は鎌倉時代の2ヶ月、そして奈良時代の3ヶ月。
いやはや世の中、知らないことだらけです。勉強になりました。
(2018年2月刊。1500円+税)

戊辰戦争の新視点(下)

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 奈倉 哲三 ・ 保谷 徹 ・ 箱石 大 、 出版  吉川弘文館
幕末から明治はじめにかけての戊辰戦争のとき、ヨーロッパやアメリカから大量の銃が日本に輸入されていたことを知りました。
イギリスから制式軍用銃だったエンフィールド銃(エンピール銃)が15万挺ほども入ってきていた。フランスのナポレオン3世はシャスポー銃を2000挺、幕府に贈った。
フランス式大砲である四斤砲は分解して搬送可能だったので、道路条件が悪く山路でも搬送できたため、多用された。
幕末維新期の日本には、全部で70万挺の小銃があったと推測される。そして、新鋭の後装連発銃も少なくなかった。
オランダの歩兵銃はゲベール銃という。有効射程は100メートルほど。
アメリカの連発式のスペンサー銃は弾薬の補給に苦労した。
イギリスのアームストロング砲は戊辰戦争で使われたことが確認できるのは、佐賀藩の二門の6ポンド砲だけ。
三井は、開戦直前に薩摩藩に1000両を献金した。その前、三井は琉球通宝の引換を請負い、薩摩藩の御用達となった。同時に、将軍の家族の御用達をつとめていて、天璋院篤姫に呉服を納めている。三井は京都を本拠としたが、大阪にも店があり、大阪町人としての顔をもち、大阪の大両替商たちと縁戚であった。
秩父・飯能あたりでは幕府軍に対する親近感があり、民衆も幕府軍を支えて新政府に抵抗した。ところが敗戦が続くなかで「賊軍」と決めつけられ、殺害されていった。
面白いのは、このような政府軍に倒された人たちの墓が今も残っていて、「脱走様」と呼ばれて徴兵忌避の信仰対象となっていたということです。「脱走様」の墓所を参拝すれば、徴兵を逃れられると地域で伝わっていた。つまり、兵役逃れの信仰対象だったのです。
みんな戦場になんか行きたくないし、戦死者になるより生きて働いていたいと考えていたのです。もっとも戦争とは無縁のはずの年寄りたちが若者たちのホンネを代弁していました。
(2018年3月刊。2200円+税)

