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2018年2月 の投稿

銀河鉄道の父

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者  門井 慶喜 、 出版  講談社
 面白いです。植木賞を受賞したというのは当然だと思いました。宮沢賢治の父親が賢治とどのように接していたのか、ごくごく自然に受けとめることができました。その筆力たるや、大したものです。
 賢治の父親は質屋を営んでいる。天災は、もうかる。それが質屋の法則だった。もちろん、店や家族が直接被害を受けない限りである。
賢治の父親は、営業成績が優秀で、勉強が好きだったので中学校(今の高校)へ進学を希望したところ、父・喜助は質屋に学問は必要ないといって、断念させられた。
 賢治の父親は、夏期講習会を主宰して、知識人や僧侶を招いて知的合宿を開催してきた。そして、賢治には中学への進学を許した。質屋も、学問がなければつぶれると考えたのだ。
 賢治は森岡中学校を受験し、合格した。そして、賢治はさらに盛岡高等農林学校に進学した。それも主席の合格だった。賢治の妹トシも、高等女学校を首席で卒業し、東京の日本女子大学校に進学した。別の本で、トシが高女9のとき教師とのあいだのスキャンダルで騒がれていたことを読みましたが、このあたりも書き込まれていたらと残念に思いました。
 それにしても、この本では父親の目から見た息子・賢治の生活ぶりが淡々と描かれていて、父と子というのは、お互いに分かりあいにくい存在なのだと、つくづく思ったことでした。いえ、賢治の父は、賢治のために身を粉にしているのです。
 宮沢賢治を知るためには、妹トシとの関わりだけでなく、父親との関わりも見落とせないと思ったことでした。もう少し賢治の内面深くに立ち入ってほしいなと思ったところもありますが、父親という目新しい視点があって最後まで面白く読み通しました。
(2018年1月刊。1600円+税)

明治の男子は星の数ほど夢を見た

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者  和多利 月子 、 出版  産業社
 「男はつらいよ」の主人公は車寅次郎ですが、本書の主人公は同じ寅次郎でも山田寅次郎です。寅年に生まれた二男だったことから命名されました。
 トルコに18年間も住み、オスマン帝国のスルタン(皇帝)と芸術面で交流があったとのことです。さらには、幸田露伴の小説のモデルにもなっているといいます。『書生商人』という小説です。沈没した外国船への義捐(ぎえん)金をもって外国へ行くというストーリーですが、それは山田寅次郎がトルコへ和歌山沖で沈没したトルコの軍艦に乗っていて亡くなった人々の遺族へ義捐金をもっていったことにもとづいているのです。
そして、山田寅次郎は伊藤忠太という東大の建築史教授とも交友がありました。さらに晩年は茶道の家元として活躍したのです。赤穂浪士の討入りが12月14日に決まったのは、この日に茶会があることを師匠が浪士の一人・大高源吾に教えたからですが、この茶道師匠と縁のあるのが山田寅次郎の身内の祖先でした。
 オスマン帝国の軍艦エルチュールル号が和歌山沖で遭難したのは、1890年(明治23年)、山田寅次郎が24歳のとき。生存者65人。死者80人という大惨事でした。山田寅次郎たちは義捐金を集めて、遺体・造物の引き揚げに取り組みました。2000万円ほど要したようです。
 著者は山田寅次郎の孫娘にあたります。調べはじめると意外にもたくさんの資料が出てきたようです。豊富な写真とともに明治の男子が夢をもって海外へ雄飛していった状況が明らかにされます。
 それにしても、男子たるもの外国語を三つはモノにせよとのこと。私は、フランス語ひとつだけでも四苦八苦しています。
日本とトルコの交流をはじめた開祖にあたる山田寅次郎なる偉人を知ることができました。たくさんあるさし絵も明治の雰囲気がよく出ています。
(2017年10月刊。2800円+税)

