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2018年3月 の投稿

牛天神(うしてんじん)

カテゴリー:日本史(江戸)

著者 山本 一力 、 出版  文芸春秋
団塊世代で、私と同年生まれの著者の本は、いつ読んでも素晴らしく、江戸情緒あふれる一力(いちりき)ワールドにぐいぐいと引きずり込まれ、その心地よさがたまりません。必ず人情味ある人物が登場してきて、ほっと救われるのです。
殺人事件が起きるのではありません。商売上のいざこざをうまく解決していくのです。
時代は老中田沼意次(おきつぐ)の時代のあと。松平定信の安政の改革で棄捐令が発布され、江戸の景気が一気に冷え込んでいくなかで、商売人同士が蹴落としあうのではなく、なんとかお金がまわるように工夫し、しのいでいく様子が描かれています。
神田川、柳橋そして深川という地名が舞台です。質屋、損料屋、料亭など、たっぷり江戸の人情話を堪能できました。
この本の最後に、「オール読書」に2012年5月号から2017年8月号まで足かけ5年の連載とあるのを見て、小説家の息の長さに驚嘆しました。
(2018年1月刊。1700円+税)

「反戦主義者なること通告申し上げます」

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  森永 玲 、 出版  花伝社
 長崎県島原半島に生まれた末永敏事(びんじ)は、結核を研究する医学者であり、アメリカに留学して研究し、日本に帰国しても結核研究にいそしんでいた。
 末永敏事は、1938年(昭和13年)、茨城県知事に対して、次のように書面で申告した。
「ここに私が反戦主義者なることを、および軍務を拒絶する旨通告申し上げます」
 51歳の末永敏事は、この申告の直後、特高警察に逮捕された。
 末永敏事は、1887年(明治20年)に島原半島の北有馬村今福で生まれた。実家は代々の医家だった。末永敏事は、長崎医専(長崎大学医学部)を卒業したあと、台湾に渡った。その後、アメリカ・シカゴ大学で学んだ。内村鑑三と交流があった。そして、日本に帰国してからは、古里に戻って「村医者」となった。ところが、キリスト者として反戦主義者である末永敏事のいるところではなくなり、茨城県へ転居した。
 末永敏事の申告について、当局は不敬罪の適用を敬遠した。不敬は日本国民にあってはならないこと。当局は、不敬罪容疑の摘発にこそ取り組んだが、その送検・起訴には消極的だった。なぜなら、訴追したら、その状況が目立ってしまうから。まるで天皇制へ不信感が日本国民に広まっているように自ら認めることになりかねない。それは当局にとって不都合だった。
 そこで末永敏事は、造言飛語罪で起訴されたが、本人は法廷をふくめて無言を貫いた。その結果、禁固3ヶ月となった。そして、末永敏事は1945年8月25日に東京の清瀬村で死亡したことになっているが、その死亡状況は判然としない。
 医者として結核をアメリカに渡ってまで専門的に研究して成果をあげていた真面目な医学者が戦前の戦争推進体制の下で有罪となり、その死亡状況すら不明というのです。戦争体制による悲劇の一つだと思いました。
長崎新聞に2016年10月から連載されていたものが一冊の本となりました。価値ある歴史掘り起しの一冊です。もっと新事実が出てくることを期待しています。
(2017年7月刊。1500円+税)

