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2018年6月 の投稿

老いぼれ記者魂

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 早瀬 圭一 、 出版  幻戯書房
昭和48年(1973年)3月、青山学院大学の春木教授は教え子の女子大生に対する強姦罪で逮捕された。私は、このとき司法修習生として、横浜にいました。かなりインパクトのある事件として覚えています。「被害者」の女子大生は、この本によると私と同学年のようです。
 女子大生はアメリカ留学を夢見て春木教授に近づいています。二人の間に性行為があったことは争いがなく、強姦があったのか、合意による性行為なのかが争点の事件です。ところが、不思議なことに3回あった事件のうち、最後の3回目だけは無罪とされたのでした。もちろん、それもありえないわけではないでしょうが、では1回目も2回目も、本当に合意ない性交渉だったのか・・・。この点について、この本は執拗に当時の関係者に迫って真相を明らかにしようとするのです。
これは実刑となって出獄してきた春木教授の執念でもありました。当然のことながら元「被害者」は取材を拒否します。でも、そこに、何か不自然さがある・・・。著者はあくまで真相を求めて、歩きまわります。さすがは元新聞記者(ブンヤ)です。
この事件は当時の青山学院大学内の権力闘争を反映しているようです。春木教授を引きずりおろそうというグループがあったのでした。
被害者の女子大生は、法廷で春木教授から直接質問されたとき、こう応えました。「ケダモノの声なんて聞きたくもないです」。
この裁判で異例なのは、一審で論告も求刑も終わったあとに、なんと裁判所が被害女性を尋問しているということです。
そして、春木教授のせいで人生を破滅させられたはずの被害女性は、中尾栄一代議士(自民党)の私設秘書として活動していたのでした。この本を読むかぎり、たしかに被害者とされる女子大生の言動には、あまりにも不可解なものが多いように思いました。
それでも、春木元教授は今から24年も前に亡くなっています。にもかかわらず、事件の真相に迫ろうという記者魂の迫力に圧倒されました。
(2018年4月刊。2400円+税)

バテレンの世紀

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 渡辺 京二 、 出版  新潮社
日本にキリスト教が入ってきて、それなりに普及し、キリスト教が弾圧されたとき、少なからぬ日本人が宣教師とともに拷問に耐え、殉教していきました。
なぜ、キリスト教が一部的ではあっても広く熱狂的に普及したのか、そして、仏教を捨てて殉教までする多くの日本人を生みだした理由は何だったのか、島原の乱は百姓一揆と同じものなのか、違うものなのか・・・。それらの疑問について、深く掘り下げている本です。
イエズス会の宣教師は、たとえ奴隷であろうとも、キリスト教徒でありさえすれば、異教徒にとどまるよりははるかに幸福なのだとする観念をもっていた。つまり、キリスト教徒のみが真に人間の名に値する存在であって、それ以外のイスラム教徒と異教徒(この二者は異なるもの)は、悪魔を信じる外道である以上、世界支配者なるべきキリスト教徒化され支配されるしか救いの道はない。西洋人は主人であり、非西洋人は潜在的な奴隷なのである。
イエズス会は、従来の修道会とは、著しく相貌を異にしていた。終日、修道院に籠って祈りに明け暮れることを望まない。また、合唱祈祷や苦行に日時のほとんどを費やすことより、黙想や研学、さらに伝道活動を重視した。これは、まったく新しいスタイルの戦闘的な修道会だった。
日本を訪れたことのあるポルトガル船の船長は、日本人は知識欲が強いので、キリスト教の教理に耳を傾けるだろうとザビエルに語った。
日本人は気前が良く、ポルトガル人を家に招いて宿泊させる。好奇心が強くて、ヨーロッパについて知りたがる。
ザビエルが鹿児島に着いたのは1549年8月10日、日本を離れたのは2年3ヶ月後の1551年11月15日。滞日したのはわずか2年3ヶ月でしかない。しかも、ザビエルは最後まで日本語を習得しなかったし、布教の点では、ほとんど成果をあげていない。
ザビエルにとって日本人は、好奇心の強い、うるさい人々だった。相当うぬぼれの強い人々でもある。武器の使用と馬術にかけては、自分たちに及ぶ国民はいないと信じていて、好戦的だ。
日本人は、鎌倉新仏教の諸宗派の出現以来、新奇な分派には慣れっこだった。新奇な教えに対して、当時の日本人の大多数は、免疫をもっていた。日本人のうちキリスト教に入信したのは、貧民だった。都市部には町衆が存在していたし、町衆は神社仏閣を中心とする信仰共同体だったから、異教キリスト教の侵入をはね返す壁となった。
山口での布教が比較的に順調だったのは、まず武士層が入信したからでは・・・。九州の諸大名は、海外との貿易の利にひかれてキリスト教に近づいた。幾内の小領主層は、苛烈な、一切の秩序は失われる、カオスに似た状況だった。それは、頼れるものは自分しかいないという過激な孤独の心情を生み出した。キリスト教は、彼らの孤独な魂によほど訴えるものがあった。
信者であっても、キリシタンとして救済を得ることと、神仏に祈って御利益(ごりやく)を受けることは、まったく矛盾していなかった。つまり、日本人のキリスト教信者たちは、神々には、それぞれの特技に応じた使い道があると考えたのだ。こんなのは宣教師としては絶対に許されない考えである。
キリスト教徒の追放令が出たときの信者は全国に4万人。1598年3月、まだ日本にはキリスト教の宣教師が114名も残っていた。
家康はキリスト教への嫌悪を、貿易を促進したい一心で匿した。家康がキリスト教を黙認したところ、信者は37万人に達した。この当時の宣教師は34人いた。
雲仙の地獄での拷問は、殺さずに棄教させようとすることから続けられたもの。残虐を好んで宣教師や信者を拷問したのではない。殺さずに棄教させようとしたからこそ拷問という手段に訴えたのである。
堂々と460頁もある大作です。大変勉強になりました。さすが深さが違います。
(2018年3月刊。3200円+税)