国境なき医師団を見に行く

カテゴリー:社会

著者  いとう せいこう  、 出版  講談社
 勇気ある人々ですよね。戦場近くまで出向いて、傷ついている人々を、敵も味方もなく、両方とも無条件で治療するというのです。偉い人たちです。そして、たとえばこの組織に参加するために看護師の資格をとったという女性たちがいます。すごいことですね...。
 日本人の女性も何人も参加しています。ありがたいことです。医師団を支えているのは医師だけではありません。ロジスティクス、つまり建物をつくり、維持し、安全性を確保するといった人々も必要です。危険地帯のなかでも医師団体は丸腰で安全性を確保しているとのこと。それでもテロの巻き添えを喰って亡くなる人も出ています。残念です。
 国境なき医師団を現地で見ておこうとしたとき、出発前に「俺しか知りえない単語」を紙に書いて、封筒に入れ渡すよう求められた。なぜ...。誘拐されたとき、たしかに本人なのかを確認するための仕掛けなのだ。プルーフ・オブ・ライフと呼ばれている。うひゃあ、そういう仕組みがあるのですか、それほど危険な仕事なのですね...。
 MSF(フランス語です。国境なき医師団の略称)の施設に入るには、あらゆる武器が放棄されなければならない。
 建物をつくったり直したり、水を確保すべく工事するロジスティックがいなければ医療は施せない。
ひどい拷問を受けると、不眠やパニック、あるいは発狂する場合もあるので、心理ケア団体には精神科の医師も必要となる。
 難民施設にいると、未来が見えない。子どもたちは、まず勉強がしたい。そして、早く故郷に帰りたいと訴える。
MSFは、政治を変えようとしてここに来ているわけではない。あくまで医療不足を埋める方法を提示するにとどまる。
 ファミリープランニングを訴えるなかで、コントンムの使い方を教えることもある。避妊用インプラントというものがあるそうですね、知りませんでした。
 MSFを聖人君子の集まりみたいに見ないでほしい。なかでは、ビール飲んで、文句たらたら言って、悪態ついて、それでも働いているんだから...。なるほど、ですね。
 たくさんの写真とともにMSFの活動状況の一端が手にとるように分かります。
(2018年1月刊。1850円+税)

最後の「天朝」

カテゴリー:朝鮮・韓国

(霧山昴)
著者  沈 志華 、 出版  岩波書店
 毛沢東・金日成時代の中国と北朝鮮というサブタイトルのついた本格的な研究書です。まだ上巻しか読んでいませんが、上下2段組で280頁もあって、読みごたえ十分です。北朝鮮と中国との関係を知りたいなら、この本を読まなければいけない、そう思いました。
 私には1950年6月に始まった朝鮮戦争についての金日成とスターリン、毛沢東の三者三様の動きがとても興味深いものがありました。
 金日成は1949年3月のモスクワ訪問のときに初めて武力による半島統一を提起した。このときスターリンはあまり関心をもたなかった。
 1949年8月、金日成はソ連大使に対して、アメリカ軍が撤退すれば38度線はもはや障壁とならない。南の韓国は強固な防御ラインを構築しようとしているので、手をこまねいていると、反攻のチャンスが訪れないかもしれないと言った。
 10月の時点では、スターリンと毛沢東は南の韓国への侵攻をすべきでないという見解は完全に一致していた。ところが、ソ連の政策は1950年1月末から変化した。スターリンは中国と新しい中ソ友好同盟条約を締結しようとしていた。それによると、ソ連は2年以内に大連・旅順および中国の長春鉄道に対する支配権を失うことになる。スターリンは、朝鮮半島の不凍港か遼東半島の軍事基地をいつまでも継続的に使用できることにしたかった。
 4月、金日成は秘密のうちにモスクワを訪問した。帰国する4月25日までのあいだに、スターリンと二人で作戦計画を綿密に協議し決定した。このとき、毛沢東は蚊帳の外に置かれた。
 1950年春までには、韓国南部でのゲリラ活動は、ほぼ鎮圧されてしまった。スターリンが金日成の侵攻作戦に同意したのは、肝心なのは戦争の結果ではなく、戦争の発動そのものだった。スターリンにとっては、金日成が南朝鮮を攻略できるかどうかは重要ではなかった。ただ、北朝鮮をアメリカが占領・支配するとしたら大問題になる。
 1950年5月、ソ連軍顧問団は北朝鮮の金日成から具体的な作戦プランを設けとったが、すぐにこれを否定し、自ら練り直すことにした。ソ連軍顧問団は、軍事訓練の形で南侵の準備を覆い隠すという方針を提起した。金日成は5月13日、北京に行き、毛沢東と会った。ソ連と北朝鮮であらかじめ相談ずみの決定事項なので、毛沢東はモスクワへ賛成を返電した。
毛沢東は金日成に対して7月2日、仁川地域に強力な防御線を強いてソウルを守ることを提案した。8月、毛沢東は金日成の特使が北京に来たとき、戦略的撤退を検討するようすすめた。人民軍は補給路がアメリカ軍に切断される危険性があるという理由をあげた。
 9月15日、毛沢東が心配していたアメリカ軍の仁川上陸作戦が成功し、北朝鮮軍は大混乱となって撤退していった。人民軍部隊は、ほとんどの戦車と大半の大砲を失い、弾薬と燃料が底をつき、補給はなくなっていた。
 中国軍が参戦することについて中国軍内部では消極意見が支配的だった。それを毛沢東は彭徳懐の支持を得て参戦に踏み切った。
50年前、私がまだ大学生のころには朝鮮戦争は韓国軍が北へ侵攻して始まったという「北」の宣伝を素直に信じる雰囲気がありました。また、韓国とアメリカの謀略に北朝鮮が乗せられて始まったという見方もありました。いずれも今日では誤っていて、今日では金日成がスターリンの同意を取りつけて南へ侵攻して戦争が始まったことは明らかです。それにしても、同じ民族内で血と血を争う強烈な戦争が始まり、今も休戦中であって正式には終わっていないというのですから、恐ろしいことです。
毛沢東が参戦を決意して軍トップの同意を取りつけて参戦をすすめているのに、スターリンはソ連空軍の派遣を渋ったといいます。
さらに中国義勇軍と北朝鮮の人民軍とのあいだには指揮権をめぐる争いがあり、性格的には似たようなものですから、いろいろ軋轢もありました。
そして、朝鮮戦争後、金日成は自らの独裁政権を強化すべく対立派を次々に左遷し、処刑していくのでした。恐怖政治の始まりです。
(2016年10月刊。5800円+税)