憲法的刑事弁護

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者  木谷 明 、 出版  日本評論社
 今や日本の刑事弁護人の最高峰の一人として名高い高野隆弁護士の実践が語られ、刑事弁護人とはいかなる存在でなければならないかが明らかにされている本です。
 この本が高野弁護士の還暦を記念するものであることに少々驚かせられました。というのも、古稀を迎えようとしている私より10歳も年下になることを知って愕然としたのでした。
 編集代表の木谷明弁護士は浦和地裁で裁判長として刑事法廷で高野弁護人と何回となく対峙した経緯を有しています。
 高野弁護人の法延における弁論は、いずれも事件の本質を突くもので、容易に排斥することができない。主張・立証の仕方も実に巧みであった。そして、高野弁護人は裁判員裁判において、天馬空を行くがごとく、次々に無罪判決を獲得していった。
 いったい高野弁護士は、他の一般の弁護士と、どこが違うのでしょうか、、、。
 「一貫して本当のことを言えば、真実は必ず解明される」
 これは弁護人、検察官そして裁判官に共有されている観念です。しかし、この本はそんなものは、まったくの神話にすぎず、偽計だとします。高野弁護士は見事に喝破したのです。
 この本に、木下昌彦准教授が接見禁止が例外的な制度ではないとする小論を載せています。それによると、1994年までは接見禁止のついた裁判は2万件程度で、増えていなかった。ところが、1995年から増加に転じて、2003年には5万件を突破した。その後、2010年に3万6千件に減少したものの、2015年には再び4万件をこえている。
 そして、接見禁止率は1995年に25,7%だったのが、2015年には37,8%となっている。接見禁止は例外的な制度ではないと言わざるをえない。かつてのような暴力団事件や公安事件だけではない。そして、第1回公判期日まで、というのも公判前整理手続に長期間かかると、接見禁止期間も長くなる傾向にある。
 この本では、座談会がとりわけ読んで面白い内容になっています。高野弁護士は弁護士になって4年目にアメリカに留学し、2年間、憲法、証拠法、刑事手続法を猛勉強した。そして、アメリカで弁護士の仕事は、憲法価値によって依頼者の人間性を守る最後の砦となることだと学んだ。
 わが国の刑事被告人は、裁判官による裁判を本当に受けているのか、という問いが投げかけられる世の中に、高野弁護士は日本で弁護士として再スタートした。そして、弁護士には絶望する権利はない。なぜなら依頼者にとっては弁護士しかいないからだと高野弁護士は喝破する。
「赤ん坊殺し」とされた被告人の供述調書に、出産経緯のない警察官が勝手な想像で、現実にはありえない現状を刻明に記述しているというものがあったとき、やはり出産経緯のある女性弁護士の追及は力になります。男にはまったく分からない世界ですね、、、。まあしかし、現実には、それなりにつじつまのあう供述調書を裁判官はそのまま鵜のみにすることが残念ながらほとんどです。
裁判官が公正な第三者としての立証を捨てて、検察官の後見人になってしまっている。そんな法廷を、この40年以上のあいだ、私も何度も体験しました。
 高野弁護士は、法廷で次のように弁論する。
「裁判長。刑事裁判というのは、イメージや推測で行われてはなりません。刑事裁判は、証拠にもとづいて行われなければなりません。証拠を検証し、常識にしたがって判断して、被告人が訴因について有罪であることは間違いない、そういう確証がなければ、被告人は無罪でなければなりません。証拠を検証し、常識にしたがって判断して、被告人が有罪であることに一つでも疑問があったら、無罪の判断をしなければなりません。これは刑事裁判の鉄則であり、絶対に守られなければならないルールです。このルールが守られることによって、我々の自由な社会が維持されているのです」
 法廷で、この真理をゆっくりした口調で、しかも明快に目の前で説かれたら、聞いている人は皆、金しばりにあったようになること間違いありません。それだけ、高野弁護士の言葉には重みというか力があります。
 375貢と大部で、4200円もする本ですが、弁護士にとって一読の価値は大いにある本です。
(2017年7月刊。4200円+税)

最後の「天朝」(下)

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者  沈 志華 、 出版  岩波書店
 北朝鮮で金日成が党内で静粛を強めて絶対的独裁体制をうちたてることができたのは、毛沢東が金日成への懐柔政策をとったことにも起因している。なるほど、そういうことだったんですね。
 北朝鮮内の中国派は毛沢東のうしろだてをあてに出来なくなった。かつて延安で中国共産党と肩を並べて戦い、その後、逆境のなかで中国に亡命した数多くの朝鮮人幹部は、中韓関係改善の犠牲になった。これを背景として、中国義勇軍は朝鮮から撤収していった。
 1953年7月に朝鮮戦争が休戦したとき、中国義勇軍は北朝鮮内に120万人いた。1957年末でも30万人いた。1958年に中国義勇軍が完全撤収したが、その最大の恩恵を受けたのは金日成だった。金日成は党内のライバルの一掃に成功し、10万人の「敵対・反動分子」を追放した。そして、金日成に対する個人崇拝が復活した。
中国で毛沢東が大躍進をうたったとき、金日成は朝鮮で「千里馬」運動を打ち出した。1958年のこと。毛沢東は、「大躍進」を金日成から絶賛され、全力で追随されたことから、他の諸国からの反響が乏しかったこともあって、金日成を完全に見直した。それで、北朝鮮の「千里馬」を支援した。
「大躍進」の実体はひどいものだったので、彭徳壊が批判したところ、毛沢東は激怒した。
中国とソ連が対立するなかで金日成をどちらが取り込むか、また、金日成はどちらにつくかという問題が起きた。フルシチョフは、毛沢東が金日成を批判した会談記録を金日成に見せた。その結果、金日成は、もう二度と中国人を信用せず、再び中国に行くことはないと断言した。北朝鮮を一段と抱き込むため、フルシチョフは金日成からの経済要求の大半を受け入れた。1960年6月、中ソ論争がピークに達したとき、フルシチョフは、中国共産党を孤立させるため、金日成をモスクワに招いた。
中国にとって、1960年から62年はもっとも苦しい時期だった。ベトナムへのアメリカの侵略がエスカレートしていて、ソ連との関係は悪化し、国内の経済生活はどん底の状態にあった。そのなかでも北朝鮮には援助を与えていた。
毛沢東は北朝鮮に対して領土面でも譲歩した。北朝鮮では、金日成の息子である金正日は白頭山の密営で生まれたとされてきた。真実はソ連領内で出生したのだが、あくまで白頭山神話が必要だった。このとき、毛沢東は、金日成に大きく譲歩した。毛沢東は、当時の中国が経済的な苦境にあったことから、世界の社会主義陣営のなかで孤立しないよう朝鮮の支持を取りつけたからである。
中国で毛沢東が文化大革命を発動すると、金日成も、それをまねて、金日成に対する大規模な個人崇拝運動をすすめた。ところが、金日成は、文化大革命そのものには抵抗し、批判するようになった。
1971年7月、ニクソン大統領の特使としてキッシンジャーが極秘に中国を訪問した。米中接近は北朝鮮にとって大変なショックだった。金日成は、ニクソンの訪中は勝利者の前進ではなく、敗北者の細道だと評した。アメリカ帝国主義が泥沼にはまって、哀れだというのである。
毛沢東と金日成という二人の独裁者の駆け引きの過程が生き生きと分析されている本格的な研究書です。
(2016年12月刊。5800円+税)