私はガス室の「特殊任務」をしていた

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 シュロモ・ヴェネツィア 、 出版  河出文庫
アウシュヴィッツ収容所でゾンダー・コマンド(特殊任務部隊)としてユダヤ人の大量虐殺・遺体焼却の仕事をしていたギリシャ生まれのイタリア系ユダヤ人青年(当時21歳)の回想記です。
あまりにも生々しくて、正視に耐えませんが、事実から目を逸らしてはいけないと、必死の思いで読み通しました。
チクロンBが投入されるガス室。その場には命令するドイツ人もいるけれど、実際の作業をするのはゾンダー・コマンドとなったユダヤ人です。
そして、あるとき、著者に対してガス室から生きて出た人はいないのかという質問が寄せられます。そんな人なんているはずがない、という答えを予想していると、実は著者は一人だけ目撃したのでした。それは、母親の乳首をくわえていた赤ん坊でした。その赤ん坊はどうなったか・・・。発見したドイツ人がすぐさま射殺してしまいました。赤ん坊は息をとめて乳首をくわえていたため、毒ガスをあまり吸っていなかったというのです。
ああ、無惨です。なんということでしょうか、人間を殺すことに快感を覚える人間(ドイツ人たち)がいたのです。
ゾンダー・コマンドは3ヶ月ごとに総入れ替えで殺されていった。
では、ゾンダー・コマンドの反乱は起きなかったのか・・・。実は、反乱は起きたのです。勇気ある指揮者(リーダー)がいて、武器や火薬を所持して立ち上がったのですが、密告者(裏切り者)が出て、うまくはいきませんでした。でも、焼却炉の一つを爆破することには成功しています。
なぜ、ユダヤ人の集団がみんなおとなしくガス室で殺されていったのか・・・。
到着した集団は、希望を失い、もぬけのからになってガス室に入っていった。みんながみんな、力尽きていた。
著者はゾンダー・コマンドにいるあいだ、考えることはしなかった。日々、何も考えずに前へ行くしかなかった。どんなに恐ろしい生活でも続けるしかなかった。
ゾンダー・コマンドで自殺したものはいない。何がなんでも生きると言っていた。
あまりにも死の近くにいたが、それでも一日一日、前へ進んでいった。
恐怖に震えあがっていた。
ロボットになっていた。何も考えないようにして、命令にしたがい、数時間でも生きのびようとしていた。
ドイツ軍は収容所で家族を一緒にしていた。もしひとりなら、脱走する考えに取りつかれたかもしれない。でも、親や子を捨てて、誰が脱走などするだろうか・・・。
著者がアウシュヴィッツの経験、悪夢を語りはじめたのは、実は、なんと、自由になってから47年もたってから(1992年から)のことです。それまでは、話しても周囲から信じてもらえなかったという事情もありました。重い、忘れたい記憶を語ることの難しさを示しています。だからこそ、私たちは、このような記録をきちんと読む必要があると思うのです。
ちなみに、まるでレベルが違う話ではありますが、司法試験の受験体験記を本にまとめようと私が思ったのも45年たってからのことです。私にとって、それほど重い記憶なのでした。
(2018年4月刊。880円+税)