百姓たちの戦争

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 吉村 豊雄 、 出版  清文堂
著者は島原・天草の乱を、いわゆる百姓一揆ではなく、「合戦」、つまり戦争とみています。百姓一揆なら領主側に要求をつきつけ、その実現を目ざそうとするわけですが、島原・天草の乱では、そのような要求実現行動はみられず、幕藩軍との合戦をくり返し、城を占領して、最終的には島原城に立て籠った2万7千の一揆勢は全員が命を失った。
軍事的な訓練などほとんど出来ていない百姓主体の一揆勢が、「侍の真似できない」気力で武士たちに向かっていった戦いを、現地では「合戦」と呼んだ。この「合戦」は4ヶ月に及んだわけであるので、まさしく戦争と呼ぶにふさわしい。
一揆の直前、島原藩松倉家そして唐津藩天草領の寺沢家で、それぞれ御家騒動が起り、家臣が集団で退去し、牢人となる事件が発生している。そして、それぞれ逃走したのは「若衆」たちであり、この牢人たちが一揆の中枢部に入ったことは間違いない。
一揆の首謀者は、意識して10代の少年たちを集めていた。
彼らは、信仰復活工作の象徴をつくり出すこと、信仰を復活、公然化させ、信者たちを統合し、象徴となる「天子」、「天帝」としての「四郎殿」(天草四郎)をつくり出すことを狙った。「若衆」たちは、「四郎殿」に仕えて、その分身として活動するために、松倉家・寺沢家から集団で逃走したとみられる。
一揆勢は、占領した城を死守することを通じて、「デイウス(神)への奉公」を尽くし、「神の御加護」、具体的には「神の国」による救援を信じた。
島原一揆勢が「本陣」と定めた原城は石垣、堀、虎口など、城の要害機能は基本的に残っていた。そして、原城の所在する有馬村には、島原藩の注文で「千挺」もの鉄砲をつくった「鉄砲屋」大膳がいた。口之津にあった武器庫の鉄砲・弾薬類も、この「鉄砲屋」が製作し、調達していたとみられる。
一揆勢が戦略上もっとも重視し、懸念していたのが「玉薬」の数量である。一揆蜂起の時点では、まとまった玉薬を管理下に置ける見通しがあったからこそ、一揆は武力の発動・戦争への飛躍することになった。
原城に立て籠った一揆勢は2万7千人ほど。
原城のなかは、村ごとに集まり、村社会の地域連合体だった。また、軍事組織として確立された。軍奉行という一揆指導部が存在した。
そして、天草四郎は「天守」に籠って、一揆勢の前に姿を現すことはなかった。
原城の一揆勢の軍事力の柱は鉄砲であり、1000挺ほど所持していたとみられる。その泣きどころは、火薬の乏しさにあった。一揆勢は幕藩軍の総攻撃の直前の2月21日夜の夜襲で「鉄砲の薬箱2荷」を奪ったが、それが、すべてであった。そのほか一揆勢の主力武器は石だった。ちなみに宮本武蔵も、石による負傷を受けた。
原城戦争の実態を詳しく知ることのできる本です。原城跡には2回行きましたが、感慨ひとしおでした。
(2017年11月刊。1900円+税)

阿片帝国日本と朝鮮人

カテゴリー:朝鮮・韓国

(霧山昴)
著者 朴 橿 、 出版  岩波書店
戦前の日本軍がアヘンの密売によって不法な利得を得ていたこと、その手法として朝鮮人を利用していたというのは歴史的な事実です。
日本は朝鮮が、日本の植民地のなかでアヘンを生産するのに、もっともふさわしいと判断した。それは、この地域がアヘンの消費とそれまでほとんど縁がなく、気候・地質・民度・警察状況などが適しているからだった。そこで、植民地朝鮮で、アヘンはもちろん、これを原料とした麻薬まで生産し、満州などに供給・販売していた。
日本が朝鮮を植民地支配(著者は「朝鮮強占」としています)して以降にあらわれた朝鮮内外の朝鮮人のアヘン・麻薬問題は、日本の対外侵略にともなうアヘン・麻薬政策と密接に関連していた。
日本は満州国の支配力確立に必要な財源(全体の16%)をアヘンの収入に依存していた。満州と中国本土に駐屯した日本軍は、機密費・謀略費・工作費をアヘン収入から調達していた。
日本が上海ほかの中国の各都市でアヘン販売によって得た利益の大部分が東條内閣への補助資金と議員の補助金に割りあてられ、東京に送られていた。
日本は、表面的にはアヘン根絶を表明していた。しかし、実際には、収益性の側面を重視した。
中国の大連は、麻薬密輸出の中心地として国際社会から注目されていた。中国の天津に居住する日本人5000人のうち7割はモルヒネその他の禁制品取引に関係していた。これでは天津事件(先に、このコーナーで紹介しました)が起きたのも当然ですね・・・。
1926年来の朝鮮のモルヒネ中毒者は7万人余とみられていた。満州国が建国された1932年ころ、アヘン中毒者は90万人、人口の3%と推定されていた。
満州国の主要都市でアヘン密売に朝鮮人が多く従事していた。それは日本当局の暗黙の承認ないし支持によるものだった。
日本人が朝鮮半島に移住したことから朝鮮人は中国(満州)の移住したものの、農業では食べていけなかったのでアヘンに関わるようになった。朝鮮人のアヘン密輸業者は、北京へ運搬したあと、日本軍当局に純利益の35%を報償金として提供した。
青島内に麻薬店が75店舗あり、そのうち51店は朝鮮人が運営していた。
韓国人学者による朝鮮人のアヘン密売に関わる資料の掘り起しの成果物です。大変貴重な内容になっています。高価ですので、ぜひ図書館でお読みください。
(2018年3月刊。5500円+税)