東大セツルメント法相の機関紙「歩む」 第7号 

カテゴリー:社会

川島武宜教授が巻頭言を書いています。戦前の東大ではセツルメントは白眼視されていた。医学部ではセツルメントに参加する医局生を「不逞(ふてい)のやから」視する風があった。これは戦後も同じで、法学部にも程度の差こそあれ存在していた。有力な人、権力者の側につくことはやさしいが、有力でない人、下積みの人、権力に支配される人の側につくには勇気がいる。しかし、まさにそれゆえに、セツルメントへの参加は、若い学生諸君にとって、良心をテストし良心をきたえる数少ない機会の一つとなるように思われる。
アイちゃんが所属していたのは古市場ハウスのセツル法相です。ここではセツルメント診療所を中心として保健部、栄養部、児童部そして青年部が連絡協議会をつくって、総合的なセツルメント活動をすすめていました。参加するセツラーは全体30人を超え、法相も16人と史上最高のメンバーでした。アイちゃんは2年生7人のうちの1人です。火曜日の定例相談日のほかに金曜日を生活相談日と設定して、家庭訪問を中心とする活動をすすめていったのです。
アイちゃんはセツル法相の文書に「ケース・ワークへの取り組み」という一文を載せています。セツルメント診療所で神経科特診日をもうけたところ、18人もの人がやってきた。その人たちがなぜ精神病になったのか、その背景、原因をアイちゃんは考えます。小さい頃から貧しかった。女工として重労働に耐えきれずに体をこわした。クビになってヤケ酒をあおるうちに神経が侵された。この現実を見ると、精神病が先天的なものであり、手のほどこしようのない、仕方のないものだという考えは捨てざるをえない。誰もがいつ精神病だと認定されるのかもしれないのだ。
これらの人たち一人ひとりを法相セツルのセツラーたちは受けもち、その背景をさぐり、何が彼らをこうしてしまったのかを突きとめようと考え行動をはじめました。この活動は、ハウスにやって来る人たちに法律的な手助けをしようという従来の法相の活動とは異なるものだ。
アイちゃんたちは、一軒一軒の家庭を訪れ、図々しくあがりこんで話を聞き出し、その生活環境や生い立ちを洗いざらい引き出し、その人を精神病に追いやった背景を探っていく。アイちゃんはこのような活動について、これは社会の現実の姿を掘り下げる第一歩であるが、法相という表看板が何ら用をなさない場合が多いとする。
「法律で精神病はなおせない」「法律は資本家のためにある。労働者の味方にはなってくれない」「法律でご飯を食べられるか」「オレたちがこうすりゃ法にひっかかる。ああすりゃポリに捕まる。結局、何もできねえ」…。
こんな声を聞くと、法とは何なのか、法を学び、法をつかって我々は何をしようとしているのか考え直さざるをえない、アイちゃんはこのように考えました。
法相が、「法律」を表看板にするのではなく、もう一度壁をつき破り、地域の諸問題と取り組むなかで、法律を有力な武器として使っていく、そのような方向を追及することが今後の法相の姿ではないか、こうアイちゃんは提起します。
ぼくらは、このころ川崎市の労働者居住地域である古市場でそれまでの児童部、青年部だけでなく、栄養部、保健部といった学生の専門を生かしながら相互に連携して地域の人々の多面的な要求にこたえられる綜合的セツルメント構想をすすめていました。アイちゃんは法相セツラーとして、この構想の具体化を考え実践していたのです。新しい法相が市民部的役割を生せるようになったら、素晴らしいことだと展望を語っています。
アイちゃんがこれを書いたのは、文中に「2月9日」とあるので、ぼくらが駒場にまだいた1969年(昭和44年)3月だと思います。東大闘争で、1月に安田講堂「攻防戦」があり、確認書が取りかわされ、学内が正常化しつあった時期です。まだ正規の授業はほとんどなかったので、ヒマをもてあました学生たちは古市場という地域に気軽に通うことができました。そろそろ法律を専門的に勉強しよう、でも、何のために法律を勉強しようというのか、アイちゃんは法学部に進学する前、真剣に考えて、模索していたことになります。
(昭和44年4月。非売品)

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