心  愛さんへ

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者  寺脇 研 、 出版  ㈱ぎょうせい
 文部省(今は文科省)のキャリア官僚としてがんばった河野愛さんの追悼集です。20年前に発刊されたものを最近になって手に入れて読みましたので紹介します。キャリア官僚のハードな日常生活、そして彼らが毎日何をしているのか、その情景をまざまざと思い浮かべることができました。
愛さんは文化庁伝統文化課長として、太宰府の国立博物館の建立、小鹿田(おんだ)焼きの重文指定そして唐津くんち保存など、九州の文化保存にも大いに貢献していることを初めて知りました。
原爆ドームが平成7年6月、史跡に指定され、翌8年12月に厳島神社とともに世界遺産に登録された。これにも愛さんは関わっています。
 本省の課長職のときには、連日、10組、20組という訪問客に対応します。1組30分から長いと2時間の対応です。机の前は人でごったがえして、休む暇もない、同時に2組ということもある。夕方6時や7時には、のどはガラガラ。ときどきせきをすると、べっとり血のかたまりが出たりする。昼間とにかく聞いた話も、時間に追われてゆっくりとは聞いていないので、指示が不足していたり、軌道修正が必要なものが出て、夜に思い出して眠れなくなり、寝汗をびっしょりかいて、うなされて起きることもしばしば・・・。
こんな生活を愛さんは20年以上も続けたようです。たまりませんね。私も官僚を漠然と志向したこともありましたが、ならなくて良かったです。
愛さんはリクルート事件に直面します。文部省全体が巻き込まれました。愛さんは「不正に対して自分の生き方でたたかっていく」と書きしるしました。その正義感が許さなかったのです。
愛さんは、文部省労働組合の中央執行委員にもなっています。愛さんはカラオケでは「カスバの女」をうたいました。飲む場では盛り上がるのです。
愛さんは、仕事には厳しく、部下たちの手抜き仕事を見つけると、「このいい加減なやり方は許せない」とすさまじい形相で怒鳴り込んでいった。また、「仕事でしょ。いつから自分の好き嫌いで仕事を選ぶほど偉くなったの・・・」と叱りつけた。
そして、愛さんは「サロン・ド・愛」を主宰していました。キャリア官僚のほか、新聞記者、教授その他の10人前後がワイワイガヤガヤ・・・。昭和の終わりから平成にかけてのころのことです。
愛さんは40歳前後で働きざかり。こんな、「河野学校」とも呼ばれる場があり、後輩たちを引っぱっていました。そのなかに若き寺脇研氏がいて、前川喜平氏がいたのです。
「文部省も変わっていかなくてはいけない。従来の文部省のタイプの人間ばかり利用しているようではダメ。斬新な発想を文部行政に反映させていかなくては」と、愛さんは熱っぽく語っていたのでした。
私にとって、愛さんは東大駒場時代の同じ川崎セツルメントのセツラー仲間です。彼女のセツラーネームはアイちゃん。大柄で、明朗闊達、物怖じせず、いつもズケズケものを言うので、私たち男どもは恐れをなしていたものです。この本では東大では水泳部に所属していたと紹介されています。彼女は私と同じ年に東大に入学し、2年生の6月からは東大闘争に突入して一緒に試練をくぐり抜けたことになります。東大闘争たけなわの1968年9月、セツルメントの秋合宿に彼女も参加していることが写真で確認できます。私たちは、民主的なインテリとして社会に関わりながら、大学を出てからどう生きていくのかを真剣に議論していました。
アイちゃんは20年前に47歳で亡くなりました。お葬式には文部省の一課長なのに1500人もの参列者があったとのことです。それだけ人望があり、別れを惜しむ人が多かったというわけです。
今回、佐高信氏が「河野学校」の卒業生として前川喜平氏をFBで紹介したことから、アイちゃんの追悼集があることを知り、同じくキャリア官僚だった知人に頼んで入手して読みました。本文343頁の追悼集を全文読み通して、久々に学生時代のセツルメント合宿での熱い議論をまざまざと思い出しました。それにしても早すぎる死が惜しまれます。アイちゃん本人も残念なことだったと思います。
追悼集はよく編集されています。アイちゃんの生前の仕事上の活躍ぶりだけでなく、カラオケ、グルメを愛していた私生活も伝わってきて、アイちゃんの飾らない人柄がにじみ出ていました。本当に残念です。
(1998年2月刊。非売品)

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