不知火の海にいのちを紡いで

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 矢吹 紀人 、 出版  大月書点
いま、ノーモア・ミナマタ国家賠償請求訴訟が進行中です。
ええっ、水俣病って裁判で決着がついたんじゃなかったの・・・。そんなギモンに本書は答えてくれます。
水俣病が公式に確認されたのは1956年(昭和31年)5月1日のこと。1995年(平成7年)には、政府が解決策を示して、1万人が補償を受けた。しかし、行政認定基準が狭く、多くの被害者が隠れたまま取り残されていた。
2010年(平成22年)、鳩山由紀夫首相のとき、水俣病裁判史上はじめて国も加わった和解が成立して、5年来に及ぶ裁判はすべて終了した。
ところが、国は2012年7月末、被害者団体の強い反対を押し切って特措法申請の受付を締め切った。対象地域外の申請者に検診すら受けさせないことも起きた。
そこで、2013年(平成25年)6月、ノーモア・ミナマタ第2次国賠訴訟が起こされた。現在の原告は1311人となっている。
先日亡くなられた大石利夫さん(不知火患者会の会長)は、味覚がマヒしていて、味が分からない。どんなに美味しい刺身を食べても、ただ生の魚を食べているという感じ。味が分からないので何を食べたいとか、どんな料理を食べたいとか、そんな気が起きない。だから、毎日、料理をつくってくれる妻に対して、「美味しかったよ。ごちそうさま」と言葉をかけることができない。
大石さんは、痛みも熱さも感じない。学校で子どもたちの前で、名札の安全ピンをとってピンの針を自分の左腕に突き刺してみせた。
孫と一緒に風呂に入ると、孫が激しく泣き出した。熱湯だったからだ。大石さんは平気だった。シャワーの温度を50度にして膝から下にかけても、足首から先が真っ赤になっているのに、熱いとは感じなかった。
全国のノーモア・ミナマタ第2次国賠訴訟は、「対象地域外」に居住している原告が一定の割合を占めている。汚染された魚をたくさん食べて、メチル水銀に暴露したのだ。それを立証するため、一斉検診が取り組まれた。
水俣病第一次訴訟は、急性劇症患者を中心とする行政認定患者がチッソの法的責任を明らかにする目的でたたかれた。
水俣病第二次訴訟は、未認定患者を中心としてチッソを被告とする損害賠償請求したもの。
水俣病第三次訴訟は、未認定患者がチッソ・国・熊本県を被告として損害賠償を求めたもの。国の水俣病患者大量切り捨て政策を転換させるのが最大の目的だった。
そして、ノーモア・ミナマタ第一次国賠訴訟は、未認定・未救済の患者がまだ多く放置されているので、その恒久的救済を求めたもの。これは特別措置法の制定につながった。
水俣病の被害とは、水俣病に罹患したことによる神経症状、それによる日常生活の支障、精神的苦痛の総体と言える。見た目にすぐ分かる被害ではない。
チッソ水俣工場は、戦前の昭和7年(1932年)からアセトアルデヒドの合成をはじめた。触媒として使用されてきた大量の水銀が40年間にわたって水俣病湾内に放出されていた。水俣湾に堆積した水銀量は70~150トンだ。
水俣病をめぐる裁判で何が問題だったのか、明らかにしていく過程がよく分かります。今なお、たくさんの水俣病被害者が救済されず放置されている現実に怒りを覚えました。なんとか裁判で国・県とチッソの責任をただしてほしいものです。。
(2018年5月刊。1600円+税)

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