福島第一・廃炉の記録

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 西澤 丞 、 出版  みすず書房
宇宙服を着ている人々が働いている場所がある。それが日本の一部だとは信じられないけれど、これこそ福島原発の廃炉への工程の現状です。
これからまだ何十年、いえ何百年も続くのかもしれません。なにしろ人間の手に負えるものではないのです。宇宙服を脱いでいる人々も見かけるようになっていますが、肝心の廃炉作業では生身の人間が近づくことは絶対にありえません。行っただけで人間が溶けてなくなる、とまでは言いませんが、明らかに寿命を縮めてしまうことは間違いありません。
 東京電力(東電)の協力の下で撮られた写真です。つまり、どれも決して隠し撮りではありません。でも、撮られるのをいやがる労働者がいて、怒鳴ったりされます。その心は、恐ろしさに満ちた場所にいることを家族に知られたくないということではないでしょうか。
でも、写真を撮られるといってもマスクしているのですから、素顔が見えるわけでもないのです・・・。
毎日、何千人もの人々が廃炉に向けて黙々と作業をすすめています。私はここで働く人々に対して、心より敬意を表します。と同時に、こんな原発は日本には絶対にいらないと改めて痛感します。
前にも書きましたが、福島第一原発のすぐ近くに東電の会長以下、取締役は家族と一緒に社宅をつくって住んでみたらどうですか。皆さん、その勇気がありますか。原発が安全で「アンダーコントロール」というのなら、それを自分と家族の身体で証明してもてください。いえ、無理強いするつもりは決してありません。それが出来ないのなら、正直に原発は怖いから、とても近くになんて住めないと正直に告白すべきだと思うのです。他人に危険を押しつけておいて、自分たちはぬくぬくのうのうとしているなんて、戦前の日本軍の高官と同じではないでしょうか・・・。
この一連の写真を見て、ついつい興奮して筆がすべりました。廃炉作業がすすんでいるとはいえ、まだまだ、ほんの序の口です。それを実感させる貴重な写真集でした。少し高価ですので、図書館で手にとって眺めてください。
(2018年3月刊。3200円+税)

二つの山河

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 中村 彰彦 、 出版  文春文庫
第一次世界大戦がはじまり、日本はイギリスの要請にこたえてドイツに宣戦を布告してドイツの租借地である中国の青島(チンタオ)の攻略を目指した。1914年9月、日本軍は中国に上陸し、10月末から総攻撃を開始し、11月初にドイツ軍要塞を降落させた。その結果、ドイツ軍の将兵4700余が俘虜となった。
彼らは日本全国12ヶ所に分散して収容された。その一つが福岡であり、久留米であった。福岡の収容所からは5人の将校が脱走した。久留米の収容所は悪名高かった。所長は真崎甚三郎中佐。あとで、二・二六事件で問題となる人物である。この真崎所長が、自らドイツ俘虜を精神的・肉体的に抑圧すべき対象とみなしていた。
ところが、徳島俘虜収容所はまったく違った。ここでは、松江所長が、警備兵に対して俘虜への暴行は許さない、人道的に接するように指示していた。
徳島では、俘虜が木工所で働き、また、収容所内に肉屋、パン屋、印刷所が次々にうまれていった。徳島の俘虜たちは、ここで得たお金をもって週に一度、のちには必要なたびに日本兵ひとりに付き添われて、市内に買物に出ることが許された。
また、徳島の収容所では、スポーツにも熱心だった。サッカーを日本人の子どもたちに教えた。さらに、オーケストラの音楽活動を許した。
松山・丸亀・徳島の三つの収容所が統合されて、坂東(バンドー)俘虜収容所となった。収容者は約1000人。松江所長は、この収容所内に専門店の開設を認めた。家具製造・仕立業・靴屋・理容・レストラン・製パン・・・。そして図書館には6千冊の蔵書があり、印刷所もあった。収容所新聞「バラッゲ」が発行された。印刷所は、収容所内だけで通用する紙幣や切手も発行した。
45人から成る徳島オーケストラも健在だった。合唱団も二つあった。
ドイツ人俘虜は地元民とも交流し、農業指導や植物標本のつくり方まで教えた。家畜の飼育を教え、ソーセージのつくり方も日本人は学ぶことができた。
実は松江所長は朝敵とされ、差別された会津藩の出身だった。そこで貧しい会津の子弟はこぞって軍人をめざした。
大正7年3月、俘虜作品展示会が開かれた。徳島の人々が5万人以上も押し寄せた。
ドイツ人俘虜たちはドイツに帰国したあとも、このバンドーでの生活を思い出として大切にした。
ドイツ人俘虜が日本でそれなりに人道的な処遇を受けていたことは知っていましたが、その実際、そして所長の背景については、この本で初めて知ることができました。
(2017年8月刊。550円+税)

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